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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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14/23

第14話: 泣かなくて済むわ

 棚の戸が開くと、甘い匂いが部屋に出てきた。


 蜂蜜の甘さではなかった。もっと重くて、喉の奥に残る甘さだ。


 先週の木曜に初めてこの離れの扉を開けたとき、部屋にはこの匂いが籠もっていた。今朝の部屋は蜂蜜と苦味草の匂いのほうが強かった。今週の月曜の夕方、マルタは調えた瓶を置く前に棚板を拭いていたが、板に染みた匂いは抜けなかったらしい。


 残り三十五日の土曜だった。本館で取り次ぎを頼むと、見舞いは今日も昼の鐘まで、と言われた。


 ギーゼラさまは朝のお薬のあとで眠っていた。小卓の紙は昨日のままで、家名の終わりにインクの丸い溜まりが残っている。


 棚を開けてもらったのは、私が頼んだからだ。


「家令は、これまでこの瓶をどうやって数えてきたのですか」


 マルタは鍵を手にしたまま答えた。


「お数えになったことは、ございません。お店から回ってまいります請求書を、お支払いになるだけでございます。奥さまはときどき戸口からご覧になって、お閉めになります」


「瓶には触れずに」


「はい。並んでおりますれば、それでよろしいようでございました。月曜が、六年で初めてでございます」


「木曜の晩からの分は」


「先生のお書きつけのとおりでございます。増やせとの仰せは、先生が帳面に断りを書いて止めてくださいました。一匙も足しておりません」


 家の者は、六年誰も瓶を数えなかった。数えていたのは、引き出しの二冊をつけてきたマルタだけだ。


 私は手前の瓶に指を当てた。硝子は棚の奥の冷えを溜めていた。先生が調えた瓶は、マルタが底の印で見分けている。布で包んだ元の薬の瓶は、その奥に並んでいた。


 明後日の月曜には、家令が請求書を持ってこの棚の前に立つ。届いた本数と棚の本数を突き合わせれば、減りの遅い瓶のところで数が合わなくなる。


「……その、におい」


 寝台からだった。


 ギーゼラさまが目を開けていた。顔が窓ではなく、棚のほうを向いている。


「マルタ。……それ、まえの」


 マルタの手が戸の縁で止まった。


「はちみつのと……ちがう」


 ギーゼラさまの鼻が、小さく動いた。


「あまくて……おもい」


 私は瓶から指を離した。椅子を寝台の脇へ寄せて座る。


「この匂いを、知っておいでですか」


「……さいしょの、よる」


 ギーゼラさまは棚を見たまま言った。


「はなれに、きた、よる。……さむかった」


 昨日この人は指を折って、十三の冬から数え始めた。その冬の最初の夜のことだった。


「おそうしきの……つぎの、ひ」


 マルタが前掛けの前で両手を重ねた。


「おとうさまと、おかあさまの。……ないてたの。ずっと」


「はい」


「とまらなくて。ねるじかんに、なっても」


「お部屋は、ここでしたか」


「うん。……まど、あけたかったの」


 ギーゼラさまは棚から窓へ顔を向けた。


「あけたら……おうち、みえるかとおもって。みえないのに」


 この窓から見えるのは、中庭の林檎と本館の壁と、渡り廊下の端だけだ。


 掛布の上で、ギーゼラさまの指が丸くなった。何かを両手で包む形だった。


「そしたら、おば様が、きたの。……カップ、もって」


「侯爵夫人が、ご自分で」


「うん。……あったかかった。このにおい、した」


 指の形は、カップの大きさだった。


「ふるえて、もてなかったの。……おば様が、くちにあててくれた」


 水曜の夕方、マルタは匙を口元へ寄せずに待った。この人は自分でマルタの手首を引いて苦い薬を飲んだ。


「おば様、わらってた。……わたしのほっぺに、さわって」


 あの人の手に私は触れたことがない。一昨日の朝に右手を出したとき、あの人は手袋の指先を直していた。


「ぜんぶのんでね、って。……あしたも、もってきてあげるって」


 マルタの重ねた手に、力が入った。


「それで、いったの」


 声がそこで一度切れた。ギーゼラさまは息を吸った。


「泣かなくて済むわ、と言われたの」


 その一言だけ、あの人の口調だった。


 膝の上で、私の右手が帳面の角を握っていた。角が掌に食い込んでも、指は開かなかった。


 棚の戸は開いたままだった。甘い匂いが、まだ部屋に出てきていた。


「マルタ」


 私は椅子から立たなかった。


「棚を、閉めてください」


 マルタは動かなかった。戸の縁に手を掛けたまま私の顔を見ていた。ギーゼラさまの続きの言葉も、そこで止まっていた。


 誰も、何も言わなかった。


 それからマルタが戸を閉めた。鍵の回る音が、部屋の中で一つだけ鳴った。掛布の上で、カップの形をしていた指がほどけた。


 私は立って窓を開けた。留め金は冷えていて、指の腹に食い込んだ。


 中庭の向こうに本館の壁が見える。林檎の枝が、その手前で揺れていた。夫人の朝の居間はあの壁の内側だ。渡り廊下を渡れば、すぐに着く。


「ヴァイルのお嬢さま」


 背中で、マルタの声がした。


「本館へ、おいでになりますか」


「いいえ」


 行って、何を出すのか。


 私が持っているのは紙だ。年次の明細と、店の請求書の写し。マルタの帳面にも、量と時刻と残りしか書いていない。六年前の冬の夜、誰がカップを運んだのかも、そのとき誰が笑っていたのかも、どの紙にも書いていない。




