第20章(前編) 静かなる網
夜更けの警視庁庁舎は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
廊下に響くのは、靴音と、遠くで鳴るコピー機の作動音だけ。
北澤優は、デスクに広げた資料から視線を上げた。
分厚いファイルの背表紙には、まだ仮の管理番号しか書かれていない。
だが、その中身は、ただの経済事件では済まされない重さを持っていた。
「……やっぱり、想像以上だな」
低く呟く。
机の上には、湊から渡された資料、
そして自分の手で洗い直したログ、
照合済みの時系列表。
それらが静かに並んでいる。
不正送金の痕跡。
改ざんされた会計データ。
複数のペーパーカンパニー。
そして、意図的に仕組まれた“身代わり”の構図。
――狙われたのは、偶然じゃない。
北澤はゆっくりと椅子にもたれ、天井を見上げた。
(高杉湊……か)
名前を思い浮かべるたび、胸の奥がざわつく。
彼女は、ただ仕事をしていただけだった。
誠実に、淡々と、正しく。
それが“都合が良すぎた”。
優秀で、無欲で、疑われにくい。
そして何より、内部に深く入り込める立場。
――だから、利用された。
それを思うと、胸の奥に静かな怒りが込み上げてくる。
「……卑怯だな」
誰に向けた言葉でもなく、ただ吐き出す。
デスクの端に置かれた写真立てに、ふと目が留まる。
そこには、少し照れたように笑う“妹分”の姿があった。
美乃。
彼女が信じて託してきた案件だ。
そして、彼女が信じる人間――湊。
だからこそ、ここで曖昧にはできない。
北澤は背筋を正し、キーボードに指を置いた。
内部システムへ正式な照会をかける。
関連部署への照合依頼。
過去5年分のログの再精査。
一つひとつ、確実に。
「……時間はかかる。でも、逃がさない」
そう呟いたその時、内線が鳴った。
◇
「はい、北澤です」
『先ほどの件ですが、例の口座、動きがありました』
声色が変わる。
「詳細を」
『資金移動が確認されました。
複数口座を経由していますが……意図的です』
北澤はゆっくりと息を吸った。
「……やはり、動き出したか」
彼はペンを取り、メモに一行走り書きする。
◇
――“狩る側”に回った。
その視線は、静かに、しかし確かに前を見据えていた。
これはもう、個人の事件ではない。
組織の闇に切り込む戦いだ。
そしてその中心には――
知らぬ間に標的にされ、なおも立ち続ける1人の女性がいる。
北澤は立ち上がり、上着を手に取った。
「……必ず守る。今度は、俺の番だ」
静かに扉が閉まる。
その先で、物語は次の局面へと進み始めていた。




