第19話: 有責
招待状の紙は、薄かった。
端をつまんで持つだけで、紙は自分の重さで撓んだ。玄関の窓の光にかざすと、宛名の墨が裏から透けた。押された侯爵家の印だけが、紙の裏まで硬く盛り上がっていた。
今朝、父の枕元から持ってきた一枚だ。ヴァイル伯ヨアヒム殿ならびにご令嬢。父の名の下に、私の名はない。
玄関の取次に渡すと、手の中はすぐに空になった。昼前のことだ。夜会の客より半日早く、私はこの家に入った。
今日はギーゼラの二十歳の誕生日だ。残り零日。もう数える日はない。
今朝、後見院の使いが予約書の控えを届けてきた。受付の印の日付は昨日。夕の鐘の前だった。
家を出る前に、鞄の中の紙を一枚ずつ指で確かめた。父の承諾書と委任状。六年分の明細。ハーゲンの店の請求書の写し。
最後の一枚は診断書だ。ゆうべ父の寝室を出たあとで、ベルトラム先生に頼んだ。四十日診た見立てと、請求書の瓶の数から出せる量だけを書いてほしい、と。先生は父の寝室の隣で書いた。帳場でいちばん厚い紙を使ってくれた。ギーゼラが自分の名を書いたのと同じ紙だった。
昼に侯爵夫人は別棟の東の間へ来た。瓶は持っていなかった。医師の話もしなかった。寝椅子に掛ける布を確かめて、夕方にはその掛布を広間へ運ばせるとだけ言った。
夫人が出ていくと、マルタが扉に耳を当ててから言った。
「お医者さまのお名前は、今日もお出しになりませんでした」
「訊かれる前に、帰られましたね」
「はい。奥さまは訊かれるのがお嫌いでございますので」
マルタの顔は、それ以上のことを言っていた。
帳面の今日の行には、こう書いた。昼。別棟の東の間。侯爵夫人、瓶を持たずに来る。
別棟を出るとき、寝台のギーゼラに呼ばれた。
「今日、私の誕生日なのよね」
「はい。おめでとうございます、ギーゼラ」
「……誰も言ってくれないと思ってた」
ギーゼラは白い布を膝の上で撫でた。昨日、自分で選んだ一枚だ。
「隣にいて、って言ったの。覚えてる?」
「覚えています」
「なら、広間で寝椅子の隣に立っていて」
私は「はい」とだけ答えた。
広間は、まだ明るかった。
初夏の日は長い。燭台の蝋燭は一本も灯されていなかった。奥の窓から入る光が、白墨の四角に落ちている。
四角の中に寝椅子があった。白い掛布が、皺ひとつなく伸びている。枕には誰の頭も載っていない。
私は約束した角に立った。窓に近いほう。枕が来るはずの側だ。
靴の底から石の床の冷えが上がってきた。三十の家の人たちが、扇の陰から空の寝椅子を見る。それから隣に立つ私を見た。
夫人が窓の前に出た。扇の音が、端から順に絶えていった。
「皆さま。今宵はあの子の二十歳のために、ようこそお運びくださいました」
柔らかい声だった。
「六年、毎年お見舞いのお手紙をくださいましたね。あの子は今、別棟で休んでおります。ご挨拶のあとで、ここへ運ばせますわ」
夫人は、空の枕へ手のひらを向けた。
「ギーゼラは二十歳を過ぎても、引き続き当家の庇護に置きます。それから、もうひとつ」
その手が、私のほうへ回った。
「明朝、ゼバスティアンとヴァイル家のエルネスタさんの婚礼を執り行います」
拍手が起きた。手袋どうしの、乾いた音だった。
名を呼ばれたあの方が、夫人の隣で私に微笑んだ。
暖炉の脇では、ラウエンブルク侯爵が杯を持ったまま拍手の音を聞いていた。あの方の父だ。母上に訊けばいい、とあの方はいつも言う。この家のことは、侯爵ではなく夫人の手の中にある。
「後見院より、審査官ヘルトリングさま」
扉の脇で取次が声を張った。拍手がまばらに崩れた。
灰色の制服の男が入ってきた。五十がらみで、髪を隙なく撫でつけている。革の書類鞄を胸に抱えていた。
後ろに、色の褪せた外套が見えた。監督官どのだ。
「ラウエンブルク侯爵夫人。本日がハルデン嬢の誕生日と伺いました。申立の席に立ち会うよう、予約を受けております」
