第2話: 持参金の明細
「蝋燭を、もう一本お持ちしましょうか」
クラウスが扉のところで言った。
「お願いします」
「二本でよろしゅうございますか」
「二本で」
卓の上に六年分を並べる。クラウスが新しい蝋燭を立てて、火を移した。
「これは、帳場のどのあたりに」
「奥の棚の、三段目でございます。年ごとに麻紐で」
「誰か、ほかに読んだ者は」
「わたくしの知るかぎりは、おりません」
「あなたは」
クラウスが手を止めた。
「封を切るときに、書いてあることが目に入ります」
「気づいたことはありませんでしたか」
「……失礼ながら、わたくしは封を切る者でございます。読む者ではございません」
それは言い訳ではなかった。帳場にはそういう線がある。誰の目がどこまで届くかを決めておかないと、家の中で話が漏れる。父が敷いた線だ。
「分かりました。ありがとう」
クラウスが下がった。
年ごとの束は、どれも同じ厚さではない。最初の年が一番厚くて、あとは年を追って薄くなる。婚約したばかりの年は支度の項目が多いからだ。
紙の端を親指で押さえる。上等な紙だ。一枚の厚みは、どの年も変わらない。
私は一番古い束を手前に置き、残りを年の順に並べた。どの年も、医薬の行は一枚の紙に収まっている。
払った金の使い道を訊くのは、商家では当たり前のことだ。荷主に運賃の内訳を求めるのと同じで、疑っているからではない。訊かないほうが失礼にあたる。
だから、これは失礼の埋め合わせだと思うことにした。六年ぶんの。
紐を解く。
項目、金額、支出先。三つの列が、上から下へ揃って落ちていく。書き手は同じ人だ。どの年の字も、かたちが崩れていない。手慣れた家令の字だった。
厨房。石炭。蝋燭。馬糧。衣装。
どれも侯爵家の年の暮らしとして、おかしなところはない。使用人の数に対して馬糧が少ないのは気になったが、王都の邸なら馬を減らすのは節約の常道だ。
指を下へ滑らせる。
医薬。
最初の年の欄に、その項目があった。月に二十リーヴル。
支出先の名を見る。ハーゲン。
知らない名だった。
私は次の年の束を開いた。
医薬。月に二十八。
その次。月に四十。
次。月に五十五。
次。月に七十。
今年届いた、昨年分。月に八十。
玄関の石段で見た数字が、六枚目の一番下に戻ってきた。
蝋燭の火が一度揺れた。窓は閉めてある。自分の息で揺れたのだと、少し遅れて気づいた。
私は六枚を横に並べ直した。
年ごとに別の紙で届く。だから届いた年に一枚ずつ読めば、去年より少し増えたな、としか思わない。並べて初めて、線が見える。
線は、まっすぐ上を向いていた。
医薬の行だけが、六年で四倍に太っている。
ほかの項目は動いていない。厨房も石炭も蝋燭も、六年でほとんど同じだ。変わったのは、この一行だけだった。
もう一つ、目に留まった項目があった。
家政・利払い。ゲルデン両替組合。年に二百。
利払い。
この家には借財がある。それは、商家の娘なら明細を見ずとも察しがつく話だ。馬糧を削り、使用人を減らし、それでも王都の邸を手放さない家は、たいていそうなっている。
ただ、それは家の中の話だ。持参金の使い道として、婚家の家政に充てることは契約に書いてある。読む気になれば読める場所に、きちんと書いてある。
医薬は違う。
私は蝋燭を引き寄せて、支出先の欄をもう一度見た。
ハーゲン。
この家に、病人は一人しかいない。
父の寝室は、廊下の突き当たりにある。
扉を叩くと、中から咳が聞こえた。それから、入れ、という短い声。
部屋は暖かかった。暖炉に火が入っていて、薬湯の匂いが籠もっている。父は寝台の背を起こして、膝に薄い帳面を伏せていた。臥せっていても、帳面だけは手放さない。
「明細を読みました」
私がそう言うと、父は帳面を閉じた。
「早いな」
「並べましたので。年ごとに別紙では、増えているのが見えません」
父が少し笑った。笑って、また咳をした。
私は寝台の脇の椅子に座った。座ってから、六枚を膝の上に広げる。
「医薬の行が、六年で四倍になっています」
「そうか」
「お父さまは、ご存じでしたか」
「知らん」
即答だった。誤魔化す気がないときの父の声だ。
「封は切らせていた、とクラウスから聞きました」
「切らせた。棚に上げた。届いたかとだけ訊いた」
「なぜ読まなかったのですか」
父が天井を見た。しばらく見てから、目を戻した。
「値切らなかったからだ」
「値切る」
「わしは、塩一樽でも値切る。三度は値を訊く。そういう男だ」
「存じております」
「だが、あの縁組だけは値切らなかった」
父の指が、膝の帳面の背をなぞった。
「爵位は買った。金で買えた。だが家格は買えん。買えんものを、うちは侯爵家から借りた。借りた者が、貸した者に金の使い道を問い詰められるか」
「問い詰めれば、縁組が壊れる」
父が頷いた。
「壊せば、お前の立つ場所がなくなる。だから読まなかった。読まずに六年、上げておいた」
私は膝の紙を見た。
この束が帳場の奥の棚に積まれていたことを、私は知らなかった。知らないまま、水曜ごとに冷えた応接に座っていた。
「お父さま」
父が私を見た。
「持参金は、おいくらでしたか」
「一万二千だ」
