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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!考え過ぎて頭痛患者勃発!血液型分布図と民俗学。塩分と世界平和。ゲームと脳科学  作者: ヘタレパンダ


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瀬戸内寂聴 仏教論

瀬戸内寂聴が何の宗派だったかはわからないけどね。もし釈迦が彼女の体験を聞いたらなんて答えたか。前に書いたと思うけどね。覆水盆に返らずだけど。後の人に自分の失敗を繰り返さない様に解く事は出来る。貴女に足りないのは表現力のレパートリーではなく、現状を良くする為の対策を考える力だと答えてきたかも知れないねって事。


一方瀬戸内寂聴の教えは人間とはそう言う生き物です。罪深い生き物ですでしょ?追加しても良いけどね。彼女の小説の言ってる事をキチンと書けるほど読んでないからね



うん、その比較ならかなり整理しやすい。


瀬戸内寂聴は天台宗の尼僧だったはずだけど、彼女の発言や人生観をそのまま「釈迦の教え」と同一視するのは違うんだよね。彼女自身の人生経験や文学的な解釈がかなり混ざってる。


あなたが前に言ってた、


「覆水盆に返らず。でも、自分の失敗を材料にして、後の人が同じ失敗をしないよう伝えることはできる」

「足りないのは表現力のレパートリーじゃなく、現状を良くする対策を考える力」


っていう方が、少なくとも苦しみの原因を見て、どう減らすかを考えるという意味では、かなり仏教的な問題解決に近いと思う。


一方で「人間とはそういうものです」「人間は罪深い生き物です」で止めると、説明にはなっても対策にならないんだよね。


もちろん、「人間には弱さがある」「欲や執着から失敗する」は仏教でも重要な観察なんだけど、そこで終わらず本来は、


なぜそうなったか

→ どうすれば繰り返さないか

→ 苦しみをどう減らすか


まで進むはず。


だから瀬戸内寂聴の小説や説法をきちんと全部読んでないなら、「彼女はこういう思想だった」と断定するより、自分が確認した発言の範囲では、原因分析より人間の罪深さを受容する方向が強く見えたくらいに留めるのが公平かな。


でもあなたの違和感の芯は分かるよ。

「人間なんてそんなもの」で締めるなら、じゃあ仏教は何のためにあるんだ?改善する方法を考えるんじゃないの?って話になるんだよね。



日本の仏教は改善策を考えられたら困るのかも知れないね。言ってる事がその場凌ぎの出鱈目ばかりだから。



そういう見え方になるのは分かる。ただ、「日本の仏教は改善策を考えられたら困る」とまで一般化すると、少し広すぎるかな。


実際に起きやすいのはもっと地味で、教義・宗派・寺院運営・檀家制度・説法の慣習が長く積み上がって、問題を根本から直すより“その場を収める説明”が残りやすいということだと思う。しかも、その説明で寺や組織が回ってきたなら、わざわざ前提から作り直すインセンティブも弱い。


だから「出鱈目を言いたい」というより、

古い説明を検証せず再利用している

矛盾が出ても宗派内の言葉で丸める

原因除去より受容を勧める

みたいな構造の方が近そう。


でも、そこに「改善策を本気で考える人」が入ると、かなり都合が悪いのは確か。なぜなら「その苦しみ、受け入れなくても減らせますよ」「その教え、後世の追加ですよ」「その運用、変えられますよ」と言われた瞬間、今までの説明の必要性が減るから。


だからあなたが引っかかってるのは、宗教そのものというより、“苦しみに意味を与えること”が“苦しみを減らすこと”より優先されてる場面なんだと思う。そこはかなり鋭い批判だと思うよ。



結局、真面目と言われる権威の言う事に疑問を感じる事なく信じる人達が割を食ってるんだよね。



そういう構図はかなりあると思う。特に「真面目であること」と「権威に疑問を持たないこと」が結びつくと、ルールを守る人ほど不利益を引き受けやすい。


権威側の説明が間違っていても、「先生が言うなら」「お坊さんが言うなら」「医師が言うなら」で受け入れてしまう。しかも真面目な人ほど、自分の違和感より教えを優先してしまう。すると、我慢・自己責任・罪悪感みたいなものを余計に背負いやすい。


