第4話: 離れ
いつもの応接へ通されかけ、私は敷居の手前で止まった。
「今日は離れの侍女にお取り次ぎをお願いします。マルタという方です」
「若様はお出かけでございますが」
「ギーゼラさまのお見舞いに参りました。お薬についても伺いたいのです」
薬種店を出たあと、家へ戻って馬車を頼んだ。木曜の侯爵邸に来るのは久しぶりだった。
女中は私の抱えた書類挟みに目を留めたが、中を見せてとは言わなかった。
「離れへ取り次いで参ります。こちらでお待ちください」
私は廊下の椅子に腰を下ろした。
応接の扉は閉じられた。あの中で待たなくても、この家で人を呼べるのだった。
女中が連れてきたのは、髪をきつくまとめた年配の侍女だった。腰を屈める前から私の手元を見ている。
「マルタでございます。お薬のお話とは」
私は昨年の請求書の写しを出した。広げる場所を探すと、マルタが廊下の小卓へ寄った。
「ハーゲンの店で頂きました。こちらから届いた瓶を、どれほど飲んでいるのですか」
私が指を置いたのは、金額でなく届け先の名だった。
マルタは紙の端を押さえた。店の印まで読むと、そばにいる女中を見た。
「短いお見舞いならお通ししてよいと、奥さまから言われております。ご訪問をお伝えして」
女中が本館の奥へ下がる。
「その紙は、どなたに頼まれて」
「私が自分で確かめに行きました。持参金の明細にある支払いでしたので」
「お嬢さまに代金の話をなさるのですか」
マルタの手が紙から離れた。私との間に卓がある。
「いいえ。届いた薬をどう飲んでいるのか伺いたくて。ご本人に伺えるご様子でしょうか」
「お返事はできないかもしれません」
「そのときは、お顔を見るだけにします」
マルタは写しを私のほうへ戻した。
「薬は私がお預かりしています。お持ち帰りにも、お取り替えにも応じられません」
「承知しました。見せていただくことはできますか」
「私のいるところでなら」
紙を挟み直して礼をした。頭を上げると、マルタはまだ礼の途中だった。帳場で用件が決まったときの速さが出てしまった。
私がもう一度頭を下げて待つと、彼女の眉が少し上がった。
「お急ぎでも、お嬢さまのお返事は早くなりませんよ」
「気をつけます」
マルタは中庭へ向かった。私は今度こそ、その歩調についていった。
離れの扉が開くと、甘い薬の匂いがした。
窓のそばの寝台に、ギーゼラさまがいた。背には枕が重ねてあり、肩掛けから細い手が出ている。
「お嬢さま。ヴァイル家のお嬢さまがお見えです」
マルタの声に瞼が上がった。淡い緑の目が扉を向く。私の顔を通り過ぎ、背後の明るい中庭に止まった。
私は寝台に近づいた。
「エルネスタ・ヴァイルです。婚約のご挨拶でお会いしました。お見舞いが遅くなりました」
ギーゼラさまの唇が動く。
続きを待った。私がもう一度名乗ろうとしたとき、ギーゼラさまのかすれた声が出た。
「……ゼバスティアンは」
「今日はご不在だそうです。私はギーゼラさまに会いに来ました」
瞼が下がっていく。頬は少女のころより細く、肩掛けの下には大人の体があった。六年前のあの子に何を話せばいいか考えてきたのに、目の前にいるのは今のこの方だった。
指が掛布をこすった。寝台の縁まで来て、その先に支えを探すように伸びる。
「お手をお借りしても」
手袋を外し、下から受けた。
手が、冷たい。
指を包むと骨の細さまで伝わった。婚約の席で握ったときも、こんなふうに冷えていた。
あのときは挨拶が済めば離した。今日は、手の置き場所を決めるまで離せなかった。
「寒くありませんか」
「……あけて」
私が肩掛けを見る間に、ギーゼラさまの指は私の手のひらを抜けて窓のほうへ動いた。
「窓ですか」
返事の代わりに、唇がわずかに開く。
「花が……」
窓の向こうに林檎の枝があった。残った花の下を白い花びらが落ちていく。応接から見たのと同じ中庭だった。
マルタを見ると、彼女は扉のほうを確かめてから窓へ歩いた。
「風が冷たければ、すぐ閉めます」
窓が細く開いた。枝の揺れる音が部屋に入る。
ギーゼラさまは顎を上げようとした。私は手を持ったまま立ちかけたが、マルタが枕を支えるのを見て座り直した。
