第34話 信じるという変化
水の煮沸命令から五日が経った。
王都の朝。
通りには、相変わらず煙が上がっていた。
あちこちで鍋が火にかけられている。
最初は不満の声ばかりだった。
だが。
今は違う。
「……先生」
レオンが、通りの先を見ながら言った。
「見てください」
視線の先。
そこには、昨日見た老人がいた。
あの日。
広場で、真っ先に声を上げていた男だった。
『水が原因なわけがない!』
そう叫んでいた男だ。
その老人が。
今は、自分の手で火を守っていた。
真剣な顔で。
鍋を見つめながら。
「……続けている」
レオンが小さく言う。
「ええ」
俺は答えた。
「変わり始めています」
⸻
その時。
老人が、こちらに気づいた。
一瞬。
目が合う。
そして。
ゆっくりと歩いてきた。
足取りは重い。
だが。
迷いはなかった。
「……先生」
低い声だった。
「何でしょう」
老人は、しばらく何も言わなかった。
そして。
深く、頭を下げた。
「……すまなかった」
通りの空気が、一瞬止まる。
周囲の人々が、こちらを見ていた。
「わしは」
老人が続ける。
「あなたを疑った」
声が震えていた。
「だが」
一拍。
「孫が助かった」
沈黙。
それだけで、十分だった。
「昨日まで、もう駄目だと思っていた。水を煮ろと言われて半信半疑でやった。それでも」
声が詰まる。
「助かった」
老人は、もう一度頭を下げた。
「……ありがとう」
周囲が静まり返る。
誰も、何も言えなかった。
⸻
俺は短く答えた。
「やったのは、あなたです」
老人が顔を上げる。
「火を絶やさなかった。それが、命を救いました」
老人の目が、わずかに潤む。
「……そうか」
小さく言った。
「そうか」
⸻
その様子を。
周囲の人々が、見ていた。
最初に反発していた者。
疑っていた者。
黙って見ていた者。
すべてが。
この場面を、見ていた。
そして。
空気が変わる。
はっきりと。
「……本当に」
誰かが言った。
「助かるんだな」
別の声が続く。
「水を煮れば……死なないのか」
疑いは。
少しずつ。
確信に変わっていた。
⸻
セリアが、隣に立つ。
その顔は。
もう、最初の時とはまったく違っていた。
「……見事ですね」
小さく言う。
「何がですか」
「理屈だけじゃない」
一拍。
「人を動かした」
その声には。
完全な敬意があった。
「……認めます」
はっきりと言う。
「あなたは」
一拍。
「本物の医師です」
その言葉は。
この国で、一番価値のある評価だった。
⸻
その日の夕方。
王宮に戻る途中。
兵が一人、駆け寄ってきた。
「報告です!」
息を切らしている。
「死亡者数が」
一拍。
「昨日は、一名です」
沈黙。
レオンが思わず言う。
「……一人?」
「はい!」
兵が答える。
「その前は四名」
「さらにその前は十一名」
数字が。
はっきりと語っていた。
「減っています」
レオンが言う。
声が震えていた。
「確実に」
「ええ」
俺は答えた。
「止まり始めています」
⸻
その時。
セリアが、こちらを見た。
少しだけ、迷うような表情。
そして。
ゆっくりと口を開く。
「……お願いがあります」
「何でしょう」
一拍。
「私にも」
視線がまっすぐ向く。
「教えてください」
静かな声だった。
だが。
はっきりしていた。
「あなたの医療を」
それは。
完全な敗北宣言ではなかった。
完全な信頼の始まりだった。
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王都は、変わり始めている。
人が、信じ始めている。
数字が、証明している。
この戦いは。
もう。
終わりに向かっていた。




