第23話: 六百と四百と二百
八千四百八十四リーヴルのうち、散ったのは千五百だけだった。
きのう訴状を読んだ朝は、家政と利払いの行に散ったと思っていた。もう残っていない、と。早読みだった。
「石炭屋と蝋燭屋で、帳面を開いてもらいました」
昼前、クラウスが帳場に戻ってきた。外套の肩が坂の埃でうすく白い。
「侯爵家の払いは六年とも手形でございます。振り出しはラウエンブルク領の代官」
「金貨ではなく」
「金貨は一枚も。厨房も馬糧も衣装も、同じでございました」
父は帳場の自分の椅子で、明細の綴りを膝に載せていた。ベルトラム先生には、今朝も止められたらしい。昨日クラウスが挟んだ紙片が、家政の行ごとに頭を出している。
「領地の上がりで家政を回しておるわけだ」
「では、明細の家政の行は」
「持参金で払っておらん行を、持参金の明細に並べた。使ったように見せるためにな」
私は綴りを受け取った。六年分の紙が、膝の上でずしりと沈んだ。
「持参金から払った先は三つしかありません。利払いが年に二百。六年で千二百。医薬が三千五百十六」
「支度の行のうち、持参金から払ったのは一つだけでございます」
クラウスが言い添えた。
「三百。貴族街の金細工師で、品は指輪が一つ」
侯爵夫人の指に指輪があったかどうか、思い出せなかった。見ていたのは、いつも手袋の指先だった。
「一万二千から、千二百と三千五百十六と三百を引きます」
暗算で引いた。
「六千九百八十四。払った先が、どこにもありません」
「金庫か」
「見てはいません。でも、出ていないならあの家の金庫に残っているはずです」
私は綴りを父の膝へ戻した。父はそれを、膝の上で軽く叩いた。
「返さん、と書いてきた。返す金がないのではない」
「婚礼の翌朝に、婚家の金にするつもりでした」
誕生日の翌朝の婚礼は、そのための日取りだった。式が挙がれば持参金はあの家のものになる。明細もそこで終わる。
「旦那様。羊毛の買付帳を、お持ちしました」
戸口に商会の羊毛の番頭が立っていた。革の背の帳面を胸に抱え、もう片方の手に紙の包みを提げている。
「わしが頼んだ」
父が私に言った。
「利払いが年に二百で済む借財ではない。王都の両替商なら、噂で知っとる。足りん分を、どこから払っておるか」
「うちが北の荷の代金を、侯爵家の名義で払っておる。番頭がそう言っとった」
番頭は卓に帳面を開いた。綴じ糸が古く、頁の角が丸くなっている。
「北の丘陵の荷でございます。ハルデン領の代官から毎年二百俵。一俵二リーヴルで、年に四百。北の丘陵渡しの値でございます」
番頭の指が行の右端へ動いた。
「支払先は代官ではございません。ラウエンブルク侯爵家の名義でございます」
「ハルデン領」
口に出すと、声が低くなった。
「ギーゼラの領地です」
「六年、同じ数でございます。その前の年までは、支払先がハルデン男爵家でした」
うちの商会があの子の羊毛を買っていた。払った四百は、侯爵家へ届いていた。あの子ではなく。
「お支払いはゲルデン両替組合の手形でございます」
「その先は、わたくしが」
クラウスが懐から紙を一枚出した。
「今朝、番頭どのから北の荷の払い口を伺いました。それで組合へも回りました。うちの手形がどの口に入ったか、写しだけいただいてまいりました」
写しには組合の印があった。ヴァイル商会振り出しの手形が四百。入った口はラウエンブルク家の利払いの口。その下に、組合の書記の字で一行。当口、年に六百。
明細の利払いの行と同じ両替組合の名だった。
四百。二百。六百。
暗算も要らない足し算だった。羊毛の上がりが四百。私の家の金貨が二百。合わせて、利息の一年ぶん。
「ギーゼラが領地を継げば、四百はあの子に戻ります」
「領地の上がりは家政で消える」
父が言った。
「さっきクラウスが当たってきたとおりだ。四百が抜ければ、六百は払えん」
「金庫には、まだ六千九百八十四が残っているはずです」
「あれは持参金じゃ。一枚でも引けば、年次の明細に行が立つ。明細を読むのはうちだ」
父は綴りの利払いの行を指で押さえた。
「二百までなら、家政の顔で通る。六百並べれば、古い借財を持参金で払っとると、わしに知れる」
明細に載せてよい額が二百。残りの四百は、明細の外から持ってくるしかなかった。
「だから、ハルデン領の四百が要った。だから二十歳を越えさせたくなかった」
言葉にすると、それだけのことだった。
それだけのことの向こうに、離れの寝台があった。六年、窓の外の林檎の枝だけを見ていた顔があった。羊毛の値と利息の一年ぶんのために、あの子は眠らされていた。
「……ひつじ」
戸口で小さな声がした。
ギーゼラが、壁に手をついて立っていた。廊下を歩く練習の途中だったのだろう。母親の外套の裾が、膝のあたりで揺れている。
「ひつじのにおいがする」
番頭が、提げていた紙の包みを解いた。白い毛の一房が出てきた。去年の荷の見本だという。
私は指先でつまんでみた。脂が指の腹に残る。洗う前の毛はこんなに重たい。
「どこの」
「北の丘陵の、ハルデン領のでございます」
ギーゼラが一歩ずつ卓まで来た。一房を両手で受け取って顔に寄せた。
