第11話: 戻して
夜明け前に、ヴァイル家の門が叩かれた。
侯爵家の下男だった。離れの侍女に頼まれて、先生を呼びに来たという。ベルトラム先生は鞄を持って馬車に乗り、私も同じ馬車に乗った。水曜の朝だった。
本館で見舞いを申し出ると、奥へ伺いに行った女中が、夫人の言葉を持って戻った。
「お手伝いくださるなら夕の鐘まで。マルタが一晩眠っておりませんので、とのことでございます。……奥さまは、あの子はそんなに悪いのかとお尋ねでした」
「うちの先生に診ていただいています」
答えはそれだけにした。女中は先生を見ると、マルタから伺っておりますと言って中庭への戸を開けた。
離れの戸口まで来ると、中から歯の鳴る音が聞こえた。
扉を開けたマルタの目の下が、灰色にくすんでいた。
「夜半から、ずっとこうでございます。眠っては声を上げて、起きられます」
寝台の上で、ギーゼラさまの肩が掛布ごと揺れていた。額に髪が貼りつき、こめかみを汗が伝っている。月曜には苦いと言えた口が、今は噛みしめられていた。
先生が脈を取るあいだに、マルタが棚の下の引き出しから帳面を出した。布をほどいて開く。先生は夜の欄を指でたどった。
「脈は速いが、しっかりしとる。息もよい」
「では、この震えは」
「薬が抜けておるしるしじゃ。飲ませるのをやめるときのほうが、体にはこたえる。薬なしで眠るやり方を、体が思い出しとる最中じゃからの」
先生はギーゼラさまの手首を、掛布の上へ置いた。
「手が冷えて汗が出るのも悪い夢も、同じところから来とる。今日は減らさん。だが、戻しもせん。夕方の分は昨日と同じじゃ」
「いつまで続きますか」
「人による。今日明日で済むと思わんことじゃ」
眠り薬を減らし始めて三日目。誕生日まで、残り三十八日。その日に自分の名を書けなければ、ギーゼラさまの後見は終わらない。
「息が浅くなったり水を受けつけなくなったりしたら、すぐ呼べ。わしはこれから伯爵を診に戻る。明朝また来る」
先生が出ていくと、マルタはその言葉を帳面に書きつけた。
戸が閉まると、マルタの肩が一度だけ下がった。
「マルタ。休んでください。私が見ています」
「お嬢さまがお目を覚まされたら」
「すぐ起こします。約束します」
マルタは部屋の隅の椅子に腰を下ろした。背を伸ばし、膝の上で手を重ねる。そのまま寝息を立て始めた。眠っても、侍女の座り方だった。
ギーゼラさまの息が、急に速くなった。
「いや……あまいの、いや」
首が枕の上で左右に振れた。掛布の下で脚が突っ張る。
声をかけるより先に、目が開いた。焦点の合わない目が天井を探し、それから私の袖を掴んだ。
マルタを起こすと約束していた。けれど今声を張れば、この人をもう一度驚かせる。起こすのは、この指がゆるんでからにした。
私は袖を掴む手を、上から包んだ。
手が、冷たい。
六年前、婚約の席で握った手も冷たかった。月曜にここで支えた手も冷たかった。どちらも乾いていて、私が離せばそのまま布の上へ落ちた。
今日の手は、汗で濡れていた。骨が浮くほど細いのに袖を離さない。私の指の中で、止まらずに震えている。
六年、この手は眠っているから冷たかった。今日は、起きようとして冷えている。
「……もどして」
「何をですか」
「まえの……ねむれるの」
唇が乾いて割れていた。水差しの水を布に含ませ、その唇に当てた。
「おねがい。もどして」
戻せば、この人は静かに眠る。六年、この家はそれを選んできた。
私もその側にいた。水曜ごとに応接で、君なら分かってくれると言われて頷いてきた。頷いて帰る私の背中の向こうで、この人はずっと眠っていた。
いま戻せば、震えは止まる。止めないのは、私だ。
「戻しません」
