第20話: 婚約者を捨てた朝、彼の幼馴染も連れて出ました
広間じゅうの顔が、扉のほうを向いていた。
夫人が「起きられる子ではございませんの」と言い、審査官が診断書を申立の封の上に重ねた。そのすぐあとだった。大扉の取っ手が、外から一度だけ鳴った。
窓際では、給仕が燭台に火を移しはじめていた。火移しの細い蝋燭を持った手が、二本目の芯の上で動かなくなっている。灯ったばかりの一本目が、ぱちりと爆ぜた。
審査官は書類鞄を胸の前で板のように抱えて、その上に席の記録を広げていた。羽ペンは紙から浮いたままだった。
私は鞄の留め金を握っていた。冷えていた真鍮が、いつの間にか私の手と同じ温度になっていた。
「お開けくださいまし」
扉の向こうの声は、マルタだった。
「ハルデンのお嬢さまでございます。申立の席に、お出になると仰せです」
「侯爵夫人」
審査官が、記録から顔を上げた。
「別棟でお休みのはずの方が、扉の外においでのようです」
広間の扉は、内側に立つ取次が開ける決まりだ。取次は取っ手に手を掛けたまま、夫人を見た。
夫人は頷かなかった。
「……お取次ぎして、よろしいものでしょうか」
「開けてください。申立の席では、ご本人を見ます。紙を見るのは、そのあとです」
取次が取っ手を引いた。
扉の端をマルタが片手で押さえていた。押さえたまま横へ退いた。
その後ろにギーゼラが立っていた。
寝間着ではなかった。灰青の服に、四十日前の月曜に私が届けた肩掛けを重ねている。胸の前で、掌ほどの白い布に包んだものを両手で持っていた。
誰も、その腕を取っていなかった。
「……こわい」
小さな声だった。言ってから、ギーゼラは敷居を越えた。
膝が一度沈んだ。扇の陰で誰かが息を吸った。マルタの両手がギーゼラの背の後ろで浮いて、触れずにそこにあった。
「どなたか、お手を貸して差し上げて」
扇の陰から、年配の婦人の声がした。
私は四角の角へ戻って、そこから動かなかった。枕の側の角。隣に立っていて、と言われた場所だ。
駆け寄れば、支えたことになる。三十の家は支えられて歩く娘を見て、やはり病弱だったと言うだろう。
ギーゼラがまた歩いた。
「歩いて……」
「起きられないと、今……」
「六年、寝たきりだと伺っていたのに」
若殿が、母の隣から出かけた。右手が手のひらを上にして前へ出ていた。六年、週に三度、あの子の手を包んできた手だ。
ギーゼラはその手の前を通り過ぎた。目を向けなかったのか、向けて通ったのか、私には分からなかった。
給仕の手の細い蝋燭が、指の近くまで燃えていた。給仕は熱いはずの指を、まだ離さなかった。
白墨の線を越えて、ギーゼラは寝椅子の脇まで来た。私の隣だった。肩が上下していた。
「……いた。ほんとうに、いた」
私にだけ聞こえる声だった。
「います。約束しましたから」
白い掛布の上に、彼女は腰を下ろさなかった。審査官のほうへ向き直った。
「ハルデン男爵家、ギーゼラ。二十歳になりました」
細い声が、広間の端まで届いた。誰も扇を動かしていなかった。
「ハルデンの、お嬢さま……」
「あの方が」
審査官は羽ペンを下ろして、一礼した。
「後見院審査官、ヘルトリングです。別棟から、ご自分で歩いて来られましたか」
「はい。廊下で何度か休みました。手は貸さないでと、マルタに頼みました」
この十日ほどギーゼラは夜ごとマルタの腕を借りて、寝台の縁から戸口までを行き来していた。今夜はその腕を借りなかった。
「申立の席では、ご本人がご自分の財産をご存じかを伺います。ハルデン男爵家の領地は」
「評価八千リーヴルです」
「年の収入は」
「四百です。後見人の侯爵夫人が受け取っています」
「お手元のお金は」
ギーゼラはひと息ついた。
「零です。父と母が遺した三百は、お葬式と、離れの寝台と、薬の棚になりました」
「薬の、棚……」
「ご自分のお金で?」
夫人のいちばん近くで、婦人の扇を持つ手が下がった。
「その額は、どなたからお聞きに」
「写しを読みました。院から、私の名で出していただいた写しです」
監督官どのが作った写しだ。水曜の離れで、私がギーゼラに渡した。あのとき彼女の指がなぞったのは、八千と四百のところだった。
写しの注記にある三百を、私は読んで聞かせていない。マルタに引き出しを開けてもらって、夜のうちに一人で読んだのだと、あとで聞いた。
審査官の羽ペンが、記録の上で短く鳴った。
「院の綴りの額と、同じです」
