第9話: 蜂蜜と苦味草
「先生の荷はこちらでございます」
戻ってきた御者が、足元の木箱を指した。その脇に、蜂蜜の壺がひとつ、木箱と同じくらいの場所を取って置いてあった。
「では、この蜂蜜は」
「伯爵さまが台所から出させました。先生の紙にお入り用とございましたので」
蓋の縁を撫でた。持ち運び用の小さな壺ではなかった。
「お父さまのお加減は?」
「お昼の粥を召し上がったそうです。お嬢さまにも何か食べるようにと」
自分の腹が空いていることを、そのとき思い出した。
御者は昼前に父へ紙を届けたという。家にある材料はすぐ揃い、先生が指定した道具と一緒に箱へ収められた。春の日はまだ中庭に残っている。夕方の薬に間に合った。
木箱は御者に運んでもらった。離れの戸口で先生が中身を確かめ、父の様子を聞く。先生は壺を見ると片眉を上げた。
「伯爵は何人分と思ったのかね」
「不足より余りを好む家でございますから」と、御者が先に答えた。
その間に、マルタが壺を受け取った。
「棚に入りません」
置き場所を探す顔があまりに真剣で、私は口元を押さえた。朝から固くなっていた頬が痛かった。
「先生がお使いになる分を取ったら、私が持ち帰ります」
「そうしてくださいませ。薬棚までヴァイル家に買い足していただくわけには」
「それは父に言わないでください。本当に棚が届きます」
マルタは壺を卓に置いた。唇の端だけが少し上がった。
先生が木箱から包みを取り出す。乾いた苦味草だった。包みが開くと、蜂蜜の甘さに青臭い匂いが重なった。
「これで眠くはならないのですか」
「こちらは苦味を合わせるためじゃ。薬の代わりに眠らせるものを入れては意味がなかろう」
「でしたら、今夜から全部こちらに」
言いかけて止まった。先生は私を見た。
「早く抜きたいのは分かる。だが今までの薬を急になくすと、この人の体がついてこん」
「少しずつ、と仰いましたね」
「今夕に減らせる分は、もう一度診て決める」
先生は苦味草を器へ移し、空いた包み布を私に渡した。それから寝台へ向かった。
私の手には空になった包み布が残った。畳もうとしても角が合わない。端を引きすぎていた。
四十日ある。四十日に間に合わせようと急げば、かえって彼女を苦しめることもある。
布を卓に広げ直した。
先生が診察する間に、本館から女中が来た。
「奥さまから、ヴァイルのお嬢さまは本館へお戻りになるようにと」
女中は戸口に立ち、寝台のほうへ目を向けた。
「朝から長くなっておりますので。お見舞いは短く、とのお話でした」
治療が始まったからといって、私まで居続けてよいことにはならない。
「分かりました。先生、私は本館へ参ります」
「薬を飲んだあとの様子も診てから戻る。帰りは遅くなるぞ」
「父には御者から伝えてもらいます」
女中と中庭を渡った。夕方の石畳は、靴底から冷えた。さっきまで私のいた窓の内側で、マルタが掛布を直していた。
本館の廊下で足を止め、私は女中に頼んだ。
「明日も伺いたいのです。婚礼の支度について相談したいと、侯爵夫人へお伝えください」
「婚礼の支度、でございますか」
「身の回りの品を揃えるにも相談が要ります。日取りが決まるまで何もできないままでは困りますから」
自分の口から婚礼という言葉が出た。六年使ってきた言葉だった。今日は日取りを待つためには使わない。
「そのあとで短いお見舞いもお願いしたいと。今日は帰る前に、もう一度ご挨拶をさせていただけますか」
「お伺いして参ります。こちらでお待ちください」
応接の椅子に腰を下ろした。肘掛けの革が手の下で沈んだ。
女中が戻るまで、卓の茶には手をつけなかった。薬の材料なら、半日で家から届けさせられた。
「明日は午後に。支度の品を書き出してお持ちになるようにとのことでございます」
「承りました。見舞いは」
「明日も本館でお申し付けください。マルタに容態を確かめてからになります」
今日の再訪は、夕の鐘までならと告げられた。
私は礼を言い、女中が離れへ取り次ぎに行くのを待った。
結局、明日もこの椅子からだ。それでも明日の用件はできた。婚礼を延ばしてきた家へ、婚礼の支度のために通う。
可笑しいはずなのに、組んだ指に力が入ったままだった。
離れへ戻ると、卓の上に同じ形の薬瓶が二本あった。
先生が使った器を、マルタが端へ寄せている。蜂蜜の壺にはもう蓋がしてあった。
「こちらが今夕から使う分じゃ」
先生は一本をマルタの前へ置いた。
「元の薬も残してある。次に減らすかは、明日の診察で決める。君が加減してはいかん」