「……のんだら」


 寝台から、かすれた声がした。


「ほんとうに……なかなくて、すんだの」


 私は振り向いた。


「つぎのひも。……そのつぎも」


 ギーゼラさまは天井を見ていた。


「おとうさまとおかあさまのこと。……わたし、まだないてない」


 目尻から涙があふれた。仰向けの顔の上を、こめかみを伝って耳のほうへ流れていく。


 私は寝台の脇へ戻った。濡れたこめかみに指を当てる。この人の手は握ればまだ冷たいのに、涙は温かかった。


「おかあさまの、がいとう。……くすのきの、においだった」


 窓から入った風が、掛布の端を少し持ち上げた。棚の甘い匂いは、もうほとんどしなかった。


「……とまらない」


「はい」


 私は指を離さなかった。涙は指の横を通って、枕へ落ちていった。


「エルネスタさま。……ないたら」


 ギーゼラさまは閉まった棚を見た。


「また、あれ……くる?」


 来ませんと言える紙を、私は一枚も持っていなかった。


 月曜には家令が来る。その先にもあの人の言いつけはいくつも来るだろう。私に約束できるのは、私の手でできることだけだった。


 私はマルタを見た。マルタは閉めた戸の前に立ったままだった。


「マルタ。これから、私が数えます」


 マルタの目が、私の膝の帳面へ下りた。


「あなたの帳面と同じ行を、私の帳面にもつけます。それから、誰が棚を開けて、誰が匙に取って、誰がこの部屋まで運んできたか。その人の名を、今日から毎日書きます」


「お運びいたしますのは、わたくしでございますが」


「では、毎日あなたの名を書きます。あなたでない人が運んできた日は、その人の名を書きます」


 ギーゼラさまは、私のほうを向いていた。


「取り次いでいただける日は、ここで書きます。通してもらえない日の分は、次の日にマルタから聞いて書きます。書かない日は、一日も作りません」


 マルタは少しのあいだ私を見ていた。それから棚の下の引き出しを開けて、布の包みを出した。角のまだ硬いほうの一冊を、卓の上に置く。薄茶色の古い一冊は、引き出しに残したままだった。


 私も卓で自分の帳面を開いた。表紙の角が、握った形のまま折れていた。ペン先をインクに浸して、新しい行に書く。


 土曜。残り三十五日。


 マルタは包みの布に手を置いたまま、すぐには開かなかった。


「……どれほど飲んでいるのかと、お訊ねくださいましたのは」


 小さな声だった。


「六年で、ヴァイルのお嬢さまが初めてでございました」


 ペン先が、行の途中で止まった。マルタはそれ以上何も言わなかった。


 私はペン先をもう一度インクに浸した。


「では、今朝の分を読んでください」


 マルタが布をほどいて、帳面を開いた。今朝の行に指を置く。


「朝の鐘のあと。先生の瓶から、いつもの匙で。こぼされたのは、少しでございます」


 私はそのとおりに写した。二冊の帳面が、卓の上で横に並んだ。


「棚を開けたのは」


「わたくしでございます」


「匙に取ったのは」


「わたくしでございます」


「お口まで運んだのは」


「わたくしでございます」


 私は行の終わりに、マルタの名を三つ書いた。マルタはそれを見届けて、小さく頷いた。


「飲んだ人の名も、書きます」


 行の初めに戻って、名を書き入れた。


 ペンの擦れる音がすると、寝台でギーゼラさまの頭が少しこちらへ傾いた。


「……かいてる」


「書いています」


「……なにを」


「今朝、誰があなたのところへ来たかを」


 ギーゼラさまはしばらく私のペンの先を見ていた。涙はまだ止まっていなかった。耳の下の枕に、濡れた跡が広がっている。


 行の初めの名は、もう乾いていた。私はペンを置いた。


「ギーゼラ」


 濡れた睫毛《まつげ》が上がった。ギーゼラの目が、私のところで止まった。


 少しのあいだ、ギーゼラは私を見ていた。それから唇が動いた。


「……エルネスタ」


 さまは、つかなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「泣かなくて済むわ」という台詞は、この作品の年表を作った最初の日に書いたものです。物語のどこで出すかより先に、侯爵夫人がこう言う人だということが決まっていました。言った本人は今でも、あれを優しさだと思っています。


実はこの回、エルネスタが本館の居間へ乗り込む版を一度書きました。数字を並べて夫人を黙らせる、書いていて気持ちのいい場面です。ところが書き終えた夜、どうにも寝つけませんでした。翌朝その版は消しました。夫人と向き合う場面は、もう少し先に取ってあります。


マルタの引き出しの二冊には、まだ本文に出していない頁があります。それはもう少し先で。


次回、第十五話は「友人として」です。


ここまで付き合ってくださった方へ。ブックマークや評価をいただけると、土曜の離れの続きを書く力になります。

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