第38話 凱旋の前に見えるもの
帰還の準備は、順調に進んでいた。
疫病は終息した。
街には、すでに日常が戻りつつある。
人の声。
市場のざわめき。
水を汲む音。
あの死の気配は、もうない。
だが。
俺の前には、別の問題が置かれていた。
机の上。
一通の報告書。
昨夜、王族から直接届けられたものだ。
封は、すでに切ってある。
俺は、それを開いた。
⸻
「……神聖国アストラディア」
小さく呟く。
その名は。
この大陸に生きる者なら、誰でも知っている。
だが。
その実態を、正確に理解している者は少ない。
紙には、簡潔にまとめられていた。
この国の構造。
そして他国との違い。
⸻
「神聖国アストラディア」
俺は、声に出して読む。
「この大陸最大の宗教国家」
一拍。
「神殿が、国家そのものを統治する国」
レオンが顔を上げた。
「……どういう意味ですか、それ」
「簡単に言えば」
俺は紙を指で叩く。
「政治も軍も司法も」
一拍。
「すべて、神殿が握っているということです」
沈黙。
セリアが、ゆっくりと言った。
「……王がいない、ということですか」
「形式上はいます」
俺は答える。
「ですが、実権は神殿にある」
それが。
神聖国という国だった。
⸻
俺は、視線を上げた。
「俺たちの国は」
一拍。
「違いました」
エレインが、小さく頷く。
理解している顔だった。
「神殿は存在する」
「人々は祈る。治療も、神殿に頼る」
そこまでは同じだ。
だが。
「政治は王が行う。軍は王に従う。神殿は、政治には干渉しない」
それが俺たちの国の形だった。
少なくとも表向きは。
⸻
「……つまり」
セリアが言う。
「今回の件は」
一拍。
「普通の神殿の問題ではない、ということですね」
「ええ」
俺は頷いた。
「神官長の上、さらに上」
その存在が。
初めて、はっきりと見えた。
⸻
「神聖国アストラディア」
俺は、もう一度その名を見る。
この国は。
ただの宗教国家ではない。
神を名乗る者たちが国そのものを支配している国。
そしてその国が他国の水路に処理場を移設させた。
偶然ではない。
明確な意思だった。
⸻
「……敵の規模が」
レオンが小さく言った。
「一気に大きくなりましたね」
「ええ」
俺は答える。
静かに。
「ですが」
一拍。
「やることは同じです」
病を見つける。
原因を突き止める。
そして。
止める。
それだけだ。
⸻
帰還の日。
王都の門が見えてきた。
見慣れたはずの景色。
だが。
どこか違って見えた。
門の前に人がいた。
大勢。
数十人ではない。
数百人。
それ以上。
人が、集まっていた。
⸻
「……これは」
レオンが呟く。
門が開く。
そして。
俺たちが入った瞬間。
歓声が上がった。
「先生だ!」
「戻ってきた!」
「疫病を止めた方だ!」
声が。
一気に広がる。
人々が。
こちらを見ている。
目が。
輝いていた。
恐怖ではない。
不安でもない。
感謝だった。
⸻
「……すごいですね」
セリアが、小さく言う。
「ここまでとは」
「ええ」
エレインが答える。
その声には。
わずかな誇らしさが混じっていた。
まるで。
自分のことのように。
⸻
「先生!」
子供が走ってくる。
母親に手を引かれながら。
「ありがとう!」
小さな声。
だが。
真っ直ぐだった。
俺は、少しだけ頷いた。
それだけで。
十分だった。
⸻
その夜。
フォルツァ邸。
久しぶりに戻った屋敷は。
どこか静かだった。
落ち着く空気。
見慣れた廊下。
見慣れた灯り。
「……お疲れさまでした」
エレインが言った。
声は、いつも通り。
だが。
どこか柔らかかった。
「あなたがいなければ」
一拍。
「今回の結果はなかったでしょう」
俺は首を振った。
「一人では無理でした。皆が動いた結果です」
エレインは、少しだけ笑った。
静かな笑みだった。
その顔を見て。
改めて思う。
整った顔立ち。
凛とした目。
戦場に立つ者の顔。
そして。
同時に。
確かな美しさを持った顔だった。
⸻
「……どうかしましたか」
エレインが言う。
俺が見ていたことに気づいたらしい。
「いえ」
俺は視線を外した。
「少し、安心しただけです」
エレインは、少し驚いた顔をした。
そして。
小さく笑った。
本当に。
小さく。
だが。
確かに、柔らかく。
⸻
「……そうですか」
その声は。
どこか、優しかった。
一瞬だけ。
静かな空気が流れる。
何も言わない時間。
だが。
不思議と、居心地が悪くない。
むしろ落ち着く。
⸻
だが、机の上にはまだ、あの紙がある。
神聖国アストラディア。
その名。
そしてあの印。
すべてはまだ始まったばかりだ。
⸻
この戦いは。
終わっていない。
むしろ。
ここからが。
本当の戦いになる。
そんな予感が。
静かに。
確かに。
胸の奥に残っていた。




