↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/21

第18話: 父の署名

「その鞄の紙を、出しなさい」


 父は、私が椅子に座るより先にそう言った。


 枕を二つ重ねて背を起こしている。頬の色は、この何か月かで見たうちでいちばんましだった。


「お父さま」


「毎朝そこの扉の前まで来ては、先生に熱を訊いて帰っていったな」


「クラウスが、申しましたか」


「クラウスは何も言わん。廊下の板が鳴る」


 父は扉のほうへ顎を向けた。


「お前の足は、帳場にいた頃から右が重い。あの土曜から数えて、今日で二十七日だ」




 あの土曜、私は侯爵家の紙を二枚持ってこの部屋に入った。婚礼の日取りの紙と、夜会の招待状だ。父は二枚とも読んで、置いていけとだけ言った。


 その晩、熱が上がった。ベルトラム先生は昼は侯爵家の離れへ通い、夜はこの家に泊まった。


 熱の下がった朝に頼む。私はそう決めていた。その朝は、なかなか来なかった。


 父の熱が引いたのは、一昨日だった。


 昨日は匙を持つ父の手が震えて、粥が掛布にこぼれた。承諾書は、新しい後見人が自分の手で書く。読めない署名は、受け付けてもらえない。私は鞄を開けずに扉を閉めた。


 今日は、ギーゼラの誕生日の前の日だ。残り一日。審査官に夜会へ来てもらう予約書を、今日の夕の鐘までに後見院へ届けなければならない。




「明日が、あの家の祝いだろう」


 父は掛布の上の招待状を、指の背で叩いた。あの土曜から、枕元に置いてあったらしい。宛名は父の名だった。


「祝いの前に要る紙なら、今日しかない。出しなさい」


 私は鞄の底から承諾書を出した。毎朝持ち歩いた紙は、四隅が丸くなっていた。


「ハルデンの娘の後見を、お父さまが引き受けるという紙です。引き受ける人が、自分の手で書きます。代筆はできません」


 父は紙を目から遠ざけて読んだ。


「ハルデンの娘は、起きたのか」


「はい。自分の名を、自分で書けるようになりました」


「……そうか」


 父の目が、紙の空いた欄に残った。


「侯爵家と、揉めるのだな」


「はい」


「幾らかかる」


「分かりません。戻ってくるかもしれないのは、一万二千です」


 一万二千リーヴル。祖父の代からの金で、父が私につけた持参金だ。


「戻らんかもしれん、とは言わんのか」


「戻らないかもしれません」


 父は鼻で短く笑った。


 ベルトラム先生が書き物の板を寝台へ渡した。インク壺の蓋を開けながら、先生はぼそりと言った。


「ゆっくりでいいんじゃ。……欄は狭いぞ」


 父はペンを握った。掛布の上で、左の手が右の手首を押さえていた。最初の一字で、ペン先が紙に引っかかった。二字目からは、ペンが紙の上を走った。ヨアヒム・ヴァイル。名の終わりが、欄を越えて隣の行へはみ出した。


「はみ出したな」


「欄を越えても構わないそうです。読めることのほうが大切だと、後見院の監督官どのが」


「ふん」


 父はペンを置かなかった。


「もう一枚あるだろう」


 私は鞄に手を入れたまま黙った。


「日取りの紙を読んだ。婚礼は祝いの翌朝だ。日取りを決めるのは当主だが、わしはまだ何も決めておらん」


 父は私の鞄を見ていた。


「決める前に、お前は何か言うつもりだ。当主の代わりに」


 二枚目は、ゆうべ帳場で私が書いた委任状だった。商会で番頭に取引を任せるときの型を借りた。任せる事柄の欄には、こう書いてある。婚約契約に関する一切。


 続けるか解くかも含めて、婚約のことは父の代わりに私が決めてよい。そういう意味の言葉だ。婚約を解くと言えるのは当主か、当主に任された者だけだと、監督官どのに教わった。


