第12話: 縁起が悪い
「マルタには、今日でお暇を出します」
侯爵夫人はそう言って、茶碗を受け皿へ戻した。
木曜の朝だった。誕生日まで、残り三十七日。
ベルトラム先生は着くなり離れへ回り、私は見舞いの取り次ぎを待つ間もなく女中に呼ばれた。
通されたのは夫人の朝の居間だった。マルタは壁際に立っていた。前掛けが、昨日の夕方とは違う洗いたてのものに替わっている。
勧められた椅子は、座面の詰め物が固かった。手のひらで押すと、すぐに板に当たる。客を長く座らせるための椅子ではなかった。
「お暇、ですか」
「疲れているのよ。昨日は夜明け前にヴァイル家まで下男を走らせて、昨夜もまた夜通し起きていたのでしょう。台所の者が、あの子の声を夜中に聞いています」
夫人はマルタのほうを見なかった。
「侍女が眠らずにいて、病人がよくなるはずがありません。新しい侍女はわたくしが選びます。マルタ、あなたのためよ。少しお休みなさい」
マルタは頭を下げた。下げたまま、上げなかった。
「それから、お薬です」
夫人が私に向き直った。
「よく眠れていないそうね。今朝、マルタがそう申しました。あの子は昔から、夜にむずかる子でしたの。泣いている子を、泣かせたままにはしておけないでしょう。眠れればそれで楽になります。今夜から一匙ずつ増やすよう、新しい侍女に申し送ります」
昨日の夕方、マルタは戸口で言った。奥さまがお訊きになるのは、いつもよくお眠りかどうか。今朝のマルタは、その問いに本当のことを答えたのだ。
マルタが離れから出されれば、棚の鍵も帳面も知らない人の手に移る。先生が調えた瓶と棚の奥の瓶の区別は、先生とマルタにしか分からない。新しい侍女は、奥の瓶から一匙多く取るだろう。
薬の量の話は、私にはできない。決めているのは先生だと言えば、誰が今の量を決めているのかを訊かれる。
「ゼバスティアンも、昨日は応接でずいぶん待ったそうね」
夫人の声は柔らかいままだった。
「婚約者を待たせて、離れに一日。お支度の相談にいらしている方のなさることかしら」
一昨日の午後、この人は私に言った。婚礼を控えた娘が、病室に入り浸るものではありません。
婚礼を控えた娘。
それなら、私に言えることが一つあった。亡くなった祖母が言い、母も信じ、私も信じていることだ。
「侯爵夫人。婚礼の前に侍女を替えるのは縁起が悪いと、うちでは言います」
夫人の茶碗が、受け皿の上で小さく鳴った。
「……縁起」
「はい。花嫁の荷が入る前に家の者を入れ替えると、その婚礼は流れると申します」
壁際で、マルタの前掛けの紐がかすかに揺れた。
「祖父の代に、婚礼の前に侍女を残らず替えた子爵家がございました。うちが花嫁衣装の生地を納めたお家です」
「それで、どうなったの」
「婚礼は流れました。生地の代金が入ったのは、三年後でございます」
夫人は茶碗に手を伸ばさなかった。
私は本気で言っていた。ヴァイル家では、帳面を火にくべれば家が傾く。濡れた寝間着で眠れば悪い夢が戻る。婚礼の前に侍女を替えれば、縁が切れる。祖母の帳場では、どれも値引きの相場と同じ重さで扱われていた。
「侯爵家では、どうお考えですか」
夫人の目が、私の顔の上で止まった。
迷信だと言えば、この婚礼が流れても構わないと言うことになる。まだ婚礼の日取りは決まっていないと言えば、六年延ばしてきたことを自分の口で認めることになる。どちらも、マルタの前では言えない言葉だった。
廊下の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。
「まあ」
夫人は微笑んだ。口元だけが先に動いて、目が後から追いついた。
「商家のお嬢さんは、そういうところがおありなのね」
その言葉を聞くのは二度目だった。先週の金曜、私が薬代を数えてみせたときにも、この人は同じことを言った。あのときは、そのあとで家令が呼ばれた。
今日は呼ばれなかった。
「いいでしょう。花嫁のお家の流儀に、こちらが合わせます。婚礼が済むまでは、マルタに任せましょう」
「ありがとうございます」
礼をした頭が、一拍早く上がった。商会で取引がまとまったときの癖で、右手まで前へ出ていた。
夫人は手袋の指先を直していた。左手、右手と、順に。
私の右手は、行き先のないまま宙に残った。私はその手を引いて、自分の膝の上へ置き直した。壁際から、短く息を吸う音がした。マルタは床を見ていた。
「ただし、お薬は増やしなさい。今夜からです」
夫人の声は、さっきと同じ柔らかさで続いた。
「マルタ。瓶は月曜に、家令に数えさせます。お見舞いは、今日は昼の鐘まで。エルネスタさん、あの子を疲れさせないでね」
「……かしこまりました」
マルタの返事は、いつもより低かった。
居間を出て中庭へ下りるまで、マルタは何も言わなかった。
林檎の枝の下まで来て、ようやく足を止めた。
「ヴァイルのお嬢さま」
