第13話: 最後の一画
帳場の卓に広げた紙は、親指で押しても撓まなかった。
ヴァイル家の帳場でいちばん厚い紙だ。ペン先が引っかかっても破れないし、インクを多く含ませても裏へ抜けない。今朝は棚から何枚か抜いて羽ペンとインク壺と一緒に布に包んだ。
使うかどうかは、ギーゼラさまの手に触れてから決めるつもりだった。
金曜の朝だった。誕生日まで、残り三十六日。
本館で取り次ぎを頼むと、女中が奥へ伺いに行って戻った。
「今日も昼の鐘まで、とのことでございます。それから、若さまは本日のお見舞いをお控えになると」
「承知しました。ギーゼラさまに、そうお伝えしておきます」
月曜も水曜も来なかった人が、金曜も来ない。
離れの戸を開けたマルタは、昨日より目の下の色が薄かった。
「ギーゼラさまは、今朝はどうでしたか」
「夜に一度お目覚めになっただけで、明け方までお休みでございました。今朝のお匙は、ご自分でお持ちになりました。こぼされたのは、半分ほどでございます」
家令が瓶をどう数えてきたかは、帰りに訊けばいい。私は頷いて、奥へ入った。
寝台の上で、ギーゼラさまは目を開けていた。
顔を窓へ向けている。細く開けた窓の格子をくぐって、林檎の花びらが一枚床へ落ちた。
「おはようございます、ギーゼラさま」
淡い緑の目がこちらへ動いた。動き出すまでの間が昨日より短かった。
「……エルネスタさま」
私は椅子を寄せて、掛布の上の手に触れた。冷たいけれど指の先は私の指の下で少し動いて、震えも水曜の朝ほど大きくはなかった。
中指の第一関節が、少し内へ曲がっていた。帳場の古株と同じ曲がり方だ。ペンを握り続けた手の形が、六年寝ていた人の指にある。
「今朝は、手が少し動きますね」
「……うん。きのうより、うごく」
「それなら、今日は少しだけ、その手を使ってみましょうか」
卓で布の包みをほどいて、自分の帳面を開いた。ペン先をインクに浸す。
金曜。残り三十六日。
「……なに、かいてるの」
「今日の日付です」
「きょう」
「金曜です」
ギーゼラさまは「きんよう」と口の中で繰り返した。それから卓の端の厚い紙へ目を移した。
「それは」
「帳場の紙です。うちで、いちばん厚いものです」
「……だれの」
「まだ、誰のものでもありません」
ギーゼラさまはしばらく紙を見ていた。掛布の上で指が一本ずつ動いて、何かを握る形を確かめているようだった。
「……わたし、なまえ、かける?」
「書けると思います」
「わすれてたら、こわい」
声は小さかったが、目は紙から離れなかった。
「こわい、けど。……かく」
掛布の上の指が紙のほうへ伸びた。寝台からは届かない距離だった。
「では、支度をします。マルタ、盆を借りてもいいですか」
「粥の盆でよろしければ。お嬢さま、お背中を起こしますよ」
マルタはギーゼラさまの背に枕を重ねてから、粥を運ぶ盆を膝の上に渡してくれた。
私は紙を一枚盆の上に置いた。羽ペンにインクを含ませて、余分を壺の縁で落とす。
「そのペンは、お嬢さまには重うございませんか」
「帳場でいちばん軽いものを、手で量って選んできました」
マルタは何も言わずに、盆の端を片手で押さえた。
ギーゼラさまはペンを指の先でつまんだ。
「……かるい」
「軽いでしょう。帳場の子が最初に持たされるペンです」
軸のずっと上のほうを持ち、紙に向かってまっすぐ立てる。それではペン先が定まらない。
「ペンは、もう少し下を持つと——」
「絵筆は、そうお持ちでございました」
マルタの声だった。
「絵筆」
「お母さまとこちらへお客にいらした春に、お嬢さまは中庭で毎日描いておいででした。あの林檎も」
マルタは窓の外の枝へ目をやった。
「……りんご」