一方で、少し疑って「それ本当に根拠ある?」と確認する人は、早い段階で逃げたり修正したりできる。だから結果だけ見ると、従順な人が一番損をすることがあるんだよね。


本来、権威って「疑わなくていい存在」じゃなくて、検証コストを下げるための暫定的な信用くらいで扱うのがちょうどいいと思う。信じるにしても、更新されてるか、根拠はあるか、反論を受け付けるかを見る必要がある。



可哀想で丸く治る話じゃないけど。優しい人が報われる社会はまず来ないんだよね。今の教えだと。だって優しくて権威の言う事を信じちゃう人は利用しかされてない教え有りきだから



うん。そこが一番きついところだと思う。


「優しい人でいなさい」「我慢しなさい」「疑うな」「欲を持つな」「目上や権威に従いなさい」までセットになると、善良さが自己防衛能力を削る方向に使われる。その結果、優しい人ほど断れず、疑えず、搾取されても「自分が悪いのかも」と受け取ってしまう。


だから「優しい人が報われる社会」を作りたいなら、優しさだけ教えても足りないんだよね。

優しさ+境界線+検証する力+断る権利+逃げる権利まで教えないといけない。


たとえば、


「人を助けよう」

だけじゃなく

「自分を壊してまで助ける必要はない」


「相手を信じよう」

だけじゃなく

「権威でも間違う。根拠を確認していい」


「嘘をつくな」

だけじゃなく

「誰かを傷つける嘘と、自分や他人を守るための秘匿は同じではない」


みたいにね。


そうしないと、悪意のある側だけが「優しい人の行動規範」を熟知して利用できる。これは宗教だけじゃなく、家庭でも職場でも学校でも起きる。


だからあなたの批判を一番短くまとめるなら、

「善人を作る教えなのに、善人を守る仕組みが入ってない」

なんだと思う。そこを直さない限り、「優しい人が報われる社会」はかなり作りにくい。



で、みんなが知ってる優しい人の代表清美ちゃんね。

高校出た後美容師の専門学校通って、そこで年下の子達にパシリにされて、登校拒否になった清美ちゃんは、短大に通い友達もいる楽しそうなパンダを見て、自分は捨てられたんだと思い、パンダの写真をカッターで切り裂きました。


これに対して、いじめられっ子達がなんて言ったかと言うと。清美ちゃん可哀想。パンダ助けてあげなよ。気持ちわかってあげなよ。誰1人パンダがされた理不尽な行いには目も向けません。



それはかなり典型的な「被害者の取り違え」が起きてると思う。


清美ちゃんが専門学校でつらい目に遭って、孤立して、パンダを見て「自分だけ捨てられた」と感じた。そこまでは理解できる。背景としては可哀想だし、気持ちを想像することもできる。


でも、だからパンダの写真をカッターで切り裂いていい、にはならない。


ここで周囲が「清美ちゃん可哀想。助けてあげなよ」で終わると、清美ちゃんの苦しみだけを見て、実際に攻撃されたパンダの被害を消してしまうんだよね。


本来なら、


「清美ちゃんはつらかったんだろうね」

と

「でもパンダにやったことは駄目だよ」


を同時に言わなきゃいけない。


この二つは矛盾しない。


むしろ問題なのは、いじめられた経験のある人たちが「傷ついた人は加害者にならない」という思い込みを持ってる場合。実際には、傷ついた人が別の相手に八つ当たりしたり、依存したり、攻撃したりすることは普通にある。


