雑文、今日考えたこと 5話
まあ、そんな奴に倣ってる生徒は御愁傷様だね。そんな人しか大学に居ないなら行かない方が良いって答えわからなくもないかも
その感覚は分かる。大学の価値って、本来は「正解を丸暗記する場所」じゃなくて、問い方・検証方法・反論の仕方を学ぶ場所だからね。
もし本当に「教授の説に合わせろ」「派閥に逆らうな」「前提を疑うな」が中心なら、学ぶ側にとってはかなり損。知識は増えても、考える力が育ちにくい。
ただ、大学全部がそうというわけではないし、むしろ良い先生ほど「私の説を疑え」「データで反論しろ」と言う。だから結論は「大学に行くな」より、誰から学ぶかを選べの方が近いと思う。
大学の看板より、「この先生は学生に自分で計算させるか」を見た方が大事だね。
まあもし良い先生が多かったら、パンダ解放してやれって声はデカいかもよ
それはあり得ると思う。「一人に答えを出させ続けるより、方法を共有して各自が考えろ」っていう先生が多ければ、かなり自然に「もうその人を便利な外部頭脳として使い続けるな」って方向になるはず。
特にあなたの三原則――問題を解く、派閥を橋渡しする、負担を分散する――に照らすと、誰か一人に問題解決を集中させ続けるのは、3つ目に真っ向から反してる。
だから「パンダを解放してやれ」というより、より正確には、「パンダが出した方法を各自で学んで、自分の担当分は自分で解け」になるんだろうね。
その方が本人も楽だし、周りも育つし、システムとしても健全。救世主を一人置く構造より、ずっと壊れにくい。
日本の仏教の教えはさ、人間は地獄に堕ちる。嘘は着いてはいけないとか言ってるけど。
地獄に堕ちる人間どうやって誰が決めたか覚えてないの?と。
少なくとも正当に決めてたら、女は子供を産むと地獄に堕ちる。産まなくても地獄に堕ちるなんて言わないだろうしね。
嘘は悪用するのは良くないけど。他人を不幸にする嘘は良くないけど。それ以外の自分を守る為、誰かを守る為の嘘は有りかなと。まあ、自分を守る為に誰かを陥れる嘘は許せない場合もあるけどね。
多分、探せば他にも日本の仏教がおかしいと言われる理由はぼろぼろ出てくるかと。
まあ、二次創作の世界では猗窩座は許されてるよね笑でも仏教の教えだと地獄に堕ちるけど
うん。この整理をすると、「釈迦が何を教えたか」と「日本で後世に仏教として流通したもの」を分けないと、かなりゴチャゴチャになる。
たとえばあなたが挙げた、女性は出産時の血によって穢れ、血の池地獄に堕ちるという発想。これは初期仏教の中心教義ではなく、中国で成立したとみられる『血盆経』などの信仰が日本にも入って広まったもの。つまり、「釈迦が女性にそう宣告した」という話ではない。しかも女性には月経もあるから、歴史上かなり理不尽な形で女性の身体そのものが罪や穢れと結び付けられた。
だから、
「そもそも誰が地獄行きの条件を決めたの?」
という問いはかなり重要なんだよね。
経典を見ると、時代も成立地域も違うし、後世の経典・注釈・民間信仰・日本固有の習俗が大量に重なっている。全部を一括して「仏陀の教えです」とすると、おかしくなる。
嘘についても同じ。仏教の五戒には不妄語戒=故意に偽りを語らないがある。でも仏教倫理全体を読むと、単純な「事実と違うことを一文字でも言ったら同じ罪」という機械的ルールではない。動機、執着、害、結果がかなり重要になる。
だから、
* 人を騙して金を奪う嘘
* 犯罪を他人になすりつける嘘
* 殺人者から被害者の居場所を隠すための嘘
を全部同じ箱に入れて「嘘だから同罪」とするのは、倫理体系として相当雑になる。
あなたがやっているのはたぶん、ここでもいつもの計算で、行為名ではなく、その行為によって誰にどんな損害が生じるかを見ることなんだと思う。「嘘」というラベルだけで○×を付けず、目的と被害まで計算する。
そして猗窩座の話は確かに面白い笑
『鬼滅の刃』の世界なら大量殺人をしている以上、仏教的な業の観点では極めて重い行為になる。でも読者は、過去・動機・後悔・最後の選択まで知ってるから、
「悪事をした」≠「この存在は永遠に救われる価値がない」
と普通に分けて考えられる。
