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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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13/20

第13話: 最後の一画

 帳場の卓に広げた紙は、親指で押しても撓《たわ》まなかった。


 ヴァイル家の帳場でいちばん厚い紙だ。ペン先が引っかかっても破れないし、インクを多く含ませても裏へ抜けない。今朝は棚から何枚か抜いて羽ペンとインク壺と一緒に布に包んだ。


 使うかどうかは、ギーゼラさまの手に触れてから決めるつもりだった。


 金曜の朝だった。誕生日まで、残り三十六日。


 本館で取り次ぎを頼むと、女中が奥へ伺いに行って戻った。


「今日も昼の鐘まで、とのことでございます。それから、若さまは本日のお見舞いをお控えになると」


「承知しました。ギーゼラさまに、そうお伝えしておきます」


 月曜も水曜も来なかった人が、金曜も来ない。


 離れの戸を開けたマルタは、昨日より目の下の色が薄かった。


「ギーゼラさまは、今朝はどうでしたか」


「夜に一度お目覚めになっただけで、明け方までお休みでございました。今朝のお匙は、ご自分でお持ちになりました。こぼされたのは、半分ほどでございます」


 家令が瓶をどう数えてきたかは、帰りに訊けばいい。私は頷いて、奥へ入った。


 寝台の上で、ギーゼラさまは目を開けていた。


 顔を窓へ向けている。細く開けた窓の格子をくぐって、林檎の花びらが一枚床へ落ちた。


「おはようございます、ギーゼラさま」


 淡い緑の目がこちらへ動いた。動き出すまでの間が昨日より短かった。


「……エルネスタさま」


 私は椅子を寄せて、掛布の上の手に触れた。冷たいけれど指の先は私の指の下で少し動いて、震えも水曜の朝ほど大きくはなかった。


 中指の第一関節が、少し内へ曲がっていた。帳場の古株と同じ曲がり方だ。ペンを握り続けた手の形が、六年寝ていた人の指にある。


「今朝は、手が少し動きますね」


「……うん。きのうより、うごく」


「それなら、今日は少しだけ、その手を使ってみましょうか」


 卓で布の包みをほどいて、自分の帳面を開いた。ペン先をインクに浸す。


 金曜。残り三十六日。


「……なに、かいてるの」


「今日の日付です」


「きょう」


「金曜です」


 ギーゼラさまは「きんよう」と口の中で繰り返した。それから卓の端の厚い紙へ目を移した。


「それは」


「帳場の紙です。うちで、いちばん厚いものです」


「……だれの」


「まだ、誰のものでもありません」


 ギーゼラさまはしばらく紙を見ていた。掛布の上で指が一本ずつ動いて、何かを握る形を確かめているようだった。


「……わたし、なまえ、かける?」


「書けると思います」


「わすれてたら、こわい」


 声は小さかったが、目は紙から離れなかった。


「こわい、けど。……かく」


 掛布の上の指が紙のほうへ伸びた。寝台からは届かない距離だった。


「では、支度をします。マルタ、盆を借りてもいいですか」


「粥の盆でよろしければ。お嬢さま、お背中を起こしますよ」




 マルタはギーゼラさまの背に枕を重ねてから、粥を運ぶ盆を膝の上に渡してくれた。


 私は紙を一枚盆の上に置いた。羽ペンにインクを含ませて、余分を壺の縁で落とす。


「そのペンは、お嬢さまには重うございませんか」


「帳場でいちばん軽いものを、手で量って選んできました」


 マルタは何も言わずに、盆の端を片手で押さえた。


 ギーゼラさまはペンを指の先でつまんだ。


「……かるい」


「軽いでしょう。帳場の子が最初に持たされるペンです」


 軸のずっと上のほうを持ち、紙に向かってまっすぐ立てる。それではペン先が定まらない。


「ペンは、もう少し下を持つと——」