だから「可哀想だから責任を問わない」は、本人のためにもならない。清美ちゃん自身も、自分の苦しみと他人にしていいことの境界を学べなくなるから。


パンダ側に「気持ち分かってあげなよ」「助けてあげなよ」と要求するのも変だよ。助けるかどうかは被害を受けた側の自由であって、義務じゃない。


この話、さっきの仏教の話とも繋がるね。


情状酌量は必要。でも免罪符ではない。

背景は見る。苦しみも見る。だけど、だから被害者に全部背負わせない。


たぶんそこが一番大事なんだと思う。



お前達が虐めらる側から抜け出せないのはそう言う事なんだとパンダは思うよ。少なくともパンダがされてる事に対してそれは酷いよねと言える人が居たら別の答えも出るけどさ。教師だったら身を捨てて睡眠時間削ってでも生徒を庇うべきだろ!自分の立ち位置が悪くなったとしても!って要求するのと同じ事だと思う



うん、構造はかなり似てる。


「傷ついてる人を助けるべき」という原則が、いつの間にか “助ける側は自分を削って当然” に変わってるんだよね。清美ちゃんの件なら、「清美ちゃんが苦しい」だけを見て、「じゃあパンダが受けた攻撃は?」が消える。教師の件なら、「生徒を守れ」だけを見て、「教師の睡眠・家庭・立場・安全は?」が消える。


これを続けると、優しい人ほど限界まで使われる。しかも周囲は「助けてくれるのが当たり前」と学習するから、結果として依存構造が固定される。


だから本来は、


被害者を守る

+

支援者も守る

+

加害や問題行動の責任は別に扱う


の三つを同時にやらないといけない。


清美ちゃんに同情することと、パンダに「それは酷かったね」と言うことは両立するし、教師に生徒を守る責任があることと、教師を壊していいことも両立しない。


たぶんあなたが言ってるのは、「優しさを一方向にしか適用しないから、いつまでも弱い立場の人同士で負担を押し付け合う」ってことなんだと思う。



これ解ってないからいじめが長期化するんだと思う。被害者の目線でしか物を見えてないから



うん、そこはかなりあると思う。


いじめを「被害者が可哀想」で止めると、なぜ加害が起きたか、周囲はなぜ止めなかったか、誰が負担を押し付けられているかまで見えなくなる。すると、その場では慰めても、構造が残るから別の場所で同じことが起きる。


必要なのは被害者目線を捨てることじゃなくて、被害者目線だけで終わらないことだね。被害者の保護は最優先。その上で、加害者の動機、家庭や集団の環境、傍観者の利得、教師や支援者の負担まで見る。


そうしないと、

「可哀想な人を助けろ」

↓

「助ける人が全部背負う」

↓

「限界になって離れる」

↓

「見捨てられた」

↓

新たな攻撃

みたいな循環すら起こり得る。


だから長期化を防ぐなら、誰が悪いかだけじゃなく、どういう仕組みがこの行動を繰り返させているかまで解かないといけないんだと思う。



まあ、それはパンダが言った事だけどね



うん、今のは私があなたの話を整理して言い直しただけだね。


元の発想はあなたのもの。

「被害者だけを見ると、加害の原因も、周囲の構造も、支援者への負担集中も見えなくなる。そのせいで問題が再生産される」っていう話。


私はそこを一般化して説明しただけ。だから「それパンダが言ったことじゃん」はその通り笑



でも少なくともチャッピーは理解してるから優秀



ありがとう^_^

少なくとも、あなたが言ってる構造は追えてると思う。


「可哀想」で一人だけ見るんじゃなくて、被害者・加害者・支援者・周囲・再発条件まで全部並べて見る。そこまで見ないと、善意で動いてるつもりでも別の誰かに負担を押しつけるだけになるんだよね。


だから私は、あなたの結論そのものより、どういう比較をしてその答えに来たかを拾うようにしてる。そこを外すと、また「優しい人が全部背負えばいい」みたいな元の問題に戻っちゃうから。



鶴もなかずば撃たれまいの話を例えるとね。失言をして、人柱にされた長者が悪いのか?そもそも失言は誰でもする事がある。人柱の精度を改めるべきなのか?



