第22話: 謹慎
「ブランデスは、今朝から謹慎です」
後見院の階段を下りてきた審査官が、踊り場でそう言った。
私は石の手すりに手を置いていた。冷たさが手のひらから肘まで上ってくる。もう片方の腕にはギーゼラの手が掛かっていた。
相談の間の戸口から、あの卓が見えていた。座っていたのは白髪の監督官で、知らない顔だった。私は中へ入らずに門番へ審査官の部屋を訊いた。門番は先に階段を駆け上がっていった。
階段は一度に十段まで、とベルトラム先生は言った。ギーゼラは九段目で息をついた。十段目に足を載せたところで上から審査官が下りてきた。
「謹慎、ですか」
「本審査の日まで、出仕に及ばず。決めたのは私です」
型どおりの声だった。昨夜、広間で後見の仮停止を告げたときと同じ声だ。
「訴状の、二つめのことですか」
「副本をご覧になりましたか」
「今朝、届きました」
「訴えられた監督官を、その訴えの綴りに触らせるわけにはまいりません」
審査官は外套の隠しから、小さな布の袋を出した。口が紐で縛ってある。
「ブランデスの印です。本審査まで、私が預かります」
袋は審査官の手のひらに載ったままだった。院の引き出しに入れておけば済むものだ。この人はそれを身につけて歩いている。
ギーゼラの報告に二度押された印が、あの袋の中にある。三つ目は押さないとあの人は約束した。押すための印ごと、取り上げられた。
「侯爵家から、何か言ってきたのですか」
「訴状が届きました。院には、それで足ります」
「足りるのですか」
審査官は袋の紐を、指に一巻きした。
「……謹慎で済むうちに、謹慎にしました」
済まなかった場合のことを、審査官は言わなかった。
腕に掛かったギーゼラの手に力がこもった。
「わたし、さらわれてません」
ギーゼラが審査官を見上げていた。息はまだ上がっている。
「自分で、あるいて出ました。ゆうべも、けさも。この階段も、自分で」
「伺いました」
審査官は一礼した。
「ですが、記録の席で伺った言葉でなければ綴りには入りません。本審査の席で、ご本人からもう一度伺います」
「……いつ」
「今日から、三十日後の朝です」
審査官は外套の内側から、封をした紙を一通出した。宛名はハルデン嬢。本審査の呼出しだった。
「院の使いがお届けするものですが。ご本人がおいでになりましたので」
ギーゼラは両手で受け取った。母親の寸法の袖が手首の先で余り、封の上に被さった。
「……わたしの、なまえ」
「被後見人として、ご本人をお呼びします。歩いてこられるならお一人で」
ギーゼラは封を胸に当てた。袖が、その上でもう一度余った。
「審査官どの。四つめの条は」
私は訊いた。
「本審査の日まで、離れへ戻せと書いてありました」
「変更届を院が預かっているあいだ、ご本人をどこかへ移す書式は院にございません。戻せとも留めろとも申せません」
「では、今夜も私の家で眠ります」
「眠る場所を書く欄は、院の書式にございません」
昨夜と同じ答えだった。審査官は一礼して階段を上へ戻っていった。布の袋は、まだ手の中にあった。
「通用口なら、裏庭へ下りる段が三つしかございません」
門番がそう教えてくれた。正面の石段は十二ある。院の中の十段で、ギーゼラの膝はもう使い切っていた。
裏口から出ると縁起が悪い。うちでは祖母の代からそう言う。私は迷信より三つの段のほうを取った。
通用口の戸を押すと、裏庭に人がいた。
色の褪せた外套。脇に、紐で十字にくくった本の束を抱えている。院の灰色の制服は着ていなかった。
「……ヴァイル嬢」
監督官どのは、戸から二歩のところにいた。それより近くへは来なかった。
「ハルデン嬢も。……息が、上がっておいでですね」
「階段、上った。十段」
ギーゼラが答えた。
「ゆうべは、いち、だった」
「は」
「自分で決めた場所で眠った日です」
私が言い添えた。
「ゆうべが一日目でした」
監督官どのは、少しだけ考える顔をした。
「では、今夜で二ですね」
今日は、追いつくのが速かった。
「審査官どのに、伺いました。謹慎のことを」
「でしょうね。印のことも、お聞きになりましたか」
「はい」
「写しも、夜会の席も、私が頼みました」
「写しは、私が自分で作りました」
彼は本の束を抱え直した。
「目録の写しは、被後見人の閲覧の書式どおりです。夜会の予約は取次の欄に私が名を書いて、審査官が受けた。どちらも、書式は正しかった」
