第14話: 泣かなくて済むわ
棚の戸が開くと、甘い匂いが部屋に出てきた。
蜂蜜の甘さではなかった。もっと重くて、喉の奥に残る甘さだ。
先週の木曜に初めてこの離れの扉を開けたとき、部屋にはこの匂いが籠もっていた。今朝の部屋は蜂蜜と苦味草の匂いのほうが強かった。今週の月曜の夕方、マルタは調えた瓶を置く前に棚板を拭いていたが、板に染みた匂いは抜けなかったらしい。
残り三十五日の土曜だった。本館で取り次ぎを頼むと、見舞いは今日も昼の鐘まで、と言われた。
ギーゼラさまは朝のお薬のあとで眠っていた。小卓の紙は昨日のままで、家名の終わりにインクの丸い溜まりが残っている。
棚を開けてもらったのは、私が頼んだからだ。
「家令は、これまでこの瓶をどうやって数えてきたのですか」
マルタは鍵を手にしたまま答えた。
「お数えになったことは、ございません。お店から回ってまいります請求書を、お支払いになるだけでございます。奥さまはときどき戸口からご覧になって、お閉めになります」
「瓶には触れずに」
「はい。並んでおりますれば、それでよろしいようでございました。月曜が、六年で初めてでございます」
「木曜の晩からの分は」
「先生のお書きつけのとおりでございます。増やせとの仰せは、先生が帳面に断りを書いて止めてくださいました。一匙も足しておりません」
家の者は、六年誰も瓶を数えなかった。数えていたのは、引き出しの二冊をつけてきたマルタだけだ。
私は手前の瓶に指を当てた。硝子は棚の奥の冷えを溜めていた。先生が調えた瓶は、マルタが底の印で見分けている。布で包んだ元の薬の瓶は、その奥に並んでいた。
明後日の月曜には、家令が請求書を持ってこの棚の前に立つ。届いた本数と棚の本数を突き合わせれば、減りの遅い瓶のところで数が合わなくなる。
「……その、におい」
寝台からだった。
ギーゼラさまが目を開けていた。顔が窓ではなく、棚のほうを向いている。
「マルタ。……それ、まえの」
マルタの手が戸の縁で止まった。
「はちみつのと……ちがう」
ギーゼラさまの鼻が、小さく動いた。
「あまくて……おもい」
私は瓶から指を離した。椅子を寝台の脇へ寄せて座る。
「この匂いを、知っておいでですか」
「……さいしょの、よる」
ギーゼラさまは棚を見たまま言った。
「はなれに、きた、よる。……さむかった」
昨日この人は指を折って、十三の冬から数え始めた。その冬の最初の夜のことだった。
「おそうしきの……つぎの、ひ」
マルタが前掛けの前で両手を重ねた。
「おとうさまと、おかあさまの。……ないてたの。ずっと」
「はい」
「とまらなくて。ねるじかんに、なっても」
「お部屋は、ここでしたか」
「うん。……まど、あけたかったの」
ギーゼラさまは棚から窓へ顔を向けた。
「あけたら……おうち、みえるかとおもって。みえないのに」
この窓から見えるのは、中庭の林檎と本館の壁と、渡り廊下の端だけだ。
掛布の上で、ギーゼラさまの指が丸くなった。何かを両手で包む形だった。
「そしたら、おば様が、きたの。……カップ、もって」
「侯爵夫人が、ご自分で」
「うん。……あったかかった。このにおい、した」
指の形は、カップの大きさだった。
「ふるえて、もてなかったの。……おば様が、くちにあててくれた」
水曜の夕方、マルタは匙を口元へ寄せずに待った。この人は自分でマルタの手首を引いて苦い薬を飲んだ。
「おば様、わらってた。……わたしのほっぺに、さわって」
あの人の手に私は触れたことがない。一昨日の朝に右手を出したとき、あの人は手袋の指先を直していた。
「ぜんぶのんでね、って。……あしたも、もってきてあげるって」
マルタの重ねた手に、力が入った。
「それで、いったの」
声がそこで一度切れた。ギーゼラさまは息を吸った。
「泣かなくて済むわ、と言われたの」
その一言だけ、あの人の口調だった。
膝の上で、私の右手が帳面の角を握っていた。角が掌に食い込んでも、指は開かなかった。
棚の戸は開いたままだった。甘い匂いが、まだ部屋に出てきていた。
「マルタ」
私は椅子から立たなかった。
「棚を、閉めてください」
マルタは動かなかった。戸の縁に手を掛けたまま私の顔を見ていた。ギーゼラさまの続きの言葉も、そこで止まっていた。
誰も、何も言わなかった。
それからマルタが戸を閉めた。鍵の回る音が、部屋の中で一つだけ鳴った。掛布の上で、カップの形をしていた指がほどけた。
私は立って窓を開けた。留め金は冷えていて、指の腹に食い込んだ。
中庭の向こうに本館の壁が見える。林檎の枝が、その手前で揺れていた。夫人の朝の居間はあの壁の内側だ。渡り廊下を渡れば、すぐに着く。
「ヴァイルのお嬢さま」
背中で、マルタの声がした。
「本館へ、おいでになりますか」
「いいえ」
行って、何を出すのか。
