第18話: 父の署名
「その鞄の紙を、出しなさい」
父は、私が椅子に座るより先にそう言った。
枕を二つ重ねて背を起こしている。頬の色は、この何か月かで見たうちでいちばんましだった。
「お父さま」
「毎朝そこの扉の前まで来ては、先生に熱を訊いて帰っていったな」
「クラウスが、申しましたか」
「クラウスは何も言わん。廊下の板が鳴る」
父は扉のほうへ顎を向けた。
「お前の足は、帳場にいた頃から右が重い。あの土曜から数えて、今日で二十七日だ」
あの土曜、私は侯爵家の紙を二枚持ってこの部屋に入った。婚礼の日取りの紙と、夜会の招待状だ。父は二枚とも読んで、置いていけとだけ言った。
その晩、熱が上がった。ベルトラム先生は昼は侯爵家の離れへ通い、夜はこの家に泊まった。
熱の下がった朝に頼む。私はそう決めていた。その朝は、なかなか来なかった。
父の熱が引いたのは、一昨日だった。
昨日は匙を持つ父の手が震えて、粥が掛布にこぼれた。承諾書は、新しい後見人が自分の手で書く。読めない署名は、受け付けてもらえない。私は鞄を開けずに扉を閉めた。
今日は、ギーゼラの誕生日の前の日だ。残り一日。審査官に夜会へ来てもらう予約書を、今日の夕の鐘までに後見院へ届けなければならない。
「明日が、あの家の祝いだろう」
父は掛布の上の招待状を、指の背で叩いた。あの土曜から、枕元に置いてあったらしい。宛名は父の名だった。
「祝いの前に要る紙なら、今日しかない。出しなさい」
私は鞄の底から承諾書を出した。毎朝持ち歩いた紙は、四隅が丸くなっていた。
「ハルデンの娘の後見を、お父さまが引き受けるという紙です。引き受ける人が、自分の手で書きます。代筆はできません」
父は紙を目から遠ざけて読んだ。
「ハルデンの娘は、起きたのか」
「はい。自分の名を、自分で書けるようになりました」
「……そうか」
父の目が、紙の空いた欄に残った。
「侯爵家と、揉めるのだな」
「はい」
「幾らかかる」
「分かりません。戻ってくるかもしれないのは、一万二千です」
一万二千リーヴル。祖父の代からの金で、父が私につけた持参金だ。
「戻らんかもしれん、とは言わんのか」
「戻らないかもしれません」
父は鼻で短く笑った。
ベルトラム先生が書き物の板を寝台へ渡した。インク壺の蓋を開けながら、先生はぼそりと言った。
「ゆっくりでいいんじゃ。……欄は狭いぞ」
父はペンを握った。掛布の上で、左の手が右の手首を押さえていた。最初の一字で、ペン先が紙に引っかかった。二字目からは、ペンが紙の上を走った。ヨアヒム・ヴァイル。名の終わりが、欄を越えて隣の行へはみ出した。
「はみ出したな」
「欄を越えても構わないそうです。読めることのほうが大切だと、後見院の監督官どのが」
「ふん」
父はペンを置かなかった。
「もう一枚あるだろう」
私は鞄に手を入れたまま黙った。
「日取りの紙を読んだ。婚礼は祝いの翌朝だ。日取りを決めるのは当主だが、わしはまだ何も決めておらん」
父は私の鞄を見ていた。
「決める前に、お前は何か言うつもりだ。当主の代わりに」
二枚目は、ゆうべ帳場で私が書いた委任状だった。商会で番頭に取引を任せるときの型を借りた。任せる事柄の欄には、こう書いてある。婚約契約に関する一切。
続けるか解くかも含めて、婚約のことは父の代わりに私が決めてよい。そういう意味の言葉だ。婚約を解くと言えるのは当主か、当主に任された者だけだと、監督官どのに教わった。
「一切、か」
「はい」
「商会の委任状なら、番頭にも書かせん言葉だ」
「番頭ではありませんので」
先生が咳払いをした。笑いを咳でごまかす音だった。
父は二枚目に名を書いた。今度は欄に収まった。インクが乾くのを待たずに、父は紙をこちらへ差し出した。
「あの縁組だけは、値切らなかったと言ったな」
明細を並べた晩に、聞いた言葉だった。私は、すぐには手を出せなかった。
「商人の娘は、払った金の使い道を訊く。それだけだ」
私は委任状を受け取った。インクがまだ光っていた。