「絵筆は、そうお持ちでございました」


 マルタの声だった。


「絵筆」


「お母さまとこちらへお客にいらした春に、お嬢さまは中庭で毎日描いておいででした。あの林檎も」


 マルタは窓の外の枝へ目をやった。


「……りんご」


 ギーゼラさまがペンを立てたまま言った。


「しろいの、かいた。……えだの、かげも」


「枝の影まで、ですか」


「かげが、いちばん、むずかしいの。……うごくから」


「動くのですか」


「かぜで。……かいてるあいだに、ちがうとこへ、いっちゃう」


 私は窓を見た。枝の影が窓枠の上で細かく揺れていた。


「私には、どこまでが枝でどこからが影なのか、見分けがつきません」


「お母さまが、よく褒めておいででした」


 マルタが言うと、ギーゼラさまの目が少しだけマルタのほうへ動いた。


「……おかあさま」


 それきりギーゼラさまは紙へ目を戻した。


 中指の関節の曲がりは、絵筆の癖だった。


「絵を描く方だったのですね」


 六年、中庭ひとつ隔てたところにいたのに、私は今日まで知らなかった。


「また、描きますか」


「……ての、ふるえが、とまったら」


「では、それまで紙を取っておきます」


 ペン先が紙に下りた。


「……ぎー」


 ペンを動かしながら、ギーゼラさまが小さく言った。


「ぜ。……ら」


 声はペン先より少し遅れてついてきた。


 最初の線は思っていたより太かった。インクが紙に沈んで、ペンが止まるところに丸く溜まる。


 指が震えるたびに、線は小さく折れた。折れたところから、また同じ向きへ続いていく。


 名の文字はひとつ書くごとに大きくなって、行は少しずつ紙の右下へ傾いていった。


 帳場なら書き直させる字だった。数字がこれだけ揺れていたら、私は読む前に突き返している。


 けれど、ギーゼラと読めた。


 名を書き終えたところでペン先がかすれた。私はギーゼラさまの指からペンを抜いて、インク壺へ浸した。


「……もどして」


 かすれた声だった。ギーゼラさまの指が、ペンを持っていた形のまま宙で開いている。


 水曜の朝にも同じ指が私の袖を掴んで、同じ言葉を言った。あのとき私は、戻しませんと答えた。


「戻します」


 考えるより先に口が動いていた。


 ペンを指の間へ戻すと、ギーゼラさまはまた軸の上のほうを持った。


「……つづき」


「家名も、書きますか」


「……かく」


 名から少し空けて家名が続いた。


「……は。……る」


 ペン先が、一文字ずつ紙の上を進んでいく。


「……で。……ん」


 今度は、声のほうが先に終わった。家名の終わりに、締めの一画が残っていた。


 ペン先が、紙に下りた。


 筆が止まった。止まったまま、私はそれを見ていた。


 ペン先の下でインクが小さく膨らんでいく。指は震えていて、震えたまま先へは動かなかった。


 祖母の帳場では書きかけの行は残さなかった。締めの線まで引いてから、その日の帳面を閉じる。私はそうやって六年分の明細を一晩で並べた。


 気がつくと、私の親指が盆の上の紙の縁を押さえていた。


 ギーゼラさまの肩が少し上がっていた。


「ごめんなさい。急かしましたね」


 私は親指を紙から離した。椅子を降りて寝台の脇に膝をついた。盆の高さまで顔を下げると、ギーゼラさまの顔を下から見上げる形になった。


「ゆっくりで。最後の一画は、明日でもいいの」


 盆の端を押さえていたマルタが、顔を上げて私を見た。


 ペン先が紙から浮いた。止まったところにインクの溜まりが黒く残った。


 窓から花びらがもう一枚入ってきて、紙の端に落ちた。ギーゼラさまの目がそれを追った。


「……かきかけで、おいたら」


「はい」


「えんぎ、わるい?」


 昨日の縁起の話をこの人は覚えていた。


 私は家の言い伝えを端から思い出してみた。書きかけの字の話は一つもなかった。


「ありません」


「……ほんとう?」


「うちの者は、言い伝えでは嘘をつきません」