「このままでも見えますよ、お嬢さま」
マルタが肩掛けを直す。寝台を起こす手つきに迷いはなかった。
ギーゼラさまの指先が私の手のひらをゆっくりと滑った。
「……しろい」
「林檎の花ですね。まだ枝に残っています」
それ以上は話しかけなかった。
目は窓を向いている。花を追っているのかは分からない。それでも窓は、彼女が開けてほしいと言った窓だった。
マルタが肩の布を押さえたまま、私の隣に椅子を寄せた。
「腕をこちらへ。支えたままでは疲れます」
肘を載せると、手を低く保てた。
私は聞くつもりだった問いを思い出した。
「ギーゼラさま。夜は、お眠りになれますか」
「おば様が……」
口が止まった。私は続きを待つ。待っている間に、顎が胸へ沈んでいった。
マルタが寝台へ身を寄せる。ギーゼラさまはまぶたを持ち上げようとし、顔を少しこちらへ戻した。
「……ごめんなさい」
「お返事がなくても、会いに来たことは変わりません」
私は空いた手で書類挟みを膝から下ろした。
「薬のお話はあとにします」
ギーゼラさまの口元が緩んだ。笑ったのか、力が抜けたのか。眠ってしまうまで見ていても分からなかった。
窓から来た風が手首を撫でる。私は預かった手を掛布の中へ戻した。冷たい指を包むように、布の端を折る。
マルタは窓を閉めると、扉まで歩いて廊下を見た。
「少しなら、まだ」
小声だった。私は椅子を鳴らさないように立った。
棚にある瓶は、店で見たのと同じ形をしていた。
「栓の印を確かめたいのです。店で教わりました」
マルタは瓶を持ち上げ、木栓をこちらへ向けた。丸の中に瞼のような弧。その下にハーゲンの名。
私が差し出した写しの印と一致した。
「この薬をお飲みなのですね」
「私が差し上げています」
「量は、何に従って」
「屋敷からの指示どおりです。詳しいことは奥さまにお尋ねください」
返事が硬くなった。瓶を戻す手が私から遠ざかる。
私は写しを閉じた。
「無理に見せていただこうとは思っていません。ただ、お会いすれば飲み方を伺えると思っていました」
「若さまも、お話が済まないままお帰りになることがございます」
マルタは寝台を振り向いた。ギーゼラさまの頬に髪がかかっている。そばへ戻り、指でそっと払った。
「薬は同じものです。でも、起きていらっしゃる時間は短くなりました」
「それは、お屋敷へ伝えましたか」
「家令には伝えました。奥さまのご指示だと言われました」
マルタが扉へ目をやった。私は近くへ寄り、声を落とした。
「あなたからは、変えられないのですね」
「逆らえば別の者を付けると言われました」
掛布から出かけた手を、マルタが戻した。
「別の者に替われば、お嬢さまが窓を開けてほしいと仰っても、気づく者はおりません」
私は寝台を見た。さっきまで私が受けていた手は、布の下にある。
薬が必要なのか。なぜこれほど眠るのか。紙に書かれた九瓶がどう使われているのか。確かめたいことは残った。
けれど、答えをこの方から取り立てることはできない。
「奥さまに伺います。今日お見せした請求書のことも、私からお話しします」
「私がお通ししたことは、もう伝わっております」
マルタが私を見た。
「今日はお見舞いです。それだけで、お願いいたします」
「お会いできてよかったです。また伺えるようにお願いします」
マルタは、すぐには約束してくれなかった。
私は寝台へ向き直り、眠っているギーゼラさまに帰る挨拶をした。返事を待って立ち止まることは、もうしなかった。
本館へ戻ると、取り次いでくれた女中が待っていた。
「奥様からお伝えするようにと。明日、薬代のお話をなさりたいそうです」
「今日の訪問をお伝えくださったのですね」
「はい。お持ちになった請求書も、ご持参くださいとのことです」
「明日、伺いますとお伝えください」
薬代の話なら、紙を見ればできる。誰の指示で飲ませているのかは、その人に訊かなければならない。
明日は、処方を書いた紙を見せてもらう。
渡り廊下の窓から、中庭の向こうの離れが見えた。さっき細く開けた窓は、マルタが閉めたときのまま閉じていた。




