第17話: 招待状
「ここに、あの子の寝椅子を置くの」
侯爵夫人は広間の奥の窓の前に立っていた。足もとの石の床に、白墨で四角が引いてある。
金曜の朝だった。離れへの取り次ぎを頼むと、女中は私を広間へ通した。
昨日、若さまは渡り廊下で言った。日取りの紙は今日のうちに母上に書いてもらう、と。紙はゆうべ届かなかった。
広間では下男が二人、椅子の覆い布を外していた。出てきた椅子の背に、私は指をかけた。彫りの溝に、薄く埃が溜まっていた。
「窓の光がちょうどあの子の顔に当たるのよ。もう夕方まで明るいでしょう。蝋燭を灯す前に、皆さまにお顔を見ていただけるわ」
「夜会を、なさるのですか」
「あの子の二十歳のお祝いです」
夫人は手袋の指先で白墨の四角の角を指した。指の腹に、白い粉がついていた。
「二十九日あれば、支度は整います。招きは、三十のお家にお出ししました」
二十九日。私が毎朝帳面の端に書いている数と同じだった。
「六年あの子を気にかけてくださった方々よ。毎年お見舞いのお手紙をくださったの。一度はお顔を見ていただかないと」
「寝椅子のまま、広間へ」
「運ばせます。少しのあいだだけよ。あの子は疲れやすいから」
「離れから、広間まで」
「遠いでしょう。別棟の東の間に、明日から風を通させるの。夜会が近づいたら、あの子はそちらへ。広間まで廊下ひとつですもの」
夫人は四角の中から一歩下がった。衣擦れの音はしない。床の上の空気だけが少し動いた。
「起きていなくていいの。大事にされているあの子を、見ていただければそれで」
「それから、これを」
夫人が手を上げた。女中が盆を捧げて寄ってくる。盆には畳んだ紙が一枚と、封をした手紙が一通載っていた。
「ゼバスティアンが昨日は先走ったことを申したそうね。二十日だなんて」
母上とも話した、とあの方は言った。私は口に出さなかった。畳んだ紙を開く。夫人の字で婚礼の日取りが書いてある。侯爵家の印もあった。
日付は、ギーゼラの誕生日の翌日だった。
若さまが渡り廊下で言った日より、十一日遅い。
「二十日では、お祝いと婚礼の支度が重なるでしょう。ゼバスティアンはそういうことを数えない子なの」
「婚礼は、お祝いの翌日に」
「皆さまには夜会の晩に日取りをお伝えします。遠くからお見えの方に、二度も足を運ばせては気の毒ですもの。お祝いの翌朝に、そのまま式を」
一度の招きで用を二つ済ませる。商会なら、手堅いと言われる段取りだ。
「それに、皆さまにもご安心いただきたいの。あの子は二十歳を過ぎても、このまま当家でお預かりしますって」
誕生日に、この人は後見を続ける申立を後見院へ出す。その支度の話は、家令からマルタに来ていた。
三十の家の人たちは、窓の光の中で眠る娘を見て帰る。翌日には、それぞれの家でその話をする。
そして翌朝、私はこの家の嫁になる。持参金の使い道を知らせる明細は、六年分で終わる。父が預けた一万二千リーヴルも、この家のものになる。返す約束ごと。
「お父さまにはその紙をお見せになって。日取りは当主がお決めになるのでしょう」
「はい。父に見せます」
「ご返事は急がなくて結構よ。夜会の晩に皆さまの前で申し上げますから」
夫人は微笑んでいた。父の返事を待つつもりの人の顔ではなかった。
封のある手紙は招待状だった。宛名はヴァイル伯ヨアヒム殿ならびにご令嬢。私の名は書いてなかった。
「あの晩は、あの子によく眠っていてもらわないとね」
夫人は白墨の四角を見下ろしていた。
「皆さまの前で泣き出したら、かわいそうでしょう」
泣かなくて済むわ。六年前の夜に、この人はそう言った。先週の土曜、ギーゼラの口から聞いた。
私は白墨の四角を見た。寝椅子の脚が四つちょうど収まる大きさだった。
