第3話: いつもの濃さで
扉の木札は、縁だけがすべすべしていた。
指で厚みを確かめてから、表の文字を読む。
眠れぬ方に。
今朝、クラウスが出してくれた組合名簿には、この裏通りの住所があった。歩いて来られる店だった。戸口の脇にはハーゲンの名もある。
間違ってはいない。私は札から手を離し、扉を押した。
「いらっしゃいませ。お薬はお決まりですか」
店主は棚の前で瓶を拭いていた。
「お薬の代金を確かめに参りました。ヴァイル家のエルネスタと申します」
「ヴァイル家。商会のお嬢様でいらっしゃる」
店主が布を置き、前掛けで手を拭った。こちらへ向き直った店主の体で、小さな帳場がほとんど埋まった。
私は書類挟みから明細を出した。
「ラウエンブルク侯爵家への支出です。医薬の欄に、ご主人のお名前があります」
「侯爵様のお取引でしたら、こちらに。いつの分でしょう」
「初めの年と、昨年の分をお願いします」
店主に日付を示す。明細を受け取る指は太く、爪の際だけ黒かった。
帳場の端に紙を置く場所を空けてもらい、私は手袋を外した。
木の天板も、手の当たるところだけ滑らかだった。ここなら、いつものように訊ける。
「お掛けください。古い控えを出しますので」
「立ったままで結構です」
店主が奥の棚へ屈む。私は薬瓶の列に目を移した。
細い首。丸い肩。同じ形の瓶が奥まで続く。値札を端から読んでも、似た名前ばかりだった。
窓際には空瓶が伏せてある。棚に並んだ瓶の中身は、茶を煮詰めたような色をしていた。
「こちらの棚は、みな同じお薬ですか」
「眠り薬ですよ。うちは眠れない方のための店でしてね」
店主は束を抱えて戻ってきた。
「ほかの病のお薬は、奥にあるのですか」
「うちは眠り薬だけです。ほかのお薬でしたら表通りの店をご案内しますが」
「まず、明細の分を見せてください」
長くなりそうだった。私は断ったばかりの椅子を引いた。座ると、棚の瓶がちょうど目の高さになった。
店主は侯爵家の名を書いた綴りを開いた。ほかの客の帳面は奥へ戻す。指に唾をつけず、紙の隅をこすってめくる手だった。
「昨年の分は月に八十リーヴルでございますね」
「その金額です」
「お支払いは侯爵家の家令様。こちらの日付も合います。お届け先は離れで……」
控えと私の明細を見比べ、店主は顔を上げた。
「ハルデンのお嬢様の分ですね。いつもの濃さで」
そう言って、棚の瓶へ手を伸ばした。
私は天板から手を浮かせた。止めようとした指が、何もないところで開いている。
「今日は買いに来たのではありません。明細を確かめに参りました」
「これは失礼いたしました。お使いの方が替わったのかと」
瓶は棚から降ろされずに済んだ。
私は開いた手を膝へ戻した。膝に置いた手袋の裏が、指に引っかかった。
「ハルデンのギーゼラさまですね」
「控えのお名前は、そのとおりです」
「その方に売ったのも、眠り薬ですか」
店主は請求書の品名を指した。
「こちらでございます。初めの年も同じ品です」
窓際の空瓶から、拭き取れなかった水が落ちた。
店主は待っていた。私は品名の行を見たまま、口を開くまでに少しかかった。
「いつもの濃さ、と仰いましたね。六年前から変えていないのですか」
「濃さは変わりません。瓶の大きさも同じです。増えたのは、ご注文の本数でして」
店主が古い控えをこちらへ向けた。
「初めの年は、月に三瓶。それが昨年は九瓶です」
「三瓶から九瓶。同じ薬を三倍買っているのですね」
「毎月、お届けしております」
私の指は、九のところで止まった。
「初めの一瓶が五リーヴル。昨年は八リーヴルとあります。この値上がりは」
「原料を南から入れておりましてね。仕入れが上がりました。配送と瓶の管理代も、運送の契約を替えましたので、月五リーヴルが八リーヴルに。価格帳も、改定の控えもございます」
薄い帳面と控えが出てきた。請求書の単価と食い違いはない。