「はい」
それ以上、父は何も言わなかった。言わなくても、紙に書いてあった。
扉が二度叩かれた。
「お嬢様。侯爵家の離れから、使いでございます。台所の子が、これを」
クラウスが差し出したのは、帳面の紙を一枚ちぎって畳んだものだった。マルタの字だ。
今朝、奥さまの仰せで、お嬢さまを別棟の東の間へお移しいたしました。奥さまが、ご自分で瓶をお持ちです。
短い。字の終わりが、どれも右へ流れていた。
「行け」
父が言った。紙は読んでいないはずだった。私の顔を読んだのだと思う。
先生が鞄を持ち上げかけて、父を見て、下ろした。
「お嬢さん。訊くなら、医者の名じゃ。それと日付じゃ」
「日付」
「処方なら、書いた日と書いた医者の名がある。それが言えんなら、出どころの分からん薬じゃ」
院で受け取ってあった予約書の、候補者の欄に、私は父の名を書き写した。代筆が許されないのは、承諾書だけだ。三枚を鞄に戻し、出がけに帳場の棚から商会の布見本を一束抜いた。
石段を下りると、門の外に監督官どのが立っていた。
院の制服の上に、色の褪せた外套を着ている。靴が、坂の土で白くなっていた。
「……監督官どの」
「ヴァイル家のお住まいは、院の控えにございます。夕の鐘まで、と申したのは私ですので。届ける方が、途中で別の用に呼ばれることもあるかと」
「呼ばれました。今」
私は予約書を差し出した。
「お願いします。私は侯爵家へ行きます。侯爵夫人が、ギーゼラを別棟へ移しました」
監督官どのは外套の内側に手を入れかけて、すぐには受け取らなかった。
「監督官には、その部屋へ入る書式がありません」
「はい。ですから、私が行きます」
彼は予約書を受け取り、候補者の欄を読んだ。
「承諾書は、審査の席まであなたのお手元に。予約書は私が院へ持ち帰ります。窓口は夕の鐘の前に閉まりますが、間に合います。受付の印が押されれば、予約は決まります」
受付の印。院が確かに受け付けたという印だ。報告に押す受理印とは違う。
「ハルデン嬢に、伝えていただけますか。明日、審査官が院の馬車で参りますと」
「伝えます」
監督官どのは一礼して、坂を下りていった。
侯爵邸の玄関で、女中は困った顔をした。
「お嬢さまは今朝、別棟へお移りになりました。今日のお見舞いは、ご遠慮くださいと」
「見舞いではありません。衣装合わせです」
私は布見本の束を見せた。
「明日、あの方の隣に立つようにと、侯爵夫人に言われました。隣に立つ者の衣装は、寝椅子の掛布と色を揃えないと並んだときに見苦しいでしょう」
「……奥さまは、別棟に」
「では、別棟で伺います」
女中は少し迷ってから、先に立った。
広間の前を通った。奥の窓の前の床に、白墨の四角がまだ残っていた。中は空だった。
廊下を一つ渡ると、別棟だった。新しい窓掛けの、糊と埃の匂いがした。
東の間の扉の向こうから、マルタの声がした。
「……そちらの匙では、量が分かりません」
女中が扉を叩いた。返事を待たずに、私は名を告げて入った。
寝台に、ギーゼラが寝ていた。目を閉じている。
寝台と侯爵夫人のあいだに、マルタが立っていた。自分の帳面を開いたまま、胸の前で持っている。
夫人の手に、栓を抜いた小瓶と銀の匙があった。匙は、まだ乾いていた。
「いつもの匙は、離れの棚に置いてまいりました。大きさの違う匙でお飲ませしましたら、帳面に書く量が分かりません」
「書かなくていいのよ」
「書かない日は作らないと、決めております」
「マルタ。お退きなさい」
「お暇は、婚礼が済んでからと伺っております」
マルタは動かなかった。帳面を持つ指の節が、白くなっていた。
夫人がこちらを向いた。
「エルネスタさん。お見舞いは、お断りしたはずよ」
「衣装合わせに参りました」
私は布見本を掲げた。
「あとで広間で見せていただくわ。今は、あの子のお薬の時間なの」
瓶の栓の封に、店の印があった。商人街の裏通りの、ハーゲンの店の印だ。
「家令が申すのよ。月曜ごとに数えた瓶の減り方が、遅いって」