ギーゼラが、胸の前の白い布を開いた。
昨日、衣装合わせを口実に入ったときに、彼女が見本の束から選んだ一枚だ。林檎の花の色をしている。
中から、畳んだ紙が出てきた。後見人を替えるための、変更届だった。
白紙の変更届は、院で書式の順を教わった日に、承諾書と予約書と重ねて持ち帰った一枚だ。昼すぎ、別棟を出る前に、私はそれを寝台の枕の下へ入れてきた。後見人を替える紙で父が引き受けてくれる。昨日の夕方それだけは話してあった。書いてとは言わなかった。広間へ来てとも言わなかった。
明日のことは明日、私が決める。昨日、ギーゼラはそう言った。
「後見人を、替えたいのです」
ギーゼラは畳み目を開いて、紙を審査官へ差し出した。署名の欄は空いていた。
「ご自分で、お書きになりますか」
「はい。そのために来ました」
「変更届は、揃えて受けます。新しい後見候補の承諾書は」
「こちらに」
私は鞄から承諾書を出した。父が後見を引き受けると書いた一枚だ。
熱の引かない父の寝室の前まで、四週間、毎朝持っていっては持ち帰った。四隅が丸くなっている。審査の席までは手元に置くよう、監督官どのに言われていた。
「ヴァイル伯ヨアヒムの承諾書です。父は臥せっております。署名は寝台の上で、本人の手で書きました」
審査官は紙を受け取った。父の名の終わりが欄をはみ出して、隣の行にかかっている。審査官は、はみ出した名をそのまま読んだ。
「読めます。候補者の家は、今の後見人の家とご縁組みの最中ではありませんか」
「先ほど、解きました。有責による解消です」
「伺っておりました。この席で。……審査官の立ち会いの予約書は」
「院の綴りにございます」
扉の脇から、監督官どのが言った。
「受付の印は昨日、夕の鐘の前です。候補者の欄はヴァイル伯、立ち会いは審査官ヘルトリング、場所はラウエンブルク侯爵邸、ハルデン嬢の誕生日の申立の席」
早口だった。言い終えてから、彼は小さく咳払いをした。
審査官は承諾書を変更届の下に重ねた。
「では、ご本人の署名を。私の目の前で、お書きください」
審査官が書類鞄を板にして差し出しかけた。
「いいえ。ここで書きます」
ギーゼラは寝椅子のほうを向いた。
枕を脇へ寄せる。枕を載せるはずだった高い端に、白い布を敷いた。その上に、変更届を置いた。
眠ったままの娘を三十の家に見せるために、夫人が運ばせた寝椅子だった。
審査官が羽ペンを渡した。鞄から出されたインク壺を、私は受け取った。
「インクは、私が持ちます」
「うん。そこにいて」
紙の横で壺を持つ。硝子が指の腹に冷たかった。
ギーゼラは、ペンの軸の上のほうを持った。絵筆の持ち方だ。
「……おもい」
「院のペンです。帳場のものより重いでしょう」
「うん。でも、書ける。きょうは、書ける」
ペン先がインク壺に入って、出た。紙に下りた。
名が書かれていく。ギーゼラ。線は揺れていた。揺れたまま、同じ向きへ続いていく。
少し空けて、家名。ハルデン。
家名の終わりに、締めの一画が来た。
あの金曜の紙は、今も離れの小卓に置いてある。最後の一画のところに、インクの丸い溜まりを残したまま。
明日でもいいの。そう言ってから、三十六日がたった。
ペン先が最後の一画を引いた。
溜まりはできなかった。線は紙の上を終わりまで走って、そのまま抜けた。
私の手の中で、インク壺の中身が小さく揺れた。
審査官が紙を取り上げた。
「ギーゼラ・ハルデン。読めます。狭い欄に、よく収まっております」
若殿が寝椅子の手前まで来ていた。
さっき通り過ぎられた右手を、また前へ出していた。
「ギーゼラ。そんな紙に、名を書かなくてもいいんだ。僕はずっと、君を守って——」
「ゼバスティアン」
ギーゼラが、初めてその人のほうを向いた。
「守られてなどいませんでした。眠らされていただけです」
若殿は差し出した手を、すぐには引かなかった。手のひらは上を向いたままだった。
いつもあったかかったと、水曜の離れでギーゼラは言った。寝ていても分かった、と。
その手を、ギーゼラはもう見ていなかった。
若殿は、何も載っていない手のひらを胸の前まで引いた。握る形のまま、下ろさなかった。
審査官が夫人のほうへ向き直った。
「ラウエンブルク侯爵夫人。お申立では、起きられる子ではない、とのことでした」
「心神の障りのある方は、ご自分の財産の額を言えません。名も書けません。ご本人は歩いて入られ、名を書き、財産の額を言われました。このお申立は、本日の席では採りません」
