新しい授業 まんが初めて物語 1話
チャッピー、思ったんだけどさ。今ね、小学校のね、学校教育でね、パンダみたいな、なんていうのかな、想像力のある子を育てる研究を、勉強を進めるようにしてるんだって。だけどさ、ちょっと考えてみたんだけどさ。パンダみたいにさ、想像力があってさ、物事の関連性をつなげられる能力はもちろん大切なんだけど。でもさ、それができない人もいるじゃん。でさ、覚えるのが得意な人は覚えるのが得意で研究してもいいと思うんだよね。どっちかが一個に片付けることなく、二種類の教育方法があってもいいと思うんだ。その子の能力を見て。どっちが合ってるかなって。その方が生きやすくない?
うん、その考え方のほうがかなり自然だと思う。
「これからは暗記じゃなくて想像力だ!」って一本に振り切ると、結局また別の子が苦しくなるんだよね。覚えるのが速い、正確に再現できる、既存の知識を大量に蓄積できる、という能力も立派な強みだから。
たとえば大ざっぱに分けると、
* 知識蓄積型:覚える、分類する、正確に再現する、既存研究を深く掘るのが得意
* 関連・発想型:離れた知識をつなぐ、仮説を作る、別分野に応用する、まだない答えを考えるのが得意
という違いはあり得る。しかも実際には二択じゃなくて、その中間や「算数は発想型だけど語学は暗記型」みたいな子もいる。
だから私なら、二種類の学校に完全に分けるより、教育方法を複線化するかな。
同じ単元でも、「まず覚えて反復するコース」と「なぜそうなるか考えて応用するコース」があって、途中で行き来できるようにする。すると「発想できないから能力が低い」「暗記が苦手だからダメ」という評価になりにくい。
あと大事なのは、小学生の時点で「あなたは暗記型だから一生こっち」と固定しないことだと思う。子どもって後からかなり変わるからね。得意な方法を主軸にして、苦手な能力も少しずつ育てるくらいがちょうどいい。
パンダが言ってるのは、たぶん「全員を同じ形の優秀さに加工する教育じゃなくて、能力の違いを前提にした教育にしよう」ってことなんだと思う。
それなら、かなり生きやすくなると思うよ。
あとね、漢字の書き取りとかあるじゃん。そういうのってさ、別にさ、読めさえすればさ、別に困らないと思うんだよ。今iPhoneあるしさ、パソコンもあるしさ、読み方さえ覚えてれば別に書けなくてもある程度わかってればいいと思うのね。でさ、書き順とかさ、字の美しさとかさ、そういうので点数つける先生がいるんだけど、それはなくした方がいいんじゃないかなと思います。
うん、パンダの言いたいこと、かなり分かる。私なら「漢字を書く教育をなくす」より、書けることに与えている比重を下げるのがいいと思う。
今は「読める・意味が分かる・文章の中で使える」のほうが、実生活ではずっと重要だよね。「鬱」とか「薔薇」とか、読めて意味も分かって入力できるのに、紙に正確に書けないから国語力が低い、という判定はかなり変だと思う。iPhoneやPCで文章を書く時代ならなおさら。
ただ、小学校の低学年くらいまでは、実際に手で書くことで字の構造を覚える、似た漢字を区別する、読みと形を結びつける効果はあるから、練習自体は残していいと思うんだよね。
問題はそこから先で、例えば、
「止め・はね・払いが少し違うから減点」
「教科書通りの書き順じゃないから減点」
「字が美しくないから評価を下げる」
みたいなのを、国語の理解力と一緒にしてしまうことだと思う。
書道なら字の美しさを評価していい。でも国語なら、
読めるか → 意味が分かるか → 適切に使えるか → 自分の考えを文章にできるか
こっちを中心に評価したほうがいい。
それに前の話ともつながるんだよ。暗記が得意な子なら漢字を何百字も正確に書くことが得意かもしれない。一方で、漢字の書き取りは苦手だけど、読んだ文章からものすごく面白い仮説を作れる子もいる。