「一切、か」


「はい」


「商会の委任状なら、番頭にも書かせん言葉だ」


「番頭ではありませんので」


 先生が咳払いをした。笑いを咳でごまかす音だった。


 父は二枚目に名を書いた。今度は欄に収まった。インクが乾くのを待たずに、父は紙をこちらへ差し出した。


「あの縁組だけは、値切らなかったと言ったな」


 明細を並べた晩に、聞いた言葉だった。私は、すぐには手を出せなかった。


「商人の娘は、払った金の使い道を訊く。それだけだ」


 私は委任状を受け取った。インクがまだ光っていた。


「はい」


 それ以上、父は何も言わなかった。言わなくても、紙に書いてあった。




 扉が二度叩かれた。


「お嬢様。侯爵家の離れから、使いでございます。台所の子が、これを」


 クラウスが差し出したのは、帳面の紙を一枚ちぎって畳んだものだった。マルタの字だ。


 今朝、奥さまの仰せで、お嬢さまを別棟の東の間へお移しいたしました。奥さまが、ご自分で瓶をお持ちです。


 短い。字の終わりが、どれも右へ流れていた。


「行け」


 父が言った。紙は読んでいないはずだった。私の顔を読んだのだと思う。


 先生が鞄を持ち上げかけて、父を見て、下ろした。


「お嬢さん。訊くなら、医者の名じゃ。それと日付じゃ」


「日付」


「処方なら、書いた日と書いた医者の名がある。それが言えんなら、出どころの分からん薬じゃ」


 院で受け取ってあった予約書の、候補者の欄に、私は父の名を書き写した。代筆が許されないのは、承諾書だけだ。三枚を鞄に戻し、出がけに帳場の棚から商会の布見本を一束抜いた。