「……まあ」
夫人の微笑みは、崩れなかった。
「ご丁寧に。申立は今夜のうちに、院へお届けするつもりでしたの。でも、ちょうどよろしいわ」
夫人は家令から封のある紙を受け取って、差し出した。
「あの子には心神の障りがございます。二十歳を過ぎても、当家でお預かりしたいの」
審査官は紙を受け取った。封は切らずに脇に挟んだ。
「承りました。申立の席では、ご本人を見ます。それから、目の前に出された紙を見ます」
私は、四角の角から一歩出た。
「侯爵夫人。紙をお出しする前に、婚約のことを申し上げます」
扇が一本、半開きのまま下ろされた。
私は委任状を広げて掲げた。昨日はまだ光っていた父の署名が、今は乾いている。
「父ヨアヒム・ヴァイルの委任状です。婚約契約に関する一切を私に任せると書いてあります」
「エルネスタさん。お父さまは臥せっておいでと伺ったわ」
夫人は、紙ではなく私の顔を見ていた。
「その紙は、どなたがお書きになったの」
「任せる事柄は私が書きました。名は、父が自分の手で書きました」
私は署名の欄を夫人のほうへ向けた。
「お確かめください」
夫人は紙に手を伸ばさなかった。
「ラウエンブルク侯爵さま」
暖炉の脇で、侯爵が顔を上げた。
「持参金の使い道は婚礼の支度と婚家の家政に限ると、契約にございます。その持参金から六年、ギーゼラ・ハルデンの薬代が払われていました」
扇が二本、三本と下りた。
「この婚約は、有責による解消といたします。有責は、そちらさまです」
扇の陰で、誰かが小さく言った。
「お預かりのお嬢さまのお薬なら、お家のうちでは……」
「ギーゼラ・ハルデンは、侯爵家のご家族ではありません。こちらがお預かりしている、ハルデン男爵家の娘です。その薬代は、婚礼の支度でも、婚家の家政でもありません。持参金一万二千リーヴルは、全額お返しいただきます」
侯爵が、杯を暖炉の棚に置いた。中身はまだ半分残っていた。侯爵はしばらく私の顔を見ていた。
「……そうか」
それだけ言って、侯爵は夫人のほうへ顔を向けた。夫人は、夫のほうを見なかった。
あの方が、母の隣から一歩出かけた。
「エルネスタ。待ってくれ。こんな席で言うことじゃないだろう」
「ラウエンブルクの若殿」
私はその人を、初めてそう呼んだ。
「明朝の式は、ございません」
若殿の口が開いた。何も出てこなかった。若殿もまた母のほうへ顔を向けた。父と子は、同じ人を見ていた。
背中のほうで、囁きが聞こえた。
「祝いの席で、持参金のお話を……」
「商家の方は、やはり……」
分かっている。今の私は、祝いの晩に金を数えに来た娘だ。
「審査官どの」
私は向き直った。
「婚約は、審査官どのが裁くものではないと伺っています」
「そのとおりです」
「ですから、ここから先は審査官どのにお渡しする紙です」
鞄から六年分の明細の束を、年の順に重ねて出した。
「持参金の使途明細です。六年分です。お確かめください」
審査官は一枚ずつめくった。医薬の行。支出先はハーゲン。初めの年は月二十リーヴル。昨年は月八十。
「支出先のハーゲンとは」
「王都の裏通りの薬種店です。六年を足すと、三千五百十六リーヴルになります」
「薬代でしょう。お体の弱い方なら、それくらいは」
誰かの声が、扇の向こうで言った。
私は次の紙を出した。
「ハーゲンの店の請求書の写しです。店の印があります」
丸い印の中に、伏せた瞼のような弧がある。初めの年は月に三瓶。昨年は月に九瓶。同じ濃さの、同じ瓶だ。
審査官は二枚を並べて置いた。囁きがまた起きた。三倍。九瓶。お体の弱い方なら。
私は最後の一枚を鞄から出した。まだ、渡さなかった。
「エルネスタさん」
夫人の声は、柔らかいままだった。
「病弱な娘の薬代を、惜しむのですか」
何人かの目が私に戻ってきた。祝いの晩に金を数える商家の娘。夫人は話をそこへ戻した。頷く扇が、いくつか見えた。