「……うちの、におい」
しばらく、そのまま動かなかった。
「エルネスタ。いま、よんひゃくって言った」
聞こえていた。ごまかす言い方を私は持っていなかった。
「あなたの領地の年収です。後見人として、侯爵家が受け取っていました」
「しってる。院のひとの紙でよんだ」
「その四百で、侯爵家は借財の利息を払っていました」
ギーゼラは毛の房を胸に抱えた。
「くすりは」
「昨年の薬代は年に九百六十。ハルデン領の年収は四百です」
誰も口を開かなかった。番頭が帳面を閉じかけて、やめた。
「……わたしのくすりのほうが、たかいのね」
「高くついたのは、あなたの薬ではありません」
私は言った。
「九百六十を自分の財布から払って、四百を守る商人はいません。あの家は、うちの財布から払っていました」
私の持参金だった。
「わたしがおきると、よんひゃく、なくなるの」
「なくなりません。あなたのところへ、戻るだけです」
「……もどる」
ギーゼラは一房に鼻をうずめたまま言った。
番頭が包みの紙を畳もうとした。
「その見本は置いていってください」
「帳場にでございますか」
「羊毛を帳場に置いた日は、帳面が合う。うちでは、そう言います」
「言うのはお前と、お前の祖母だけだ」
父が言った。番頭は紙だけを畳んで下がった。買付帳と組合の写しは、卓に残した。
午後、クラウスが来客を告げた。
「薬種店のハーゲン殿でございます。旦那様がゆうべ書かせたお手紙へのご返事だそうで」
ハーゲン店主は、木の箱を両腕で抱えて入ってきた。箱の角が擦れて、白く毛羽立っている。
「請求書の控えでございます。ラウエンブルク家の分を六年」
蓋を開けると、離れの棚と同じ甘い匂いが帳場に出た。
ギーゼラが椅子の背に手をかけた。
「……あまい」
「部屋へ戻りますか」
「こわい。……でも、ここにいる」
ギーゼラは羊毛の房を口もとに当てた。羊毛の脂と草の匂いのほうが、甘い匂いより先に鼻へ来た。
店主の目がギーゼラに向いた。
「こちらのお方は」
「ギーゼラ・ハルデンです」
私が答えた。店主の手が、箱の縁を握り直した。
「ハルデンの、お嬢様」
六年のあいだ、宛名だけで知っていた名だった。
店主は箱のいちばん上から黄ばんだ紙を一枚抜いた。
「最初の指示書でございます。フーゲル先生のお手で六年前の冬の日付。十日分とだけ」
「十日分」
「先生は、四年前に亡くなられました。お弔いには、私も参りました」
店主はそこで息を吸った。
「十日が過ぎても、先生が亡くなられてからも、同じ紙で売り続けました。家令さまのご注文のまま、三瓶が九瓶になるまで。新しい先生のお名前を、私は一度も確かめませんでした」
「組合の決まりでは確かめるものですね」
「確かめるものでございます」
言い訳の続きを、私は待った。続きはなかった。
「控えは、本審査の綴りに出します。ご主人のお名前も、そこに載ります」
「載せてください。そのつもりで、六年分を抱えてまいりました。院から呼ばれれば、私が自分で参ります」
「呼ばれます」
「はい」
店主は箱を卓に置き、ギーゼラに頭を下げた。
「お嬢様が、よくお休みに——」
言いかけて店主は口を閉じた。あの日、店の扉の前で私の背中にかかった挨拶だった。
「わたし、おきてます」
ギーゼラが言った。羊毛の房を抱いたまま、まっすぐに店主を見ていた。
店主は深く頭を下げた。ギーゼラは羊毛の房を、請求書の箱の隣へそっと置いた。
フーゲル医師の指示は、十日分。店主は家令の注文のまま売った。家令は、夫人の言うまま頼んだ。
では、毎日の匙の量を決めていたのは誰だったのか。
毎日の量を書きとめた帳面なら、マルタの字で二冊、うちの帳場にある。
店主が帰ったあとも、卓には請求書の箱と羊毛の一房が並んで残った。
甘い匂いの箱の隣で、北の丘陵の白がまだ脂の匂いをさせていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
羊毛の見本は、最初の構想にはありませんでした。番頭が買付帳だけを持ってくる予定だったのですが、書いているうちに「羊毛の商人なら、手ぶらでは来ないだろう」と思いました。羊毛の仲買は、荷ごとに一房ずつ見本を取っておくそうです。脂のついたままの毛は、思っているよりずっと重いと聞いて、エルネスタの指に持たせることにしました。
ハーゲンが「よくお休みに」と言いかける場面は、第三話で彼が帰り際に口にした挨拶からつながっています。あのときは親切な店主の、ただの決まり文句でした。同じ言葉を、六年目に宛名の本人の前で言いかける。書いた私のほうが、先に口を閉じたくなりました。
それから、エルネスタの祖母の言い伝え。帳場に羊毛を置くと帳面が合う、というのは、ヴァイル家が羊毛の仲買で財を成した頃にできた言葉だという裏設定です。言っているのは本当に二人だけです。
次回、第二十四話「六年の帳面」。マルタの字で書かれた、二冊の帳面の話です。
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