第7話: 幼馴染は、病弱ではありませんでした
「今朝は、お返事がほとんどありません」
差し出した肩掛けの包みを、マルタは受け取ろうとしなかった。
月曜の朝だった。本館で短い見舞いと肩掛けを届けたい旨を伝え、取り次ぎを待っていた私のところへ、彼女が来た。
「いつもより眠っていらっしゃるのですか」
「朝のお薬のあとからです。声をかけても目を開けない。脈も弱い」
彼女は片手でもう片方の手首を押さえた。指はすぐに手首を放し、彼女は離れへ続く戸口を見た。
「父の侍医が馬車で待っています。診察を頼まれたら入れるようにと」
「奥さまのお許しは」
「まだ頂いていません。昨日のお返事も、確かめるというものでした」
マルタは唇を結んだ。
女中が私たちの脇に立っていた。彼女もマルタの返事を待っている。
「先生に、離れへおいでくださいと伝えて」
マルタが女中に言った。
「奥さまへのお伺いは……」
「私が頼んだとお伝えください。お嬢さまの様子がいつもと違うので、診ていただくと」
マルタがそう言い切ると、女中が足早に玄関へ向かった。マルタはその背を見送り、私のほうへ向き直った。
「あとで訊かれます。どなたが通したかも」
「私も事情を話します」
「私が呼んだことは変えないでください」
彼女は包みに手を添えた。
「お持ちになるなら、今のうちに。先生が来たら私がご案内します」
肩掛けを抱え直して立った。彼女の手の当たったところだけ、包み紙がへこんでいた。
私がギーゼラさまの手を寝台へ戻すと、指は開いたまま止まった。
ベルトラム先生は手首に指を置いていた。胸元の布の上下を見つめ、それから名を呼んだ。
「ギーゼラさん。診察に来たベルトラムじゃ。聞こえるかね」
唇がかすかに動く。声にはならなかった。
先生は瞼を上げ、窓からの明かりを受ける瞳を確かめた。もう一度呼んでから瞼を戻す。
マルタが持ってきた水盤で、先生が手を洗った。指から雫が落ちる。ひとつ落ちるたび、次の息を待ってしまう。
「朝の薬を飲んだ時刻は」
「朝の鐘のあとです。飲む前は私の名を呼ばれました」
「飲んだあとに、食べたり話したりは」
「何も。普段なら匙を口に入れれば召し上がるのに、今日はそれもできません」
「今は無理に口へ入れんように。薬と、飲ませた量の分かるものを見せてくれるか」
マルタは棚の鍵を外した。
出てきた瓶は木曜に見たものと同じだった。伏せた瞼に似た焼き印のある栓。先生はそれを抜き、匂いを確かめた。硝子を窓へ向け、紙に記された薬の名と規格を見た。
私は店でもらった写しを差し出した。
「こちらが初年度と昨年です」
先生は瓶を置いた。マルタは下の引き出しも開けた。
布に包んだ帳面を二冊取り出す。薄茶色の古い一冊と、角のまだ硬い一冊だった。
「毎日つけています。飲ませた時刻と量。残った分も」
古い帳面は途中を開き、今の帳面には指を挟んだ。
「こちらが初めの年です。今朝はこちらに」
先生が椅子を引き寄せた。私は立ったまま写しの端を押さえた。
「この印は何じゃ」
「飲み残しです。残ったときは、飲んだ分だけを横に書きます」
「瓶から出した量ではなく、本人が飲んだ量かね」
「私が口元で確かめています。こぼれた分も引いています」
先生の指が日付を追った。何度か前へ戻り、現在の帳面でも同じように追っていく。
「ほかの誰かに使ったことは」
「ありません。空いた瓶は回収まで取ってあります。今あるものもお見せします」
棚の奥で硝子が触れ合った。
先生は瓶の残りを確かめ、帳面に戻った。新しい瓶を開けた日の印と、空にした日の印。その間には同じ筆跡が途切れずに並んでいた。
「薬の濃さと瓶の大きさは、この二枚にあるとおり変わっていないのだな」
「店からは同じものが届きます。薄め方も変えていません」
「今の量にしてから、起きている時間はどうなった」
「短くなりました。話していても途中で眠られます。量が増えるたびに」
マルタは今朝の行に指を置いた。先生はその指先を見て、寝台へ戻った。
私は写しを持ち上げたまま待った。
初めは月三瓶。今は月九瓶。
知っている数字だった。三瓶から九瓶へ増えた薬を飲んできた人の脈を、先生は今取っていた。
「先生。やはり、薬が強すぎるのですか」
先生が手首をそっと置いた。
「病弱なのではない。眠らされている」
紙が膝に触れた。
