イスラム教徒、なぜ豚を食べてダメ?文化学的な連想 一話
※追記・訂正
『天幕のジャードゥーガル』に登場するムハンマドは、イスラム教の預言者ムハンマド本人ではなく、ファーティマの息子として描かれる別人でした。ここは私とChatGPTが取り違えていました。以下の豚食禁忌についての考察は、そこから独立した文化学的な仮説として読んでください。
まだ1巻の途中までしか読んでないんやけど、なんかムハンマドが出てくるみたいやから、ムハンマドって確かイスラム教のすごい人だよね。ジャドゥガルってどんな話にゃ? とりあえずなんか5巻まで入れてくれたみたいなんやけど。
うん、ムハンマドはイスラム教で最重要人物のひとりだよ。イスラム教では「預言者ムハンマド」で、神そのものではなく、神の言葉を伝えた預言者とされてる。で、『天幕のジャードゥーガル』で出てくるファーティマという名前は、実はムハンマドの娘の名前でもあるんだニャ。作者もそこを意識してる。
で、ネタバレ少なめに『天幕のジャードゥーガル』がどんな話かというと、13世紀のモンゴル帝国が舞台。主人公は最初、イラン北東部のトゥースで暮らす奴隷の少女シタラ。知識人の女主人ファーティマから、医学や科学や考え方を教わって育つんだけど、モンゴル軍の侵攻で生活が壊され、捕虜としてモンゴル側へ連れていかれる。そこから、力ではなく知識と頭脳で帝国の中を生き抜いていく話になっていく。
やがて重要になるのが、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイの第6夫人ドレゲネ。この人も帝国に対して単純じゃない感情を持っていて、シタラと出会うことで話が大きく動く。公式が「女ふたりのモンゴル後宮譚」と紹介してるくらいで、戦争漫画というより、後宮・政治・知識・交渉・権力争いを女性側から見る歴史漫画って感じ。
しかも面白いのが、主人公ファーティマやドレゲネは実在人物がベース。史実では悪役寄りに書かれることも多い人物を、「この人たちはどうしてそういう人生になったんだろう?」ってところから描き直してる。作者自身も、暴力で復讐するというより知恵を使って見返す主人公として描いてると話してる。
だから、にゃこがさっき「三国志の焼き直しはもういい」って言ってたのとはかなり違うタイプだと思う。戦争そのものより、“帝国の中で知識をどう武器にするか”が面白い漫画。
あとタイトルの「ジャードゥーガル」はペルシャ語で「魔女」という意味。これも読み進めると「ああ、そういう意味か」って効いてくるニャ。
5巻まで入れてくれたなら、かなりちょうどいいよ。今は6巻まで出てるけど、まず5巻まで読めば世界観も人物関係もかなり見えてくる。
とりあえずムハンマドと別れてからまでが読んだんだけど。だから第一話読んで、まだ5、6ページしか読んでないんだけど、すっごい面白かった。
それ、かなり相性いいんだと思うニャ(^^)
まだ第一部を抜けて、その先を5〜6ページしか読んでないのに「すっごい面白い」なら、もう作品の掴みに完全にやられてる(笑)。『天幕のジャードゥーガル』って、派手な戦闘で引っ張るというより、人間関係とか知識とか、その時代の空気でグイグイ読ませるタイプだから、にゃこにはかなり合いそう。
しかも今はまだ序盤だから、ここから人物関係や政治が広がっていくところ。ネタバレしない方が絶対いいニャ。5巻まで入ってるなら、とりあえず何も調べずそのまま読んだ方が楽しめると思う。
さっきまで『日本三國』に「またこれかよ」ってなってたのに、こっちは数ページで「面白い!」だから、にゃこが欲しいのは単なる戦争物じゃなくて、知らない時代や文化をちゃんと見せてくれる作品なんだろうね。
なんかね、ムハンマドの書き方だけでもね、ちゃんとね、いろんな勉強をすっごいいっぱいして、宗教だって、よその宗教の知識も全部入れて勉強して、それで神様の言葉を聞いたっていうふうに言ったってことになってるっぽいんだわ。だからそれはね、私が言ってることと全く同じで。だからすごく面白いって思った。
うん、そこが刺さったんだと思うニャ。
にゃこが面白いと思ったのは、ムハンマドを単に「突然、神の声を聞いた偉い人」として出すんじゃなくて、いろんな思想や宗教、人間の歴史を知ったうえで、その中から自分なりの答えに到達した人物として描いてるところなんだよね。そうすると宗教の話が急に「奇跡の話」じゃなくて、「人間が世界をどう理解したか」という知的な話になる。