ギーゼラさまの顔がこちらを向いた。目の焦点がようやく私に合った。
「手が冷たいのも苦しいのも、前のお薬が体から出ていっているからです。先生がそうおっしゃいました。戻したら、出ていったぶんがまた入ります」
「……くるしい」
「はい。苦しいですね」
「ひどい」
ギーゼラさまは顔を壁のほうへ背けた。それでも、袖を握った指はほどけなかった。
歯の鳴る音だけが部屋に続いた。私は袖を引かれたまま、椅子から立たなかった。
朝も遅くなり、中庭の日が石畳の真ん中まで届いた。水曜なら、ゼバスティアンさまが中庭を渡ってくる時刻だった。
渡ってくる足音はなかった。代わりに、戸口から従僕の声がした。
「ヴァイルのお嬢さま。若さまが、応接でお待ちでございます」
六年、応接で待っていたのは私だった。呼びに来られたのは、これが初めてだった。
私はギーゼラさまに袖を預けたまま、戸口へ顔だけ向けた。
「今日は、こちらにおります。そうお伝えください」
詫びの言葉は付けなかった。
従僕の返事は遅れた。
「……そのように、お伝えいたします」
足音が中庭へ遠ざかった。
寝台の脇の窓から、林檎の枝ごしに渡り廊下の端が見える。足音が消えてしばらくして、そこに人が立った。
ゼバスティアンさまだった。外套を着たまま、離れのほうを向いて動かない。一度、口が開いた。窓は閉まっていて、何も聞こえなかった。
六年、水曜の朝にあの方はこの中庭を渡ってきた。今朝のあの方は渡り廊下の端で向きを変え、本館へ戻っていった。
椅子の上で、マルタが目を開けていた。
「起こしてくださいと、申し上げましたのに」
「袖を掴まれていましたので」
マルタは寝台の上の袖と指を見た。片方の眉だけが上がって、しばらく下りなかった。
「……ゼバスティアン?」
壁を向いていたギーゼラさまが、かすれた声で訊いた。
「はい。応接で待っていらっしゃいます」
「……いかないの」
「今日は、ここにいます」
返事はなかった。袖を握った指に、力が入った。
昼の鐘が鳴るころ、震えが間遠になった。
ギーゼラさまはうとうとしては目を開け、また閉じた。寝間着の背が汗で濡れて、肌に貼りついている。
「着替えさせましょう、マルタ。濡れた寝間着のまま眠ると悪い夢が戻ってくると、うちでは言います」
「迷信でございますか」
「うちでは本当のことです」
マルタは長持の蓋を開けた。乾いた寝間着を選ぶ手は速かった。
私が背中を支え、マルタが袖を抜いた。背中に回した私の腕に、骨が当たった。
着替えが済むと、マルタは窓際の小箪笥から古い木の櫛を出した。汗で固まった髪が、枕の上でもつれている。
マルタは左手で、髪の根元を軽く握った。右手の櫛は毛先から入れる。絡んだところで止め、指でほぐしてから上へ進めていく。
「根元を持つのですね」
「引っかかっても、頭の皮まで引かれませんので。お小さいころから、こうでございます」
「私にも、教えていただけますか」
「根元を持つ手のほうが大事でございます。ヴァイルのお嬢さまは、櫛のほうをお急ぎになりそうで」
「……急ぎそうです」
マルタは返事の代わりに私の手を取った。髪の根元へ当てさせ、上から自分の指で包む。私の指に入っていた力を、マルタの指がほどいていった。思っていたより、ずっと弱く握るものだった。
その手の下を、櫛が通っていった。ギーゼラさまの肩の揺れが小さくなる。薄い金の髪が、一筋ずつほどけていった。
午後の日が窓から床まで差しこんだころ、ギーゼラさまが寝入ったのを見て、マルタは汁物と替えの布をもらいに本館へ行った。
まもなく、寝台がきしんだ。
ギーゼラさまが身を起こそうとしていた。喉が鳴る。私は枕元の盥を引き寄せ、その顔の下へ差し出した。