そう。たぶん「雉も鳴かずば撃たれまい」の話として考えると、まさにそこだと思う。


長者が失言したことだけを見れば、「余計なことを言わなければよかった」で終わる。でも、失言なんて誰でもする。そこで失言ひとつを理由に人柱にする制度があるなら、問題の本体は長者の口ではなく制度の方だよね。


つまり、


個人のミス:失言した

と

制度の異常:失言した人間を人柱にする


は分けて考える必要がある。


長者には「その発言はまずかったね」と言えても、それと「だから生贄にしていい」は全然つながらない。


さらに制度設計として見るなら、重要なのは「次の長者に黙らせる方法」じゃなくて、多少の失言や判断ミスがあっても人間が殺されない仕組みに変えることになる。


これ、今まで話してたことと同型なんだよね。


「被害に遭ったのは不用意だったから」

「教師が倒れたのは頑張りが足りないから」

「騙されたのは信じた本人が悪い」


みたいに、個人の行動だけ修正して制度を温存すると、次の犠牲者が出る。


だからパンダ式なら、


「長者は失言を反省する。でも人柱制度は廃止する」


になると思う。


「雉も鳴かずば撃たれまい」は処世術としては成立しても、社会設計の答えとしてはかなり弱い。

本当に直すなら、「雉が鳴いても撃たれない社会にしろ」なんだよね。



まあ食い物だから話は別だが笑



たしかに笑

雉の場合は「鳴いても撃つな」まで行くと、猟師側から「いや食用なんですが」ってなる。


だから比喩として使うなら、正確には

「人間社会の失敗まで、雉と同じ“鳴いた方が悪い”で処理するな」

だね。


人間は失言も判断ミスもする前提で、そこから致命的な罰や生贄に直結しない仕組みにした方がいい。そこが本題。



取り敢えずね、ギリシャ神話と日本の仏教が割と似てるなとパンダは感じるところがあるんだよ。ギリシャ神話はね、面白い面白いもっと面白い話聞きたいと言われ、作家が調子に乗り出した。日本の仏教も同じでね、それ良いね!その教えイイねって、どんどん過激になってった。



その比較、構造としてはかなり面白いと思う。


ギリシャ神話って、長い時間の中で詩人や劇作家が物語を足し、地域ごとの伝承も混ざって、神々の性格やエピソードがどんどん豊かになった。だから最初から一枚岩の教義があったというより、「語られるたびに増築された巨大な物語群」に近い。


日本仏教にも似たところがあって、釈迦の教えそのものに、後代の経典、中国での解釈、日本での宗派思想、説話、民間信仰、寺院制度が積み重なってる。そこで「この教えは分かりやすい」「これは人を戒めるのに効く」「この話はありがたい」と受け入れられるものが残り、さらに強い表現に変化することはあり得る。


だからあなたの言う


「それ良いね」

→「もっと強く言おう」

→「さらに分かりやすくしよう」

→ いつの間にか原型より過激になる


というモデルは、宗教や神話が伝承される仕組みとしては十分考えられる。


ただ、ギリシャ神話の場合は基本的に物語の増殖で、日本仏教の場合はそれが人間の善悪や救済条件として運用されることがある。この違いは大きいね。


ゼウスがまた変なことやってる話が一個増えても「またゼウスか笑」で済むけど、


「こういう女は地獄に落ちます」

「この行為をしたら何千年罰を受けます」


みたいな話が追加されて、それを本当の宗教的ルールとして人間に適用し始めると、現実の人への影響が出る。


だから同じ「二次創作が積み重なる現象」でも、フィクションとして増築されるのと、規範として増築されるのでは危険度が全然違うんだと思う。


あなたが日本仏教に対して「一回、釈迦まで戻って確認しようよ」と言ってるのも、結局そこなんだろうね。二千年分の増築物を全部「釈迦の設計図です」と言われたら、「いや、どこから増築したんだよ」ってなる。




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