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病弱な幼馴染の薬代は、六年、私の持参金でした  作者: 歩人


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第1話: 水曜の応接

 革張りの椅子は、朝の冷えを溜めこむ。


 腰を下ろしてしばらく経つのに、手のひらがまだ温まらない。侯爵家の応接間は東に窓がある。日は入る。入るだけで、石の床までは届かない。


「ヴァイル様。もう少々、お待ちくださいませ」


 扉の隙間から従僕の声がした。丁寧な声だ。顔は見せない。


「はい」


 私はそう答える。六年、同じ返事をしている。持参金をすっかり受け取った家で、日取りの決まらない婚礼を待ちながら、繰り返してきた返事だ。


 卓の茶は二杯目だった。最初のものは冷めて下げられた。碗の縁に指を寄せると、もう生ぬるい。湯気の立たない茶を前に座っているのは、待っているというより、置かれているのに近い。


 水曜は、ゼバスティアンさまが離れへ渡る日だ。月曜と水曜と金曜。週に三度、あの方は中庭を横切って、病弱な幼馴染の見舞いに行く。


 その三度のうちの一度が、私の訪問と重なっている。六年、ずっとだ。


 重ならないようにすることもできたはずだと、最初の年に一度だけ思った。思っただけで、口には出さなかった。


 扉がまた開いて、女中が茶を下げに来た。


「お取り替えいたしますか」


「いえ、結構です」


 女中が碗を持ち上げて、少し困った顔をした。冷めた茶を置いたままにするのは、この家では作法に反するのだろう。


「……離れに、お声をかけてまいりましょうか」


「ご療養の邪魔になります」


「はい」


 はい、と言って、女中は動かなかった。碗を胸の高さに抱えたまま、扉のほうを見て、また私を見る。


「離れのことで、何かございますか」


「……いえ。差し出がましいことを申しました」


 女中が頭を下げて出ていった。扉が閉まったあとも、廊下の足音はなかなか遠ざからなかった。


 窓の外で、中庭の林檎が散りかけている。白い花びらが一枚、風に乗って窓枠に貼りつき、そのまま動かなかった。


 私は膝の上の手を組み替えた。


 待つのは構わない。商家の娘だ。船は遅れるし、馬は脚を痛める。


 ただ、船や馬を待つときは、待っている理由が分かっていた。


 扉が開いた。


「すまない。待たせた」


 ゼバスティアンさまが入ってくる。外套を脱いでいない。離れから戻るとき、あの方はいつも外套を着たままだ。


「今週は、容態がよくないんだ」


 椅子を引く音がした。腰を下ろすとき、あの方の膝がわずかに卓に当たる。金の髪が朝の光を拾って、少し眩しい。


「ギーゼラさまは、お加減が」


「熱はない。ただ、よく眠る」


「よく、と仰いますと」


「朝も昼も、だいたいは」


「お話はなさいますか」


「する。するが……こちらの言うことが、半分くらいしか届いていない気がする」


 ゼバスティアンさまが言葉を切った。言い方に迷ったのが分かる。


「言い方が悪いな。届いていないんじゃない。届くのが遅いんだ」


「お辛いでしょうね」


「本人は辛いと言わない。そこが、一番こたえる」


 私は頷いた。ほかにできることが思いつかなかった。


「日中は、どなたが付いておられるのですか」


「侍女が一人。母上が付けている」


「お名前は」


 ゼバスティアンさまが、少し黙った。


「……マルタ、だったか。長くいる者だ」


「そうですか」


「あの子の母上の代からいると聞いている。ギーゼラのことは、僕より詳しい」


 そうでしょうね、という言葉は、口に出さずにおいた。


 週に三度、六年。この方は中庭を渡って、離れの寝台の脇に座って、帰ってくる。そのあいだ部屋にいるもう一人の名を、この方は今、思い出すのに間が要った。


