第24話: 六年の帳面
「初めの頁は、わたくしの字ではございません」
台所の竈の前で、マルタはそう言った。膝の上に帳面が二冊重ねてあった。
夕の鐘はとうに鳴り終わっていた。父はベルトラム先生に寝室へ戻されている。午後に店主が置いていった請求書の箱は、帳場の卓に残したままだ。
毎日の量を決めていたのは誰か。店主が帰ったあと、帳場で私はそう訊いた。マルタは答えなかった。卓から帳面を二冊だけ取って、黙って出ていった。
探しに下りてきたのは、ギーゼラのほうが先だった。マルタが髪を梳きに来ない、と言う。寝間着のまま私の袖を引いた。
マルタは上の一冊を取った。薄茶色の古いほうだ。
表紙の角は丸くすり減っていた。つまんでみると革ではない。厚紙に布を貼ったものだ。布の目は、濡れた手で何度も持たれて潰れていた。下の一冊は、角がまだ硬かった。
「では、どなたの字ですか」
「お母さまの字でございます。お嬢さまの」
マルタが表紙をめくった。
細い字だった。行の頭が少しずつ右へ傾いている。インクは褪せて、茶に近い色になっていた。
母君の代から仕えている。それは、あの月曜に離れの戸口で聞いていた。
「ハルデン家に、長くいたのですね」
「ハルデンのお家へは、お母さまのお輿入れについて参りました」
マルタは頁の端に指を添えた。
「その前は、お母さまのお里で。お母さまが十二の年からお仕えしております。わたくしが初めに『お嬢さま』とお呼びしたのは、お母さまでございました」
母君の侍女だった。家に仕えたのではなく、その人に仕えていた。
「……おかあさまの、字」
ギーゼラが腰掛けから身を乗り出した。頁に顔を寄せる。
「みっつの、ふゆ。ねつ、ふたばん」
一行ずつ声に出して読んでいく。
「ななつ。じを、おぼえる。……おきゃくにいった、はる」
そこで一度息を継いだ。
「ラウエンブルクの、なかにわで、りんごをかく。えだのかげがうまい」
「よく、褒めておいででした」
マルタが言った。
ギーゼラは返事をしなかった。羊毛の脂が残る指でその行の横をなぞっていた。
マルタが頁を繰った。母君の字は帳面の四分の一ほどで終わっていた。
最後の行は七年前の秋の日付だった。冬の外套、ギーゼラの分も仕立てること。
その下は、半頁ほど白かった。
次の頁から字が変わった。行の頭がまっすぐに揃って、筆の押しが強い。
私は頁の裏に指を当てた。紙の裏まで字の形にかすかに膨らんでいる。母君の頁の裏は平らだった。同じ紙でも、押す手が違うと裏の手触りが違う。
「これが、わたくしの字でございます」
マルタは最初の行を読んだ。
「離れ、二日目。晩。一匙」
「二日目から、ですか」
「一日目の晩は、ございません」
マルタは行の上に指を置いたまま言った。
「奥さまが、今夜はわたくしが、と仰せになりました。わたくしは廊下に下がっておりました」
寝間着の膝の上で、ギーゼラの指が丸くなった。
「お声がやみましたのは、だいぶ経ってからでございます。……わたくしは廊下でほっといたしました。泣きやまれた、と」
竈の火が小さく爆ぜた。
「見ておりませんので書いておりません。カップに何が入っていたのかも、その晩の量も」
この帳面には、運んだ人の名の欄がない。あの土曜にそれを知った。見たことしか書かない人の帳面だったのだ。
「翌朝に家令さまが瓶と匙をお持ちになりました。眠れぬ晩のお薬で、晩に一匙。フーゲル先生のお指図だと」
「先生の指図の紙を、見ましたか」
「紙は拝見しておりません。先生のお名前は存じ上げておりました」
マルタは頁を押さえる指に力を入れた。
「お医者さまのお薬でございますから。初めの年は信じておりました」
「なぜ、書き始めたのですか」
「この子のことは書いておきなさいと、お母さまが。熱の出た晩も字を覚えた日も。この帳面は、わたくしがお預かりしておりましたので」
「続きを、書いたのですね」
「ほかに、続ける者がおりませんでした」
マルタが頁を繰っていく。同じ形の行が並んでいた。晩、一匙。晩、一匙。薄茶色の帳面は、その行で最後の頁まで埋まっていた。
マルタは古いほうを膝に戻した。角の硬い一冊を開く。
二年目の春の行に、小さな書き添えがあった。
晩、一匙半。行の終わりにひと回り小さな字で、家令より。
「増えた日は四度ございます。どれも半匙ずつでございます。四度とも、家令さまが離れの戸口でそう仰せでした」
マルタは四つの行を、一つずつ指でたどった。二度目から、朝の行が加わっていた。朝、半匙。最後の書き添えは去年の春だった。
朝、一匙半。晩、一匙半。
初めの年は一日に一匙。それが三匙になっていた。あの月曜に先生が言った三倍は、この四行を足したものだった。
「家令は、瓶を数えたことがなかったのですよね」
「一度も、ございません」
瓶を一本も数えなかった人が、量だけは離れまで運んできていた。
「二度目に増えた日の、翌月でございます」
マルタが言った。私が訊く前だった。
「お目覚めが一日に二度ほどになりました。わたくしは本館へ参って、家令さまに申し上げました。お眠りが長すぎます、と」
「家令は、何と」
「奥さまのお指図だ、と。不服なら暇を取らせて、別の者に替える、と」
