第5話: 二十と八十
請求書を広げようとした手に、茶碗の熱が近づいた。
「先にお茶を。エルネスタさん」
侯爵夫人が微笑んでいた。私は紙を引き、女中が茶碗を置くのを待った。
「昨日は、あの子に会ってくださったそうね」
「お見舞いさせていただきました。今日は薬のことで伺いました」
「ええ。請求書をお持ちだと聞いたものですから」
夫人は女中を扉の外へ下がらせた。夫人の濃紺の袖が卓の縁まで広がり、こちら側には紙を一枚置くのがやっとだった。
私は昨年の写しを差し出した。
「ハーゲンの店で照合していただきました。ギーゼラさまに届く眠り薬の請求書です」
「薬はお医者さまの処方ですのよ。あの子には休養が必要なの」
「処方をお書きになった紙も、拝見できますか」
夫人は請求書を見ず、私の手を見た。
「殿方の書いたものを女が読んで、薬のよしあしを決めるつもりですか」
「私には決められません。ですから、先生のお名前と日付を確かめたいのです」
「フーゲル先生です。わたくしがお願いした先生よ」
知らない名だった。私は書類挟みの内側に挟んだ紙へ書き留めた。
夫人の手は茶碗のそばにある。人を呼ぶ気配はなかった。
「今のお薬の量も、その先生がお決めになったのですか」
「必要なものを飲ませています。家の者が勝手に選んだものではありません」
「その指示を見せてください。いつから今の量になったのでしょう」
「ずいぶん熱心なのね。一度お見舞いをしただけで」
ペン先が紙に触れたまま止まった。
昨日まで会わなかったことは、何を言っても変わらない。私はペンを拭いて収めた。
「昨日は質問の途中で眠ってしまわれました。私が伺ってよい相手は侯爵夫人だと思いました」
「分かってくださるなら、安心です。あの子を問い詰めてはかわいそうだもの」
夫人が茶を飲んだ。
私は書類挟みから初年度の写しを出した。茶碗を自分のほうへ寄せ、空いたところへ置く。
指を離すと、手袋越しにも茶碗の熱が指の腹に残った。
「六年前の医薬費は月二十リーヴルでした。昨年は月八十リーヴルです」
「まあ。薬代をお数えになったの。商家のお嬢さんは、そういうところがおありなのね」
「六年で四倍になっています。中身を確かめなければ、使い道を父に報告できません」
「お父上は毎年の明細でよいと仰っていましたよ」
「持参金の明細は、父から私が預かりました」
夫人の視線が書類挟みに移った。私は二枚の写しを夫人へ向ける。
「一瓶は五リーヴルから八リーヴルに値上がりしています。配送と瓶の管理費も月五リーヴルから八リーヴルへ。店で控えを見ました」
「でしたら、値上がりしたということではありませんか」
「買う本数も変わっています。初めは月三瓶。昨年は月九瓶です」
私は九瓶とある行に指を添えた。
「瓶の大きさも薬の濃さも同じでした。三倍買うようになったのは、どなたの指示ですか」
「育ち盛りの娘ですもの。六年前と同じではないでしょう」
「その量を決めた先生の指示が、見たいのです」
夫人は二枚を重ねた。端を揃え、私の指の届かないところへ滑らせる。
「これであの子がどれほど飲んでいるか分かるのですか」
「分かりません。請求書にあるのは買った本数です」
「そうでしょう。帳面だけでは分からないことがあります」
「だから伺っています。九瓶をどう使っているのか。今もその量が必要なのか、先生はいつ確かめてくださったのでしょう」
夫人の目が動かなくなった。
口元に残っていた笑みが遅れて閉じる。その顔を見たのは、六年で初めてだった。
私は膝の上で左手を握った。言葉を引っ込めるなら今だった。茶の味を褒めれば、いつもの部屋に戻れる気がした。
「次に先生がいらっしゃるのは、いつですか」
夫人は椅子の背に身を預けた。
「まだこの家の奥を預けてはいませんよ。エルネスタさん」
その声は変わらず柔らかかった。
「侍女に薬を見せてもらい、店まで出向いて。この家の者がどう見られるか、お考えになりましたか」
「マルタには、私から見せてほしいと頼みました。持ち出してはいません」
「誰が頼んだかを責めているのではありません。あなたが侯爵家の者になる日のために申し上げているの」