 石段を下りると、門の外に監督官どのが立っていた。


 院の制服の上に、色の褪せた外套を着ている。靴が、坂の土で白くなっていた。


「……監督官どの」


「ヴァイル家のお住まいは、院の控えにございます。夕の鐘まで、と申したのは私ですので。届ける方が、途中で別の用に呼ばれることもあるかと」


「呼ばれました。今」


 私は予約書を差し出した。


「お願いします。私は侯爵家へ行きます。侯爵夫人が、ギーゼラを別棟へ移しました」


 監督官どのは外套の内側に手を入れかけて、すぐには受け取らなかった。


「監督官には、その部屋へ入る書式がありません」


「はい。ですから、私が行きます」


 彼は予約書を受け取り、候補者の欄を読んだ。


「承諾書は、審査の席まであなたのお手元に。予約書は私が院へ持ち帰ります。窓口は夕の鐘の前に閉まりますが、間に合います。受付の印が押されれば、予約は決まります」


 受付の印。院が確かに受け付けたという印だ。報告に押す受理印とは違う。


「ハルデン嬢に、伝えていただけますか。明日、審査官が院の馬車で参りますと」


「伝えます」


 監督官どのは一礼して、坂を下りていった。




 侯爵邸の玄関で、女中は困った顔をした。


「お嬢さまは今朝、別棟へお移りになりました。今日のお見舞いは、ご遠慮くださいと」


「見舞いではありません。衣装合わせです」


 私は布見本の束を見せた。


「明日、あの方の隣に立つようにと、侯爵夫人に言われました。隣に立つ者の衣装は、寝椅子の掛布と色を揃えないと並んだときに見苦しいでしょう」


「……奥さまは、別棟に」


「では、別棟で伺います」


 女中は少し迷ってから、先に立った。


 広間の前を通った。奥の窓の前の床に、白墨の四角がまだ残っていた。中は空だった。


 廊下を一つ渡ると、別棟だった。新しい窓掛けの、糊と埃の匂いがした。


 東の間の扉の向こうから、マルタの声がした。


「……そちらの匙では、量が分かりません」


 女中が扉を叩いた。返事を待たずに、私は名を告げて入った。




 寝台に、ギーゼラが寝ていた。目を閉じている。


 寝台と侯爵夫人のあいだに、マルタが立っていた。自分の帳面を開いたまま、胸の前で持っている。


 夫人の手に、栓を抜いた小瓶と銀の匙があった。匙は、まだ乾いていた。


「いつもの匙は、離れの棚に置いてまいりました。大きさの違う匙でお飲ませしましたら、帳面に書く量が分かりません」


「書かなくていいのよ」


「書かない日は作らないと、決めております」


「マルタ。お退きなさい」


「お暇は、婚礼が済んでからと伺っております」


 マルタは動かなかった。帳面を持つ指の節が、白くなっていた。


 夫人がこちらを向いた。


「エルネスタさん。お見舞いは、お断りしたはずよ」


「衣装合わせに参りました」


 私は布見本を掲げた。


「あとで広間で見せていただくわ。今は、あの子のお薬の時間なの」


 瓶の栓の封に、店の印があった。商人街の裏通りの、ハーゲンの店の印だ。


「家令が申すのよ。月曜ごとに数えた瓶の減り方が、遅いって」


 夫人は寝台のほうを見た。


「知らないお顔が三十も並んだところで、あの子が目を覚ましたら怖がるわ。だから今日から、わたくしが自分で」


 銀の匙が、瓶の口へ傾いた。


「飲ませる前に」


 匙が止まった。


「ハーゲンの店の瓶なら、一本八リーヴル。私の持参金から払われる瓶です。今の量を処方なさったお医者さまのお名前と、その日付を伺えますか」


「……まあ」


 夫人の唇が、何かの名の一音目の形になった。そのまま、閉じた。


 春の面談で、この人はすぐに医師の名を言った。フーゲル先生、と。わたくしがお願いした先生よ、と。


 今日は、その名が出てこなかった。名を言えば、その先生に日付を訊きに行ける。


「帳面に書きます。匙に取った方のお名前と並べて」


 私は自分の帳面を開いた。夫人の目が、私の帳面とマルタの帳面を順に見た。


 夫人は匙を瓶の口から離した。一滴も注がずに栓を戻す。栓を押し込む指は、ゆっくりだった。


「あなたのためにも、あの子には明日よく眠っていてほしいのよ」


 瓶は、夫人の手の中にあった。


「明日、支度の前にまたまいります。お医者さまのお話は、そのときに」


 夫人は扉へ向かった。女中が慌てて道を空ける。扉が、外から閉められた。




「……行った?」


 ギーゼラが目を開けた。


「お行きになりました」


 マルタが答えた。言い終えてから、寝台の柱に片手をついた。


「よかった」


 ギーゼラは天井を見たまま言った。


「目を閉じているのは、慣れてるの。六年、閉じたままだったから」


 私は笑えなかった。マルタも笑わなかった。言ったギーゼラだけが、口の端を少し上げていた。


 私は帳面に今日の行を書いた。昼過ぎ。別棟の東の間。棚はない。匙に取った人、なし。瓶を持ってきた人、侯爵夫人。


 飲んだ人の欄には、こう書いた。誰も飲まなかった。


「エルネスタ。それ、なに」


 ギーゼラが、寝台の上の布見本を見ていた。


「衣装合わせです。そういうことにして入りました」


「……ほんとうに、合わせるの?」


「合わせても構いません。一枚、選んでください」


 ギーゼラは束から一枚だけ抜いた。白に近い一枚だった。中庭の林檎の花の色だった。


「監督官どのから、伝言です。明日、審査官が院の馬車で参ります」


「明日」


 ギーゼラは白い布を、自分の膝の上へ引き寄せた。


「明日のことは明日、私が決めるわ」


 声は細い。けれどひと月前のように、一語ずつ切れてはいなかった。先生の減量が三週で終わってから、言葉は日ごとにつながっていった。


 遠くで、夕の鐘が鳴りはじめた。


 予約書は、昼のうちに監督官どのの手に渡っている。私は鐘が鳴り終わるまで、窓のほうへ顔を向けなかった。


 鐘の余韻が消えた頃、廊下ひとつ向こうの広間で、重いものの脚が石の床に置かれる音がした。一つずつ、四つ。


 白墨の四角に、寝椅子が収まったのだと分かった。


 夜会は、明日だ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ヨアヒムが娘の足音を聞き分けていたのは、本文に書いていない理由があります。ヴァイル家の帳場は床板が古く、子どもの頃のエルネスタは、算盤を抱えて走ってくるたびに同じ板を鳴らしていました。父はその音で、娘が帳場に来たことを帳面から顔を上げずに知っていた。十五年たって、廊下の板が同じことをしてくれました。


委任状の「一切」という言葉は、この回でいちばん迷ったところです。商人のヨアヒムなら、まず嫌がる言葉です。任せる範囲を書かない紙は、商売では危ない紙だからです。それでも署名させたかった。書いているうちに、署名の理由はあの一行で足りると思いました。


ギーゼラの「目を閉じているのは、慣れてるの」は、書いた本人もしばらく筆が進みませんでした。笑ってほしいのか、そうでないのか。たぶん、ギーゼラ自身にも分かっていません。


次回、第十九話は「有責」です。夜会の晩になります。


ブックマークをしておいていただけると、明日の広間へすぐ入ってこられます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。