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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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8/19

第8話: 四十日

 離れの戸口で、マルタの袖が私の手に触れた。


「お嬢さまのお誕生日のことでございます」


 部屋にはベルトラム先生が残っている。私たちが外へ出る前に、寝台のそばへ椅子を寄せてくださった。


 マルタは戸を閉めた。掛け金は下ろさなかった。


「ギーゼラさまのお誕生日ですか」


 マルタは口を開きかけ、閉じた。


 風が庇の下まで入ってきた。袖を離したマルタの指が、腰の鍵を包んでいる。鍵の先が前掛けを押し出した。


 私は庭へ下りかけていた足を戻した。


 促せば話してくれそうだった。けれど木曜にも、薬は彼女の手の中にあった。薬瓶を私に見せても、持ち出させはしなかった手だ。


 林檎の枝がこすれた。今度は部屋の外から、その音を聞いた。


「奥さまからのお話は、家令を通して参ります」


 ようやくマルタが言った。


「先日も成人の支度について連絡がありました。お嬢さまは今のままではご自分のことを決められない。二十歳になっても後見を続ける支度を、と」


「二十歳になっても?」


「お誕生日までに治らなければ仕方がないと、家令は申しました」


 戸の木目に指を置いた。日に当たったところだけ、ぬるかった。


「いつなのですか」


「あと四十日でございます」


 マルタは今度は止まらなかった。


「生まれた日から存じております。お母さまの代からお仕えしておりましたので。お嬢さまはあと四十日で二十歳になります」


 四十日。


 ギーゼラさまは私より一つ下だった。知っていたはずなのに、寝台に横たわる姿と年齢がうまく重ならない。


「二十歳になれば、ハルデンの領地を継がれるのですね」


「本来ならば。そのために奥さまがお預かりになった領地です」


「なのに、後見を続ける支度をしている」


 マルタの口元が歪んだ。笑おうとした形ではなかった。


「長くお休みになっているから仕方がない、と仰るのでしょう。お休みになる薬を毎日届けておいて」


 最後だけ声が擦れた。


 私は鍵を包む指を見た。マルタは前掛けから手を離し、戸の取っ手へ移した。


「私も飲ませております。奥さまだけがしたようには申しません」


「マルタ。眠ったまま誕生日を迎えたら、どうなるのですか」


「ご自分で判断できるか審査されるそうです。お返事もできないままなら、成人しても後見が続くと聞きました」


「そのあとで目が覚めれば」


「すぐ終わるものではないそうです。私には詳しいことまでは」


 取っ手が少し動いた。マルタはまだ開けなかった。


「ですから今、お伝えしなければと思いました」


 病気がよくなるまで待つ。


 その言葉を私は本館の応接で聞いてきた。離れでは同じ言葉で、ギーゼラさまの誕生日が過ぎようとしていた。


 私の婚礼は日取りさえ決まらなかった。けれど彼女の二十歳は、待ってはくれない。


「知らせてくださってありがとうございます。後見のことは私が確かめに行きます」


「奥さまへ?」


「後見院へ。どうすればギーゼラさまご自身の話を聞いていただけるか、尋ねます」


 マルタが私の顔を見た。鍵の跡が、指の腹に赤く残っていた。


「私は中へ戻ります」


 取っ手を回す手に、今度は迷いがなかった。




 先生は椅子に座ったまま話を聞いてくださった。マルタが寝台の反対側へ戻り、掛布に手を添える。


「四十日か」


「薬を減らすには、どれくらいかかりますか」


「三週間は見ておく。少しずつじゃ。脈と息を見ながら進める」


 先生は瓶を持ち上げた。


「苦しくなれば減らすのを止める。予定の日に合わせて体を急かすわけにはいかん」


「三週間でお話ができるようになるとは限らないのですね」


「限らん。それより早く目が合うかもしれんし、起きていても話す力が戻らんこともある」


 瓶が卓に戻された。こつ、と小さく鳴った。


 四十から二十一を引く。十九。


 指を折るまでもなかった。三週間を減量に使っても十九日ある。だが、その十九日で何ができるかは数字の中にはなかった。


 私は寝台へ目を向けた。ギーゼラさまの唇が少し開いている。問いを置いても、まだ答えは返ってこない。


「今夜から始められますか」


「夕方の分から調整するつもりじゃ。その前にもう一度診る」


「奥さまは瓶もお確かめになります」


 マルタが言った。


「残りが合わなければ、私にお訊きになります。私が外されて、別の者に元の量を飲まされたら」


 先生は瓶の底を眺め、手の中で回した。


「味と見かけを揃えるものは作れる。蜂蜜と苦味草を使おう。まず薬を減らした分を補う。最初から全部を替えるのではないぞ」