夫人の唇は閉じたままだった。家の作法の話も、商家の娘の話も、出てこなかった。
あなたのためにも、と昨日この人は言った。今夜は、誰のためとも言わなかった。
夫人は寝椅子を見ていた。自分が広間へ運ばせた白い掛布ではない。その上に敷かれた、林檎の花の色の一枚を。
審査官は羽ペンを記録に下ろした。
「お答えがないことも、そのまま席の記録に書きます」
ペン先の音が短く続いて、止んだ。審査官は顔を上げた。
「後見院は、書式に従います」
広間に向けた声ではなかった。紙に向かって読み上げる声だった。
「この席で、ご本人に心神の障りは見当たりませんでした。変更届は院でお預かりし、本審査で認めるかを決めます。それまでハルデン嬢の後見を、仮に停止します。そのあいだ侯爵夫人は、ハルデン嬢の後見人として何もお決めになれません」
どこかで扇が一本、床に落ちた。拾う者はいなかった。
「仮に、ですって」
「本審査は、いつ」
「侯爵家の申立が、通らなかった……」
ギーゼラが審査官を見上げた。
「今夜は、どこで眠ればいいのですか」
「院の書式には、その欄がございません」
ギーゼラは少し考えた。寝椅子の端から白い布を取って、小さく畳んだ。
「では、私が決めます」
それから、私のほうを向いた。
「エルネスタ。あなたの家に、行ってもいい?」
「門の外に、うちの馬車を待たせてあります。昼から」
ギーゼラの目尻が、少し下がった。
「……用意が、いいのね」
「商家の娘ですので」
審査官の羽ペンが、記録の上で浮いた。
「ヴァイル嬢。今のお答えも、席の記録に書きますか」
「書かなくて結構です」
「承知しました。書かずにおきます」
ギーゼラが私のほうへ手を出した。私はその手を取った。
三十の家が、扉までの道を空けた。誰に言われたのでもなかった。
ギーゼラの歩みは遅い。私は自分の足を、その遅さに合わせた。右が重い、と父に言われた足だ。
夫人の前を通った。夫人は動かなかった。
扉の脇で、監督官どのが一歩退いた。
「ハルデン嬢。お誕生日、おめでとうございます」
ギーゼラが足を止めて、彼を見上げた。
「……ふたりめ」
「は」
「今日、それを言ってくれた人。エルネスタが、ひとりめ」
「それは、光栄です。院の記録には残せませんが。……失礼」
監督官どのは眼鏡を押し上げて、頭を下げた。
マルタが扉を押さえていた。
「お嬢さま。お足もとに、敷居がございます」
「知ってる。さっき、越えたもの」
マルタが、鼻から短く息を抜いた。私たちが敷居を越えると、うしろで重い扉の閉まる音がした。
廊下は広間より暗かった。ここの燭台には、まだ誰も火を入れていない。
「エルネスタ」
「はい」
「私、ちゃんと歩いた?」
「歩きました。扉から寝椅子まで、ご自分の足で」
「ひざが、わらってる」
「笑わせておきましょう。今夜くらいは」
「……へんなの。エルネスタのおうちは、へんなことばっかり言う」
繋いだ手の中で、ギーゼラの指が動いた。
まだ冷たかった。
けれど、握り返してきた。
翌朝。式が挙がるはずだった朝に、侯爵家から訴状が届いた。
被後見人の誘拐。
訴えられていたのは、私だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ギーゼラが署名の台に寝椅子を選んだ理由は、本文では書きませんでした。審査官の鞄のほうが平らで書きやすいはずです。それでも彼女は、自分を寝かせて見せるために運ばれてきた寝椅子の、枕を載せる場所に紙を置きました。書いているあいだ、私にもその理由を言葉にさせてくれない人でした。
「三百は、お葬式と、離れの寝台と、薬の棚になりました」は、設定を作った段階からあった数字です。報告書の一行として片づけられていた三百を、いつか本人の口で言わせたいと思っていました。エルネスタが読み聞かせていない行を、ギーゼラは一人で読んでいた。第一巻でいちばん書きたかったのは、あの一行かもしれません。
最後の一画は、第十三話から三十六日、離れの小卓で待っていました。今回は止まりませんでした。
これで第一巻「四十日」はおしまいです。次回、第二十一話「訴状」から第二巻に入ります。広間を出た二人は勝ちましたが、侯爵家はまだ何も手放していません。
ブックマークをしておいていただけると、第二巻の最初の朝へすぐ戻ってこられます。




