第6話: 分かりません
手袋の縫い目が指の股に食い込んでいた。私は指を開き、膝の書類挟みから手を離した。
「母上との話は済んだのかい」
ゼバスティアンさまが応接へ入ってきた。外套の片側だけ、裾が折れ上がっている。
「伺いたいことが残っています。ギーゼラさまはいかがでしたか」
「眠っていたよ。手が冷えるから包んでいたんだが、起こすのも悪くてね」
彼は裾を直しながら腰を下ろした。
「君も昨日会ったそうだね。驚いただろう」
「お話の途中で眠ってしまわれました」
「無理をさせないでくれてよかった」
その声に、胸の張りが少し緩みかけた。同じギーゼラさまを見てきた人だった。手の冷たさを話せる人がいた。
私は書類挟みを卓に置いた。
「ギーゼラさまの薬、何の薬かご存じですか」
外套を撫でていた手が止まった。
「薬は、母上が……医者が処方したものだよ。どうしてそんなことを訊くんだ」
目が窓へ動いた。
私の肩越しではなかった。顔ごと少し横を向き、木格子の外を見ている。林檎の枝が揺れていた。
「ハーゲンという店で確かめました。眠り薬だそうです。昼にもあれほど眠る方に必要なのか、分からなくて」
「眠れない夜もあるんじゃないかな」
「そういう夜を、ご覧になりましたか」
「僕は夜通し付いているわけじゃない」
彼の視線が戻った。私を見てから、留め紐へ落ちる。
「その紙は何だい」
「店で頂いた請求書の写しです。母君にもお見せしました」
紐を解いた。昨年の写しを出すと、彼は受け取らずに身を寄せた。
「この月九瓶というのは、離れへ買っている本数です。飲んだ量はまだ分かりません。今の量を決めた医師の指示を見たいのです」
「母上に訊けばいい」
「フーゲル先生のお名前は伺いました。処方の紙は見せていただけませんでした。次の診察も分からないままです」
彼は背を起こした。
「ゼバスティアンさまは、診察に立ち会われたことがありますか」
「僕に医者の話をされても困るよ。そういうことは母上が取り仕切っている」
答えを待った。窓の布が膨らんで戻る。彼は写しに手を置かなかった。
「では、次に診ていただく日を一緒に確かめてくださいませんか」
「母上が何もしていないように言わないでくれ。あの人も疲れているんだ」
「何をなさっているのか知りたいのです。お薬で休む必要があるなら、先生から伺いたい」
「君がそこまで背負うことはないよ」
彼の手が卓を越えた。留め紐を持つ私の指に触れる。手袋越しにも温かかった。
「水曜の話なら、すまなかった。君のお父上のことも考えている。婚礼の話も母上にするから」
指が動きそうになった。
婚礼の話をしてくれる。それを待っていた水曜の私が、まだ体のどこかに残っている。
私は手を引かずに顔を上げた。
「今日は婚礼の日取りを伺っていません」
「分かっている。ただ、今までどおり少し任せてほしいんだ。ギーゼラを大切に思っているのは君も同じだろう」
彼は小さく息を吐いた。
「君なら分かってくれるだろう」
「分かりません」
彼の指が止まった。
自分の声が部屋に残っていた。言い直すための息を吸い、私はそのまま口を閉じた。
六年、この言葉に頷いてきた。頷かなかったときの彼の顔を、初めて見た。
「エルネスタ」
「分からないから訊いています。答えていただくまで、分かったとは言えません」
温かい手が離れた。私は写しを戻した。
「君は母上を疑っているのか」
「昨日お会いしたギーゼラさまが心配です。ゼバスティアンさまも、今のままでよいと思われますか」
「よいとは言っていない」
「でしたら、医師に確かめたいという話を聞いてください」
彼は外套の折れ目を引き伸ばした。きれいには戻らず、膝の上に筋が残る。
「母上と話すよ」
「診察の日が分かったらお知らせください。私も父の侍医に相談します」
「外の先生にまで話すのかい」
「私には薬のことが分かりませんから」
私は写しを書類挟みに戻して紐を結び、立ち上がった。
彼は私を呼び止めなかった。扉の前で振り返ると、まだ同じ椅子に座っていた。
帰宅した私を見て、父は寝台の脇に置いた菓子皿を掛布の下へ押した。
その皿の縁を、父の侍医のベルトラム先生がつまんだ。
「隠す元気があるなら、食べた数も言えるな」
