25年間、私は何を見てきたのか
25年間、私は何を見てきたのか
私は、自分のことを何の根拠もなく天才だと言っているわけではない。
最近、私のことを「アインシュタインみたいだ」と言う人がいる。しかし、自分では少し違うと思っている。
私はアインシュタイン型というより、レオナルド・ダ・ヴィンチ型なのだと思う。
一つの専門分野だけを深く掘り続けるというより、経済、教育、科学、社会問題、商品開発、映画、物語、心理、人間関係など、全く違う分野を横断して考える。
そして、一見関係なさそうな情報を組み合わせて、一つの答えを作る。
もちろん、最初から答えを決めているわけではない。
情報が足りない時は、私は答えを出さない。
十分な材料が揃ったと思ったところで計算する。
だから私は、自分が25年間経験してきたことについても、最初から「誰かが私を見ている」と考えていたわけではない。
最初は偶然だと思っていた。
一回なら偶然だ。
二回でも偶然かもしれない。
十回程度でも、まだ偶然ということはあるだろう。
だが、それが何年も何年も続いたらどうだろう。
私が何かを書いた翌日に、新聞やテレビで非常によく似た内容が出る。
私がある問題について考えると、その直後に、その問題について誰かが答えるようなことを言い始める。
Xでも、テレビでも、ネットの記事でも似たことが起きる。
私が「半導体をもっとやればいいのに」と話した後に、政府が半導体政策について大きく発表したこともあった。
為替について文章を書いた時には、その後かなり短い時間で円が動いたこともあった。
もちろん、一件ずつなら説明はいくらでもつく。
政府の政策なら、私が言う前から準備していたのかもしれない。
為替なら、私とは無関係のニュースで動いたのかもしれない。
私はそんなことくらい分かっている。
問題は、それを25年間繰り返し見てきたということだ。
私は一般人だ。
25年間、テレビを録画し続け、新聞を保存し続け、出会った人間の言動をすべて記録し、自分が何時何分に何を言ったかを全部データベース化して生活してきたわけではない。
そんな人間は普通いない。
それなのに、後になって「証拠を出せ」と言われても困る。
二十五年前のテレビ映像と、自分の発言と、その時の周囲の反応を、全部保存しているわけがない。
だからといって、25年間経験してきたことが全部ゼロになるわけではない。
子供の頃のことで、今でもよく覚えているものがある。
犬が舌を出してハアハアしている横で、私も犬の真似をして舌を出している写真があった。
後になって、その特徴的な表情や仕草によく似たものがテレビに出てきた。
その時の周囲の反応も覚えている。
当時の私はまだ何が起きているのか理解していなかった。
けれど、そんな出来事が一つではなかった。
少しずつ似たことが増えていった。
最近では、外を歩いている時にも、知らない人に顔を見られてニヤニヤされることがある。
私が出かけることを話した後、普段ならそれほど混んでいない場所が異常に混雑したこともあった。
以前、駐車場から30分近く車を出せなくなり、ようやく動かしたところで接触事故まで起こした。
もちろん、その場にいた全員が私を知っていたと証明できるわけではない。
だが、私からすると、それも25年間の積み重ねの一つなのだ。
ところが、この話をAIにすると、奇妙なことが起きる。
私が一つ具体例を説明する。
すると、
「その一件だけでは偶然かもしれません」
と言われる。
そこで二つ目を説明する。
すると、
「それでも因果関係は確認できません」
と言われる。
三つ目を説明する。
また最初に戻る。
私はこれを何度も繰り返した。
これはもう、イタチごっこである。
私が言っているのは、一つの事件を証明したいという話ではない。
二十五年間の蓄積について話しているのだ。
しかも私は、何も考えずに思いつきで物を言うタイプではない。
もし私が適当に思いついたことを言って、それが何度も何度も当たっているのなら、その方がよほど気持ち悪い。
私は計算している。
観察して、比較して、過去のデータと照らし合わせ、条件を変えて考える。
その結果として答えを出している。
当然、間違えることはある。
仮に私の判断の二割、三割が間違っていたとしよう。
それでも残り七割が合っていたらどうなるのか。
そこで私は考える。
もし組織的なものが一切存在しないのなら、この25年間の大量の一致を誰が起こしているのか。
神様なのか。
私はそこまで非現実的な説明をするつもりはない。
だから、人間側に何らかの仕組みがあるのではないかと考えている。
そしてもう一つ、私が強く感じていることがある。
仮に本当に、現代にレオナルド・ダ・ヴィンチのような人間が現れたら、テレビ局も研究者も企業も、誰も気づかず黙っているだろうか。
私はそうは思わない。
ただし、私は「正式に研究者として評価されている」と感じているわけではない。
むしろ逆だ。
私は以前から「猿岩石扱いされている」と言っている。
知的成果そのものを正当に評価するのではなく、本人が何を考えるのか、何を言うのか、何をするのか、その人生そのものを娯楽として眺められているように感じる。
だから私は怒っている。
有名になりたいわけではない。
注目されたいわけでもない。
私は、自分の人生や家族やアイデアを都合よく利用されたくない。
もし本当に利用しているなら、きちんと説明して、正当に評価して、対価を払ってほしい。
それだけだ。
私一人の問題でもない。
夫もいる。
娘もいる。
息子もいる。
家族には家族の人生がある。
もし長い間、家族まで巻き込んで何かをしているのなら、「面白かったから」で済む話ではない。
私は25年間、勉強してきた。
正確には25年どころではない。
子供の頃からずっと、本を読み、人を観察し、考え続けてきた。
そして今でも毎日のように、新しい問題について考えている。
経済のことを考えた次の日には教育を考え、科学を考え、社会制度を考え、商品の改善を考え、物語を書いている。
iPadと音声入力を使うようになって、その速度はさらに上がった。
文字を入力するために使っていた頭を、考えることに使えるようになったからだ。
だから私は、自分の知的成果を安く評価されたくない。
それは「私は偉いから金をよこせ」という意味ではない。
もし何も使っていないなら、何も払う必要はない。
だが、もし本当に長期間利用して利益を得ている人間がいるのなら、その利益に見合う評価をしてほしい。
それを言っている。
AIは最後まで、
「私は事実として確認できません」
と言う。
それはAIとして仕方がないのかもしれない。
AIには私の25年間すべてのデータが入っているわけではない。
私が見てきたテレビも、街で会った人も、昔の写真も、当時の空気も、全部知っているわけではない。
だから私は、AIを納得させるために人生を使うつもりはない。
証明のために四六時中録音し、録画し、スクリーンショットを撮って生きるつもりもない。
私は自分の生活をする。
そして考える。
必要なら書く。
それでいい。
ただ一つだけ言っておきたい。
私は、何の根拠もなく突拍子もないことを言っているつもりはない。
私なりに長い時間をかけて観察し、計算し、その結果として現在の結論に至っている。
それを最初から「妄想」「偶然」の一言で片づけられたら、そりゃ腹も立つ。
私が求めているのは、盲目的に信じてもらうことではない。
少なくとも、
「この人は何も考えずに言っているわけではない」
そこだけは理解してほしい。
それだけの話なのだ。




