第21話: 訴状
馬車が坂を下りはじめたところで、ギーゼラが泣き出した。
声はなかった。触れている肩から、先に震えが来た。
窓の革の覆いは下ろしてある。車の中は暗く、御者台の灯が隙間から細く差すだけだ。侯爵邸の門はもう坂の上にあった。
「ギーゼラ」
「……へんなの」
濡れた声だった。
「扉のまえで、こわいって言ったでしょう。言ったら、あとは平気だったの。歩いてるときも、名前を書いてるときも」
「はい」
「いまになって、こわい」
膝の上でギーゼラの両手が肩掛けの端を握っていた。四十日前の月曜に、私が離れへ届けた一枚だ。
私はその手の甲に、指を載せた。広間で繋いだときより、少しだけぬるかった。
「もし扉があかなかったら。もし審査官のかたが、うんって言わなかったら」
涙が顎から落ちて、私の袖に染みた。温かかった。
「あの寝椅子に、また寝かされてたら」
私は前の板を二度叩いた。板の向こうで御者の返事がくぐもった。
「ゆっくりでお願いします。急ぎません」
車輪の音がひとつ低くなった。
「家までは、坂を下りて商人街を上るだけです。泣き終わるまで、ゆっくり行ってもらいます」
「……おわらなかったら?」
「門の前で、もう一周してもらいます」
涙の合間に、短い息がひとつ漏れた。笑ったのだと思う。
「エルネスタは、こわくなかったの」
「こわかったです」
口に出したのは、初めてだった。
「どれくらい?」
「四十日ぶんです」
毎朝、残りの日を数えてきた。今朝の数は零だった。
四十日。間に合った。
「……もう、かぞえなくていいのね」
「いいえ。数えます」
ギーゼラが濡れた顔をこちらへ向けた。
「まだ、なにか残ってるの」
「残りは、もうありません。明日からは、増えるほうを数えます」
「ふえるほう」
「あなたが自分で決めた場所で、眠った日です。今夜が一日目です」
ギーゼラはしばらく黙っていた。車輪が石畳の継ぎ目を一つ越えた。
「……いち」
小さく言って、肩掛けで顔を拭いた。
坂を下りきるころ、肩に頭がもたれてきた。寝息が私の首のあたりを行き来している。離れで聞いた薬の眠りの息とは違った。浅くて、ときどき鼻が鳴る。
玄関の石段で、クラウスが手燭を持って待っていた。
「東の客間を、温めてございます。旦那様が、昼のうちに火を入れておけと」
「昼のうちに」
「招待状を三度お読みになって、そうおっしゃいました」
ギーゼラは石段の下で目を覚ました。自分で降りて、一段目で膝が沈んだ。クラウスは手燭を低く下ろして、段の足もとを照らした。
ギーゼラは一段ずつ上がった。上がりきってから、クラウスに向き直った。
「ハルデンの、ギーゼラです。今夜から、お世話になります」
「帳場付きのクラウスでございます。お待ちしておりました」
父の大事な取引先を迎えるときの、頭の下げ方だった。
客間ではベルトラム先生が脈を取った。
「速いが、乱れてはおらん。怖いのが、あとから来たんじゃろ。今夜は眠れるだけ眠りなさい」
ギーゼラに私の寝間着を着せて寝台に入れてから、私は帳面を開いた。
これまでの行には、棚を開けた人と、匙に取った人と、運んだ人の名が並んでいる。今夜の行に書く名はなかった。
運んだ人、なし。飲んだ人、なし。
その下に、欄を一つ足した。眠る場所を決めた人。
ギーゼラ・ハルデン。
行の頭には、一と書いた。
夜明けに、マルタが門を叩いた。
背に布の包みを一つ負っていた。侯爵邸から歩いてきたという。
「お嬢さまのお支度でございます」
マルタは帳場の卓で包みを解いた。古い木の櫛。紺の外套。名を書きかけたあの金曜の紙。布にくるんだ帳面二冊と、その上に重ねた財産目録の写し。
「棚の鍵は、棚に挿してまいりました。帳面は、わたくしの字でございますので」
「侯爵家には、何と」
「お暇は婚礼が済んでから、と伺っておりました」
マルタは包みの布を畳んだ。
「婚礼は、ございませんでしたので」
クラウスが帳簿の綴りを持ち上げて、その陰で横を向いた。
朝の鐘が鳴り終わるころ、侯爵家の家令が来た。
玄関で、受け取りの署名を求められた。家令は門のほうを向いたままだった。先月の月曜、六年で初めて離れの瓶を数えた人だ。
封は侯爵家の印の蝋だった。紙は厚い。掌に載せると、六年分の明細より重く感じた。
帳場に戻って、封を切った。
後見院へ出した訴状の、副本だった。訴えた相手にも写しを送る決まりがある。
宛先は審査官ヘルトリング殿。差出しはラウエンブルク侯爵家で、署名は侯爵夫人の名だった。後見人という肩書きは、どこにも書いていない。昨夜から、侯爵夫人は後見人として何も決められない。
条は四つあった。
一つめ。エルネスタ・ヴァイルは後見人の許しなく、被後見人ギーゼラ・ハルデンを連れ出し、ヴァイル伯爵邸に留め置いている。被後見人の誘拐として訴える。
「誘拐」
クラウスが繰り返した。
「お嬢様がハルデンのお嬢さまを担いでお走りになった、と」
「ご本人が、歩いて出てきました」
