第8話: 四十日
離れの戸口で、マルタの袖が私の手に触れた。
「お嬢さまのお誕生日のことでございます」
部屋にはベルトラム先生が残っている。私たちが外へ出る前に、寝台のそばへ椅子を寄せてくださった。
マルタは戸を閉めた。掛け金は下ろさなかった。
「ギーゼラさまのお誕生日ですか」
マルタは口を開きかけ、閉じた。
風が庇の下まで入ってきた。袖を離したマルタの指が、腰の鍵を包んでいる。鍵の先が前掛けを押し出した。
私は庭へ下りかけていた足を戻した。
促せば話してくれそうだった。けれど木曜にも、薬は彼女の手の中にあった。薬瓶を私に見せても、持ち出させはしなかった手だ。
林檎の枝がこすれた。今度は部屋の外から、その音を聞いた。
「奥さまからのお話は、家令を通して参ります」
ようやくマルタが言った。
「先日も成人の支度について連絡がありました。お嬢さまは今のままではご自分のことを決められない。二十歳になっても後見を続ける支度を、と」
「二十歳になっても?」
「お誕生日までに治らなければ仕方がないと、家令は申しました」
戸の木目に指を置いた。日に当たったところだけ、ぬるかった。
「いつなのですか」
「あと四十日でございます」
マルタは今度は止まらなかった。
「生まれた日から存じております。お母さまの代からお仕えしておりましたので。お嬢さまはあと四十日で二十歳になります」
四十日。
ギーゼラさまは私より一つ下だった。知っていたはずなのに、寝台に横たわる姿と年齢がうまく重ならない。
「二十歳になれば、ハルデンの領地を継がれるのですね」
「本来ならば。そのために奥さまがお預かりになった領地です」
「なのに、後見を続ける支度をしている」
マルタの口元が歪んだ。笑おうとした形ではなかった。
「長くお休みになっているから仕方がない、と仰るのでしょう。お休みになる薬を毎日届けておいて」
最後だけ声が擦れた。
私は鍵を包む指を見た。マルタは前掛けから手を離し、戸の取っ手へ移した。
「私も飲ませております。奥さまだけがしたようには申しません」
「マルタ。眠ったまま誕生日を迎えたら、どうなるのですか」
「ご自分で判断できるか審査されるそうです。お返事もできないままなら、成人しても後見が続くと聞きました」
「そのあとで目が覚めれば」
「すぐ終わるものではないそうです。私には詳しいことまでは」
取っ手が少し動いた。マルタはまだ開けなかった。
「ですから今、お伝えしなければと思いました」
病気がよくなるまで待つ。
その言葉を私は本館の応接で聞いてきた。離れでは同じ言葉で、ギーゼラさまの誕生日が過ぎようとしていた。
私の婚礼は日取りさえ決まらなかった。けれど彼女の二十歳は、待ってはくれない。
「知らせてくださってありがとうございます。後見のことは私が確かめに行きます」
「奥さまへ?」
「後見院へ。どうすればギーゼラさまご自身の話を聞いていただけるか、尋ねます」
マルタが私の顔を見た。鍵の跡が、指の腹に赤く残っていた。
「私は中へ戻ります」
取っ手を回す手に、今度は迷いがなかった。
先生は椅子に座ったまま話を聞いてくださった。マルタが寝台の反対側へ戻り、掛布に手を添える。
「四十日か」
「薬を減らすには、どれくらいかかりますか」
「三週間は見ておく。少しずつじゃ。脈と息を見ながら進める」
先生は瓶を持ち上げた。
「苦しくなれば減らすのを止める。予定の日に合わせて体を急かすわけにはいかん」
「三週間でお話ができるようになるとは限らないのですね」
「限らん。それより早く目が合うかもしれんし、起きていても話す力が戻らんこともある」
瓶が卓に戻された。こつ、と小さく鳴った。
四十から二十一を引く。十九。
指を折るまでもなかった。三週間を減量に使っても十九日ある。だが、その十九日で何ができるかは数字の中にはなかった。
私は寝台へ目を向けた。ギーゼラさまの唇が少し開いている。問いを置いても、まだ答えは返ってこない。
「今夜から始められますか」
「夕方の分から調整するつもりじゃ。その前にもう一度診る」
「奥さまは瓶もお確かめになります」
マルタが言った。
「残りが合わなければ、私にお訊きになります。私が外されて、別の者に元の量を飲まされたら」
先生は瓶の底を眺め、手の中で回した。
「味と見かけを揃えるものは作れる。蜂蜜と苦味草を使おう。まず薬を減らした分を補う。最初から全部を替えるのではないぞ」
「私が間違えずにお出しできますか」
「分かる印を付ける。何をどれだけ飲んだか分からなくしては治療にならん。夕方までにやり方を見せよう」