「お医者さまは、なんと」


「母上が診せている。長く診てもらっている方だそうだ」


「そうですか」


「眠っているうちは楽なんだと、母上が言っていた」


 ゼバスティアンさまが茶を取る。冷めているのに気づいて、碗を置いた。置く音が、思ったより大きい。


「エルネスタ」


 私はあの方を見た。


「君は、いつも怒らないな」


 どう答えるべきか、少し迷った。


「怒る理由が、見当たりませんので」


「そういうところだ」あの方が笑う。「僕は君のそういうところに、助けられている」


 助けられている。


 その言葉は、六年のあいだに何度も聞いた。聞くたびに意味が薄くなって、私の返事も軽くなった。


「恐れ入ります」


「本当にそう思っているよ」


 思っていらっしゃるのだろう、と私も思う。嘘をつく方ではない。嘘をつくほど、こちらを見ていない。


 窓の花びらが、ようやく剥がれて落ちた。


「ゼバスティアンさま。婚礼のことですが」


 あの方の指が、外套の裾に触れた。膝の上で布を軽く握る。そういう仕草をするとき、この方は窓を見る。


「父も今年は臥せっておりまして。日取りだけでも決まりますと、商会の者も動きやすいのです」


「ああ。……そうだな」


「秋でしたら、南の荷が落ち着きます。冬に入る前に」


「秋は……どうだろうな」


「ご都合が悪うございますか」


「悪いというわけじゃない」ゼバスティアンさまが窓を見た。「ただ、あの子を置いて式を挙げるのはどうなんだろうと思って」


「置いていくわけではございません」


「そうなんだが」


「私がこの家に入れば、ギーゼラさまのお世話をする手が増えるということかと」


 一瞬、あの方が私を見て、すぐに目を逸らした。


「……君は、そういうふうに考えるんだな」


「商家の者ですので。人手と日取りで考えます」


「悪い意味じゃない」


「存じております」


「母上が、まだ早いと」


「奥さまが」


「あの子の容態が落ち着いてからにしなさい、と。去年もそう言われた」


 去年も、と私は胸の内で繰り返した。


「ギーゼラの容態が落ち着いたら」


 外套の裾を握る指が、少し強くなった。


「あの子には、僕しかいないんだ。君なら分かってくれるだろう」


 分かってくれるだろう。


 その一言で、六年が延びてきた。


 最初の年は、私もそう思った。家族を亡くした娘が離れにいて、その娘に寄り添う人がいる。立派なことだ。そう思えたし、思えた自分を少し誇らしくも感じた。


 三年目には、思うのをやめた。やめたことに気づかないまま、返事だけが残った。


「——はい」


 私はそう言った。


 あの方の指から力が抜けた。息をひとつ吐いて、やっと私の顔を見た。


「ありがとう。……そうだ。お父上は、具合はどうだ」


「臥せっております」


「そうか。それは」あの方が眉を寄せた。「見舞いに行くべきだな」


「お気持ちだけで」


「いや、行く。今月中には」


「商人の家です。お越しいただくほどでは」


「そういうことを言うな」


 本気でそう仰っているのだと分かる。この方は、思っていないことを言わない。


 ただ、去年もギーゼラさまの容態が落ち着いたらと仰った。今月中には、という言葉も、たぶん同じ棚に置かれる。


「では、失礼いたします」


「ああ。……また来週」


 私は立ち上がって、頭を下げた。下げてから、早すぎたと気づく。貴族の礼は、もう半呼吸ぶん長く留める。商家の間合いは、頭を上げるのが速い。


 六年経っても、この癖だけは直らなかった。




 馬車が石畳を拾って揺れる。


 侯爵家の門を出ると、道は緩く下って商人街に入る。貴族街と商人街は丘一つで分かれていて、我が家はその境の一番上にある。祖父が爵位を買ったとき、これより上には土地がなかったからだと父が言っていた。