厚い紙は、指の間で少しも撓まなかった。
「惜しみません」
私は紙を持ったまま答えた。
「眠り薬は、病の薬ではありません」
私は審査官へ紙を差し出した。
「ヴァイル家の侍医、ベルトラムの診断書です。ハーゲンの店は、眠れない方のための薬を扱っています。請求書の瓶の数から、ご本人が六年で飲む量は三倍になったと見積もれる。そう書いてあります」
審査官の指が紙の端をつまんだ。私はまだ反対の端を持っていた。
私は最後の行を読んだ。
「四十日前の量のまま続けていれば、一年で心臓が保たなかった。そうも、書いてあります」
広間から、扇の音が消えた。
背中で聞こえていた囁きも、もう聞こえなかった。燭台の陰で給仕の盆の杯がひとつ鳴った。誰もそれを咎めなかった。
「この医師は、いつからご本人を診ていますか」
審査官は、紙の下の署名から目を上げずに訊いた。
「四十日前の月曜からです。毎日、診ています。量を減らしてきたのも先生です」
「ヴァイル家の医師ですね」
「はい。ただ六年分の量は、先生の見立てでなく店の請求書の数から出しました」
「承知しました」
扉の脇で、監督官どのが審査官の手もとを見ていた。明細、請求書、診断書。紙が一種渡るたびに、彼は小さく顎を引いた。
若殿の目が窓へ行った。都合の悪い話になると、この人はいつも窓を見る。
窓の前には、空の寝椅子があった。
夫人は扇を開いた。開いたままあおがなかった。
審査官が、夫人のほうへ向き直った。
「侯爵夫人。ハルデン嬢にこの薬を処方した医師のお名前を、伺えますか」
「……当家のかかりつけのお名前を、こういう席で申し上げる家はございませんわ」
声はまだ丁寧だった。
昨日は名の一音目で詰まって、瓶ごと出ていった。今夜は、答えの代わりに家の話が出てくる。
夫人の目が、審査官から私へ移った。
「商家のお嬢さんは、そういうところがおありなのね」
春の面談で一度聞いた。侍女に暇を出すと言われた朝にもう一度。今夜は三十の家が聞いている。
誰も笑わなかった。
夫人のいちばん近くにいた婦人が、扇を閉じた。閉じた扇を胸に当てて、半歩うしろへ下がった。
審査官が脇に挟んでいた申立の封を指で押さえた。
「ラウエンブルク侯爵夫人。申立の席では、ご本人を見ます。ハルデン嬢は、どちらに」
「別棟で休んでおります。起きられる子ではございませんの」
私は別棟のほうを見なかった。
審査官の指が、診断書の端をもう一度引いた。
私は親指から力を抜いた。人差し指を離し、残りの指を一本ずつ離した。
厚い紙は、審査官の手の中で撓まなかった。
審査官はそれを、夫人の申立の封の上に重ねた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
招待状の紙が薄いのは、侯爵家が紙代を惜しんでいるからです。ラウエンブルク家は四十年、借財の利息だけを払い続けている家で、三十通の招待状に良い紙を使う余裕はありません。招待状を窓の光にかざしたエルネスタが量っていたのは、紙の厚みだけではなかったのかもしれません。
診断書を「ギーゼラが名を書いたのと同じ紙」にしたのは、書きながら決めました。第十三話でギーゼラが最後の一画で筆を止めたのは、ヴァイル家の帳場でいちばん厚い紙の上でした。同じ紙が、今度は審査官の手に渡ります。撓まない紙を最後に置きたかった理由は、たぶんそれだけです。
レナルトが紙のたびに顎を引いたのは、紙を数えていたからです。エルネスタの数字についていけない人なので、こういうときは一種ずつ確かめておきます。
次回、第二十話は「婚約者を捨てた朝、彼の幼馴染も連れて出ました」です。第一巻の終わりになります。
ブックマークをしておいていただけると、あの広間の扉の前へすぐ戻ってこられます。