ギーゼラさまがペンを立てたまま言った。
「しろいの、かいた。……えだの、かげも」
「枝の影まで、ですか」
「かげが、いちばん、むずかしいの。……うごくから」
「動くのですか」
「かぜで。……かいてるあいだに、ちがうとこへ、いっちゃう」
私は窓を見た。枝の影が窓枠の上で細かく揺れていた。
「私には、どこまでが枝でどこからが影なのか、見分けがつきません」
「お母さまが、よく褒めておいででした」
マルタが言うと、ギーゼラさまの目が少しだけマルタのほうへ動いた。
「……おかあさま」
それきりギーゼラさまは紙へ目を戻した。
中指の関節の曲がりは、絵筆の癖だった。
「絵を描く方だったのですね」
六年、中庭ひとつ隔てたところにいたのに、私は今日まで知らなかった。
「また、描きますか」
「……ての、ふるえが、とまったら」
「では、それまで紙を取っておきます」
ペン先が紙に下りた。
「……ぎー」
ペンを動かしながら、ギーゼラさまが小さく言った。
「ぜ。……ら」
声はペン先より少し遅れてついてきた。
最初の線は思っていたより太かった。インクが紙に沈んで、ペンが止まるところに丸く溜まる。
指が震えるたびに、線は小さく折れた。折れたところから、また同じ向きへ続いていく。
名の文字はひとつ書くごとに大きくなって、行は少しずつ紙の右下へ傾いていった。
帳場なら書き直させる字だった。数字がこれだけ揺れていたら、私は読む前に突き返している。
けれど、ギーゼラと読めた。
名を書き終えたところでペン先がかすれた。私はギーゼラさまの指からペンを抜いて、インク壺へ浸した。
「……もどして」
かすれた声だった。ギーゼラさまの指が、ペンを持っていた形のまま宙で開いている。
水曜の朝にも同じ指が私の袖を掴んで、同じ言葉を言った。あのとき私は、戻しませんと答えた。
「戻します」
考えるより先に口が動いていた。
ペンを指の間へ戻すと、ギーゼラさまはまた軸の上のほうを持った。
「……つづき」
「家名も、書きますか」
「……かく」
名から少し空けて家名が続いた。
「……は。……る」
ペン先が、一文字ずつ紙の上を進んでいく。
「……で。……ん」
今度は、声のほうが先に終わった。家名の終わりに、締めの一画が残っていた。
ペン先が、紙に下りた。
筆が止まった。止まったまま、私はそれを見ていた。
ペン先の下でインクが小さく膨らんでいく。指は震えていて、震えたまま先へは動かなかった。
祖母の帳場では書きかけの行は残さなかった。締めの線まで引いてから、その日の帳面を閉じる。私はそうやって六年分の明細を一晩で並べた。
気がつくと、私の親指が盆の上の紙の縁を押さえていた。
ギーゼラさまの肩が少し上がっていた。
「ごめんなさい。急かしましたね」
私は親指を紙から離した。椅子を降りて寝台の脇に膝をついた。盆の高さまで顔を下げると、ギーゼラさまの顔を下から見上げる形になった。
「ゆっくりで。最後の一画は、明日でもいいの」
盆の端を押さえていたマルタが、顔を上げて私を見た。
ペン先が紙から浮いた。止まったところにインクの溜まりが黒く残った。
窓から花びらがもう一枚入ってきて、紙の端に落ちた。ギーゼラさまの目がそれを追った。
「……かきかけで、おいたら」
「はい」
「えんぎ、わるい?」
昨日の縁起の話をこの人は覚えていた。
私は家の言い伝えを端から思い出してみた。書きかけの字の話は一つもなかった。
「ありません」
「……ほんとう?」
「うちの者は、言い伝えでは嘘をつきません」
ギーゼラさまの肩が下りた。ペンを持ったまま紙の上の家名を見ていて、花びらは家名のすぐ下に載ったままだった。
それから、ペンを握った自分の指を見た。