「エルネスタさん。あなたにはあの子の隣に立っていただきたいの。嫁になる人として」
「はい」
私は四角の脇まで歩いた。窓に近いほうの角に、靴の先を揃える。光が顔に当たるのなら、枕はこちらに来る。
「ここに立ちます。あの子が目を開けたら、最初に見えるところに」
夫人の目が、私の靴の先へ下りた。
「……ええ。起きることは、ないでしょうけれど」
礼をした頭は、今日は一拍早く上がらなかった。
離れの戸を開けたマルタに、戸口で広間の話をした。
夜会と寝椅子と三十の家。婚礼は誕生日の翌日。別棟の東の間。最後に、夫人の言葉を聞いたとおりに伝えた。よく眠っていてもらわないと。
マルタは閂に手を置いたまま聞いていた。
「……別棟には、鍵のかかる薬の棚がございません」
マルタは閂から目を上げなかった。
「その晩のお匙は、どなたが運ぶのでございましょうね」
「その晩も、帳面をつけます。運んだ人の名を」
「奥さまのお名前でも」
「誰の名でも、書きます」
マルタは閂から手を離した。奥への道を空けながら、前掛けの紐を固く結び直した。
ギーゼラは寝台で、枕に背を預けていた。私が椅子に座るのを待ってから、口を開いた。
「……おもて、うるさかった。いすを、はこぶおと」
「広間の支度です。あなたの二十歳のお祝いをするそうです」
「わたしの、たんじょうび」
「はい。三十のお家から、お客さまが来ます」
「わたし、いくの」
「寝椅子で運ぶと、侯爵夫人はおっしゃいました」
ギーゼラは掛布の上の、自分の膝のあたりを見ていた。
「……ねたまま?」
「まだ、決まっていません」
ギーゼラの目が、膝から私の顔へ上がってきた。
「エルネスタも、いる?」
「います」
「……となりに、いて」
「はい。隣にいます」
ギーゼラは小さく頷いた。掛布の下の指が、私の袖口をつまんでいる。離さなかった。本館のほうで、誰かが広間の窓を拭く音がしていた。
後見院の相談卓で、監督官どのが顔を上げた。羽ペンは持ったままだった。
「今日は、相談ではなくお願いに来ました」
「……伺います」
「審査官に、夜会へ来ていただきたいのです」
ペン先が紙の上で止まった。
「夜会に」
「ギーゼラの二十歳の夜会です。侯爵夫人が三十のお家に招きを出しました」
招待状は鞄から出さなかった。出さなくても話せた。
「侯爵夫人は、眠っているギーゼラを三十の家に見せます。私は一人だけ呼びたいのです。起きているギーゼラを、見ていただく方を」
監督官どのは布を取って、乾いたペン先を拭いた。インクはもう付いていなかった。
「審査官は、夜会には行きません」
「存じています」
「審査の日と場所は審査官が決めます。誕生日に申立を受けるなら、予約で決められる。……ただ、夜会の席を指した予約は見たことがありません」
「では、初めてご覧になってください」
監督官どのは羽ペンを置き、相談卓の上で両手を組んだ。
「予約書には、候補者の名が要ります」
「父の名は、まだ入っていません」
「お父上は」
「熱が、火曜から下がりません」
彼は少し黙った。それから椅子を引いて立ち上がった。
「上に話してきます」
「今からですか」
「ヘルトリング審査官は、夕の鐘の前にお帰りになるので」
「お願いします」
「……まだ、何もお約束できませんよ」
「存じています」
彼はそれ以上言わなかった。書きかけの紙を伏せて、奥の階段を上っていった。
廊下の長椅子で待った。
座面の板は真ん中だけ色が変わっていた。手を置くと、そこだけ滑らかだった。待った人たちの腰が磨いたのだろう。
六年、私は応接で待った。待つのは慣れている。
窓の格子の影が床の石を一枚ぶん渡った。
階段を下りてくる靴音は、上るときより遅かった。監督官どのは手に紙を一枚持っていた。