 ギーゼラさまの肩が下りた。ペンを持ったまま紙の上の家名を見ていて、花びらは家名のすぐ下に載ったままだった。


 それから、ペンを握った自分の指を見た。


「……て、おおきい」


「絵筆を持っておいでの頃より、ずっと大きくおなりです」


 マルタが小さく言った。


「私、何歳になるの」


「誕生日が来たら、二十」


 ギーゼラさまはペンを盆に置いた。空いた右手の指を親指から折り始めた。


「じゅうさんの、ふゆ。……じゅうし」


 親指が掌へ倒れた。


「じゅうご。じゅうろく。じゅうしち」


 一本ずつ、指が倒れていく。


「じゅうはち」


 小指が倒れて、右手は握りこぶしになった。


「……じゅうく」


 折る指が、もうなかった。


 ギーゼラさまの左手が掛布の上を探って、私の手に触れた。私の人差し指をつまんで内側へ折る。冷たい指で力はほとんどなかったのに、私の指はされるままに曲がった。


 ギーゼラさまは折れた指を見下ろした。自分の右手と、私の一本。


「……六年、寝ていたのね」


 私は返事をしなかった。折られた指を、伸ばさずにおいた。


 マルタが盆から手を離した。前掛けの端を片手で握って窓のほうへ顔を向け、しばらくこちらを見なかった。


「……エルネスタさまは、いくつ」


「二十です」


「……ひとつ、うえ」


「三十六日したら、同じです」


 ギーゼラさまの握りこぶしが、少しだけゆるんだ。




 昼の鐘が本館の向こうで鳴った。


 ギーゼラさまの瞼《まぶた》が重くなっていた。マルタが盆を下ろそうとすると、かすれた声がした。


「かみ。……おいて、って」


「お嬢さま、紙は濡れないところへ置きますよ」


「……みえる、とこ」


 マルタが私を見た。私は紙を盆から取って、寝台の脇の小卓へ移した。


 インクは乾いていた。家名の終わりで線は先へ出ずに丸く止まっていて、指先で触れると溜まりの縁だけがわずかに盛り上がっていた。


「あした、かく」


「はい。明日」


「……あしたも、くる?」


「来ます。明日は土曜ですが、土曜でも来ます」


 ギーゼラさまの目が小卓の紙の上をゆっくり辿った。


「……ハルデン。……おとうさまの、なまえ」


 瞼が下りた。息が少しずつ長くなっていった。


 私は羽ペンの先を布で拭った。いつもなら、使ったペンはそのまま布に巻いて箱へしまう。手がそこで止まった。


「おしまいにならないのですか」


 マルタが小声で訊いた。


「今日は、出しておきます」


「それも、お家の言い伝えでございますか」


「いいえ。今日、決めました」


「……左様でございますか」


 マルタは私の手から羽ペンを受け取った。インク壺の横へ寝かせて、小卓を寝台のほうへ少し引き寄せる。それから眠っているギーゼラさまの右手のほうへ、ペンの軸を向け直した。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ヴァイル家の帳場には、紙が三種類あるという設定にしています。下書き用の薄い紙、取引先に出す並の紙、そして家の帳面にだけ使う厚い紙。エルネスタが今回持ってきたのは三つ目です。作者のメモには「厚い紙は親指で押して撓まないもの」とだけ書いてあって、彼女は本当にそれで選んでいます。


ギーゼラが絵を描いていたことは、人物表を作った日から決めていました。ただ、どこで出すかはずっと迷っていて、ペンの持ち方で出すと決まったのは書き始めてからです。枝の影がいちばん難しい、という台詞も、そのとき一緒に出てきました。十三歳の彼女がどんな林檎を描いていたのかは、もう少し先で書けたらと思っています。


指を折る場面は、プロットにはありませんでした。六年を数えようとしたら、片手では足りなかった。それに気づいたのは、書いている途中で作者自身が指を折ってみたときです。


次の第十四話は「泣かなくて済むわ」です。


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