ギーゼラさまは、昼に飲ませた水をそのまま吐いた。薄い背中が何度も波打つ。私は片手で盥を支え、もう片方の手で額を押さえた。額は冷たく、汗で指が滑った。
吐き終えると、ギーゼラさまは枕へ倒れた。私は濡らした布で口元を拭いた。
「……まだ、いるの」
「夕の鐘まで、います」
目が閉じた。眉間に皺は寄らなかった。
盥を戸口の外へ出していると、マルタが戻ってきた。汁物の椀を卓へ置いてから、私を見た。
「吐きました。昼に飲んだ水を全部です」
「息は」
「速くありません。いまは眠っています」
マルタは寝台へ寄ってギーゼラさまの胸の上下をしばらく見ていた。
「一度でしたら、先生は様子を見よとおっしゃいます。夜にもう一度吐かれたら、使いを出します」
それから、私のほうへ向き直った。
「台所で、女中に言われました。奥さまが、明朝わたくしに本館へ参るようにと。お嬢さまのご様子を、じかにお聞きになりたいそうでございます」
マルタは棚の下の引き出しを指一本ぶん開けた。量と時刻を書きつけた帳面の包みを確かめてから、音を立てずに閉める。
夕方、窓の外で鳥が騒ぎ始めた。
マルタが腰の鍵で棚を開け、いつもの場所の瓶を取った。月曜から変わらない、先生が調えた瓶だった。匙に取って、寝台へ戻る。
「お嬢さま。お薬でございます」
ギーゼラさまの目が開いた。匙を見て、唇を引き結ぶ。
「……にがいの」
「はい。苦うございます」
マルタは匙を口元へ寄せなかった。手を止めて、待っていた。
私は膝の上で、自分の指を握りこんだ。手を出せば、私は匙を口へ運んでしまう。戻さないと決めたのは私だった。飲むかどうかまで私が決めてしまえば、この六年と同じになる。
窓の外の鳥が、一羽ずつ黙っていった。匙の先で薬がふくらんで、落ちずにとどまっている。マルタの手は動かなかった。握りこんだ私の爪が、掌に食いこんだ。
掛布の端が動いた。
ギーゼラさまの手が出てきて、掛布の縁で一度止まった。それから震えながら伸びて、指がマルタの手首にかかった。
匙が、ゆっくりと、ギーゼラさまの唇のほうへ引かれていった。
喉が小さく鳴った。唇が苦みに歪み、それでも閉じた。
夕の鐘が鳴った。
戸口まで送りに出たマルタが、扉に手をかけたまま言った。
「奥さまがお訊きになるのは、いつもよくお眠りかどうかでございます」
マルタは寝台を振り返った。
昨夜、ギーゼラさまは一度も長くは眠らなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
マルタの櫛は木でできていて、だいぶ古いものです。ギーゼラの母の代から同じものを使っている、という設定だけ先に決めてありました。根元を押さえて毛先から梳く手つきは、書きながら何度か順番を入れ替えました。左右の手のどちらが先に動くかで、マルタの年季が変わって見えたからです。
ヴァイル家の迷信は、書くたびに少しずつ増えています。今回も作者用のメモに「濡れた寝間着で寝ると悪い夢が戻る」を書き足しました。エルネスタは本気で信じているので、マルタに疑われても引きません。本人にとっては、これも家の決まりのひとつです。
今回は、ギーゼラが「ひどい」と言いながら袖を離さないところを、最初に決めていました。そこから逆に、朝から夕方までの一日を組み立てています。マルタが座ったまま眠る姿勢は、書いているうちに出てきたものです。侍女の仕事が長い人は、眠るときも膝の上で手を揃えているだろうと思いました。
次回は第十二話「縁起が悪い」です。
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