第15話: 友人として
「監督官としては、聞かなかったことにします」
レナルト・ブランデスはそう言って羽ペンをインク壺へ戻した。手元の紙は、私の家名を書いたところで線が止まっていた。
火曜の午後だった。誕生日まで残り三十二日。
先週と同じ相談卓で、今日は名から話した。ヴァイルの名もラウエンブルクの名も、離れで眠らされてきた娘の名も。持参金の明細と薬種店の写しとベルトラム先生の見立てまで、全部だ。
「友人としては、書式を教えます」
彼はそこで一度、擦れた袖口に目を落とした。
「……友人でよろしければ、ですが。失礼」
「友人で、お願いします」
答えてから気づいた。聞かなかったことにする理由を、まだ聞いていない。
「なぜ、聞かなかったことにするのですか」
「監督官が後見の不正を聞けば、記録しなければなりません。記録すれば、まず後見人へ照会の書状が出ます」
「侯爵夫人のところへ」
「照会の書式には、宛先の欄が一つしかないんです。後見人の欄が」
三十二日あれば、書状はこちらの支度より先に着く。
卓に置いた手のひらが、石造りの部屋の冷えを吸っていた。私は手を卓から膝へ移した。
「では、友人の監督官どのに伺います」
彼の口の端が、わずかに動いた。
「新しい後見の候補に、私はなれますか」
「なれません」
返事が速かった。
「候補は成人であること。自分の家を持つ当主か、それに準じる方です」
私が口を開く前に、彼は続けた。
「それにヴァイル嬢は、今の後見人の家とご婚約中です」
「婚約は、解きます」
灰色の目が少し大きくなった。
「……届けを出す日に、まだ解けていなければ。書式は通りません」
「では、父です」
「ヴァイル伯は、ご病気だと伺いました」
「春から臥せっています」
「承諾書は候補者ご本人の手で書いていただきます。代筆はできません。寝台の上でも構いませんが」
「読めることのほうが大切、でしたね」
「ええ。欄を越えても構いません」
先週、狭い署名欄を二人で笑ったときの言葉だった。彼の口元は、今日は動かなかった。
「お父上には、もう」
「まだ、話していません」
彼は脇の箱から紙を二枚出した。私も帳面に挟んできた変更届を開いた。先週もらったままの白紙だ。
「揃う順番があります」
彼は一枚目を卓のいちばん手前に置いた。
私は指を伸ばして端に触れた。変更届より厚い紙だった。爪の先を立てても、跡がつかなかった。
「承諾書。候補者が引き受けると書いて名を入れる。これが最初です。次に、審査官の立ち会いの予約書」
二枚目が承諾書の上に重なった。
「予約書には新しい後見候補の名を書く欄があります。そこが空いたままでは院は受け付けません」
「最後が本人の署名ですね」
私は変更届を差し出した。彼はそれを受け取って、二枚の上に置いた。
「ご本人の名は、全部が揃った上に書きます。審査官の目の前で」
重なった紙のいちばん上に、あの狭い署名欄があった。
「審査官はその席で何を見るのですか」
「誕生日に、後見人から心神の障りの申立が出たときです。先週お話しした、あの申立です。審査官は障りがあるかないかを見ます。同じ席に変更届が出ていれば、それも」
「届けを認めるのは」
「審査官だけです。後見を仮に止めるのも」
「侯爵家が、私の家の持参金で薬を買っていたことは」
「婚約は家と家の契約です。審査官は契約を裁きません」
私の指が重なった紙の端を押さえた。
「ただ」
監督官どのは、私の指の横に目を落とした。
「後見人が被後見人に何を飲ませていたか。それは審査官の見る事柄です。目の前に出された紙なら審査官は読みます」
「持参金のほうはどうなるのですか」
「婚約の契約書は、お手元にありますか」
「家の金庫に、写しが」
「王都の婚約契約は、型が三つしかありません。どの型にも、持参金の使い道の条があります。婚礼の支度と、婚家の家政に限る、と」