「半分だ」
「何の半分じゃ」
「残したほうを数えれば早い」
先生は皿を引き抜いた。私は笑いかけて、うまく笑えなかった。
父が背を起こす。
「侯爵家で何があった」
「お父さまの署名がなければ、追加の資料は私に渡せないと言われました」
私は店の写しを渡した。木曜に店で照合したことから話す。離れで見た瓶の印と、途中で眠ってしまったギーゼラさまのことも。
父は紙を持ったまま聞いた。眠り薬と口にしたところで、目が先生へ向いた。
「これは、その娘のために買った薬なのか」
「宛名はギーゼラさまです。瓶の栓にも店と同じ印がありました。マルタが差し上げていると言いました」
先生が椅子を寄せた。
「その方は呼びかけに答えたかね」
「時間がかかりました。窓を開けたいとは仰いました。でも次の問いには、答える途中で眠ってしまわれて」
「その前に薬を飲んだところは見たか」
「見ていません」
冷たかった手のことも伝えた。先生は私の指でなく顔を見て聞いていた。
「いつから昼にも眠るようになったか分かるかね」
「そこまでは。侍女は起きている時間が短くなったと言っていました」
先生は父から写しを受け取った。
「初めは月三瓶。昨年は月九瓶か」
「同じ大きさと濃さです。購入数は三倍ですが、飲んだ量を確かめるには何が必要ですか」
「世話をしている人から飲ませ方を聞きたい。薬そのものと、ご本人も診たい。紙だけで決めるわけにはいかん」
「会っていただけますか」
「先方から診察を頼まれればな。わしは伯爵の医者じゃ。よその寝室へ勝手には入れんよ」
私は侯爵夫人との面談を伝えた。現在の処方を求めたこと。父の署名が届いても、見せる範囲は夫人が決めると言われたこと。
父は菓子皿を見なくなった。
「署名はする。文面を書きなさい」
「それだけで診ていただけるでしょうか」
「それは別だ。金の使途を問うわしの権利と、その娘を診察する話は同じではない」
父は先生に向き直った。
「こちらからも診察を申し出よう。断られたら返事を残す」
私は卓から紙を取った。厚みを確かめる親指が、今度は滑らかに動いた。
「見舞いは禁じられていません。用件を伝えて取り次いでいただきます」
「診察の返事を待つ間に行くなら、わしも馬車で待とう」
先生は写しを畳まずに返した。
「呼ばれたらすぐ入れる。入れなくても、見てきた様子は聞けるからな」
父が枕へ戻った。私は掛布を引き上げ、皿のあった膨らみを手でならした。
「お父さま。もう隠していませんね」
「お前まで訊くようになった」
今度は少し笑えた。先生が菓子皿を持って立った。
土曜に父の署名を届けても、処方の写しは来なかった。
日曜に届いた返事には、診察の申し出は侯爵夫人が確かめるとあった。月曜の短い見舞いについては、当日の容態を見て取り次ぐという。
私は先生へ返事を見せた。
「明朝、お願いします。診察を頼まれるかどうかはまだ分かりません」
「鞄は持っていく。使わず帰るなら、それでもよい」
先生が鞄の留め金を試した。擦れた革の口が開き、また閉じる。
私は見舞いに持っていく肩掛けを畳み直した。薄すぎる気がして広げ、厚いものを出しかけてやめた。
暖かければよいのではなかった。あの方は窓を開けたかったのだ。
最初に選んだ柔らかい布を包んだ。明日は体に掛けてよいか、マルタに訊こう。
先生の鞄は、玄関の馬車用の荷の隣に置かれた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
エルネスタの持ち物を考えると、つい紙の厚さや留め紐の話に寄ってしまいます。今回は見舞いの品を選ぶ時間も書きたくなりました。贈り物を手に取ってから、相手が欲しかったものを思い出して選び直す。そんな小さな迷いが好きです。
父の菓子皿は書いていて楽しかったところです。病床でも商人の返し方をする人なので、先生に叱られて素直に謝るまでが少し遠い。エルネスタが笑える家を描くと、私も少しほっとします。
次回は第七話「幼馴染は、病弱ではありませんでした」。月曜の見舞いに向かいます。
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