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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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2/19

第2話: 持参金の明細

「蝋燭を、もう一本お持ちしましょうか」


 クラウスが扉のところで言った。


「お願いします」


「二本でよろしゅうございますか」


「二本で」


 卓の上に六年分を並べる。クラウスが新しい蝋燭を立てて、火を移した。


「これは、帳場のどのあたりに」


「奥の棚の、三段目でございます。年ごとに麻紐で」


「誰か、ほかに読んだ者は」


「わたくしの知るかぎりは、おりません」


「あなたは」


 クラウスが手を止めた。


「封を切るときに、書いてあることが目に入ります」


「気づいたことはありませんでしたか」


「……失礼ながら、わたくしは封を切る者でございます。読む者ではございません」


 それは言い訳ではなかった。帳場にはそういう線がある。誰の目がどこまで届くかを決めておかないと、家の中で話が漏れる。父が敷いた線だ。


「分かりました。ありがとう」


 クラウスが下がった。


 年ごとの束は、どれも同じ厚さではない。最初の年が一番厚くて、あとは年を追って薄くなる。婚約したばかりの年は支度の項目が多いからだ。


 紙の端を親指で押さえる。上等な紙だ。一枚の厚みは、どの年も変わらない。


 私は一番古い束を手前に置き、残りを年の順に並べた。どの年も、医薬の行は一枚の紙に収まっている。


 払った金の使い道を訊くのは、商家では当たり前のことだ。荷主に運賃の内訳を求めるのと同じで、疑っているからではない。訊かないほうが失礼にあたる。


 だから、これは失礼の埋め合わせだと思うことにした。六年ぶんの。


 紐を解く。


 項目、金額、支出先。三つの列が、上から下へ揃って落ちていく。書き手は同じ人だ。どの年の字も、かたちが崩れていない。手慣れた家令の字だった。


 厨房。石炭。蝋燭。馬糧。衣装。


 どれも侯爵家の年の暮らしとして、おかしなところはない。使用人の数に対して馬糧が少ないのは気になったが、王都の邸なら馬を減らすのは節約の常道だ。


 指を下へ滑らせる。


 医薬。


 最初の年の欄に、その項目があった。月に二十リーヴル。


 支出先の名を見る。ハーゲン。


 知らない名だった。


 私は次の年の束を開いた。


 医薬。月に二十八。


 その次。月に四十。


 次。月に五十五。


 次。月に七十。


 今年届いた、昨年分。月に八十。


 玄関の石段で見た数字が、六枚目の一番下に戻ってきた。


 蝋燭の火が一度揺れた。窓は閉めてある。自分の息で揺れたのだと、少し遅れて気づいた。


 私は六枚を横に並べ直した。


 年ごとに別の紙で届く。だから届いた年に一枚ずつ読めば、去年より少し増えたな、としか思わない。並べて初めて、線が見える。


 線は、まっすぐ上を向いていた。


 医薬の行だけが、六年で四倍に太っている。


 ほかの項目は動いていない。厨房も石炭も蝋燭も、六年でほとんど同じだ。変わったのは、この一行だけだった。


 もう一つ、目に留まった項目があった。


 家政・利払い。ゲルデン両替組合。年に二百。


 利払い。


 この家には借財がある。それは、商家の娘なら明細を見ずとも察しがつく話だ。馬糧を削り、使用人を減らし、それでも王都の邸を手放さない家は、たいていそうなっている。


 ただ、それは家の中の話だ。持参金の使い道として、婚家の家政に充てることは契約に書いてある。読む気になれば読める場所に、きちんと書いてある。


 医薬は違う。


 私は蝋燭を引き寄せて、支出先の欄をもう一度見た。


 ハーゲン。


 この家に、病人は一人しかいない。




 父の寝室は、廊下の突き当たりにある。


 扉を叩くと、中から咳が聞こえた。それから、入れ、という短い声。


 部屋は暖かかった。暖炉に火が入っていて、薬湯の匂いが籠もっている。父は寝台の背を起こして、膝に薄い帳面を伏せていた。臥せっていても、帳面だけは手放さない。


「明細を読みました」


 私がそう言うと、父は帳面を閉じた。


「早いな」


「並べましたので。年ごとに別紙では、増えているのが見えません」


 父が少し笑った。笑って、また咳をした。


 私は寝台の脇の椅子に座った。座ってから、六枚を膝の上に広げる。


「医薬の行が、六年で四倍になっています」


「そうか」


「お父さまは、ご存じでしたか」


「知らん」


 即答だった。誤魔化す気がないときの父の声だ。


「封は切らせていた、とクラウスから聞きました」


「切らせた。棚に上げた。届いたかとだけ訊いた」


「なぜ読まなかったのですか」


 父が天井を見た。しばらく見てから、目を戻した。


「値切らなかったからだ」


「値切る」


「わしは、塩一樽でも値切る。三度は値を訊く。そういう男だ」


「存じております」


「だが、あの縁組だけは値切らなかった」


 父の指が、膝の帳面の背をなぞった。


「爵位は買った。金で買えた。だが家格は買えん。買えんものを、うちは侯爵家から借りた。借りた者が、貸した者に金の使い道を問い詰められるか」


「問い詰めれば、縁組が壊れる」


 父が頷いた。


「壊せば、お前の立つ場所がなくなる。だから読まなかった。読まずに六年、上げておいた」


 私は膝の紙を見た。


 この束が帳場の奥の棚に積まれていたことを、私は知らなかった。知らないまま、水曜ごとに冷えた応接に座っていた。