「眠り薬は、家政ですか」
「家政の外です。院の書式では目的外と書きます」
そこから、彼の言葉が速くなった。
「目的外に使った側が、契約を破ったことになります。婚約を解く理由になる」
「うちの帳場なら、預かった金を別の口へ回した番頭は、その日のうちに暇を出されます」
「契約でも同じです。破った側を有責と言います。有責が婚家なら、持参金は全額戻ります。細かい条件は、写しの末尾の条にあるはずです」
「全額。一万二千ですね」
「全額です」
「婚約を解くと言えるのは、誰ですか」
「契約に名のある当主か、当主から任された方です」
また、父だった。
「侯爵家は、まだ何も」
監督官どのが訊いた。
「昨日、家令が初めて離れの瓶を数えに来ました」
私は帳面を開いて、月曜の行を指で押さえた。棚を開けた人の欄に、マルタでない名がある。この一行だけだ。
「請求書の綴りと棚の瓶を突き合わせていました。何か書きつけて、何も言わずに本館へ戻りました」
「数は合ったのですか」
「私には分かりません」
指を今日の行へ移した。今朝、離れで書いてきた行だ。三つの欄がまたマルタの名に戻っている。
「減量を始めた月曜から、今日で八日が過ぎました」
「先生のお見立ては、三週間でしたね」
「あと十三日です。終わる日に、誕生日まで十九日が残ります。その十九日のうちに、ギーゼラは名を書いて額を言えるようにならなければいけません」
監督官どのの左手の指が折られていき、途中で止まった。指は一度開いて、また親指から折られていった。
「……二十一から八で十三。残りが十九。商家の方の勘定は、私の筆より速い。失礼、追いつきました」
「はい」
「審査では本人が財産の額を言うのでしたね」
「はい」
「私はその額を知りません。……ハルデン嬢も、たぶん」
彼は立ち上がった。壁際の棚から厚い綴りを一冊抜いて卓へ戻る。
「被後見人には、自分の財産目録を見る権利があります。宛名がご本人なら、院から写しを出せる」
「侯爵家には」
「知らせが行きません。ご本人のものですから。宛名がご本人の写しは閲覧の請求で、聞き取りの記録とは別の綴りに入ります」
「それは友人として」
「いいえ。監督官の仕事です」
彼は眼鏡を指で押し上げて綴りを開いた。年ごとの報告が同じ書式で何枚も綴じてある。めくる手が、ある頁で止まった。
新しい紙に写しながら彼は読み上げた。
「ハルデン男爵領。評価八千リーヴル。年の収入四百。後見人が受領」
「現金は」
「零です」
ペン先の擦れる音だけが、しばらく卓の上に残った。
「ご両親が遺された現金は三百。葬儀と、離れの寝台と棚に充てたとあります」
離れの寝台と棚。
あの寝台。薬瓶の並ぶ、鍵のかかるあの棚。
どちらも、ギーゼラの両親の金で買われていた。
監督官どのは写しの末尾に院の印を押した。押してから元の綴りの頁の下を指でなぞった。
「受理印の欄に、私の印が二つあります」
私は顔を上げた。
「書式は、毎年きちんと揃っていました。一行も欠けずに。揃っていたので院の誰も会いに行かなかった。私もです」
書式を話すときの速さではなかった。
私は写しを受け取った。院の紙は薄く、親指で押すと少し撓んだ。宛名の欄にギーゼラ・ハルデンとある。
「次の報告にも、監督官どのが印を押すのですか」
「回ってくれば、そうなります」
「三つ目は、押さないでください」
彼は綴りの上で手を止めた。
「……押しません」
「明日、本人に渡します」
「……はい」
「自分の額は自分で読んでもらいます」
監督官どのは元の綴りを閉じた。閉じる前にハルデンの頁へもう一度だけ目を落とした。
帰り支度をして、財布から銀貨を一枚出した。卓に置くと硬貨の縁が天板で小さく鳴った。
「今日の相談の代金です」
監督官どのは銀貨を見て、それから私を見た。
「後見院の相談は代金をいただきません」