「私が間違えずにお出しできますか」


「分かる印を付ける。何をどれだけ飲んだか分からなくしては治療にならん。夕方までにやり方を見せよう」


 マルタは頷きかけて、先生の鞄を見た。


「必要なものは、今お持ちですか」


「取りに戻らねばならん。それまではここで様子を見る」


「でしたら私が家へ使いを出します。必要なものを教えてください」


 私が言うと、先生は顔を上げた。


「お父さまにも事情を伝えます。先生がお戻りになるのを待っていては困りますから」


「それがよい。伯爵の今日の様子も聞いてきてもらおう」


 書類挟みを開いた。請求書の写しの下から、控え用の紙を取り出す。先生に差し出した。


 書いてもらうものがあった。届けさせるものがあった。


 私は卓の筆を先生のほうへ向けた。


「後見院へは明日行きます。治療を待ってからでは遅くなりますから」


「行ってきなさい。ただし、誕生日に治すという約束はできん」


「先生にはギーゼラさまのお体を診ていただきたいのです。期限までに何が要るかは私が聞きます」


 先生の筆が止まった。


「両方とも、思うようにはいかんかもしれんぞ」


 マルタもこちらを見ていた。


 四十日。減量に三週間。その先に十九日。


 もっとかかれば、その分だけ残りは減る。数えなかったことにしても、日付は過ぎる。


「では、数えます」


 私は紙を押さえた。


「薬を減らし始めて何日か。誕生日まであと何日あるか。先生の予定が変われば、そのたびに数え直します」


 筆先がまた動いた。マルタは投薬の帳面を自分の側へ引き寄せた。


 私はギーゼラさまの足元へ回った。肩掛けを包んできた布が畳んである。その下に自分の手袋を見つけ、拾い上げた。


 この家を出る支度なら、何度もした。


 ゼバスティアンさまが離れから戻るのを待ち、彼の言葉を聞いてから手袋をはめた。次は婚礼の話が進むかもしれないと思って、また来た。


 今日も月曜だった。彼が見舞いに来る日だ。


 応接へ行けば彼を待てる。私は足をそちらへ向けなかった。


 寝台のそばへ行く。ギーゼラさまの手は肩掛けの下に隠れている。起こさないよう、布越しに指の位置だけ確かめた。


「家に知らせてまいります」


 瞼は閉じたままだった。


 その眠りを同意の代わりにはしなかった。目が覚めたら訊く。行きたい場所も、したいことも。私が先に決めてしまわずに聞く。


 けれど、ギーゼラさまを眠らせる人のそばに置いたまま待つのは、今日で終わりにする。


 先生が父への紙を折った。私は受け取って袖にしまい、戸口へ向かった。指が手袋の口に入ったところで止まった。


 手袋をはめずに畳み、戸の取っ手を素手で握った。


 玄関へ回ると、うちの御者が馬車のそばにいた。私を見て客車の扉に手をかける。


「お帰りでございますか」


「この紙をお父さまへ。先生に必要なものを持って戻ってください。お父さまのお加減も聞いてきて」


 差し出すと、御者は紙を受け取った。けれど扉から手を離さなかった。


「お嬢さまは、お乗りにならないので?」


「離れに戻ります。先生とマルタが待っていますから」


「では若さまとのお話のあとで、お迎えに」


「ゼバスティアンさまは待ちません」


 御者の手が扉から離れた。


 自分で言った名が喉に残った。いつもなら、どれほどかかっても待つように頼んでいた。御者もそのつもりで馬を休ませていたのだろう。


「夕方のお薬に間に合わせたいのです。帰りの時刻は先生と決めます」


 御者は紙を上着の内へ収め、空の客車を閉めた。


 私は車輪から離れた。馬車が動き出す。呼び止めればまだ届く距離を、そのまま見送った。


 手には手袋だけが残っていた。片方は指が折れ曲がっていたが、直さずに二枚とも書類挟みにしまった。


 四十日。私は婚約者を捨てる。彼の幼馴染を連れて。


 戻る私の前に、離れの戸があった。ギーゼラさまが自分の手でこの戸を押せる日まで、私はここへ来る。


 取っ手に触れた指は、手袋の縫い目に締めつけられずに曲がった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八話まで書いて、ようやくこの題を置けました。「四十日」は短い題ですが、執筆用のメモには日付の計算がずいぶん増えました。月曜から始めて、三週間後は何日残るのか。途中で一日ずれると後の話まで変わるので、場面を書く前に何度も数えています。


今回はマルタが戸を開けるまでに時間がかかりました。すぐに話し始める形でも書けるのですが、前掛けを握っている手が気になって、そこから先へなかなか進めませんでした。ようやく部屋へ戻ってくれたので、次の場面に進めました。


次回は第九話「蜂蜜と苦味草」。夕方の離れへ続きます。


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