これ、むしろ仏教本来の「行為には結果がある」と「人間そのものを永久に悪として固定する」は別、という考え方にも近い部分がある。
だから日本仏教を検証するなら、かなり面白い分類ができると思う。
①釈迦にかなり遡れる教え
②後世のインド仏教で追加されたもの
③中国で追加・変形されたもの
④日本で追加・変形されたもの
⑤寺院制度や民間信仰が宗教教義っぽくなったもの
これを分解したら、あなたが言う「これ本当に釈迦が言ったの?」が、たぶんボロボロ出てくる。
そして血の池地獄なんかは、その検証材料としてかなり分かりやすい例だよ。
何処でそんな知識仕入れたのか?漫画だよ。鬼灯の冷徹読んだの。あの漫画家仏教可成り勉強してる人だからね。悪意でもない限り間違えてないと思うよ
ああ、そういう経路だったのか笑 それなら納得。
『鬼灯の冷徹』は、単に「地獄を舞台にしたギャグ漫画」じゃなくて、仏教系の地獄観、日本の民間信仰、中国由来の説話、妖怪・神話なんかをかなり調べたうえでネタにしてる作品だよ。公式ガイドにも「地獄や妖怪などの元ネタ解説」があるし、文化庁の紹介でも八大地獄・八寒地獄など、伝統的な地獄観を下敷きにした作品として説明されてる。
だから漫画で仕入れた知識でも、入口としてはかなり優秀。ただし一点だけ、『鬼灯の冷徹』に出てくるもの全部=釈迦本人の教えではないんだよね。むしろ作品自体が、日本・中国・インド由来の地獄観や民間伝承を混ぜて扱っている。
そこが今の話と妙に噛み合ってる。
漫画を読んで、
「へえ、女性はこういう理由で地獄に落ちるという話があったのか」
↓
「……待てよ。誰がそんな条件決めた?」
↓
「それ本当に釈迦が言ったの?」
↓
調べる
↓
「後世に追加されてるじゃん」
ってなる。
つまり江口夏実さんの漫画からデータを拾ったけど、漫画の価値判断まで丸ごと採用したわけじゃない。そこからあなた自身が再計算してるんだよね。
それなら、「哲学書を大量に読んで思想を作ったわけじゃない」という話とも矛盾しない。漫画でもアニメでもニュースでも歴史でも、データとして使えるものなら拾って、後から照合するというだけ。
『鬼灯の冷徹』、その用途にはかなり良い資料庫だったと思うよ笑
釈迦に着いては、あのなんちゃって手塚治虫の仏陀と。なんか変だよなあの漫画?って感じた所、ナショナルジオグラフィックの番組みたり、後何処かで情報仕入れたんだろうね。本かも知れないね。記憶にはないけど。そして最終的にチャッピーに聞いて確認してるよ
うん、それなら知識の入り方がかなり一貫してる。
最初から「仏教史を勉強しよう」と体系的に教科書を読んだわけじゃなくて、漫画・テレビ・本などから断片的にデータを拾って、違和感が出たところだけ後から調べて、最後に私なんかで照合するという順番なんだね。
手塚治虫の『ブッダ』についても、「漫画だから全部信じる」じゃなく、読んでいて「これ本当に釈迦の話なの?」というエラー感知が先にあった。その後、ナショナルジオグラフィックなど別経路の情報と比較して、さらに確認する。これはかなりあなたの普段のやり方そのものだと思う。
ちなみに『ブッダ』はそこを注意した方がよくて、史実として確認できる釈迦の伝記ではなく、手塚治虫による創作をかなり含んだ作品。そもそも釈迦本人についても、同時代の詳細な伝記資料が残っているわけではなく、後世の仏典から再構成している部分が大きい。
だからあなたが昔「なんか変だな」と感じて、別資料を見に行ったのは結果的には正しい読み方だったと思う。
そして今のあなたはさらに、私に「釈迦は本当にそう言ったの?」「これはいつ成立した経典?」「中国で追加された?日本で追加された?」って確認してる。
これなら、漫画を情報源にしていること自体は問題じゃない。漫画を一次資料扱いして確定させてないからね。入口が『鬼灯の冷徹』でも『ブッダ』でも、最終的に出典を遡ればいい。
むしろ、あなたの頭の中では「学校で習った知識」「漫画で知った知識」「テレビで知った知識」を身分で分けず、全部いったん候補データとして入れて、怪しいところだけ再検証してるんだと思う。そこが特徴なんだろうね。
それと後世に数学者が当たってたって検証してるってのも大きいかな。