マルタは頷きかけて、先生の鞄を見た。
「必要なものは、今お持ちですか」
「取りに戻らねばならん。それまではここで様子を見る」
「でしたら私が家へ使いを出します。必要なものを教えてください」
私が言うと、先生は顔を上げた。
「お父さまにも事情を伝えます。先生がお戻りになるのを待っていては困りますから」
「それがよい。伯爵の今日の様子も聞いてきてもらおう」
書類挟みを開いた。請求書の写しの下から、控え用の紙を取り出す。先生に差し出した。
書いてもらうものがあった。届けさせるものがあった。
私は卓の筆を先生のほうへ向けた。
「後見院へは明日行きます。治療を待ってからでは遅くなりますから」
「行ってきなさい。ただし、誕生日に治すという約束はできん」
「先生にはギーゼラさまのお体を診ていただきたいのです。期限までに何が要るかは私が聞きます」
先生の筆が止まった。
「両方とも、思うようにはいかんかもしれんぞ」
マルタもこちらを見ていた。
四十日。減量に三週間。その先に十九日。
もっとかかれば、その分だけ残りは減る。数えなかったことにしても、日付は過ぎる。
「では、数えます」
私は紙を押さえた。
「薬を減らし始めて何日か。誕生日まであと何日あるか。先生の予定が変われば、そのたびに数え直します」
筆先がまた動いた。マルタは投薬の帳面を自分の側へ引き寄せた。
私はギーゼラさまの足元へ回った。肩掛けを包んできた布が畳んである。その下に自分の手袋を見つけ、拾い上げた。
この家を出る支度なら、何度もした。
ゼバスティアンさまが離れから戻るのを待ち、彼の言葉を聞いてから手袋をはめた。次は婚礼の話が進むかもしれないと思って、また来た。
今日も月曜だった。彼が見舞いに来る日だ。
応接へ行けば彼を待てる。私は足をそちらへ向けなかった。
寝台のそばへ行く。ギーゼラさまの手は肩掛けの下に隠れている。起こさないよう、布越しに指の位置だけ確かめた。
「家に知らせてまいります」
瞼は閉じたままだった。
その眠りを同意の代わりにはしなかった。目が覚めたら訊く。行きたい場所も、したいことも。私が先に決めてしまわずに聞く。
けれど、ギーゼラさまを眠らせる人のそばに置いたまま待つのは、今日で終わりにする。
先生が父への紙を折った。私は受け取って袖にしまい、戸口へ向かった。指が手袋の口に入ったところで止まった。
手袋をはめずに畳み、戸の取っ手を素手で握った。
玄関へ回ると、うちの御者が馬車のそばにいた。私を見て客車の扉に手をかける。
「お帰りでございますか」
「この紙をお父さまへ。先生に必要なものを持って戻ってください。お父さまのお加減も聞いてきて」
差し出すと、御者は紙を受け取った。けれど扉から手を離さなかった。
「お嬢さまは、お乗りにならないので?」
「離れに戻ります。先生とマルタが待っていますから」
「では若さまとのお話のあとで、お迎えに」
「ゼバスティアンさまは待ちません」
御者の手が扉から離れた。
自分で言った名が喉に残った。いつもなら、どれほどかかっても待つように頼んでいた。御者もそのつもりで馬を休ませていたのだろう。
「夕方のお薬に間に合わせたいのです。帰りの時刻は先生と決めます」
御者は紙を上着の内へ収め、空の客車を閉めた。
私は車輪から離れた。馬車が動き出す。呼び止めればまだ届く距離を、そのまま見送った。
手には手袋だけが残っていた。片方は指が折れ曲がっていたが、直さずに二枚とも書類挟みにしまった。
四十日。私は婚約者を捨てる。彼の幼馴染を連れて。
戻る私の前に、離れの戸があった。ギーゼラさまが自分の手でこの戸を押せる日まで、私はここへ来る。
取っ手に触れた指は、手袋の縫い目に締めつけられずに曲がった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第八話まで書いて、ようやくこの題を置けました。「四十日」は短い題ですが、執筆用のメモには日付の計算がずいぶん増えました。月曜から始めて、三週間後は何日残るのか。途中で一日ずれると後の話まで変わるので、場面を書く前に何度も数えています。
今回はマルタが戸を開けるまでに時間がかかりました。すぐに話し始める形でも書けるのですが、前掛けを握っている手が気になって、そこから先へなかなか進めませんでした。ようやく部屋へ戻ってくれたので、次の場面に進めました。
次回は第九話「蜂蜜と苦味草」。夕方の離れへ続きます。
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