「お父さま」


 父が私を見た。


「持参金は、おいくらでしたか」


「一万二千だ」


 父がそう言って、少し目を細めた。


「金貨で渡した。千二百枚。革の袋で十二だ。一袋ずつ封をして、侯爵家へ届けさせた」


 千二百枚。


 私はその重さを、手のひらで想像した。商会の帳場で、金貨を数えたことがある。重ねた硬貨の縁が、指の腹に食い込む。


 六年分の医薬の行を足すと、三千五百十六リーヴルになる。一万二千の、三割近い。


「その一万二千から、月に八十が出ているということになります」


「医薬にか」


「医薬の欄です。支出先はハーゲンとあります」


「誰の薬だ」


 父が訊いた。


 私は答えられなかった。答えは一つしか浮かばないのに、それを口に出したことが、これまで一度もなかったからだ。


「……ギーゼラさまだと思います」


「幼馴染の娘か」


「離れで療養なさっている方です」


「病だと聞いていたな」


「ずっと、そう聞いております」


 父が黙った。


 暖炉の薪が一本、崩れて短い音を立てた。父の呼吸の音が、その音より大きい。


「エルネスタ」


 私は父に顔を向けた。


「お前は、その娘に会ったことがあるか」


 私は膝の上で手を組んだ。


「一度だけ」


「一度」


「婚約の席で。ご挨拶だけと、奥さまに連れてこられました」


 あのとき、あの子は十三だった。


 差し出された手を、私は握った。冷たい手だった。四月の終わりで、部屋には火が入っていたのに、指の先まで冷えていた。


 病弱でいらっしゃるから。奥さまがそう仰った。私は、そうですかと言った。


 そのまま、六年。


「それきりです」


「六年、応接までは通って離れには行かなかったか」


「ご療養の邪魔になりますので」


 言ってから、自分の声が薄いのに気づいた。


 誰かにそう言われたわけではない。私が自分で決めて、自分で守ってきた規則だった。守っているつもりで、近づかない理由に使っていた。


 父は何も言わなかった。言わずに、掛布の上の手をわずかに動かした。


「お父さま。もう一つ、伺っても」


「言え」


「家政の欄に、利払いの行がございました。年に二百。ゲルデン両替組合と」


「あるだろうな」


「ご存じでしたか」


「あの家に借財があることは、王都の商人なら半分は知っとる」父が薄く笑った。「先々代が邸を建て替えた。あれで首が回らなくなった」


「では、あの行は」


「契約の内だ。婚家の家政に充てると書いてある。文句は言えん」


 私は頷いた。


「言えんが」


 父が、咳をひとつして続けた。


「借財の利息を嫁の金で払う家に、娘を六年待たせる余裕があるか。それは別の話だ」


 私は膝の紙を見た。


 利払いの行は、六年で動いていない。年に二百のまま、一度も。


 動いたのは、医薬だけだった。


「このまま、わしが先に死んだらと思った」


 父は膝の帳面から手を離した。


「読まぬまま、お前だけをあの家に残す。寝ついてから、それが怖くなった」


「だから、私に」


「わしが選んだ取引だ。続けるかどうかまで、わしが決めてはならん」


 父の手が掛布を掴んだ。


「明細は、お前のものだ」


 私は六枚を自分のほうへ引き寄せた。


「うちが払った金だ。使い道を訊いていい」


「訊きます」


「訊くなら、紙で訊け」


 父の声が、少しだけ帳場の声になった。


「口で訊けば、言い訳が返ってくる。紙で訊けば、紙で返事が来る」


「返事も、残しておきます」


「それと」


 父が咳をして、続けた。


「ハーゲンという名を、わしは知らん」


 私は顔を上げた。


「王都の薬種商なら、たいていは組合に名がある。組合の名簿はうちの帳場にもある。……だが、その名は聞いた覚えがない」


「調べます」


「明日でいい」


「明日にします」


 父が目を閉じた。話し終えると、急に顔の色が落ちる。私は膝の紙をまとめて立ち上がった。


 扉を閉める前に、もう一度だけ振り返った。父はもう眠りかけていた。膝の帳面は、閉じたまま置かれていた。




 廊下でクラウスが待っていた。


「明日、ハーゲンの店を調べます」


「馬車を回しましょうか」


「まず、組合の名簿で住所を確かめます。近ければ歩きます」


 クラウスが一拍置いた。言いたいことがあるときの間だった。


「お供いたします」


「一人で行きます」


「お嬢様」


「支払い先に自分で行くのは、うちでは普通のことでしょう」


「……普通でございます」


「では」


 クラウスが頭を下げた。下げながら、小さく付け足した。


「組合の名簿は、帳場の二段目にございます。朝、お出ししておきます」


「助かります」


 自室に戻って、六枚をもう一度並べた。


 蝋燭が短くなっている。二本目の背が半分ほど溶けて、受け皿に白い溜まりを作っていた。


 医薬の行を、指でなぞる。


 月に二十が、月に八十になった。


 薬は値が動くものだ。南から来る品なら、船賃でも戦でも動く。けれど、値が変わらなくても、買う量が増えれば支払いは増える。薬そのものを替えたのかもしれない。


 明細には、薬の名も量も書いていなかった。商会なら綴じてあるはずの請求書もない。


 ただ、私は商会の娘だ。


 月に八十リーヴルで、何を、どれだけ買ったのか。


 それを訊けばいい。売った者の帳面には、載っているはずだ。


 紙を揃えて、紐で括り直した。開封済みの外封から落ちた蝋の欠片が卓に残っていて、指で寄せると、乾いた音を立てて集まった。

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