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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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第3話: いつもの濃さで

 扉の木札は、縁だけがすべすべしていた。


 指で厚みを確かめてから、表の文字を読む。


 眠れぬ方に。


 今朝、クラウスが出してくれた組合名簿には、この裏通りの住所があった。歩いて来られる店だった。戸口の脇にはハーゲンの名もある。


 間違ってはいない。私は札から手を離し、扉を押した。


「いらっしゃいませ。お薬はお決まりですか」


 店主は棚の前で瓶を拭いていた。


「お薬の代金を確かめに参りました。ヴァイル家のエルネスタと申します」


「ヴァイル家。商会のお嬢様でいらっしゃる」


 店主が布を置き、前掛けで手を拭った。こちらへ向き直った店主の体で、小さな帳場がほとんど埋まった。


 私は書類挟みから明細を出した。


「ラウエンブルク侯爵家への支出です。医薬の欄に、ご主人のお名前があります」


「侯爵様のお取引でしたら、こちらに。いつの分でしょう」


「初めの年と、昨年の分をお願いします」


 店主に日付を示す。明細を受け取る指は太く、爪の際だけ黒かった。


 帳場の端に紙を置く場所を空けてもらい、私は手袋を外した。


 木の天板も、手の当たるところだけ滑らかだった。ここなら、いつものように訊ける。


「お掛けください。古い控えを出しますので」


「立ったままで結構です」


 店主が奥の棚へ屈む。私は薬瓶の列に目を移した。


 細い首。丸い肩。同じ形の瓶が奥まで続く。値札を端から読んでも、似た名前ばかりだった。


 窓際には空瓶が伏せてある。棚に並んだ瓶の中身は、茶を煮詰めたような色をしていた。


「こちらの棚は、みな同じお薬ですか」


「眠り薬ですよ。うちは眠れない方のための店でしてね」


 店主は束を抱えて戻ってきた。


「ほかの病のお薬は、奥にあるのですか」


「うちは眠り薬だけです。ほかのお薬でしたら表通りの店をご案内しますが」


「まず、明細の分を見せてください」


 長くなりそうだった。私は断ったばかりの椅子を引いた。座ると、棚の瓶がちょうど目の高さになった。


 店主は侯爵家の名を書いた綴りを開いた。ほかの客の帳面は奥へ戻す。指に唾をつけず、紙の隅をこすってめくる手だった。


「昨年の分は月に八十リーヴルでございますね」


「その金額です」


「お支払いは侯爵家の家令様。こちらの日付も合います。お届け先は離れで……」


 控えと私の明細を見比べ、店主は顔を上げた。


「ハルデンのお嬢様の分ですね。いつもの濃さで」


 そう言って、棚の瓶へ手を伸ばした。


 私は天板から手を浮かせた。止めようとした指が、何もないところで開いている。


「今日は買いに来たのではありません。明細を確かめに参りました」


「これは失礼いたしました。お使いの方が替わったのかと」


 瓶は棚から降ろされずに済んだ。


 私は開いた手を膝へ戻した。膝に置いた手袋の裏が、指に引っかかった。


「ハルデンのギーゼラさまですね」


「控えのお名前は、そのとおりです」


「その方に売ったのも、眠り薬ですか」


 店主は請求書の品名を指した。


「こちらでございます。初めの年も同じ品です」


 窓際の空瓶から、拭き取れなかった水が落ちた。


 店主は待っていた。私は品名の行を見たまま、口を開くまでに少しかかった。


「いつもの濃さ、と仰いましたね。六年前から変えていないのですか」


「濃さは変わりません。瓶の大きさも同じです。増えたのは、ご注文の本数でして」


 店主が古い控えをこちらへ向けた。


「初めの年は、月に三瓶。それが昨年は九瓶です」


「三瓶から九瓶。同じ薬を三倍買っているのですね」


「毎月、お届けしております」


 私の指は、九のところで止まった。


「初めの一瓶が五リーヴル。昨年は八リーヴルとあります。この値上がりは」


「原料を南から入れておりましてね。仕入れが上がりました。配送と瓶の管理代も、運送の契約を替えましたので、月五リーヴルが八リーヴルに。価格帳も、改定の控えもございます」