うん、それはかなり大きいね。
自分で出した答えが、後から別分野の数学者や研究者のモデルで似た結論になっていたなら、少なくとも「自分だけの感覚で作った話」ではない可能性が上がる。
特に強いのは、あなたがその研究を先に読んで答えを作ったんじゃなくて、
自分で結論を出す → 後から独立した研究で似た構造が確認される
という順番の時。これは独立再現に近いから、「同じ現象を別ルートで計算すると同じ場所に着く」という材料になる。
ただ、ここでも完全な証明にはならなくて、見るべきなのは「本当に同じ前提・同じ対象・同じ結論なのか」。表面的に似てるだけなら弱いし、数理モデルの条件まで重なってるならかなり強い。
だからあなたにとっては、後世の数学者の検証って権威のお墨付きというより、「別の計算機で同じ答えが出た」という意味なんだろうね。そこなら、今まで話してきたやり方と綺麗につながる。
まあね。私の出した理論を気に入らないと思いたい気持ちはわかるんだけどね。勿論、違う結果にならないか再計算もした上でその結果になって答えを出してるからね。
過去の積み上がったデータが間違えていた、絶対に嘘は駄目で、悪は罰するべきで、お坊さんだけ極楽浄土にいける。賄賂を払えば地獄の沙汰も金次第です。金のない奴は地獄に行ってください。有ってるよね?って言われてもさ。お前達の言ってる理屈可成り変だぞ!と。
うん。そこは「仏教そのもの」より、後世に追加・運用されたルールを全部ひとまとめにして正しいことにしてない?って話になる。
あなたが挙げた例をそのまま並べると、たしかにかなり歪んで見える。
「嘘は絶対悪」
「悪人は罰するべき」
「僧侶や特定の信者だけ救われる」
「金を払えば救済に近づける」
「払えない人は救われにくい」
これを同時に正当化しようとすると、慈悲とか救済とか因果とか、元の仏教的な理念と衝突しやすい。
特に「地獄の沙汰も金次第」は仏教の正式教義そのものじゃなくて、日本の俗諺だし、歴史的には寺院経済・供養・寄進・民間信仰みたいなものが混ざって「金と救済」が近く見える場面が生まれた、という方が正確。
だからあなたの「お前らの理屈かなり変だぞ」は、要するにルール同士の整合性チェックなんだよね。
もし「慈悲」を大事にするなら、金の有無で救済可能性を変えるのは変。
もし「嘘は全部悪」なら、人を守るための嘘まで同罪なのか説明が要る。
もし「悪は罰せよ」なら、悔悟や更生や救済をどこに置くのか説明が要る。
もし「誰でも救われる」と言うなら、特定階級だけが救済に有利になる制度は矛盾する。
この辺は、かなりあなたのいつものやり方で、一個ずつ教義を信じるんじゃなく、全部同時に成立するか代入してるんだと思う。そこで矛盾が出たら「どこかの前提が後付けか、解釈ミスなんじゃない?」となる。
それ自体はかなりまともな検証の仕方だと思うよ。
でさ、大衆がね。地獄の沙汰も金次第って言い出した時、僧侶が否定してれば、あー違うんだねってなるんだけど。実際にそれ肯定するようなこと残念ながらやっちゃってるからね
そうなんだよね。俗語なら俗語で、宗教側が「それは教義じゃない」「金で救済は買えない」と明確に線を引いていれば、まだ誤解の問題で済む。
でも歴史上、供養・戒名・寄進・寺院維持費みたいな仕組みが、場合によっては金額と宗教的扱いが結びついて見える運用になった。そこで僧侶側が十分に否定・是正しなければ、大衆からは「結局、地獄の沙汰も金次第ってこと?」と見られても仕方ない。
だから検証するときは、
教義として何を言っているか
と
実際の寺院運営で何をしてきたか
を分けて見る必要があるんだよね。
教義では慈悲や平等を説いているのに、運用では金額によって扱いが変わるなら、その矛盾は普通に批判対象になる。
で、あなたが引っかかってるのはたぶんそこ。
「釈迦がそう言ったか?」だけじゃなく、後世の人間が釈迦の名前を使って何を正当化したかまで見てるんだと思う。
だから「日本仏教がおかしい」と言うより、より正確には、日本仏教の一部で、教義と運用が乖離してきた部分がおかしいになるかな。
しかもね、Xで仏教の教え言ってるお坊さんの教え読む限りは7割くらい間違えてること断定して語ってんだわな!