父がそう言って、少し目を細めた。
「金貨で渡した。千二百枚。革の袋で十二だ。一袋ずつ封をして、侯爵家へ届けさせた」
千二百枚。
私はその重さを、手のひらで想像した。商会の帳場で、金貨を数えたことがある。重ねた硬貨の縁が、指の腹に食い込む。
六年分の医薬の行を足すと、三千五百十六リーヴルになる。一万二千の、三割近い。
「その一万二千から、月に八十が出ているということになります」
「医薬にか」
「医薬の欄です。支出先はハーゲンとあります」
「誰の薬だ」
父が訊いた。
私は答えられなかった。答えは一つしか浮かばないのに、それを口に出したことが、これまで一度もなかったからだ。
「……ギーゼラさまだと思います」
「幼馴染の娘か」
「離れで療養なさっている方です」
「病だと聞いていたな」
「ずっと、そう聞いております」
父が黙った。
暖炉の薪が一本、崩れて短い音を立てた。父の呼吸の音が、その音より大きい。
「エルネスタ」
私は父に顔を向けた。
「お前は、その娘に会ったことがあるか」
私は膝の上で手を組んだ。
「一度だけ」
「一度」
「婚約の席で。ご挨拶だけと、奥さまに連れてこられました」
あのとき、あの子は十三だった。
差し出された手を、私は握った。冷たい手だった。四月の終わりで、部屋には火が入っていたのに、指の先まで冷えていた。
病弱でいらっしゃるから。奥さまがそう仰った。私は、そうですかと言った。
そのまま、六年。
「それきりです」
「六年、応接までは通って離れには行かなかったか」
「ご療養の邪魔になりますので」
言ってから、自分の声が薄いのに気づいた。
誰かにそう言われたわけではない。私が自分で決めて、自分で守ってきた規則だった。守っているつもりで、近づかない理由に使っていた。
父は何も言わなかった。言わずに、掛布の上の手をわずかに動かした。
「お父さま。もう一つ、伺っても」
「言え」
「家政の欄に、利払いの行がございました。年に二百。ゲルデン両替組合と」
「あるだろうな」
「ご存じでしたか」
「あの家に借財があることは、王都の商人なら半分は知っとる」父が薄く笑った。「先々代が邸を建て替えた。あれで首が回らなくなった」
「では、あの行は」
「契約の内だ。婚家の家政に充てると書いてある。文句は言えん」
私は頷いた。
「言えんが」
父が、咳をひとつして続けた。
「借財の利息を嫁の金で払う家に、娘を六年待たせる余裕があるか。それは別の話だ」
私は膝の紙を見た。
利払いの行は、六年で動いていない。年に二百のまま、一度も。
動いたのは、医薬だけだった。
「このまま、わしが先に死んだらと思った」
父は膝の帳面から手を離した。
「読まぬまま、お前だけをあの家に残す。寝ついてから、それが怖くなった」
「だから、私に」
「わしが選んだ取引だ。続けるかどうかまで、わしが決めてはならん」
父の手が掛布を掴んだ。
「明細は、お前のものだ」
私は六枚を自分のほうへ引き寄せた。
「うちが払った金だ。使い道を訊いていい」
「訊きます」
「訊くなら、紙で訊け」
父の声が、少しだけ帳場の声になった。
「口で訊けば、言い訳が返ってくる。紙で訊けば、紙で返事が来る」
「返事も、残しておきます」
「それと」
父が咳をして、続けた。
「ハーゲンという名を、わしは知らん」
私は顔を上げた。
「王都の薬種商なら、たいていは組合に名がある。組合の名簿はうちの帳場にもある。……だが、その名は聞いた覚えがない」
「調べます」
「明日でいい」
「明日にします」
父が目を閉じた。話し終えると、急に顔の色が落ちる。私は膝の紙をまとめて立ち上がった。
扉を閉める前に、もう一度だけ振り返った。父はもう眠りかけていた。膝の帳面は、閉じたまま置かれていた。
廊下でクラウスが待っていた。
「明日、ハーゲンの店を調べます」
「馬車を回しましょうか」
「まず、組合の名簿で住所を確かめます。近ければ歩きます」
クラウスが一拍置いた。言いたいことがあるときの間だった。
「お供いたします」
「一人で行きます」
「お嬢様」
「支払い先に自分で行くのは、うちでは普通のことでしょう」
「……普通でございます」
「では」
クラウスが頭を下げた。下げながら、小さく付け足した。
「組合の名簿は、帳場の二段目にございます。朝、お出ししておきます」
「助かります」
自室に戻って、六枚をもう一度並べた。
蝋燭が短くなっている。二本目の背が半分ほど溶けて、受け皿に白い溜まりを作っていた。
医薬の行を、指でなぞる。
月に二十が、月に八十になった。
薬は値が動くものだ。南から来る品なら、船賃でも戦でも動く。けれど、値が変わらなくても、買う量が増えれば支払いは増える。薬そのものを替えたのかもしれない。
明細には、薬の名も量も書いていなかった。商会なら綴じてあるはずの請求書もない。
ただ、私は商会の娘だ。
月に八十リーヴルで、何を、どれだけ買ったのか。
それを訊けばいい。売った者の帳面には、載っているはずだ。
紙を揃えて、紐で括り直した。開封済みの外封から落ちた蝋の欠片が卓に残っていて、指で寄せると、乾いた音を立てて集まった。