「……て、おおきい」
「絵筆を持っておいでの頃より、ずっと大きくおなりです」
マルタが小さく言った。
「私、何歳になるの」
「誕生日が来たら、二十」
ギーゼラさまはペンを盆に置いた。空いた右手の指を親指から折り始めた。
「じゅうさんの、ふゆ。……じゅうし」
親指が掌へ倒れた。
「じゅうご。じゅうろく。じゅうしち」
一本ずつ、指が倒れていく。
「じゅうはち」
小指が倒れて、右手は握りこぶしになった。
「……じゅうく」
折る指が、もうなかった。
ギーゼラさまの左手が掛布の上を探って、私の手に触れた。私の人差し指をつまんで内側へ折る。冷たい指で力はほとんどなかったのに、私の指はされるままに曲がった。
ギーゼラさまは折れた指を見下ろした。自分の右手と、私の一本。
「……六年、寝ていたのね」
私は返事をしなかった。折られた指を、伸ばさずにおいた。
マルタが盆から手を離した。前掛けの端を片手で握って窓のほうへ顔を向け、しばらくこちらを見なかった。
「……エルネスタさまは、いくつ」
「二十です」
「……ひとつ、うえ」
「三十六日したら、同じです」
ギーゼラさまの握りこぶしが、少しだけゆるんだ。
昼の鐘が本館の向こうで鳴った。
ギーゼラさまの瞼が重くなっていた。マルタが盆を下ろそうとすると、かすれた声がした。
「かみ。……おいて、って」
「お嬢さま、紙は濡れないところへ置きますよ」
「……みえる、とこ」
マルタが私を見た。私は紙を盆から取って、寝台の脇の小卓へ移した。
インクは乾いていた。家名の終わりで線は先へ出ずに丸く止まっていて、指先で触れると溜まりの縁だけがわずかに盛り上がっていた。
「あした、かく」
「はい。明日」
「……あしたも、くる?」
「来ます。明日は土曜ですが、土曜でも来ます」
ギーゼラさまの目が小卓の紙の上をゆっくり辿った。
「……ハルデン。……おとうさまの、なまえ」
瞼が下りた。息が少しずつ長くなっていった。
私は羽ペンの先を布で拭った。いつもなら、使ったペンはそのまま布に巻いて箱へしまう。手がそこで止まった。
「おしまいにならないのですか」
マルタが小声で訊いた。
「今日は、出しておきます」
「それも、お家の言い伝えでございますか」
「いいえ。今日、決めました」
「……左様でございますか」
マルタは私の手から羽ペンを受け取った。インク壺の横へ寝かせて、小卓を寝台のほうへ少し引き寄せる。それから眠っているギーゼラさまの右手のほうへ、ペンの軸を向け直した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ヴァイル家の帳場には、紙が三種類あるという設定にしています。下書き用の薄い紙、取引先に出す並の紙、そして家の帳面にだけ使う厚い紙。エルネスタが今回持ってきたのは三つ目です。作者のメモには「厚い紙は親指で押して撓まないもの」とだけ書いてあって、彼女は本当にそれで選んでいます。
ギーゼラが絵を描いていたことは、人物表を作った日から決めていました。ただ、どこで出すかはずっと迷っていて、ペンの持ち方で出すと決まったのは書き始めてからです。枝の影がいちばん難しい、という台詞も、そのとき一緒に出てきました。十三歳の彼女がどんな林檎を描いていたのかは、もう少し先で書けたらと思っています。
指を折る場面は、プロットにはありませんでした。六年を数えようとしたら、片手では足りなかった。それに気づいたのは、書いている途中で作者自身が指を折ってみたときです。
次の第十四話は「泣かなくて済むわ」です。
ブックマークや評価で応援していただけたら、作者も明日の続きを書きにいきます。