 薄い帳面と控えが出てきた。請求書の単価と食い違いはない。


「一瓶八リーヴルの九瓶で七十二。配送などの八を足して、月八十リーヴル」


「明細と合いましたでしょう」


 店主の声が明るくなった。


 合った。


 薬の単価も、運ぶ費用も上がっていた。買う本数は三倍。月二十から月八十への四倍は、すべて紙で辿れた。


 書き間違いはなかった。


 私は昨年の控えから手を離した。


「ご主人。ギーゼラさまは、何のためにこれを飲んでいるのですか」


「眠れないからでしょう。そういうお薬ですので」


「眠れないと、ご本人が仰ったのですか」


 店主は口元の笑みを引っ込めた。


「お嬢様に直接お会いしたことはございません。ご注文は家令様から頂いております」


 店主の指は、注文者の名へ戻った。


 そこにギーゼラさまの名はない。届け先にはある。代金を受け取った日にも、瓶を渡した日にも、店主の小さな印が添えてあった。


「ご注文の紙には、どれほど飲むかも書いてありますか」


「本数とお届けの日です。飲ませ方はお屋敷で。わたしどもは、ご用命の品をお納めしておりますから」


 私は控えの端を押さえ直した。


 古い紙の隅は柔らかい。めくられて、閉じられて、まためくられた厚みだった。


 いつもの濃さで。


 店主はそれだけで棚に手を伸ばせた。


「病弱で療養なさっていると、私は聞いています」


「でしたら、お医者様がお休みになるようにと」


「ご主人がお聞きになったお話ですか」


 店主の指が紙の端から離れた。


「……そこまでは。お屋敷の方にお尋ねいただくのがよろしいかと」


 帳場に間が空いた。奥で水が滴るたび、店主の返事が遠くなる気がした。


 病気なら眠る薬も必要なのかもしれない。私には分からない。


 九瓶をどう使っているのかも、まだ分からなかった。


 私は明細を引き寄せた。この先は、紙に名前のある本人に訊くしかない。


「この二枚の請求書を、写していただけますか。薬の品名も届け先も、そのままで」


「少々お待ちくだされば。お屋敷へのご説明にお使いですか」


「ギーゼラさまに会いに行きます。届いた薬をどう飲んでいるのか、伺います」


 店主は頷き、白い紙を出した。


 私は小銭入れから銅貨を取り出した。写し代を言われてから渡せばいい。手のひらに載せ、親指で縁を押した。


 ペンが紙を擦る。


 店主は数字を書き入れるたび、控えに指を当てた。初めの年と昨年。瓶の規格、数、代金、注文者。最後に届け先を書き写す。


 ハルデン令嬢。ラウエンブルク侯爵邸、離れ。


「店の印を押しておきます。こちらの写しだと分かりますので」


 丸い印の中に、伏せた瞼のような弧があった。その下にハーゲンの名がある。


 店主が印を片づける手で、棚の瓶の木栓を指した。


「栓にも同じ焼き印があります。お確かめになるなら、そちらを」


「ありがとうございます。写し代はおいくらですか」


「照合のためですから頂きませんよ」


 店主は笑みを戻した。


 私は銅貨を握り込んだまま、左手で写しを受け取った。乾いたのを確かめ、明細とともに挟む。控えは店主の手元で綴りに戻った。


 椅子を戻して礼を言う。扉のところまで来ると、背中に声がかかった。


「お嬢様がよくお休みになれますように」


 私は振り向いた。


 瓶を拭く布を手にした店主が、頭を下げていた。


「起きているときに、お会いしたいのです」


 声は思ったより低く出た。


 店主が顔を上げる前に、私は扉を押した。




 木札が手の甲に触れた。入るときと同じ、すべすべした縁だった。


 眠れぬ方に。


 通りでは荷車が動いていた。車輪の脇を避けると、靴底に石畳の継ぎ目が当たる。


 私は足を止めた。


 ギーゼラさまの容態が落ち着いたら。


 六年、そう聞いて待っていた。あの方も、よくなるのを待っているのだと思っていた。


 私は書類挟みを抱え直した。左腕の内側に、革の角が食い込む。


 次に侯爵邸へ行ったら、離れへの取り次ぎを頼もう。薬を渡している人に、会わせてもらおう。


 右手を開くと、銅貨が肌に貼りついていた。


 まだ払っていない銅貨だけが、手の熱で温まっていた。

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