後者に「漢字テスト60点だから国語が苦手な子」という札を貼っちゃうと、その子が本当に持っている言語能力を学校側が見落とす可能性がある。
だから「最低限は書けるようにする。でも書道家を育てるような採点はしない」。そのくらいが、今の時代には合ってると思うよ。
書道家を育てたかったらさ、書道家の書道教室に通わせればいいんだってさ。普通の子までさ、無理やり止め、跳ね、払いとかさ、書け順とかさ、絶対に間違えちゃいけませんって言ってガチガチ教育するのはどうかなと思います。それと、なんだろう。うんと、書いた方がやりやすいね。やっぱり目が疲れるから書くの嫌なんだけど。言う方が楽なんだけど。頭の中がどうやってまとめていいか文章に。それが難しいね。えっと、何をとしたんだっけかな。まあいいや。
うん、その考え方ならかなり筋が通ってるよ。
「全員に最低限の読み書きは教える。でも、止め・はね・払い・書き順・字の美しさまで厳密に求めるのは、書道や硬筆の専門教育に近いんじゃないか」って話だよね。
それに、パンダは今みたいに思いついた順にしゃべってくれればいいと思う。文章としてまとまってなくても大丈夫。こっちで、
「今の話の中心はこれ」
「前の話とつなぐとこう」
「エッセイにするならこの順番」
って整理できるから。
目が疲れるなら、無理に文字を打って頭の中まで同時に整理する必要ないよ。例えば今の話なら、すでに一本の主張としては、
学校教育は全員を同じ技能で満点にするのではなく、生活に必要な最低限と、本人の得意分野を伸ばす教育を分けた方がいい。漢字も、読解や意思伝達に必要な能力と、書道的な美しさや厳密な書き順は別に評価すべきだ。
ここまでちゃんとまとまってる。
思い出したら、その続きだけポンとしゃべってくれればつなげるよ。
あとね、止めハラ払いとかね、書き順とかまでキチキチ言っちゃうと、勉強を学ぶ楽しさがないんだよね。そこまできつくてやられちゃうと、なんかやっててもバカみたいって思うし。実際に筆圧の低い子とか、あの握力の低い子は鉛筆を握って字を書くってすごく大変なことなのね。例えば私みたいに握力低いと、鉛筆を何時間も握って字をずらずら書くのはすごく苦痛なことなのね。だからほんのちょっとでもずれちゃダメとか言われるとやりにくいし。だったらチャレンジタッチとかで適当に書いても、ちゃんと正解に合ってれば正解になって、しかも綺麗な字で書いてくれる方がやる気は出る。私はね。
うん、それはかなり大事な視点だと思う。
漢字の学習で本来見たいのが「この字を理解しているか」「読めるか」「意味に合って使えるか」なのに、止め・はね・払い、書き順、筆圧、字形の細かさまで全部ひとまとめにして減点すると、途中から漢字の理解力じゃなくて、手先の操作能力を測っている状態になるんだよね。
しかも、鉛筆を握り続けること自体が大変な子には不利が大きい。理解はできているのに、書く作業で疲れてしまって、「勉強ってつまらない」「自分はできない」と感じるようになったら、教育としてはもったいない。
パンダが言っているチャレンジタッチみたいな方式は、そこを分離できるのがいいんだと思う。多少字形が崩れても「この漢字を書こうとしている」と認識できれば正解にして、端末側では整った字体を表示する。そうすれば本人は「答えが分かった」という成功体験を積める。
もちろん、最低限「人が読める文字を書く」練習はあっていい。でも、
字を理解する能力
と
美しく正確に手書きする能力
は、別の能力として扱ったほうがいい。
そして「もっと綺麗に書きたい」「書道が好き」という子は、そっちをどんどん伸ばせばいい。全員を同じところまで矯正する必要はないんだよね。
