第10話: ここ十年で二件
「二十歳になっても、後見が終わらないことがあるのですね」
相談卓には、インク壺と砂皿のほかに何も載っていなかった。
火曜の午前。後見院の卓を挟んで、私はまだ鞄を開けずにいた。
「後見人から心神の障りがあると申し立てられた場合は」
向かいの男がゆっくり答えた。
レナルト・ブランデス。先ほどそう名乗った監督官は、灰色の制服を着ていた。卓に載せた袖口だけが白く擦れている。
「通常は後見人が成人届を出して終わります。皆が審査を受けるわけではありません」
「障りがあると言われた人は、何を確かめられますか」
「審査官の前でご自分の名を書き、財産の額を口で伝えます。ただし暗記した額を言えば済むのではありません。読んだものを理解して判断できるか、審査官が本人に確かめます」
昨日の離れを思い出した。布で唇を拭かれる間も、ギーゼラさまの瞼は閉じていた。
「その場でできなければ」
「後見が続きます。成人後の後見には、次の誕生日で終わるという期限がありません。解除には改めて審査が要る。俗に終身と言うのは、そのためです」
「本当に死ぬまで、と決まるのではないのですね」
「解除はできます。ただ、難しい」
彼の指が卓の縁を離れた。
「障りの申立を本人が覆せたのは、ここ十年で二件です」
「何件のうちの二件ですか」
監督官どのは少し背を起こした。
「四十一件。院の集計です。通常の成人届や後見人変更は、この数に含みません」
「残る三十九件では、申立を覆せなかった」
「その審査では、です。三十九人がみな、あとまでずっと後見のままだったという数ではありません」
四十一のうち二つ。通った人はいた。その数を希望だと言ってしまうには、彼の声は静かすぎた。
「審査官は、誕生日に来てくださるのですか」
「申立が予想されるなら、前もって立ち会いを予約できます。日が近いのでしょうか」
「あと三十九日です」
「三十九日……。もう数えておいでなのですね」
彼は指を折りかけてやめた。
「数えなければ、間に合うと思ってしまいますから」
家の名も薬のことも、まだ話していない。今日は手続きそのものを知りたかった。あの家へ話が伝わったとき、何を求めたか自分で説明できるように。
「成人する前に、後見人を替える方法はありますか」
「変更届があります」
返事だけが急に速くなった。
彼は脇の箱から白紙の書式を取り出し、私の前へ置いた。私は手袋を外して膝へ揃え、紙の端に触れた。縁の毛羽が指に引っかかる。
「要件は三つ。ご本人の署名、新しく後見を引き受ける候補者の承諾書、それから審査官の立ち会いです。署名は本人が変更を望む証しになります。候補者の承諾がなければ、任される人がいない。審査官は本人の意思と要件を確かめます」
「今の後見人が嫌だと言っても、申し出られますか」
「申し出はできます。認めるかは審査官の判断です。署名した紙だけ持って、その方を連れ出してよいというものではありません」
私は紙から手を離した。
「あなたに立ち会っていただくのでは足りないのですね」
「私は監督官です。書式を案内し、審査官へ取り次ぐことはできます。変更の認可も、身柄を移す許可も出せません。後見を仮に停止する宣言も審査官の権限です」
相手を間違えて頼めば、日だけが減る。私は鞄から小さな帳面と筆記具を出し、今聞いた区別を書き留めた。
「それで、この署名欄はなぜこんなに狭いのですか」
私が指すと、彼は眼鏡越しに書式を見た。
「候補者の家名と肩書きを先に広く取ったためです」
「本人が決める紙なのに」
「家名が長い方は、余白も御領地だと思われるようで。……失礼」
小さく咳をしてから、彼は書式をまっすぐに置き直した。
「署名は小さく詰めさせないでください。欄を越えても構いません。読めることのほうが大切です」
「そこは書いてありませんね」
「書けばいいのですが。その文を入れるために欄がまた狭くなる」
顔を上げると、彼も困った顔のままだった。私は笑ってしまった。彼の口元が遅れて緩む。
「お持ち帰りください。一般の書式です」
私は礼を言い、書式を折って帳面に挟んだ。筆記具と一緒に鞄へ戻し、手袋をはめた。