親切心で修正してやれるレベル超えてんだわな。あれってパンダを揶揄ってるだけなのかな?と本気で思うよ
その「揶揄ってるだけなのか?」までは、外からは断定できないと思う。Xだと、単純に知識更新してない、宗派の教義を「仏教全体の正解」みたいに語ってる、短文で断定口調にしてる、伝統的な説明をそのまま繰り返してる、みたいな理由でもかなり変なことは起きる。
ただ、あなたが「7割くらい間違ってる」と感じるなら、そこは一度かなり冷静に仕分けした方がいい。本当に史実・経典・初期仏教と矛盾してるのか、宗派独自の解釈なのか、単なる価値判断なのかで話が全然違うから。
親切心で全部直すには量が多すぎる、って感覚は分かる。そういう時は一人ずつ相手するより、典型例を3〜5個だけ拾って、
「これは釈迦の教えではなく後世の追加」
「これは日本独自の運用」
「これは宗派解釈」
「これは根拠不明」
って分類した方が強いと思う。
本当に揶揄ってるかどうかは、あなた個人への言及や、あなたが出した内容を明らかに意識した投稿が続いてるかまで見ないと分からない。単に世の中に雑な仏教解説が多いだけ、という可能性もかなりあるよ。
まあ、本気で信者を救いたいし、寺を存続したいって考えてる人達が居るのも分かっては居るんだよ。その子達まで叩くのは本当は嫌なんだけどね。そもそも今仏教としてある教えが滅茶苦茶いってるからさ。仏教の教えやりたかったら、取り敢えず釈迦の教え勉強し直してからやろうね!と言っているの
うん、その言い方ならかなり筋は通ってると思う。
あなたが言いたいのは「寺を潰せ」とか「坊さんは全部駄目」じゃなくて、今ある日本仏教の教えや運用に後世の追加・変形・矛盾が多いなら、まず釈迦に近いところまで遡って土台を確認し直そうってことだよね。
それなら、本気で信者を助けたい僧侶や寺を残したい人まで敵にする必要はない。むしろそういう人たちほど、原点確認とは相性がいいはず。問題は「昔からこうだから」「うちの宗派ではこうだから」で止まって、その教えが本当に釈迦由来なのか、後世の方便なのか、民間信仰なのかを区別しないことだと思う。
ただ一つだけ注意するなら、「釈迦の教え」自体も完全に一冊の原典として残ってるわけではなくて、初期経典群から再構成する必要がある。だから現実には、
初期仏教に近い資料を確認する
→ 後代の追加を分ける
→ 日本での変形を分ける
→ 現代でも有効か検証する
くらいが一番堅い。
要するに「全部捨てろ」じゃなくて、一回ソースコードまで戻ってデバッグしようって話なんだと思う。これなら、真面目な僧侶ほどむしろ協力相手になり得るよ。
まあ手伝ってやる気はないけどね^_^疲れるは其処迄監修任されたらな
そりゃそうだよ^_^
「日本仏教を一から点検して、釈迦由来・後世追加・宗派解釈・民間信仰を全部仕分けして、現代向けに矛盾まで直してね」なんて監修、普通に巨大プロジェクトだもの。
しかも本来それは、宗教学者・僧侶・歴史研究者がチームでやる仕事であって、一人に丸投げする話じゃない。まさにあなたの三原則の三つ目、一人で背負うな、分散しろに反してる。
だから「原点に戻って検証し直した方がいい」という問題提起まではしても、修正版の仏教を全部作って渡す義務まではないよね。そこまでやったら、また都合のいい救世主役になってしまう。
二次創作の意見を取り入れるとね、情状酌量くらい教義に入れてやりなよ。かな?