持ち上げていた腕を、いつ下ろしたのか分からなかった。
「この深い眠りと反応の鈍さは、薬によるものじゃ」
先生はマルタを見た。
「飲んだ記録も残り方も合う。服用量は六年で三倍になっとる」
マルタの指が帳面から離れた。爪の脇が白かった。
「弱っているから、薬が増えたのでは……」
「この薬を増やせば、もっと起きられなくなる。今朝の脈も呼吸も軽くは見られん」
膝の紙に、昨年の日付が見えた。
「先生。来年の明細まで、私が何も確かめずにいたら」
「今の量をあと一年も続けたら、心臓が保たんとわしは見る」
先生は掛布を戻しかけ、手を止めた。
胸元の布を見ていた。私も見た。窓の外で枝がこすれ、布がわずかに持ち上がった。
先生はその息を見届けてから、マルタに顔を向けた。
「一人にせんように。息が今より弱くなったら、すぐにわしを呼ぶんじゃ」
「ついております」
マルタは寝台のそばへ椅子を引いた。脚が床をこする間も、私は胸元から目を離せなかった。
私は寝台の脇の卓に手をついた。瓶がすぐそばにあった。
「でも、病気でないなら。お薬をやめれば」
「体は傷んでいる。食べる力も歩く力も戻さねばならん。急に薬を絶つのも危ない。わしが診ながら減らす」
私は瓶に手を伸ばした。握ると底の冷たさが指の腹へ入ってきた。
六年前に握ったギーゼラさまの手も、冷たかった。
同じ冷たさを、私は六年、普通だと思っていた。
瓶を持つ手に力が入った。手首の骨が痛んだ。振れば中の薬は動く。それだけだった。
「……その薬代を、私が払っていました」
マルタが顔を上げた。
先生は何も言わなかった。私から瓶を取り上げることもしなかった。
月二十リーヴル。月八十リーヴル。
紙の上なら、間違えずに指を置けた。
寝台にはギーゼラさまの手が出ている。私は空いている手を伸ばしかけ、止めた。
瓶を持ったままでは触れなかった。
「先生。助けられますか」
「助けるために診ている。だが、何もかも元どおりとは約束できん」
先生は私の手から瓶を受け取った。
「この方は薬を減らす途中で腹が痛んだり、震えたりすることもある」
「痛いと仰ったら、そのときも来てくださいますか」
「呼びなさい。わしが判断する」
私は椅子を寄せた。
掛布から出ていた手を両手で包む。力を入れれば握り返してもらえる気がして、指を曲げかけた。
やめて、手の重みを支えるだけにした。
「ギーゼラさま。先生がいらっしゃいました」
瞼は動かなかった。
「私もいます。お返事はなさらなくて大丈夫です」
先生がマルタに次の薬の時刻を尋ねた。
「夕方です」
「飲ませる前にわしの指示を聞いてくれ。勝手に足したり抜いたりせずにな」
マルタは帳面を先生のそばへ寄せた。
私の膝に包みが当たった。肩掛けを持ってきたのだった。
「これを掛けてもよいでしょうか」
マルタが布を確かめて頷いた。私は包みを解き、手を離して肩へ掛けた。
柔らかい毛織物は細い体に沿って沈んだ。窓のほうへ垂れた端を折り、顔に触れないところまで下げる。
目を開けて、暖かいと言ってほしかった。
私は布の端から手を離した。
先生が栓を戻す音がした。マルタは鍵を持ったまま、まだ棚へは近づかなかった。
「ヴァイルのお嬢さま。先生のお話が済みましたら、お伝えしたいことがございます」
私は顔を上げた。
「お薬のことですか」
マルタは寝台を見たあと、扉を見た。
「お嬢さまが、この先どうなるかという話です」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は肩掛けの包みを、どこで開くかに迷いました。前話でエルネスタが選んだものなので、早く渡してあげたくて。でも離れへ着いてからは、それどころではなくなってしまう。書いている私も包みを抱えて待っているような気持ちでした。
ベルトラムの鞄の中身も考えたのですが、道具を並べる文章にはしませんでした。父の部屋では菓子皿を取り上げていた手が、今度は脈を取っている。手の動きを追っているうちに、先生の声が決まってきました。
重い回を最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。次回は第八話「四十日」。同じ月曜の離れから続きます。
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