まだ空いている署名欄は、ギーゼラさまが自分の手で書かなければ意味がない。
午後、侯爵夫人は私の差し出した婚礼用品の一覧を広げた。
「下着まで書いたの」
「身の回りの品を、と仰せでしたので」
指輪や客用の銀器を書くものと思われていたらしい。夫人の指が麻布の行で止まる。
「こちらへ持ち込むものは家令と相談なさい。客前に出る衣装は、わたくしが見ます」
「では、注文の前に品ごとに確かめます」
夫人は一覧を折って卓へ戻した。私はそれを鞄へ収めた。後見院の帳面は出さなかった。
「ギーゼラさまのお見舞いもお願いできますか」
「あなたまで疲れた顔をして。婚礼を控えた娘が病室に入り浸るものではありませんよ」
夫人は女中へ顔を向けた。
「マルタに様子を訊いて。よければ短くお通しして」
私には頷くだけだった。
応接で待つ間に茶を飲んだ。渋みが舌に残る。夫人は日取りを言わなかった。こちらにも、聞くつもりはなかった。
戻った女中は、マルタが短い面会ならと答えたこと、医師が診察に来ていることを伝えた。私は鞄を持って立ち、中庭まで彼女についていった。
離れの戸口でマルタが迎えた。
「少しお目を開けていらっしゃいます。長くお話はなさらないでくださいませ」
頷いて入ると、先生が寝台のそばにいた。
「昨夜は何度か目を覚まされたそうじゃ。今も眠りは残っとる。今日はこれ以上減らさず、昨日の調整のままで様子を見る」
先生がマルタにそう告げた。彼女は帳面に書き、先生へ見せた。先生が頷くのを待って、私は寝台に近づいた。
鞄を椅子の脇へ置いたとき、寝台から息が漏れた。
「……エルネスタ、さま」
椅子の背を掴んだままになった。
私の名だった。
「ゼバスティアンの。……水曜の人」
淡い緑の目が、ほんの短い間こちらを捉えた。
「私をご存じだったのですか」
「水曜だから……待ってる、って」
唇が閉じた。マルタが掛布を胸元へ引き上げる間も、声は戻らなかった。
彼が応接へ戻る前に言ったのだろう。あちらで待っている私の名を、彼女は眠りの合間に聞いていた。
水曜の人。
私にとって彼女は、彼が会いに行く人だった。彼女にとって私は、彼が待たせている人だったのかもしれない。中庭を挟んで、互いの名だけを聞かされていた。
私は椅子へ座った。
「今日は火曜です。ギーゼラさまに会いに来ました」
彼女の指が布の上に出ていた。私は手を取らずに、その指先のそばへ自分の手を置いた。
「水曜でなくても、来ますね」
瞼が落ちてくる。布の上の指が、私の手の甲まで這ってきて、そこで止まった。
先生が反対側から息を確かめた。
「名が出たのはよかった。だが、明日も同じように話せるとは限らん」
手の甲に載った指は軽かった。私は手を動かさずに、先生の話を聞いた。
「眠りが減れば、楽になるのだと思いたくなります」
「つらくなることもある。喜べるときに喜んでおけ。ただ、つらいときも呼んでくれ」
マルタが先生を見て頷いた。
マルタが彼女の手を布の中へ入れた。今日の名を胸にしまって帰る。明日は残り三十八日になる。
立ち上がりかけたとき、ギーゼラさまの眉間に薄い皺が寄った。
先生が再び身を屈めた。私は椅子から腰を浮かせたまま、その皺がほどけるのを待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
レナルトがようやく登場しました。後見院の書式は、誰が書いても同じように収まる紙を想像していたのですが、貴族の長い家名を置いてみたら本人の署名欄が窮屈になりました。紙の上でも場所の取り合いがあるのだなと、少し困りながら書いています。
彼は質問への返事を急がない人です。エルネスタと話すと、片方がもう次の用件へ進み、片方はまだ指を折りかけている。そのずれが、二人の会話の面白いところだと思っています。
ギーゼラが名を呼ぶところは、続けていろいろ話してもらいたくなりました。でも今日は短い言葉が出た日として残したくて、椅子のそばで筆を止めています。
次回は第十一話「戻して」です。
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