「はい」
「お家では、本当にそう言われるのですか」
「言います。母は婚礼の朝まで、侍女の前掛けも替えさせませんでした」
マルタは自分の前掛けを見下ろした。今朝の、洗いたての白だった。
「……今朝、替えてまいりました」
私はその前掛けを見た。祖母なら何と言うか、少し考えた。
「前掛けは、たぶん数に入りません」
マルタの口の端が、横へ引かれた。すぐに元へ戻った。
「今朝、奥さまに何と答えたのですか」
「よくお眠りかと訊かれましたので、お眠りではございませんと申し上げました」
「そのとおりでしたね」
「はい。そのとおりでございましたので」
マルタは林檎の枝を見上げた。枝の先に、白い花がまだいくつか残っていた。
「奥さまは、ご自分で決められないものが何よりお嫌いでございます」
それきり、マルタは離れの戸口へ歩き出した。腰の鍵が、歩くたびに前掛けの上で鳴った。
離れでは、先生がギーゼラさまの脈を取り終えたところだった。
「夜明けからは眠っとる。震えは昨日より小さい。今日も減らさんし、戻しもせん」
マルタが帳面を棚の下の引き出しから出した。先生へ差し出す前に、短く言った。
「奥さまが、今夜から一匙ずつ増やせと仰せでございます」
先生の眉が寄った。帳面を受け取り、木曜の欄を開く。ペンを取り、そこへ書きつけ始めた。書き終えると、帳面をマルタのほうへ向けた。
「木曜朝、奥方より増やせとの言いつけあり。診たうえで、増やさず。ベルトラム」
先生は書いたとおりに読み上げた。
「言いつけを聞いたことも、聞かなんだわけも書いた。訊かれたら、これを見せればよい。わしが奥方にお会いしてもよい」
「月曜に、家令さまが瓶を数えに来られます」
「増やしておらんのじゃから、瓶の減りは遅い。数えれば、そのとおりに出る」
「今、増やしたらどうなりますか」
私は訊いた。先生はギーゼラさまの顔に目を落とした。
「この三日の震えが、また一日目からになる。それを二度やらせるのは、わしは好かん」
「月曜までに、私にできることはありますか」
「わしにできるのは診ることだけじゃ。数のことなら、お嬢さんのほうが得意じゃろう」
先生はそれだけ言って、鞄の口を閉じた。
マルタは帳面を布に包み、棚の下の引き出しへ戻した。先生の調えた瓶が、いつもの位置にあるのを確かめてから棚に鍵をかける。
月曜まで、あと四日あった。
瓶の数え方なら、帳場で覚えた。数える人が何を数えて、何を数えないか。それを先に知っておけば、月曜に何が起きるのかも先に分かる。
私は棚の鍵穴を見ながら、家令がこれまでどう瓶を数えてきたのかを、マルタに訊くことに決めた。
昼の鐘の少し前、ギーゼラさまの目が開いた。
掛布の上の指が、窓のほうへ向いた。
「……とり。いち、に」
林檎の枝で、雀が鳴いていた。
「三羽います」
「さん」
その目が、窓から部屋へ戻ってきた。先生を見て、それからマルタを見た。
「マルタ。……どこか、いくの」
マルタの手が、掛布の端で止まった。先生とのさっきの話を、この人は眠りの浅いところで聞いていたのかもしれない。
「どこへも参りません。婚礼が済むまでは、ここにおります」
「……だれの、こんれい」
「私のです。婚礼の前に侍女を替えると縁起が悪いので、マルタは替えられないことになりました」
「えんぎ」
「うちでは、そう言うのです」
ギーゼラさまは少しのあいだ、私の顔を見ていた。目の焦点は、昨日より長く合っていた。
「……へんな、おうち」
かすれた声だった。言い終えると、唇の端が少しだけ上がった。
「家の者に、そう伝えておきます」
ギーゼラさまの鼻から、短く息が抜けた。先生が鞄を持ち直す手を止めた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
祖父の代に婚礼が流れた子爵家の話は、ヴァイル家の帳場で今も語られている、という設定です。エルネスタにとっては迷信というより、取引の記録の一行に近いものです。衣装の生地代が三年後に入った、という部分まで含めて家の言い伝えになっている。商家の験担ぎは、損をした話と一緒に残るものだと思っています。
侯爵夫人が手袋を直す仕草は、人物表を作った最初の日から決めていました。握手を求められると避ける人です。ただ、エルネスタが本当に手を出してしまう場面は、書いている途中で思いつきました。夫人に一本取った直後に、本人がいちばん間の抜けた姿を見せている。この話でいちばん好きなところです。
マルタの前掛けについては、作者のほうも書くまで気づいていませんでした。呼び出しの朝に洗いたてを着てくる人だろう、と最初の場面で書き、あとで迷信と並べてみたら、こうなりました。
次回は第十三話「最後の一画」です。
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