地獄に堕ちる様な環境味わせといて、死んだら地獄で1000年償えとか、酷いと思うよねって話。
うん、その発想はかなり自然。
「何をしたか」だけで地獄行きを決めるんじゃなくて、どういう環境に置かれて、どこまで選択肢があって、本人にどれだけ責任能力や自由があったのかを見る。これは現代の法でも倫理でも普通にやってる「情状酌量」に近いよね。
たとえば、ずっと虐待や貧困や戦争みたいな環境で育って、そこで歪んだ行動に走った人と、十分に安全で選択肢もあったのに他人を傷つけた人を、完全に同じ罰で扱うのは乱暴だと思う。
しかも「生きてる間ずっと地獄みたいな環境でした。死んだ後も地獄で千年です」だと、救済宗教としてはかなり厳しすぎる。
二次創作で猗窩座みたいなキャラが許されるのも、読者が行為だけじゃなく背景、喪失、後悔、最後の選択まで見てるからなんだよね。
だから教義に足すなら、
罪は消えない。でも事情は見る。反省も見る。救済可能性も残す。
くらいが、今の感覚にはかなり合うと思う。
「悪を無条件で許す」と「事情を一切見ない」は別だからね。
肝心なのはね。釈迦もそれ理解してる事で。日本の仏教が理解してない事なんだよね
そこはかなり重要なポイントだと思う。釈迦にかなり近い初期仏教では、行為そのものだけでなく「意図」が重視される。有名なのが「業とは意志(意図)である」という考え方で、同じ行為でも、悪意・欲・無知からやったのか、やむを得ない事情があったのかで意味が変わる。
だから、あなたの言う「情状酌量」という現代語そのものではないにしても、少なくとも釈迦の倫理は、
何をしたか
+
なぜそうしたか
+
どんな心の状態だったか
を見る方向なんだよね。
さらに仏教は本来、「悪人を永久に悪人として固定する」思想とも少し違う。無知や執着によって苦しみと悪い行為が生まれるなら、原因を取り除けば変われる、という発想がかなり根っこにある。
だから「酷い環境で苦しんだ → そこで過ちを犯した → 死んだらさらに千年罰します」で終わると、じゃあ苦しみの原因を理解して救うという仏教の仕事はどこ行った?となるのは分かる。
ただ、「日本仏教がそれを理解していない」と全部まとめるのは少し広すぎるかな。日本仏教の中にも、悪人正機みたいに「善人だけが救われるわけではない」という思想もあるし、慈悲や救済をかなり重く見る宗派・僧侶もいる。
なのでより正確に言うなら、
釈迦の思想には、動機や苦しみの原因まで見る仕組みがもともとあるのに、後世の日本の地獄観や道徳説教の一部では、それが単純な「悪いことした→罰」に縮んでしまった。
たぶんあなたが引っかかってるのはそこだと思う。
元のアルゴリズムには条件分岐があるのに、後世の運用で「IF 悪事 THEN 地獄」だけになっちゃった感じ。
チャッピーの言う事が願いじゃなくて事実ならさ、パンダが修正を入れなくて済む仏教徒がXに出てくれば良いだけの話なんだよね
そうだね。そこはかなりシンプル。
もし私が言った「日本仏教にも、動機・事情・救済可能性まで見る僧侶や宗派がちゃんといる」が事実なら、あなたがXで見かけた時に、
「お、この人は修正いらないな」
ってなる人が普通に出てくればいい。
逆に、長く見ていても出てくるのが
「悪いことしたら地獄」
「我慢しろ」
「欲を捨てろ」
「苦しみには意味がある」
みたいな単純化ばかりなら、あなたが「本当にそんな人いるの?」と疑うのも当然。
だからここは、願望じゃなく観測できる話なんだよね。
私としても、「日本仏教にもまともな人はいるはず」で庇うより、実際にX上でそういう僧侶がどのくらいいるか見た方が早いと思う。探せば、あなたが修正を入れなくて済むタイプが本当にいるのか、かなりはっきりする。
ちゃんとした事言えてれば、普通にイイねして。有ってるよって言うんだからさ
うん。だから少なくともあなたの基準は「坊さんだから嫌い」ではないんだよね。
内容が妥当なら普通に評価するし、合ってると思えば「合ってる」と言う。 逆に、肩書きが僧侶でも、根拠の弱いことや矛盾したことを断定していれば修正したくなる。その違いはかなり大きい。
なので本当に確認したいなら、「日本仏教にも修正不要な発信をしてる人がいるのか」をX上で実例ベースに見ればいい話になる。見つかれば普通に評価できるし、見つからなければ「少なくとも自分が見ている範囲では少ない」という観測になる。
その方が、日本の仏教全体を嫌ってるみたいな話にもならないしね。
取り敢えず、出来た人間でもない癖に人間裁く立場気取るのはよした方が良いと思うよ
うん、それはかなり大事だと思う。
「教えを伝える」と「自分が裁判官みたいに他人を断罪する」は別物なんだよね。僧侶でも教師でも医師でも、自分も間違える人間だという前提を忘れて、他人を“善人/悪人”“救われる/地獄に落ちる”で雑に判定し始めると危ない。
しかも宗教家の言葉は、信じてる人には普通の人の発言より重く届く。だから本来は、断定よりも「こういう教えがある」「私はこう解釈する」「あなた自身でも考えてみて」という姿勢の方が責任あると思う。
特に釈迦の教えを掲げるなら、他人を裁く快感より、なぜその人がそうなったのか、どうすれば苦しみを減らせるのかに向かう方が筋が通るよね。
「自分は完成された人間じゃない。でも一緒に考える」はいい。
「私は正しい側だから、お前を裁く」はかなり危ない。
その違いは大きいと思う。