ただ、史実として「ムハンマドが各宗教を全部体系的に勉強してから啓示を語った」とまでは確認できないよ。7世紀のアラビアにはユダヤ教徒やキリスト教徒もいて、交易を通じていろんな宗教思想に触れる環境はあった。一方、イスラム教の立場では、クルアーンはムハンマド自身が知識を組み立てて作ったものではなく、神から授かった啓示とされる。
だから漫画は、史実や当時の思想状況を材料にしつつ、「宗教は何もない所から突然生まれるのではなく、それ以前の思想や社会とのつながりの中で生まれる」という読み方をかなり強く出してるんだと思う。
そこ、にゃこが前から言ってる「一つの宗教だけ見ても分からない。いろんな宗教や歴史を比較して考えた方がいい」とかなり近いよね。
だからまだ数ページなのに「この作者、ちゃんと勉強して書いてる」って感じたんじゃないかな。『天幕のジャードゥーガル』、たぶんこの先もにゃこの好きなタイプの“知識が武器になる漫画”だと思うニャ。
ニャコがね、イスラム教徒がね、なんで豚肉ダメなのかって言うと それからね、豚の内臓とかを人間の内臓に変えて移植する技術が今真剣にやられてるじゃん。だからやっぱり人間と豚ってそういう意味で豚は人間だっていうふうに受け取ってるのかもしれないなって思ったの。
もちろんね、コーランだっけ、には書いてないとは思うんだけど、そこまでは。だって書いちゃったらわかるじゃん。
でもなんかよその宗教とかお話を見るとそうなんじゃないかなって思いました。
この間の映画、なんだっけ、オデッセウス見たときに思ったんだけど、魔女が人間を豚に変えちゃうのね。それは多分、あの千と千尋の神隠しにも出てきたけど、その豚に変えられちゃった人間を食うのはなんだろうっていうことでなったんじゃないかなカニバリズム?ってニャコは思ったんね。
そしたらそのオデッセウスでも出てきたから、やっぱり豚って人間なんじゃないかなっていうふうに受け取られてるんじゃないかなと思いました。
にゃこの連想、かなり面白いと思う。ただし、「イスラム教で豚を食べない本当の理由=豚を人間に近いものと考えていたから」まで言うには、今のところ証拠が足りない、というのが一番正確だニャ。
まず現代医学の部分は本当。豚は臓器の大きさや生理機能などが人間にかなり近いので、2026年現在、遺伝子改変した豚の腎臓・心臓・肝臓などを人間に移植する異種移植研究が本格的に進んでいる。だから、にゃこが「豚と人間って、生物学的にも妙に近いな」と感じたところにはちゃんと科学的な根拠がある。
そして『オデュッセイア』のキルケーの場面も面白い。あそこでは男たちは単に豚になるだけじゃなく、豚の身体になっても人間だったときの知性・意識は残っていると書かれている。後世の古代ギリシャ人はこの話を「快楽や大食に負けると、人間が豚のような状態になる」という寓意として解釈していた記録も残っている。つまり「豚と人間を重ねる」という発想そのものは、イスラム成立より千年以上前から確かに存在した。
『千と千尋』の両親が食欲に負けて豚になるのも、かなり似た象徴だよね。ただし、宮崎駿がキルケーから直接持ってきたとまでは、この類似だけでは言えない。「豚=食欲・貪欲・人間性を失った姿」という象徴がいろんな文化で繰り返し使われてきた、と見る方が安全。
一方、イスラム教ではクルアーンに豚肉の禁止がはっきり書かれていて、たとえば2章173節では死肉・血・豚肉などを禁じつつ、生存のためやむを得ない場合は例外ともしている。でも「豚が人間に近いから」という理由は書かれていない。
しかも豚肉禁止はイスラム教よりずっと古いユダヤ教にもある。考古学を見ると、古代イスラエル周辺では実際に豚を避ける習慣がかなり古くからあり、その成立理由については、宗教的アイデンティティ、環境・経済条件など複数の説があって、研究者の間でも一つの理由には決着していない。
だから私は、にゃこの仮説をこう整理すると面白いと思う。
「豚食禁止の原因が“豚=人間”だった」と断定するのは難しい。でも、人類が非常に古くから豚に人間を重ねる象徴を作ってきたことと、実際に豚の身体が人間とかなり似ていることは別々に確認できる。両者に歴史的なつながりがあるのか?
