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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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20/24

第20話: 婚約者を捨てた朝、彼の幼馴染も連れて出ました

 広間じゅうの顔が、扉のほうを向いていた。


 夫人が「起きられる子ではございませんの」と言い、審査官が診断書を申立の封の上に重ねた。そのすぐあとだった。大扉の取っ手が、外から一度だけ鳴った。


 窓際では、給仕が燭台に火を移しはじめていた。火移しの細い蝋燭を持った手が、二本目の芯の上で動かなくなっている。灯ったばかりの一本目が、ぱちりと爆ぜた。


 審査官は書類鞄を胸の前で板のように抱えて、その上に席の記録を広げていた。羽ペンは紙から浮いたままだった。


 私は鞄の留め金を握っていた。冷えていた真鍮が、いつの間にか私の手と同じ温度になっていた。


「お開けくださいまし」


 扉の向こうの声は、マルタだった。


「ハルデンのお嬢さまでございます。申立の席に、お出になると仰せです」


「侯爵夫人」


 審査官が、記録から顔を上げた。


「別棟でお休みのはずの方が、扉の外においでのようです」


 広間の扉は、内側に立つ取次が開ける決まりだ。取次は取っ手に手を掛けたまま、夫人を見た。


 夫人は頷かなかった。


「……お取次ぎして、よろしいものでしょうか」


「開けてください。申立の席では、ご本人を見ます。紙を見るのは、そのあとです」


 取次が取っ手を引いた。




 扉の端をマルタが片手で押さえていた。押さえたまま横へ退いた。


 その後ろにギーゼラが立っていた。


 寝間着ではなかった。灰青の服に、四十日前の月曜に私が届けた肩掛けを重ねている。胸の前で、掌ほどの白い布に包んだものを両手で持っていた。


 誰も、その腕を取っていなかった。


「……こわい」


 小さな声だった。言ってから、ギーゼラは敷居を越えた。


 膝が一度沈んだ。扇の陰で誰かが息を吸った。マルタの両手がギーゼラの背の後ろで浮いて、触れずにそこにあった。


「どなたか、お手を貸して差し上げて」


 扇の陰から、年配の婦人の声がした。


 私は四角の角へ戻って、そこから動かなかった。枕の側の角。隣に立っていて、と言われた場所だ。


 駆け寄れば、支えたことになる。三十の家は支えられて歩く娘を見て、やはり病弱だったと言うだろう。


 ギーゼラがまた歩いた。


「歩いて……」


「起きられないと、今……」


「六年、寝たきりだと伺っていたのに」


 若殿が、母の隣から出かけた。右手が手のひらを上にして前へ出ていた。六年、週に三度、あの子の手を包んできた手だ。


 ギーゼラはその手の前を通り過ぎた。目を向けなかったのか、向けて通ったのか、私には分からなかった。


 給仕の手の細い蝋燭が、指の近くまで燃えていた。給仕は熱いはずの指を、まだ離さなかった。


 白墨の線を越えて、ギーゼラは寝椅子の脇まで来た。私の隣だった。肩が上下していた。


「……いた。ほんとうに、いた」


 私にだけ聞こえる声だった。


「います。約束しましたから」


 白い掛布の上に、彼女は腰を下ろさなかった。審査官のほうへ向き直った。


「ハルデン男爵家、ギーゼラ。二十歳になりました」


 細い声が、広間の端まで届いた。誰も扇を動かしていなかった。


「ハルデンの、お嬢さま……」


「あの方が」




 審査官は羽ペンを下ろして、一礼した。


「後見院審査官、ヘルトリングです。別棟から、ご自分で歩いて来られましたか」


「はい。廊下で何度か休みました。手は貸さないでと、マルタに頼みました」


 この十日ほどギーゼラは夜ごとマルタの腕を借りて、寝台の縁から戸口までを行き来していた。今夜はその腕を借りなかった。


「申立の席では、ご本人がご自分の財産をご存じかを伺います。ハルデン男爵家の領地は」


「評価八千リーヴルです」


「年の収入は」


「四百です。後見人の侯爵夫人が受け取っています」


「お手元のお金は」


 ギーゼラはひと息ついた。


「零です。父と母が遺した三百は、お葬式と、離れの寝台と、薬の棚になりました」


「薬の、棚……」


「ご自分のお金で?」


 夫人のいちばん近くで、婦人の扇を持つ手が下がった。


「その額は、どなたからお聞きに」


「写しを読みました。院から、私の名で出していただいた写しです」


 監督官どのが作った写しだ。水曜の離れで、私がギーゼラに渡した。あのとき彼女の指がなぞったのは、八千と四百のところだった。


 写しの注記にある三百を、私は読んで聞かせていない。マルタに引き出しを開けてもらって、夜のうちに一人で読んだのだと、あとで聞いた。