夫人は寝台のほうを見た。
「知らないお顔が三十も並んだところで、あの子が目を覚ましたら怖がるわ。だから今日から、わたくしが自分で」
銀の匙が、瓶の口へ傾いた。
「飲ませる前に」
匙が止まった。
「ハーゲンの店の瓶なら、一本八リーヴル。私の持参金から払われる瓶です。今の量を処方なさったお医者さまのお名前と、その日付を伺えますか」
「……まあ」
夫人の唇が、何かの名の一音目の形になった。そのまま、閉じた。
春の面談で、この人はすぐに医師の名を言った。フーゲル先生、と。わたくしがお願いした先生よ、と。
今日は、その名が出てこなかった。名を言えば、その先生に日付を訊きに行ける。
「帳面に書きます。匙に取った方のお名前と並べて」
私は自分の帳面を開いた。夫人の目が、私の帳面とマルタの帳面を順に見た。
夫人は匙を瓶の口から離した。一滴も注がずに栓を戻す。栓を押し込む指は、ゆっくりだった。
「あなたのためにも、あの子には明日よく眠っていてほしいのよ」
瓶は、夫人の手の中にあった。
「明日、支度の前にまたまいります。お医者さまのお話は、そのときに」
夫人は扉へ向かった。女中が慌てて道を空ける。扉が、外から閉められた。
「……行った?」
ギーゼラが目を開けた。
「お行きになりました」
マルタが答えた。言い終えてから、寝台の柱に片手をついた。
「よかった」
ギーゼラは天井を見たまま言った。
「目を閉じているのは、慣れてるの。六年、閉じたままだったから」
私は笑えなかった。マルタも笑わなかった。言ったギーゼラだけが、口の端を少し上げていた。
私は帳面に今日の行を書いた。昼過ぎ。別棟の東の間。棚はない。匙に取った人、なし。瓶を持ってきた人、侯爵夫人。
飲んだ人の欄には、こう書いた。誰も飲まなかった。
「エルネスタ。それ、なに」
ギーゼラが、寝台の上の布見本を見ていた。
「衣装合わせです。そういうことにして入りました」
「……ほんとうに、合わせるの?」
「合わせても構いません。一枚、選んでください」
ギーゼラは束から一枚だけ抜いた。白に近い一枚だった。中庭の林檎の花の色だった。
「監督官どのから、伝言です。明日、審査官が院の馬車で参ります」
「明日」
ギーゼラは白い布を、自分の膝の上へ引き寄せた。
「明日のことは明日、私が決めるわ」
声は細い。けれどひと月前のように、一語ずつ切れてはいなかった。先生の減量が三週で終わってから、言葉は日ごとにつながっていった。
遠くで、夕の鐘が鳴りはじめた。
予約書は、昼のうちに監督官どのの手に渡っている。私は鐘が鳴り終わるまで、窓のほうへ顔を向けなかった。
鐘の余韻が消えた頃、廊下ひとつ向こうの広間で、重いものの脚が石の床に置かれる音がした。一つずつ、四つ。
白墨の四角に、寝椅子が収まったのだと分かった。
夜会は、明日だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ヨアヒムが娘の足音を聞き分けていたのは、本文に書いていない理由があります。ヴァイル家の帳場は床板が古く、子どもの頃のエルネスタは、算盤を抱えて走ってくるたびに同じ板を鳴らしていました。父はその音で、娘が帳場に来たことを帳面から顔を上げずに知っていた。十五年たって、廊下の板が同じことをしてくれました。
委任状の「一切」という言葉は、この回でいちばん迷ったところです。商人のヨアヒムなら、まず嫌がる言葉です。任せる範囲を書かない紙は、商売では危ない紙だからです。それでも署名させたかった。書いているうちに、署名の理由はあの一行で足りると思いました。
ギーゼラの「目を閉じているのは、慣れてるの」は、書いた本人もしばらく筆が進みませんでした。笑ってほしいのか、そうでないのか。たぶん、ギーゼラ自身にも分かっていません。
次回、第十九話は「有責」です。夜会の晩になります。
ブックマークをしておいていただけると、明日の広間へすぐ入ってこられます。