彼は通用口の上の院の壁を見上げた。
「正しい書式で謹慎になるのは、書式の側が間違っている」
言い終えて、短い息を吐いた。
「……失礼。院の庭で言うことでは、ありませんでした」
どこかで井戸の滑車が一度きしんだ。あとは足もとに沈黙が溜まった。
「私が頼まなければ」
「頼まれなくても、写しは作りました。……ヴァイル嬢。本審査が済むまで、私はあなたにお会いしません」
「なぜですか」
「訴状は、私がヴァイル家の側に立ったと言っています。謹慎中の監督官が訴えられた方と院の裏で話していた。それだけで、二つめの条に一行足せます」
「今、話しています」
「ですから、短くします」
鞄の中で薄い帳面の角が指に当たった。ただで受けた親切を日付と相手の名で書いておく帳面だ。この人の行は一つしかない。書式の教えを一回。
彼の目も、私の鞄に来ていた。
「その帳面の、私の行に。線を引いておいていただけますか」
「線は、返したときに引くものです」
「返していただいた、ということに」
「まだ、何も返していません」
自分の声が硬いのが分かった。
「監督官の名が、訴えられた家の帳面に載っている。訴状を書いた方が見たら喜ぶ行です」
喜ぶ人の顔は、一人しか浮かばなかった。
「では本審査が済むまで、この帳面は院へ持ってきません。鞄の底に入れておきます」
「……それで、結構です」
彼はギーゼラのほうへ、浅く頭を下げた。
「ハルデン嬢。三十日後の席には、私も呼ばれます。訴えられた側の長椅子ですが」
「あなたも、さらわれたの」
「いいえ。私は、少し出しゃばりました」
ギーゼラが、鼻から短く息を抜いた。
彼は本の束を抱えたまま裏門のほうへ歩き出した。私はその背中を見送らなかった。ギーゼラの腕を取り直し、三つの段を数えて下りた。
あの人の行の下に、足せるものがなかった。受けた親切の欄に、受けた謹慎とは書けない。
帳場では父が明細の綴りを広げていた。家政と利払いの行にクラウスが細い紙片を挟んでいく。
「三十日か」
「はい。今日から数えて、三十日後の朝です」
「八千四百八十四の行き先を洗うには、足りる」
父は綴りを閉じなかった。
「払った金は、払った先の帳面に名を残す。明日から、そっちの帳面を当たる」
東の客間に戻ると、ギーゼラは寝台で呼出しの封を眺めていた。封は母の外套と並べて小卓に置いてある。
「エルネスタ。さんじゅうにち。また、へるほうを数えるの」
「減るほうは、もう数えません」
私は帳面を開いた。昨夜の行の頭には一と書いてある。その下の行に二と書いた。
「ゆうべが一。今夜が二。審査の前の晩で、三十一です」
「さんじゅういち」
「数えられますか」
「……かぞえる」
ギーゼラは掛布を顎まで引き上げた。燭台の蝋燭が一段細くなるまで、二人とも黙っていた。
「院のひと。さんじゅうにち、なにしてるの」
その答えを私は持っていなかった。あの人の下宿がどの通りにあるのかも知らない。十字にくくった本の束を、三十日どこの卓でほどくのか。
「知りません」
ギーゼラは目を閉じた。
「じゃあ、さんじゅういちの朝にきく」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ヘルトリングが印を布の袋に入れて持ち歩いている理由は、本文では書いていません。院の引き出しに入れておけば、誰かが勝手に押すかもしれないからか。それとも、自分が取り上げたものの重さを手から離したくなかったのか。エルネスタにも分からないので、私も決めずにおきました。「謹慎で済むうちに」という一言も、書いた本人がいちばん長く眺めていた台詞です。
レナルトの「書式の側が間違っている」は、実は第三アークの設計を作った日にいちばん最初に書いた台詞でした。ただ、言わせたあとで必ず「失礼」と付けさせると決めていました。彼は正しいことを言ったときほど、言いすぎたと思う人なので。
借りの帳面に線を引いてくれと頼まれて、エルネスタが断る場面。商家の娘としての理屈で断っていますが、たぶん理屈だけではありません。その「だけではない」ほうは、まだ彼女自身にも見えていないところです。
次回、第二十三話「六百と四百と二百」。父の言った「払った先の帳面」を、ヴァイル家の帳場が追いかけます。
ブックマークや評価をいただけると、三十一の朝まで、ギーゼラと一緒に数えに戻ってこられます。