 窓枠に肘をつく。木が硬くて、じきに痺れた。


 ふと、数えてみようかと思った。


 六年のうちに、あの応接で何度待ったか。


 ——分からなかった。


 帳場では、荷の遅れを必ず控える。何日遅れたか、誰の便か。数えれば、次の手が打てる。


 なのに私は、あの椅子に座った回数を控えていない。数えようと思ったことが、一度もなかった。


 膝の上で、手のひらをゆっくり開いた。指の先だけが冷たい。侯爵家の応接は、いつも冷える。


 この婚約が取引であることを、私はよく知っている。


 ヴァイル家は金で家格を買った家だ。祖父が王家に献金して伯爵位を得て、父がそれを守っている。貴族街では今でも、金だけの家と陰で呼ばれている。


 ラウエンブルク侯爵家は古い。古いだけ、内側は寒い。使用人の数が家の格に見合っていないことくらい、帳場で育てば分かる。


 だから、うちの金貨があの門を入って、あの家の名がうちの娘についた。そういう取引だ。取引に情を求めるのは、商家の娘としては下手な部類に入る。


 それでも、と思う。


 取引なら、日取りくらいは決まっていいはずだ。


 馬車が止まった。




 玄関の石段に、見慣れた男が立っていた。


 父の帳場付きのクラウスだ。革の書類挟みを胸に抱えて、私が降りるのを待っている。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「父の具合は」


「今朝は、粥を半分召し上がりました」


 それは良い知らせだ。先週は匙を持つ手が震えていた。


「粥を、半分も」


「はい。昨日より匙が進みました」


「お医者さまは」


「午後にまた見えます。熱は下がったが、無理はさせるなと」


「分かりました」


「それと、旦那様から。お嬢様にお渡しするようにと」


 クラウスが書類挟みを開いた。


 中から出てきたのは、紙の束だった。厚い。年ごとに別の紐で括ってあって、それが六つ。


 受け取った瞬間、親指が勝手に動いた。紙の厚みを確かめる癖だ。父の帳面と同じ厚さの紙。良い紙だ。侯爵家は、こういうところで格を落とさない。


「これは」


「ラウエンブルク侯爵家からの、年次の明細にございます」


「明細」


「持参金の使途を、毎年お知らせいただく取り決めで。婚約のときの契約に、旦那様が入れさせました」


 知っていた。取り決めがあることは知っていた。商家の慣習だ。渡した金がどう使われたか、年に一度、紙で知らせてもらう。


 知っていて、私はそれを一度も見たことがない。


「これは、毎年届いていたのですね」


「届いておりました」


「どこに」


「帳場の奥に、年ごとに綴じて」


「父は、読んでいましたか」


 クラウスが一拍黙った。


「……封を切らせては、おりました」


「切らせた」


「わたくしが封を切り、外包みごと麻紐で綴じ直しておりました。旦那様は、届いたかとだけお訊ねになりました」


「それだけ」


「それだけでございます」


 私は紙の束を見た。六つの紐。六年分。


 父は、値切る男だ。相手が値を言うまで、こちらからは言わない。その父が、六年、封だけ切らせて棚に上げた。


「旦那様が、お嬢様に読めと」


「父が」


「はい。長女が読め、と。それだけ仰いました」


 クラウスが目を伏せた。伏せ方で分かる。父が、それ以上は言わなかったのだ。


 私は玄関の石段に腰を下ろし、一番上の束を膝に乗せた。


 保管用の麻紐を解くと、切り口のある外包みが開いた。侯爵家の紋を押した封蝋は、割れたまま紙に残っている。縁に触れた親指に、乾いた蝋が引っかかった。


 薄い欠片が石段に落ちた。紙の間にも、細かな蝋が残っていた。


 紙を開く。


 項目、金額、支出先。三つの列が、見慣れた並びで下りていく。厨房。蝋燭。馬。衣装。石炭。


 その列の途中に、見たことのない項目があった。


 医薬。


 金額の欄に、月に八十リーヴルとあった。


 うちで女中を一年雇っても、十二リーヴルだ。


 支出先の欄には、聞いたことのない名が入っていた。


 六年。


 この紙を、私は一度も自分の手で受け取っていなかった。

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