「いつもの瓶は、どちらへ」
「混ざらんように別にする。印は君の手で確かめてくれ」
先生が二本の瓶を回した。マルタは一本ずつ底に指を滑らせ、帳面の小さな記載と見比べた。私の側からは印が見えない。
調整前の薬は包まれ、棚の奥へ収まった。マルタは調整済みの瓶を持ったまま、空いた手で棚板を拭いた。
いつもの場所へ置けば、夕方に差し出す薬が変わる。
「マルタ」
私が呼ぶと、布を動かす手が止まった。
「奥さまは残りをご覧になります。私は瓶だけでなく、お嬢さまの様子も訊かれます」
今朝、先生を呼ぶと決めたのはマルタだった。瓶を替えれば、そのことも彼女が答えなければならない。
「わしの指示は書いて残す。今夕の調製も、わしの名で残そう」
先生が言った。
「眠りが浅くなっても、勝手に薬を足すな。苦しむようなら呼んでくれ。夜でも構わん」
「使いをヴァイル家へ出してよろしいのですね」
「わしは今夜そこにおる。明日はこちらへ診に来る」
マルタは寝台を振り返った。それから調整済みの瓶を棚へ置いた。
「お出しするのは私です。飲まれた分も私が書きます」
鍵が回った。マルタは鍵を腰へ戻さず、しばらく掌に握っていた。
「ご自分が替えたと分かれば、責められるかもしれません」
言ってから、彼女に言うべきことではなかったと思った。マルタは、誰より先にそれを考えたはずだ。
「飲ませても責められずに済んだのです。六年」
マルタが顔を上げた。
「それで今朝のお嬢さまでした」
私は言葉を探せなかった。
先生が静かに椅子を引いた。マルタは鍵を腰へ掛け、寝台に寄っていった。
ギーゼラさまの瞼が開いていた。昼間より薄く唇が動く。先生が名を呼び、返事と飲み込む様子を確かめてから、マルタへ頷いた。
「お嬢さま。先生が診てくださったお薬です」
「……お薬」
それ以上は続かなかった。マルタは棚へ戻って鍵を外し、いつもの場所の瓶から匙に取った。寝台へ戻って体を支え、先生の見ている前で薬を飲ませる。私は寝台の脇の椅子に座ったまま、それを見ていた。
ギーゼラさまの眉が寄った。
「にがい」
「苦うございますね」
マルタの声が、ほんの少し揺れた。
私は口元を拭く布を渡した。ギーゼラさまは目を閉じたが、唇にはまだ不満そうな皺があった。
苦いと言えた。それを治ったしるしに数えてしまいそうになる。先生は喜びの声を上げず、彼女の息を見ていた。
「お話はあとでいいのですよ」
私は布の端を持ったまま言った。
「苦いのも嫌なのも、言ってくださっていいのです」
返事はなかった。マルタが唇の脇を拭く間、私は布を引かずに待った。
夕の鐘が鳴っても、ゼバスティアンさまはとうとう一度も離れへ渡ってこなかった。
「若さまが月曜にお見えにならないのは、初めてでございます」
帳面に筆を走らせたまま、マルタが言った。
先生はまだ残る。私は約束の時刻に出なければならない。
マルタが飲んだ分と時刻を書き終えた。帳面を閉じると布に包み、棚の下の引き出しへ戻した。私は椅子から立った。
「明日も来たいとお伝えしてあります」
「お通しできるかは、そのときに」
「分かっています。来られるように用件を作ります」
明日は後見院へ行く。午後には婚礼の品を書いた紙を持ち、この本館へ戻ってくる。
持参金を払った家の娘でも、取り次ぎがなければ離れには入れない。通してもらえる日は必ず入る。断られたら、誰が断ったのかを訊く。
蓋をした蜂蜜の壺は、夜に戻る先生の荷へ入れてもらった。
帰り際にマルタが棚を確かめた。瓶は同じ場所にある。中身が変わったことを知らずに、本館から誰かが見に来るかもしれない。
マルタの指は腰の鍵から離れなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
蜂蜜の壺を運ぶところで、思ったより大きなものが届きました。ヴァイル家から届く荷物には、つい「足りなくなるくらいなら多めに」という癖が出ます。父本人は離れに来られないのですが、荷物の大きさには顔を出してしまいました。
今回はマルタの手元を書く時間が長くなりました。瓶を持つ、棚を拭く、鍵を回す。普段なら何も考えずに済む動作の途中で手が止まると、私も次の一文を急げなくなります。重い回が続いたので、蜂蜜の置き場所で揉めるくだりは書いていて楽しかったです。
次回は第十話「ここ十年で二件」。エルネスタが後見院を訪ねます。
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