第16話: 答えない
「はっせん」
ギーゼラが紙の上の数字を読んだ。
昨日、後見院で作ってもらった財産目録の写しだ。宛名の欄にギーゼラ・ハルデンとある。院の紙は薄く、掛布の上に置くとギーゼラが息をするたびに端が浮いた。
本館で取り次ぎを頼むと、女中は言った。
「水曜でございますが、今日も昼の鐘まで、と」
若さまのことは何も言わなかった。
「……はるでん、だんしゃくりょう。ひょうか、はっせん」
ギーゼラの人差し指が行の下をゆっくり動いていく。
「ねんの、しゅうにゅう。……よんひゃく」
「はい」
「これ、ぜんぶ、わたしの?」
「あなたのものです。今は後見人が代わりに受け取っています」
「こうけんにん」
「侯爵夫人です」
「……おば様」
指が次の行の手前で止まった。
中庭の石畳を靴音が渡ってきた。
マルタが窓のそばへ寄った。格子の外を見て、そのまま振り向かずに言った。
「……若さまで、ございます」
先週は月曜も水曜も金曜も、あの方は中庭を渡ってこなかった。水曜には渡り廊下の端まで来て、そこで向きを変えた。
今日の靴音は止まらなかった。
「お通ししてよろしゅうございますか」
マルタは私に訊いた。
「ギーゼラに訊いてください」
マルタの目が寝台へ移った。ギーゼラは窓の格子を見たまま、小さく言った。
「……とおして」
私は写しをギーゼラの指の下から抜いた。二つに畳んで、帳面の頁のあいだに挟む。院の写しのことは、侯爵家には知らせが行かない。この家の人の目に触れさせるつもりもなかった。
「ギーゼラ。私はここにいましょうか。外にいましょうか」
ギーゼラは戸口のほうを見ていた。
「……そと」
それから、もう一度言った。
「わたしが、きく」
何を訊くのかは、訊かなかった。
奥の部屋と戸口のあいだには、板張りの短い廊下がある。私はそこに立って、部屋の扉を閉めきらずにおいた。
手のひら一枚ぶんの隙間から、寝台の足もとと窓と、枕の上のギーゼラの顔が見えた。
戸口の閂をマルタが外した。入ってきたあの方は、外套を着たままだった。廊下に私がいるのを見て、足を止めた。
「……エルネスタ」
「ギーゼラが、起きています」
あの方の目が一度だけ私の顔で止まった。さまを付けずに呼んだのに気づいたのかどうかは分からなかった。
外套の裾が私の膝をかすめて、扉の向こうへ入っていった。マルタは戸口の外に出て、こちらに背を向けて立った。
「ギーゼラ」
椅子の脚が床を擦った。あの方の背中が隙間の半分をふさいだ。
「目が開いてる。……僕が分かるかい」
「ゼバスティアン」
名前の途中で、声が切れなかった。
「そうか。……そうか」
あの方の手が掛布の上へ伸びた。ギーゼラの手を取って自分の外套の裾ごと包む。手が冷えるから包んでいたと、応接で聞いたことがある。その手つきを見るのは初めてだった。
ギーゼラは手を引かなかった。
「……あなたの、て」
「うん」
「いつも、あったかかった。ねてても、わかった。……すいようびも。きんようびも。ろくねん」
「来ていたよ。ずっと」
「うん」
ギーゼラは包まれた手のほうを見ていた。それから、あの方の顔へ目を上げた。
「まいにち、のんでた、くすり。……おば様が、もってきた、くすり」
外套の裾の下で手が動いたのかどうかは、隙間からは見えなかった。
「ゼバスティアン。あなた、知っていたの」
あの方は答えなかった。
背中は動かなかった。外套の裾もギーゼラの手を包んだままだった。部屋からは、しばらく何の音もしなかった。
中庭で鳥が鳴いた。
「……いち」
ギーゼラの声だった。先週の木曜には、窓の雀を数えていた。
遠くで井戸の釣瓶が軋んだ。
「……に」
私は廊下の壁に背をつけていた。板壁の冷えが、肩の骨から入ってきた。
また鳥が鳴いた。
「……さん」
あの方は何も言わなかった。
ギーゼラはそこで数えるのをやめた。
掛布の上で白い手が外套の裾から抜けた。布の擦れる音が、隙間からはっきり聞こえた。抜けた手は、そのまま掛布の中へ入っていった。
あの方の手だけが、外套の裾を持ったまま少しのあいだ宙に残っていた。
椅子が鳴った。
「……また、来るよ」
ギーゼラは答えなかった。
扉が内から開いた。あの方は私の前を通った。外套の裾を今度は自分の手で握っていた。廊下は肩が触れそうなほど狭いのに、あの方は私を見なかった。私も何も言わなかった。
閂の鳴る音がして、中庭の靴音が遠ざかっていった。
部屋へ戻ると、ギーゼラは窓のほうを向いていた。
「……いっちゃった」
「はい」
私は寝台の脇の椅子に座った。座面にはまだ人の温みが残っていた。ギーゼラの手は掛布の中にある。今日は出してほしいとは言わなかった。
「疲れましたか」
「うん。……でも、きいた」
「聞いていました。廊下で」
「わたしが、きいたの」
「はい。あなたが訊きました」
「エルネスタ。……ちょうめん、かいてる?」
「書いています」
「きょう、だれがきたか。……かいて」
土曜に、私はこの人に言った。今朝誰があなたのところへ来たかを書いている、と。
帳面を開くと、挟んでいた写しが膝へ滑った。今朝の行にはマルタの名がもう三つある。私はその下を一行空けて水曜と書いた。