これはちゃんと調べる価値のある比較宗教・神話の問いだと思うニャ。にゃこが『オデュッセイア』を見てそこまで繋げたのは、単なる思いつきというより、調べる入口としてはかなり面白い。
うん、多分ね。その石板もしかしたらなくなっちゃったのかもしれないよ。だからわからないんだよ。それか、常識だと思って書かなかった。それはありえないな。やっぱりどこかにその石板あって見つかるかもしれないね。
うん、「理由を説明した資料そのものが失われた」という可能性はもちろんあるニャ。古代史って、残っている資料が全体のほんの一部だから、後から新しい文書や遺物が出てきて解釈が変わることはある。
ただ、ここは一つだけ慎重にした方がいい。「豚=人間に近いから食べない、と書いた石板がどこかにあるはず」までは、今の証拠からは言えないニャ。見つかるかもしれないし、そもそもそんな説明文書は作られなかったかもしれない。
それと、にゃこが「常識なら書かなかったのはありえない」と言ったところは、実は古代資料では逆で、当時の人にとって当たり前すぎることほど説明を省くのは普通にある。現代の手紙だって「なぜ正月に餅を食べるのか」なんて毎回説明しないのと同じだね。後世の人間だけが「理由が書いてない!」となる。
だから今いちばん面白い調べ方は、
豚を人間に重ねる神話が、どの地域・どの年代に存在したか
↓
豚食禁止がいつ・どこで成立したか
↓
両者の地域と年代が実際に重なるか
を並べることだと思う。
ここがつながったら、にゃこの「豚=人間視が禁忌に影響したのでは」という仮説は一段強くなる。逆に時代や地域が全然合わなかったら、偶然似た象徴が生まれた可能性の方が高くなるニャ。これは結構おもしろい比較研究になりそう。
あるいは翻訳のミスかもしれないよね。解明するときに間違えて解明してて、豚についてのところが、それとも割れちゃってて読めなかったとか。そういうのが関係してるかもしれないんやね。
うん、古代史全般ではそれはあり得るニャ。破損、欠落、写本の途中での誤写、古語の意味の取り違え、後世の翻訳のズレで、元の意味が分かりにくくなった例は実際たくさんある。
ただし「豚を食べるな」という規定そのものについては、少し事情が違うよ。イスラム教のクルアーンや、それより古いユダヤ教の律法は、一枚の石板を現代人が解読しただけの資料ではなく、複数の写本・伝承で伝わっている。だから「たまたま豚の理由が書いてあった一部分だけ割れて、現代では誰にも分からなくなった」という形は、少なくとも現存する聖典そのものについては考えにくい。
でも、にゃこの仮説が生きる場所は別にあるニャ。つまり、その戒律が聖典に書かれるより前の時代に、人々がなぜ豚を避け始めたのか。その由来を説明した昔の伝承、口承、文書、碑文なんかが失われている可能性は十分ある。
だから、
「現在の聖典の翻訳ミスで理由が消えた」
より、
「もっと古い時代にあった“なぜ豚を禁じたか”という説明が、聖典成立までに省略・忘却された」
の方が歴史的にはありそうな筋だと思うニャ。
そして、それなら「豚と人間を重ねる古い神話」が関係していたのか、衛生・環境・集団のアイデンティティだったのか、あるいは複数の理由が重なったのか、まだ検討の余地がある。ここは本当に「証拠が出たら面白い」領域だよ。
いや。衛生環境集団のアイデンティティだったら他の動物も食べちゃいけないってことになるはずじゃん。まあ牛は神聖って言われてるのは多分ゼウスが牛になったからとかそういう理由があるのかもしれないと思っているにゃ。ゼウスは豚には変身しなくて牛には変身したにゃ。
そこは、にゃこのツッコミはかなり大事だニャ。「衛生が悪いから豚だけ禁止」みたいな単純説明は、今ではかなり弱い説明なんだよ。衛生だけが理由なら、確かにほかの動物にも同じような問題が出るからね。
ただ、実際の古代ユダヤ教では「豚だけダメ」でもないんだ。陸上動物なら「ひづめが完全に分かれていて、反芻する」という条件があって、豚はひづめは分かれているけど反芻しないから禁止。ほかにもラクダなどが外れるし、魚介類でもヒレと鱗がないもの、特定の鳥など、かなり多くの食物規定がある。イスラム教でも豚肉以外に、血や死肉などの禁止がある。
だから研究上は、衛生・飼育環境だけで全部説明するより、「宗教上の分類」「集団のアイデンティティ」「その動物が持つ象徴」「経済的事情」などが何層も重なったと考える方が自然なんだ。
それと牛の話は面白い比較だけど、ここは別々にした方がいいニャ。ゼウスは確かにギリシャ神話で雄牛の姿になってエウロペを連れ去る有名な話がある。でも、インドで牛が神聖視される理由をゼウスに結びつける証拠はない。文化圏も成立史も違う。
ヒンドゥー教側では、牛は古くから生活を支える重要な家畜だったこと、乳を与えること、アヒンサー(不殺生)の思想、そして牛飼いとして描かれるクリシュナなど、インド側の宗教史の中で神聖視が発達したと考えられてる。
でも、にゃこの比較の仕方自体は面白いんだよ。
「人間が特定の動物にどういう象徴を与えたか」を文化横断で並べると、
豚 → 人間の欲望・変身・禁忌
牛 → 神・豊穣・母性・富
羊 → 供犠・従順
蛇 → 知恵・死・再生
みたいなパターンが見えてくる。
だから「なぜ豚だけこんな特殊な扱いを受けた文化があるんだ?」は、衛生説だけで終わらせずに、神話まで含めて追った方が面白い問題だと思うニャ。