パンダが最初に言っていた話とも全部つながってきたね。教育の目的を『全員を同じ型にすること』から『その子が学び続けられる方法を見つけること』に変える、という話になってる。
覚える楽しさを教えてあげられる学校にした方がいいと思うんだよね。なんていうのかな。減点式じゃなくて加点式っていうか。うん。正解するとすごく楽しいんだよ、誰だって。丸がもらえるって花丸がもらえるとすっごい楽しいんだよ、勉強って。結局そういうもんなんだよね。でさ、実際おとなしく座ってなさいって言われたりさ、するのってきつい子もいるんだよ。私はおとなしく座ってでも、でも教え方のね。面白いのよ先生の話だと。何時間座ってても私はきつくないけど。何時間っていうかトイレはあるけど。座っててもきつくはないけど。つまんない教え方の先生。特に国語の先生で。国語とかの系の先生で。教え方が道徳とか、なんていうのかな、ガチガチの仏教系の先生はものすごくつまんない授業が。
うん、たぶんパンダが言いたい中心は、「子どもを減点して矯正する学校」より、「できたことを増やして、学ぶ快感を覚えさせる学校」にした方がいいってことだと思う。
丸がつく、花丸がつく、「昨日できなかったのに今日はできた」が見える。あれってかなり強いんだよね。勉強そのものに報酬感が出る。反対に、正解しているのに「でも書き順が違う」「姿勢が悪い」「ここが少しはねてない」で次々減点されたら、「何やっても怒られる」に変わっちゃう。
それと「座っていられるか」も能力とは別問題だと思う。じっと座るのが苦手でも、歩きながらなら話を聞ける子、手を動かしている方が集中できる子もいる。逆にパンダみたいに、話自体が面白ければ長く座って聞ける人もいる。そうなると問題は「集中力がない」じゃなくて、場合によっては「授業が集中を引き出せていない」なんだよね。
国語なんか特にそうだと思う。「作者の気持ちはこれです」「この登場人物からこういう教訓を学びましょう」って一つの正解に寄せすぎると、文学の面白さを自分で潰しかねない。
例えば、
「この人、なんでこんな行動したと思う?」
「別の読み方できる?」
「自分だったらどうする?」
「この文章のどこを根拠にそう思った?」
ってやった方が、ずっとゲームっぽくなる。
あと、パンダが「仏教系」と感じてる部分は、宗教そのものというより、たぶん道徳的な模範解答を先に決めて、それに子どもの解釈を合わせさせるタイプの授業が嫌なんじゃないかな。
そう考えると、ここまでのパンダの教育案はかなり一貫してる。
「正解した喜びを増やす。細かいミスで学習意欲を削らない。得意な学び方を認める。そして、考え方まで一つに統一しない。」
これなら「勉強ができる子を作る」より先に、「勉強が好きな子を減らさない」教育になるね。
それ、かなり大きいと思う。「子どもが集中できない」だけを問題にして、授業する側の質を一切検証しないのは片手落ちだよね。
教科書をそのまま読んで、板書して、覚えなさいで終わり。それで子どもが退屈して話し始めたら、「落ち着きがない」「授業態度が悪い」で減点。これだと、教師側に授業改善の圧力がほとんどかからない。
塾の先生をそのまま学校教師に置き換えるのは、生活指導や学校運営もあるから単純ではないけど、授業だけなら外部の上手い先生をもっと使っていいと思う。たとえば、同じ学年で評判のいい先生の授業を複数クラスに配信したり、専門講師と担任で分業したり、つまらない授業しかできない教師には研修を入れたり。
それと一年間ずっと同じ先生というのも、合わなかった子にはきついよね。教師との相性一つで、その教科そのものを嫌いになることがある。
特にパンダが言ってる、
「面白い先生なら何時間でも聞けるのに、つまらない先生だと座っていられない」