「存じております。石段を一段ずつお上がりになるのを、見ておりましたので」
けれど紙の上では、それが通る。
初めて後見院へ行った、あの火曜。相談卓で、監督官どのに言われた。
「署名した紙だけ持って、その方を連れ出してよいというものではありません」
今夜どこで眠るかの欄は、院の書式にない。審査官は昨夜そう言った。欄のないところに、侯爵家は自分の字を書いてきた。
二つめ。後見院監督官レナルト・ブランデスは、後見人に知らせず財産目録の写しを作り、ヴァイル家の娘エルネスタを通じて被後見人に渡した。さらに後見人の知らぬまま、当家の夜会に審査官を呼んだ。これを監督官の越権として訴える。
「監督官さままで、でございますか」
クラウスが、帳場の椅子から腰を浮かせた。
紙を持つ手が冷えた。
写しは、あの人が自分から作ってくれた。夜会の席に審査官を呼んでほしいと頼んだのは、私だ。二つとも、私の側に立ってした仕事だった。
ただで受けた親切を書く借りの帳面に、あの人の名がある。書式の教えを一回。返すのはゆっくりでいい、とあの人は言った。
三つめ。ギーゼラ・ハルデンは当家が引き取った娘であり、その療養は当家の家政である。薬代は持参金の使途に背かない。ゆえに有責は当家になく、婚約の解消には応じない。持参金一万二千リーヴルは返さない。
六年の医薬の行は、足して三千五百十六リーヴルだった。
残りの八千四百八十四リーヴルは、家政と利払いの行に散っている。薬代を目的外と認めれば、一万二千はまるごと返す約束になる。だから、全部を返さないと書いてきた。
「引き取った娘、でございますか」
マルタが低く訊いた。
「昨夜、私が審査官さまの前で、お預かりしている娘だと言いました。だから、向こうは言い方を変えてきました」
四つめ。本審査の日まで、被後見人を六年暮らした当家の離れへ戻すことを求める。
マルタは何も言わなかった。卓の上の帳面二冊に、片手を置いた。
「読み上げるなら、わしにも聞こえる声でやれ」
帳場の戸口に、父が立っていた。
部屋着の上に外套を引っかけ、片手を戸の枠についている。後ろでベルトラム先生が眉を寄せていた。
「旦那。廊下を歩いてよいとは、まだ言うとらんぞ」
「座ってはいかんとも、言われとらん」
父は帳場の自分の椅子に腰を下ろした。久しぶりの椅子だった。
私は訴状を渡した。父は紙を目から遠ざけて、四つの条を順に読んだ。三つめのところで、紙を持つ手が少し下がった。
「返さん、か」
「はい」
「クラウス。金庫から婚約契約の写しを出しておけ。末尾の条だ」
「かしこまりました」
「お父さま。一つめと二つめは、私が院へ行って訊きます。本審査の日取りも、まだ来ていません」
「院の監督官も、訴えられておるのだろう」
「はい」
「なら、その男が先に槍玉に上がっておる。院の中でな」
父は訴状を私に返した。紙は、来たときと同じ重さだった。
「わたしも、行く」
戸口から、もう一つ声がした。
ギーゼラが、壁に片手をついて立っていた。客間から一人で来たらしい。寝間着の裾が、廊下の冷えで少し湿っていた。
「さらわれたの、わたしなんでしょう」
「紙の上では、そうなっています」
「じゃあ、わたしが言う。さらわれてないって。自分で歩いたって」
四つめの条を、この人は聞いていたのだろうか。訊かなかった。昨夜、扉の前でこの人は、こわいと言ってから歩いた。
「では、一緒に行きましょう」
マルタが包みから紺の外套を取り、ギーゼラの肩に掛けた。
くすのきの匂いが、帳場の紙の匂いの上に広がった。
「……おかあさまの、におい」
ギーゼラは襟を両手で寄せた。母親の寸法の袖が、細い手首の先で余っていた。
廊下を駆けてくる足が鳴って、帳場の小僧が戸口に顔を出した。息が切れていた。朝のうちにクラウスが、本審査の日取りを訊きに院へ走らせた子だ。
「監督官さまの卓に、今朝は、別のかたが座っておられました」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二巻の始まりです。訴状の四つの条は、実は四つめから書きました。「六年暮らした当家の離れへ」。侯爵家にとっては、本当にそこがあの子の家なのだと思います。だから「戻す」と書ける。書いていて、いちばん寒くなった一行でした。
マルタが夜明けに歩いてくる場面は、最初は馬車を借りてくる案でした。でも彼女は侯爵家の馬車を頼まない人だし、包み一つなら歩ける人です。棚の鍵を挿したまま出てくるのも、あの人らしいと思っています。持ち出したのは自分の字だけ。
それから、ギーゼラの「いち」。台本では、ここで彼女は何も言わない予定でした。書いているうちに勝手に口が動いて、こちらが少し慌てました。
次回、第二十二話「謹慎」。父の言った「院の中で困っておる」が、どういう形をしているのか。
ブックマークや評価をいただけると、二人が院の門をくぐるところまで、すぐ書きに戻れます。