「一般の相談は、でしょう。今日のは一般ではないと監督官どのが最初に」
「……友人の相談もいただきません」
私は銀貨を財布へ戻した。
「では、借りにします。うちでは、ただで受けたものは帳面につけます。日付と相手の名と、何を受けたかを」
私は鞄から薄い帳面を出した。取引の帳面の半分もない厚さで、表紙の角が丸く擦れている。祖父の代から使っている帳面だ。
「この場で書くのですか」
「忘れないうちに」
今日の日付を書いた。その横に、レナルト・ブランデス。
「何を受けた、と書きますか」
「書式の教えを一回と、財産目録の写しを一通」
「写しは消してください。あれは監督官の仕事です」
私は写しの字に線を引いた。書式の教えを一回、だけが残った。ペンを置くまで、彼は帳面から目を上げなかった。
「私の名が、ヴァイル家の帳面に」
「載りました。返すまで」
「利息は」
「友人からは取りません」
眼鏡の奥で灰色の目が一度まばたいた。
「では、返していただくのはなるべくゆっくりで」
「なぜですか。借りは早く返すものです」
監督官どのは口を開いて、何も言わずに閉じた。
「……失礼」
何が失礼だったのかは最後まで言わなかった。
家に戻ると、玄関でクラウスが手燭を持って待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様は夕の粥を残さずに召し上がりました」
「先生は」
「お見えです。旦那様が寝台の下に菓子の缶をお隠しで、今それを」
クラウスはそこで言葉を切った。言う必要もなかった。廊下の突き当たりから父の声がしている。
「一つだ。一つだけだ」
「一つが三つになるのを、何度見てきたと思っとる」
先生の声だった。
廊下の奥へ進むほど、暖炉の熱が頬に当たった。私は父の寝室の前で足を止めた。鞄の中で院の紙が擦れた。
承諾書は候補者本人の手で書く。代筆はできない。
父は、あの縁組だけは値切らなかったと言った。家格を借りた家に使い道は訊けなかったとも。その家を相手取って、よその家の娘を引き受ける紙に名を書いてくれと、私は父に頼む。
「お入りになりますか」
後ろでクラウスが訊いた。
「今夜はやめておきます。熱の下がった朝に、お父さまにお願いをします」
「お願い、でございますか」
クラウスは手燭を持ち替えた。
「お嬢様が日を選んで旦那様にお願いをなさるのは、私の覚えております限り初めてでございます」
「婚約のときも、お願いはしませんでした。はいと言っただけです」
「……左様でございました」
扉の向こうで缶の蓋の鳴る音がした。
「中は、数えておくからの」
「数えるな」
父の声は、この春に聞いたうちでいちばん大きかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
レナルトの髪は、伸びると自分で切っているという設定です。子爵家の次男で、王都では一人暮らし。床屋へ行くはずの時間まで後見院の書式に使ってしまう人なので、いつも左右の長さが少し違います。エルネスタはまだそこに気づいていません。彼女が見ているのは、人の手のほうなので。
ヴァイル家の帳場には、取引の帳面とは別に「借り」だけを書く薄い帳面がある、ということにしています。祖父の代からの決まりで、ただで受けた親切もそこに書く。返したら線を引く。その帳面に初めて家の外の文官の名が載った日、という気持ちで今回を書きました。
婚約契約の「型は三つ」は、作者の手元のメモでも本当に三つしかありません。書き出してみたら三つで足りてしまったので、レナルトにはそのまま言ってもらいました。
次回、第十六話は「答えない」です。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で教えてください。次の離れへ向かう支度が早くなります。