「何と書きますか」
ギーゼラは少し考えた。
「ゼバスティアンが、きた。……こたえなかった」
私はそのとおりに書いた。ペン先が一度だけ紙に引っかかった。
書き終えるとギーゼラは目を閉じた。瞼の下で目がまだ動いていた。
写しはマルタに頼んで棚の下の引き出しへしまってもらった。帳面の二冊の上に重ねて鍵がかかる。現金の行は、まだ誰も読んでいない。
翌日の木曜、残り三十日。
本館で取り次ぎを頼むと、女中は奥へ伺いに行って戻ってきた。
「今日も昼の鐘まで、とのことでございます。それから、若さまが渡り廊下でお待ちでございます」
渡り廊下の端に、あの方が立っていた。先週の水曜に向きを変えた場所だ。外套は着ていなかった。木曜だった。
「昨日は、すまなかった」
何についての詫びなのかは言わなかった。
「エルネスタ。婚礼を早めよう」
石の手すりの継ぎ目を、指でなぞった。
「君のお父上が臥せっていると、前に聞いただろう。花嫁姿を見せてあげたいんだ。母上も、二十日あれば支度は整うと言っている」
「二十日」
「母君が、そうおっしゃったのですか」
「母上とも話した。僕も、そのほうがいいと思う。それに」
あの方は中庭の向こうの離れを見た。
「君がこの家の者になれば、離れにも好きなときに通える。毎朝取り次ぎを待たなくていい。ギーゼラのことも、君に手伝ってほしいんだ」
毎朝、女中が奥へ伺いに行くあいだ、私は玄関の脇で待っている。あの方はそれを知っていた。
「誕生日には、母上が何か考えているらしい。君も来てくれるだろう」
「ギーゼラは、婚礼に出られますか」
「あの子はまだ起きられないよ。無理をさせたくない」
昨日、ギーゼラは自分の口で訊いた。この人の前で。
今日から二十日。誕生日まで、まだ十日が残る日だ。
ゆうべ家の金庫から婚約契約の写しを出して、末尾の条を読んだ。持参金の使い道の明細は、婚礼が成るまで年ごとに送る。婚礼が成らなければ、一万二千は返す。
婚礼が成れば、どちらも終わる。
明細は私が卓に並べた六枚で止まる。七枚目は来ない。医薬、ハーゲン、月八十。あの行を書いた紙は、二度とこの家の外へ出てこない。一万二千は私の持参金ではなくなって、この家の金になる。
誕生日の審査の席で、私はこの家の嫁として後見人の側に座ることになる。
婚礼を早めれば、私が使い道を訊ける日は二十日で終わる。
「エルネスタ?」
「父に、話します」
あの方の肩が少し下りた。
「婚礼の日取りは、契約に名のある当主が決めることになっています。父に見せる紙をいただけますか。うちでは、口で伺った日取りは帳面につけません」
「紙かい」
「侯爵家から、日付を書いていただいて」
あの方は小さく息を吐いた。
「君らしいな。母上に書いてもらうよ。今日のうちに」
「ありがとうございます」
「よかった。君なら、分かってくれると思っていた」
私は手すりから手を離した。
「はい。よく、分かりました」
あの方は笑った。六年のあいだ水曜の応接で見てきたどの顔より軽い顔だった。
あの方は本館へ戻っていった。背中は一度も振り向かなかった。
離れの戸を開けたマルタが、私の顔を見て片方の眉を上げた。
「渡り廊下で、若さまとお話しでございましたか」
「婚礼を二十日後に、と言われました」
「……二十日」
「日取りは紙でもらいます。父に見せてから決めます」
マルタはそれ以上訊かずに、奥への道を空けた。
ギーゼラは寝台で窓のほうを向いていた。寝台の脇の窓からは、林檎の枝ごしに渡り廊下の端が見える。
「……みてた」
「声は、聞こえましたか」
「ううん。……なにを、はなしてたの」
「婚礼の日取りです。早めようと」
「……はやく、なるの」
「紙が来たら、父に見せます」
ギーゼラは窓から目を離さなかった。
「ゼバスティアン、わらってた」
「はい」
「……エルネスタは、わらってなかった」
私は答えなかった。
渡り廊下の端には、もう誰もいなかった。花の落ちきった林檎の枝が、その手前で揺れていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ギーゼラが外の音を数える癖には、本文に書いていない始まりがあります。十三歳の春、中庭で林檎を描いていた頃、風で枝の影が動くと描けないので、止むまでのあいだ鳥の声や釣瓶の音を数えて待っていた。お母さまに教わった待ち方です。六年たって、待つ相手が風から人に変わりました。
離れの間取りは、この回を書く前に紙に描きました。寝台を置き、窓を開け、扉と戸口のあいだに短い廊下をつけたところで、寝台の脇の窓から渡り廊下の端が見えると分かったんです。第十一話であの方が引き返した場所も、この回の木曜にあの方が立っていた場所も、ギーゼラの枕からは見えています。描いてみるまで、作者も気づいていませんでした。
ゼバスティアンの台詞は、この回、書いては消してを何度も繰り返しました。最後に残ったのが今の分量です。
次回、第十七話は「招待状」です。
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