「それで」
「残りました。わたくしが出ましたら、量を書く者がいなくなります」
私は書き添えの小さな字を見た。家令より。四つとも、同じ字だった。
「この帳面には、家令の名しかありません」
「量のことで奥さまのお口から伺ったのは、あの木曜が初めてでございます。それまでは、家令さまを通してのみ。伺っておりませんので、書いておりません」
家令が誰の言葉を運んできたのか。それは紙ではなく、この人の口にしか残っていない。
院の踊り場で聞いた審査官の声を思い出した。記録の席で伺った言葉でなければ、綴りには入りません。
「本審査まであと二十九日あります。その席で、今の話をもう一度」
「申します」
頼み終える前に、マルタは答えた。
「それから、もう一つ申し上げます。これは審査の席でなくとも」
マルタは帳面から手を離し、膝の上で両手を重ねた。
「訊かれましたらお見せするつもりでおりました。六年、毎晩そう思って書いておりました」
「はい」
「訊かれるのを待っておりました。六年のあいだ、わたくしのほうから見せに参ったことは、一度もございません。後見院がどこにあるのかも調べませんでした」
二冊に並んだ毎晩の行。数えればすぐに出る数だった。私は数えなかった。出てきた数をこの人の前に置いても、何にもならない。
「あの月曜に先生が三倍と言えたのは、この帳面があったからです」
「存じております」
「それでも、ですか」
「それでも、でございます」
マルタは角の硬い一冊を閉じて、薄茶色のほうを開き直した。
母君の字の中ほどで手が止まった。みっつの冬とななつの間。ギーゼラが飛ばして読んだ一行があった。
「いつつの、冬」
今度は、マルタが自分で読んだ。
「眠れぬ晩は、両手を包んでやること。じきに眠る」
読み終えても、マルタの指はその行の横から離れなかった。水仕事で節の張った指だった。
「お母さまはそうして寝かしつけておいででした。わたくしも横で何度も拝見しております」
マルタは顔を上げなかった。
「……お嬢さまの手を、六年、誰も温めませんでした」
竈の中で、薪が一度だけ崩れた。
ギーゼラが腰掛けから下りた。帳面の上のマルタの手を取って、両手で上から包んだ。
「マルタの手、つめたい」
「……水仕事の手でございますので」
「わたしのも、まだつめたいの」
ギーゼラは包んだ手を放さなかった。
「でも、ふたつでつつむと、じきにねむる。おかあさまの字にかいてある」
ギーゼラはマルタの顔をのぞきこんだ。
「マルタ、ねむくなったら、ねていいよ」
「……侍女は、座ったまま眠るものでございます」
あの水曜に隅の椅子で背を伸ばしたまま寝息を立てていた人が、真顔で言った。
ギーゼラの口もとだけが、ほどけた。
私はマルタの膝の二冊の背に指を当てた。六年分の膨らみが指の腹の下にあった。
「この二冊を、本審査の綴りに出させてください。初めの頁から」
「お母さまのお書きつけも、でございますか」
マルタが顔を上げた。ギーゼラのほうが先に答えた。
「だして。……おかあさまの字も、院のひとにみてもらう」
マルタは少しのあいだ、包まれた自分の手を見ていた。
「かしこまりました」
ギーゼラの手がほどけると、マルタは前掛けの隠しから古い木の櫛を出した。
「お髪に、羊毛の屑がついております」
白い屑を指でつまんで、竈の灰へ落とす。ギーゼラは腰掛けの上で、頭だけをマルタのほうへ傾けた。
マルタの左手が薄い金の髪の根元を軽く握った。右手の櫛は毛先から入っていく。
「おかあさまにも、こうしてた?」
「お母さまのお髪は、十二の年から梳いております」
「おかあさま、じっとしてた?」
「いいえ。櫛のほうを、お急ぎになる方でございました」
あの水曜に離れで、私が言われたのと同じ言い方だった。
マルタは櫛を動かしたまま目だけで私を見た。何も言わなかった。言わない分だけ顔に出ていた。
ギーゼラは目を閉じていた。
古い木の櫛は、毛先から根元まで、一度も止まらずに通った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
マルタの薄茶色の帳面は、もともとギーゼラのお母さんの覚え帳だった、という設定は、第七話でマルタが古い帳面の「途中を開いた」と書いたときから決めていました。お医者さんの前で初めの頁を開かなかったのは、そこが自分の字ではなかったからです。四分の一ほどのお母さんの頁は、娘の熱や背丈を書いていくうちに、自然と埋まっていったものだと思っています。
マルタが「見たことしか書かない」人になったのも、書いていて決まりました。最初の夜の行が無いことを、責任逃れにしたくなかった。廊下で「ほっとした」と本人に言わせたのは、その代わりです。書きながら、こちらの手のほうが重くなりました。
「侍女は、座ったまま眠るもの」の一言は、台本にはありませんでした。ギーゼラに「ねていいよ」と言われたマルタが、真顔でどう返すかを考えていたら、勝手にこう答えていました。
次回、第二十五話「そうか」。六年、ほとんど口を開かなかった人の話です。
ブックマークや評価をいただけると、マルタが帳面を開く速さで、続きの頁を書きに戻ってこられます。