夫人が請求書の上から手を退けた。
「家の内で済む話を外へお持ちにならないで。あなたのためよ」
私は写しを引き寄せた。紙の端が卓布の縫い目に引っかかる。引きちぎらないよう、少し持ち上げた。
「店で分かったことを、今こちらで伺っています」
声が低くなった。
「払った金の使い道を訊くのに、婚礼まで待つのですか」
夫人は答えずに立った。
扉へ歩く裾はほとんど鳴らなかった。開いた隙間から女中へ声をかける。
「家令をこちらへ」
私は二枚を重ねた。まだ帰るようには言われていない。書類挟みを閉じずに待った。
家令は私の隣に立たず、夫人の椅子の脇へ進んだ。
「ヴァイル家へ送る明細は、どなた宛てになっていますか」
「ヨアヒム・ヴァイル伯爵様でございます」
「先方で読む方が替わったと、連絡はありましたか」
「お届け先を変えるお申し出は頂いておりません」
夫人は私へ顔を向けた。
「お父上のものを預かったのでしたね」
「父は私に読めと言いました。使い道も私から確かめるようにと」
「では、お父上に一筆頂きましょう」
夫人は家令のほうへ戻った。
「次の明細も伯爵ご本人へ。エルネスタさんから請求書の控えや追加の説明を求められても、署名のあるお申し出が届くまでは渡さないように」
「ただいまのお尋ねについても、でございますか」
「そうです。お父上のお考えを先に確かめます」
家令は腰を折った。
私は指を紙から離した。さっきまで私に答えなかった人が、私に答えるなと別の人に命じている。
「父の署名があれば、お屋敷にある請求書を拝見できるのですね」
「まずお申し出を頂いてからです。何をお見せするかはこちらで確かめます」
「今の処方を書いた紙も、お願いするつもりです」
「お父上とご相談なさって」
家令は私を見なかった。夫人の次の指示を待っていた。
父は寝台から帳場へ来ることもできない。署名を頼むことはできる。それでも、今日この場で返事をもらうことはもうできなかった。
書類挟みを閉じようとして、留め紐を落とした。手袋をした指では拾いにくい。卓の下へ身を屈める。
夫人と家令の靴が、同じほうを向いていた。
「離れへ行かれるときは、先に本館へお知らせになってね」
顔を上げると、夫人がこちらを見ていた。
「昨日もお取り次ぎをお願いしました」
「これからは用件も。あの子を疲れさせないためです。薬のことで侍女を長く引き留めないでください」
私は紐を結んだ。マルタが言った、別の者を付けるという言葉が喉元まで来た。
家令は今もそこにいる。
「お見舞いの取り次ぎは、お願いできるのですね」
「容態を見て決めます。あなたも昨日ご覧になったでしょう。無理をさせては、かわいそうです」
昨日のギーゼラさまは窓を開けたがっていた。
あれを無理と呼ぶのだろうか。口にしようとしてやめた。誰が窓を開けたかまで訊かれたくなかった。
「今日のお話は父に伝えます。写しも持ち帰ります」
私は立ち、書類挟みを腕に抱えた。
夫人はもうそれを見なかった。
「ご病気のお父上に、あまりご心配をかけないでね」
礼をして部屋を出た。扉の取っ手を離すまで、手袋の中で指が汗ばんでいた。
廊下には、茶を運んだ女中が待っていた。
「お車を回しましょうか」
窓の向こうで林檎の枝が揺れている。離れへ向かう戸口が見えた。あそこへ行くにも、今日からは用件を伝えなくてはならない。
「ゼバスティアンさまは、いらっしゃいますか」
「離れにおいでです。今日は金曜でございますので」
金曜にも、あの人はここにいる。私が座っていない日にも、六年、中庭を渡っていた。
六年通っているあの人なら、医師に会ったことがあるかもしれない。薬の指示を聞いているかもしれない。
「お戻りになったら、お話ししたいとお伝えください。ギーゼラさまのお薬のことで」
「応接でお待ちになりますか」
「お願いします」
女中が扉を開けた。
水曜と同じ革の椅子だった。私は腰を下ろし、書類挟みを膝に置いた。
書類挟みの留め紐をずらし、夫人から聞けた医師の名を確かめる。
あの人には、何の薬を飲んでいるかから訊こう。