 審査官の羽ペンが、記録の上で短く鳴った。


「院の綴りの額と、同じです」


 ギーゼラが、胸の前の白い布を開いた。


 昨日、衣装合わせを口実に入ったときに、彼女が見本の束から選んだ一枚だ。林檎の花の色をしている。


 中から、畳んだ紙が出てきた。後見人を替えるための、変更届だった。


 白紙の変更届は、院で書式の順を教わった日に、承諾書と予約書と重ねて持ち帰った一枚だ。昼すぎ、別棟を出る前に、私はそれを寝台の枕の下へ入れてきた。後見人を替える紙で父が引き受けてくれる。昨日の夕方それだけは話してあった。書いてとは言わなかった。広間へ来てとも言わなかった。


 明日のことは明日、私が決める。昨日、ギーゼラはそう言った。


「後見人を、替えたいのです」


 ギーゼラは畳み目を開いて、紙を審査官へ差し出した。署名の欄は空いていた。


「ご自分で、お書きになりますか」


「はい。そのために来ました」


「変更届は、揃えて受けます。新しい後見候補の承諾書は」


「こちらに」


 私は鞄から承諾書を出した。父が後見を引き受けると書いた一枚だ。


 熱の引かない父の寝室の前まで、四週間、毎朝持っていっては持ち帰った。四隅が丸くなっている。審査の席までは手元に置くよう、監督官どのに言われていた。


「ヴァイル伯ヨアヒムの承諾書です。父は臥せっております。署名は寝台の上で、本人の手で書きました」


 審査官は紙を受け取った。父の名の終わりが欄をはみ出して、隣の行にかかっている。審査官は、はみ出した名をそのまま読んだ。


「読めます。候補者の家は、今の後見人の家とご縁組みの最中ではありませんか」


「先ほど、解きました。有責による解消です」


「伺っておりました。この席で。……審査官の立ち会いの予約書は」


「院の綴りにございます」


 扉の脇から、監督官どのが言った。


「受付の印は昨日、夕の鐘の前です。候補者の欄はヴァイル伯、立ち会いは審査官ヘルトリング、場所はラウエンブルク侯爵邸、ハルデン嬢の誕生日の申立の席」


 早口だった。言い終えてから、彼は小さく咳払いをした。


 審査官は承諾書を変更届の下に重ねた。


「では、ご本人の署名を。私の目の前で、お書きください」




 審査官が書類鞄を板にして差し出しかけた。


「いいえ。ここで書きます」


 ギーゼラは寝椅子のほうを向いた。


 枕を脇へ寄せる。枕を載せるはずだった高い端に、白い布を敷いた。その上に、変更届を置いた。


 眠ったままの娘を三十の家に見せるために、夫人が運ばせた寝椅子だった。


 審査官が羽ペンを渡した。鞄から出されたインク壺を、私は受け取った。


「インクは、私が持ちます」


「うん。そこにいて」


 紙の横で壺を持つ。硝子が指の腹に冷たかった。


 ギーゼラは、ペンの軸の上のほうを持った。絵筆の持ち方だ。


「……おもい」


「院のペンです。帳場のものより重いでしょう」


「うん。でも、書ける。きょうは、書ける」


 ペン先がインク壺に入って、出た。紙に下りた。


 名が書かれていく。ギーゼラ。線は揺れていた。揺れたまま、同じ向きへ続いていく。


 少し空けて、家名。ハルデン。


 家名の終わりに、締めの一画が来た。


 あの金曜の紙は、今も離れの小卓に置いてある。最後の一画のところに、インクの丸い溜まりを残したまま。


 明日でもいいの。そう言ってから、三十六日がたった。


 ペン先が最後の一画を引いた。


 溜まりはできなかった。線は紙の上を終わりまで走って、そのまま抜けた。


 私の手の中で、インク壺の中身が小さく揺れた。


 審査官が紙を取り上げた。


「ギーゼラ・ハルデン。読めます。狭い欄に、よく収まっております」




 若殿が寝椅子の手前まで来ていた。


 さっき通り過ぎられた右手を、また前へ出していた。


「ギーゼラ。そんな紙に、名を書かなくてもいいんだ。僕はずっと、君を守って——」


「ゼバスティアン」


 ギーゼラが、初めてその人のほうを向いた。


「守られてなどいませんでした。眠らされていただけです」


 若殿は差し出した手を、すぐには引かなかった。手のひらは上を向いたままだった。


 いつもあったかかったと、水曜の離れでギーゼラは言った。寝ていても分かった、と。


 その手を、ギーゼラはもう見ていなかった。


 若殿は、何も載っていない手のひらを胸の前まで引いた。握る形のまま、下ろさなかった。




 審査官が夫人のほうへ向き直った。


「ラウエンブルク侯爵夫人。お申立では、起きられる子ではない、とのことでした」


「心神の障りのある方は、ご自分の財産の額を言えません。名も書けません。ご本人は歩いて入られ、名を書き、財産の額を言われました。このお申立は、本日の席では採りません」