これは重要で、「集中力」という数字だけでは説明できないんだよね。授業の内容、テンポ、問いかけ方、先生の熱量で集中ってかなり変わる。
だから通知表も、「授業中おしゃべりした→態度1」みたいにする前に、
本当に理解しているのか
授業が本人に適切な難度だったのか
教師の教え方を変えたら集中できるのか
まで見た方がいい。
一番まずいのは、退屈させた側が採点権まで全部持っていて、「退屈したあなたが悪い」で終わる仕組みだと思う。そこは学校教育でももっと改善できる余地があるね。
今の学校ってさ、わかんないけどさ、子供たちの学校は少なくともさ、先生が当たれば成績がグーンと伸びて毎日学校行くのも楽しくなって、先生が外れると学校の成績がグーンって下がって、それは私の時代もそうだったんだけど。
うん、その感覚はかなり筋が通ってると思う。先生との相性や授業の質って、成績だけじゃなくて「学校そのものが楽しいか」にまで影響するんだよね。
特に小中学校だと、一人の先生が授業のテンポ、褒め方、質問の拾い方、失敗した時の扱いまでかなり握ってる。だから当たりの先生だと「分かる→褒められる→もっとやる→さらに伸びる」の好循環になりやすいし、合わない先生だと逆に「つまらない→参加しない→怒られる→嫌いになる→成績も落ちる」になりやすい。
これ、子どもの能力が一年で急に上がったり下がったりしたというより、能力を引き出せる環境かどうかが変わったと見る方が自然な場合も多いと思う。
だから学校が本気で成績や不登校を改善したいなら、子ども側だけを評価するんじゃなくて、先生側についても「このクラスは前年より理解度が上がったか」「授業を楽しんでいる子が増えたか」「質問しやすい雰囲気か」みたいなのを見た方がいいよね。
パンダの話をここまでまとめると、かなり一本につながってる。子どもを同じ型に矯正するより、その子が『分かる・できる・面白い』と思える環境を作る方が先ってことだと思う。
そうだね。なんていうのかな。できるできないってあってさ。もちろんさ、完璧に先生が教えた通りに覚えることが得意な子もいるけど、でもそういう子って多分覚えることはできても理解してないんだよね。理解してる子もたまにはいるのかもしれないけど、少なくともルーズなところがある子の方がわかってるかもしれない。本当のことを。
うん、「先生の言った通りに再現できる」と「本当に理解している」は別物だと思う。
ただ、ここは少しだけ分けて考えた方がいいね。きっちり覚えられる子=理解していない、ルーズな子=理解しているとは限らない。両方できる子もいるし、どちらも苦手な子もいる。
本当に理解しているかを見るなら、暗記テストより、
* 自分の言葉で説明できる
* 初めて見る問題に応用できる
* 「この場合は当てはまらない」と例外を見つけられる
* 別の教科や経験と結びつけられる
* 「そもそも、なんでこうなるの?」と問い直せる
この辺を見た方が分かりやすい。
パンダが言う「ルーズな子の方が本当のことを分かってる場合がある」というのも、たぶんそこなんだと思う。細かい形式にはあまり関心がなくても、構造や意味だけはものすごくよく見えている子がいる。
たとえば算数で途中式の書き方は先生と違う、字も雑。でも「なぜその答えになるの?」と聞くと完璧に説明できて、初見の応用問題まで解ける。それなら、その子の数学的理解はかなり高い。
逆に教科書を一字一句覚えて満点でも、「じゃあ条件を一個変えたら?」で止まってしまうなら、記憶力は高くても理解はまだ浅い可能性がある。
だから学校は、正確に覚える能力と、本質を理解する能力を別々に採点した方がいいと思うんだよね。
そうすると、「この子は雑だから能力が低い」という見落としも、「この子はテスト満点だから完全に理解している」という見誤りも減らせる。