「一瓶八リーヴルの九瓶で七十二。配送などの八を足して、月八十リーヴル」
「明細と合いましたでしょう」
店主の声が明るくなった。
合った。
薬の単価も、運ぶ費用も上がっていた。買う本数は三倍。月二十から月八十への四倍は、すべて紙で辿れた。
書き間違いはなかった。
私は昨年の控えから手を離した。
「ご主人。ギーゼラさまは、何のためにこれを飲んでいるのですか」
「眠れないからでしょう。そういうお薬ですので」
「眠れないと、ご本人が仰ったのですか」
店主は口元の笑みを引っ込めた。
「お嬢様に直接お会いしたことはございません。ご注文は家令様から頂いております」
店主の指は、注文者の名へ戻った。
そこにギーゼラさまの名はない。届け先にはある。代金を受け取った日にも、瓶を渡した日にも、店主の小さな印が添えてあった。
「ご注文の紙には、どれほど飲むかも書いてありますか」
「本数とお届けの日です。飲ませ方はお屋敷で。わたしどもは、ご用命の品をお納めしておりますから」
私は控えの端を押さえ直した。
古い紙の隅は柔らかい。めくられて、閉じられて、まためくられた厚みだった。
いつもの濃さで。
店主はそれだけで棚に手を伸ばせた。
「病弱で療養なさっていると、私は聞いています」
「でしたら、お医者様がお休みになるようにと」
「ご主人がお聞きになったお話ですか」
店主の指が紙の端から離れた。
「……そこまでは。お屋敷の方にお尋ねいただくのがよろしいかと」
帳場に間が空いた。奥で水が滴るたび、店主の返事が遠くなる気がした。
病気なら眠る薬も必要なのかもしれない。私には分からない。
九瓶をどう使っているのかも、まだ分からなかった。
私は明細を引き寄せた。この先は、紙に名前のある本人に訊くしかない。
「この二枚の請求書を、写していただけますか。薬の品名も届け先も、そのままで」
「少々お待ちくだされば。お屋敷へのご説明にお使いですか」
「ギーゼラさまに会いに行きます。届いた薬をどう飲んでいるのか、伺います」
店主は頷き、白い紙を出した。
私は小銭入れから銅貨を取り出した。写し代を言われてから渡せばいい。手のひらに載せ、親指で縁を押した。
ペンが紙を擦る。
店主は数字を書き入れるたび、控えに指を当てた。初めの年と昨年。瓶の規格、数、代金、注文者。最後に届け先を書き写す。
ハルデン令嬢。ラウエンブルク侯爵邸、離れ。
「店の印を押しておきます。こちらの写しだと分かりますので」
丸い印の中に、伏せた瞼のような弧があった。その下にハーゲンの名がある。
店主が印を片づける手で、棚の瓶の木栓を指した。
「栓にも同じ焼き印があります。お確かめになるなら、そちらを」
「ありがとうございます。写し代はおいくらですか」
「照合のためですから頂きませんよ」
店主は笑みを戻した。
私は銅貨を握り込んだまま、左手で写しを受け取った。乾いたのを確かめ、明細とともに挟む。控えは店主の手元で綴りに戻った。
椅子を戻して礼を言う。扉のところまで来ると、背中に声がかかった。
「お嬢様がよくお休みになれますように」
私は振り向いた。
瓶を拭く布を手にした店主が、頭を下げていた。
「起きているときに、お会いしたいのです」
声は思ったより低く出た。
店主が顔を上げる前に、私は扉を押した。
木札が手の甲に触れた。入るときと同じ、すべすべした縁だった。
眠れぬ方に。
通りでは荷車が動いていた。車輪の脇を避けると、靴底に石畳の継ぎ目が当たる。
私は足を止めた。
ギーゼラさまの容態が落ち着いたら。
六年、そう聞いて待っていた。あの方も、よくなるのを待っているのだと思っていた。
私は書類挟みを抱え直した。左腕の内側に、革の角が食い込む。
次に侯爵邸へ行ったら、離れへの取り次ぎを頼もう。薬を渡している人に、会わせてもらおう。
右手を開くと、銅貨が肌に貼りついていた。
まだ払っていない銅貨だけが、手の熱で温まっていた。