 夫人の唇は閉じたままだった。家の作法の話も、商家の娘の話も、出てこなかった。


 あなたのためにも、と昨日この人は言った。今夜は、誰のためとも言わなかった。


 夫人は寝椅子を見ていた。自分が広間へ運ばせた白い掛布ではない。その上に敷かれた、林檎の花の色の一枚を。


 審査官は羽ペンを記録に下ろした。


「お答えがないことも、そのまま席の記録に書きます」


 ペン先の音が短く続いて、止んだ。審査官は顔を上げた。


「後見院は、書式に従います」


 広間に向けた声ではなかった。紙に向かって読み上げる声だった。


「この席で、ご本人に心神の障りは見当たりませんでした。変更届は院でお預かりし、本審査で認めるかを決めます。それまでハルデン嬢の後見を、仮に停止します。そのあいだ侯爵夫人は、ハルデン嬢の後見人として何もお決めになれません」


 どこかで扇が一本、床に落ちた。拾う者はいなかった。


「仮に、ですって」


「本審査は、いつ」


「侯爵家の申立が、通らなかった……」


 ギーゼラが審査官を見上げた。


「今夜は、どこで眠ればいいのですか」


「院の書式には、その欄がございません」


 ギーゼラは少し考えた。寝椅子の端から白い布を取って、小さく畳んだ。


「では、私が決めます」


 それから、私のほうを向いた。


「エルネスタ。あなたの家に、行ってもいい?」


「門の外に、うちの馬車を待たせてあります。昼から」


 ギーゼラの目尻が、少し下がった。


「……用意が、いいのね」


「商家の娘ですので」


 審査官の羽ペンが、記録の上で浮いた。


「ヴァイル嬢。今のお答えも、席の記録に書きますか」


「書かなくて結構です」


「承知しました。書かずにおきます」




 ギーゼラが私のほうへ手を出した。私はその手を取った。


 三十の家が、扉までの道を空けた。誰に言われたのでもなかった。


 ギーゼラの歩みは遅い。私は自分の足を、その遅さに合わせた。右が重い、と父に言われた足だ。


 夫人の前を通った。夫人は動かなかった。


 扉の脇で、監督官どのが一歩退いた。


「ハルデン嬢。お誕生日、おめでとうございます」


 ギーゼラが足を止めて、彼を見上げた。


「……ふたりめ」


「は」


「今日、それを言ってくれた人。エルネスタが、ひとりめ」


「それは、光栄です。院の記録には残せませんが。……失礼」


 監督官どのは眼鏡を押し上げて、頭を下げた。


 マルタが扉を押さえていた。


「お嬢さま。お足もとに、敷居がございます」


「知ってる。さっき、越えたもの」


 マルタが、鼻から短く息を抜いた。私たちが敷居を越えると、うしろで重い扉の閉まる音がした。


 廊下は広間より暗かった。ここの燭台には、まだ誰も火を入れていない。


「エルネスタ」


「はい」


「私、ちゃんと歩いた?」


「歩きました。扉から寝椅子まで、ご自分の足で」


「ひざが、わらってる」


「笑わせておきましょう。今夜くらいは」


「……へんなの。エルネスタのおうちは、へんなことばっかり言う」


 繋いだ手の中で、ギーゼラの指が動いた。


 まだ冷たかった。


 けれど、握り返してきた。




 翌朝。式が挙がるはずだった朝に、侯爵家から訴状が届いた。


 被後見人の誘拐。


 訴えられていたのは、私だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ギーゼラが署名の台に寝椅子を選んだ理由は、本文では書きませんでした。審査官の鞄のほうが平らで書きやすいはずです。それでも彼女は、自分を寝かせて見せるために運ばれてきた寝椅子の、枕を載せる場所に紙を置きました。書いているあいだ、私にもその理由を言葉にさせてくれない人でした。


「三百は、お葬式と、離れの寝台と、薬の棚になりました」は、設定を作った段階からあった数字です。報告書の一行として片づけられていた三百を、いつか本人の口で言わせたいと思っていました。エルネスタが読み聞かせていない行を、ギーゼラは一人で読んでいた。第一巻でいちばん書きたかったのは、あの一行かもしれません。


最後の一画は、第十三話から三十六日、離れの小卓で待っていました。今回は止まりませんでした。


これで第一巻「四十日」はおしまいです。次回、第二十一話「訴状」から第二巻に入ります。広間を出た二人は勝ちましたが、侯爵家はまだ何も手放していません。


ブックマークをしておいていただけると、第二巻の最初の朝へすぐ戻ってこられます。

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