私が持っているのは紙だ。年次の明細と、店の請求書の写し。マルタの帳面にも、量と時刻と残りしか書いていない。六年前の冬の夜、誰がカップを運んだのかも、そのとき誰が笑っていたのかも、どの紙にも書いていない。
「……のんだら」
寝台から、かすれた声がした。
「ほんとうに……なかなくて、すんだの」
私は振り向いた。
「つぎのひも。……そのつぎも」
ギーゼラさまは天井を見ていた。
「おとうさまとおかあさまのこと。……わたし、まだないてない」
目尻から涙があふれた。仰向けの顔の上を、こめかみを伝って耳のほうへ流れていく。
私は寝台の脇へ戻った。濡れたこめかみに指を当てる。この人の手は握ればまだ冷たいのに、涙は温かかった。
「おかあさまの、がいとう。……くすのきの、においだった」
窓から入った風が、掛布の端を少し持ち上げた。棚の甘い匂いは、もうほとんどしなかった。
「……とまらない」
「はい」
私は指を離さなかった。涙は指の横を通って、枕へ落ちていった。
「エルネスタさま。……ないたら」
ギーゼラさまは閉まった棚を見た。
「また、あれ……くる?」
来ませんと言える紙を、私は一枚も持っていなかった。
月曜には家令が来る。その先にもあの人の言いつけはいくつも来るだろう。私に約束できるのは、私の手でできることだけだった。
私はマルタを見た。マルタは閉めた戸の前に立ったままだった。
「マルタ。これから、私が数えます」
マルタの目が、私の膝の帳面へ下りた。
「あなたの帳面と同じ行を、私の帳面にもつけます。それから、誰が棚を開けて、誰が匙に取って、誰がこの部屋まで運んできたか。その人の名を、今日から毎日書きます」
「お運びいたしますのは、わたくしでございますが」
「では、毎日あなたの名を書きます。あなたでない人が運んできた日は、その人の名を書きます」
ギーゼラさまは、私のほうを向いていた。
「取り次いでいただける日は、ここで書きます。通してもらえない日の分は、次の日にマルタから聞いて書きます。書かない日は、一日も作りません」
マルタは少しのあいだ私を見ていた。それから棚の下の引き出しを開けて、布の包みを出した。角のまだ硬いほうの一冊を、卓の上に置く。薄茶色の古い一冊は、引き出しに残したままだった。
私も卓で自分の帳面を開いた。表紙の角が、握った形のまま折れていた。ペン先をインクに浸して、新しい行に書く。
土曜。残り三十五日。
マルタは包みの布に手を置いたまま、すぐには開かなかった。
「……どれほど飲んでいるのかと、お訊ねくださいましたのは」
小さな声だった。
「六年で、ヴァイルのお嬢さまが初めてでございました」
ペン先が、行の途中で止まった。マルタはそれ以上何も言わなかった。
私はペン先をもう一度インクに浸した。
「では、今朝の分を読んでください」
マルタが布をほどいて、帳面を開いた。今朝の行に指を置く。
「朝の鐘のあと。先生の瓶から、いつもの匙で。こぼされたのは、少しでございます」
私はそのとおりに写した。二冊の帳面が、卓の上で横に並んだ。
「棚を開けたのは」
「わたくしでございます」
「匙に取ったのは」
「わたくしでございます」
「お口まで運んだのは」
「わたくしでございます」
私は行の終わりに、マルタの名を三つ書いた。マルタはそれを見届けて、小さく頷いた。
「飲んだ人の名も、書きます」
行の初めに戻って、名を書き入れた。
ペンの擦れる音がすると、寝台でギーゼラさまの頭が少しこちらへ傾いた。
「……かいてる」
「書いています」
「……なにを」
「今朝、誰があなたのところへ来たかを」
ギーゼラさまはしばらく私のペンの先を見ていた。涙はまだ止まっていなかった。耳の下の枕に、濡れた跡が広がっている。
行の初めの名は、もう乾いていた。私はペンを置いた。
「ギーゼラ」
濡れた睫毛が上がった。ギーゼラの目が、私のところで止まった。
少しのあいだ、ギーゼラは私を見ていた。それから唇が動いた。
「……エルネスタ」
さまは、つかなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「泣かなくて済むわ」という台詞は、この作品の年表を作った最初の日に書いたものです。物語のどこで出すかより先に、侯爵夫人がこう言う人だということが決まっていました。言った本人は今でも、あれを優しさだと思っています。
実はこの回、エルネスタが本館の居間へ乗り込む版を一度書きました。数字を並べて夫人を黙らせる、書いていて気持ちのいい場面です。ところが書き終えた夜、どうにも寝つけませんでした。翌朝その版は消しました。夫人と向き合う場面は、もう少し先に取ってあります。
マルタの引き出しの二冊には、まだ本文に出していない頁があります。それはもう少し先で。
次回、第十五話は「友人として」です。
ここまで付き合ってくださった方へ。ブックマークや評価をいただけると、土曜の離れの続きを書く力になります。