「来てくださるそうです」
私は長椅子から立った。
「条件が二つあります。予約書は誕生日の前の日の、夕の鐘までに。候補者の名の入ったもので」
「前の日の、夕の鐘」
「それから、審査官の言葉のままに申します。申立が出なければ、院の馬車で来て院の馬車で帰る」
「申立は出ます」
「でしょうね」
監督官どのは紙の端を揃えた。インクの染みた指だった。
「どうやって、話してくださったのですか」
「本人に会わずに受理の印を二年押した者です。そう申しました」
私は彼の顔を見た。
「受理印があれば、院が本人を確かめた扱いです。私は一度も確かめていない。三度目の印を押す前に、ご本人の顔を見ていただきたいと。審査官は私の落ち度として書き留めました」
「それは」
「落ち度です。本当のことですので」
彼は紙を私のほうへ向けた。予約の申し出の控えだった。取次の欄にレナルト・ブランデスと書いてある。
「外れたら、書式を整えなかった監督官の不始末になります」
「外れたら、監督官どのは」
「子爵家の次男には、かばってくれる兄も上もおりませんので。……失礼。余計でした」
私は鞄の中の借りの帳面に手をかけた。ただで受けたものを、日付と相手の名で書いておく薄い帳面だ。火曜に、彼の名を一行書いた。
「書かないでください」
「ただで受けたものは、書きます」
「これは、貸し借りではありません」
監督官どのは控えの端を揃えた。指で一度だけ折り目をつける。
「本人が申立を覆せたのは、ここ十年で二件です。私は、三件目の書式に印を押したい」
折った控えを、彼は制服の胸の内側にしまった。
私は帳面から手を離して鞄を閉じた。
「では、三件目の書式を前の日の夕の鐘までにお持ちします」
「急がなくても——」
彼はそこで言葉を切った。
「……いえ。急いでください」
家に戻ると、クラウスが帳場の灯を足していた。
「旦那様のお熱は、今日もお下がりになりませんでした」
「先生は」
「今夜もお泊まりです。旦那様はお嬢様のお帰りを二度お訊きになりました。侯爵家から紙は来たか、と。ゆうべ、紙のことをお聞きになりましたから」
「起こさないでください。明日の朝、紙を持って伺います」
夫人の紙と招待状を、金庫の婚約契約の写しの隣に入れた。
誕生日の前の日の夕の鐘まで、二十八日。
熱の下がった朝は、火曜から一度も来ていない。
侯爵家の広間の床には、今夜もあの白墨の四角がある。
別棟の東の間には、明日の朝から風が通される。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
白墨の四角は、侯爵夫人が自分で引いたものだということにしています。下男に任せず、寝椅子の脚の幅を自分の手で測って、自分で床にしゃがんで引いた。誰かに決めさせるのが何より嫌いな人です。あの四角の大きさも窓からの距離も、全部あの人の手で決まっています。エルネスタが見たのは、手袋の指の腹の粉だけです。
この回、審査官ヘルトリングは一度も画面に出てきません。階段の上でレナルトと何を話したのか、エルネスタには分かりません。手がかりは、レナルトが持って下りてきた紙と、彼が選んで口にした言葉だけです。一人称の窮屈さです。でも書いていて、そのほうがレナルトという人がよく見えると思いました。自分の落ち度を、自分から上に差し出せる人です。
ギーゼラの「ねたまま?」に、エルネスタは答えません。この問いの答えは、もう少し先で、ギーゼラ自身に出してもらうつもりです。
次の第十八話は「父の署名」。夕の鐘までの期限と、下がらない熱の話になります。ブックマークをしておいていただけると、ヴァイル家の寝室の前へすぐ戻ってこられます。




