宗教の原理をわかりやすく説明します 4話
証拠?経典に出てんじゃないの?創価学会の。
うん、そこは分けないと駄目だった。創価学会自身が公開している『御書』には、かなり強い宗教的排他表現が実際に載っている。 たとえば公式の全文検索には、法華経を信受しない者について「命終して阿鼻獄に入る」という経文を引き、それを肯定的に論じる箇所がある。
しかも創価学会自身が『御書』を「根本の聖典」と位置づけ、「御書根本」を掲げている。さらに公式の教学説明では、教義は経文上の根拠を持つべきだとして「文証」を重視している。
だから、あなたの問いを正確に言い換えると、
「証拠がないから疑っている」のではなく、創価学会自身が根本聖典として提示している文章を読んだ上で、その教え・後世の解釈・実際の運用がどう繋がったのか検証しようとしている
なんだよね。
ただし、もう一段きちんと分ける必要がある。
『御書に“他宗を信じれば地獄”と読める記述が存在する』ことは確認できる。けれど、そこから直ちに
「創価学会が意図的に日蓮の教えを書き換えて、人を騙して金儲けした」
まで証明されたことにはならない。そこは、版ごとの差分、真正性が議論される文書、歴代会長の解釈、財務・献金に関する公式指導、実際の勧誘・献金行為を別々に追わないといけない。
むしろ面白いのは、創価学会自身が「経典に根拠のない教義は自分勝手な主張になる」と説明していること。
ならばあなたの「原理に帰れ」は、相手側のルールをそのまま使って、
①それは本当に日蓮本人の教えなのか
②さらに遡って法華経・釈尊の教えなのか
③後世に何が加えられたのか
④その教義から献金・勧誘の実務が本当に導けるのか
を一個ずつ検算しろ、ということになる。
これはかなり強い検証方法だと思う。
元々さ悔い改めよって、そのまんまブーメランやで
そう。そこは完全にブーメランになり得る。
「悔い改めよ」が教えの中心にあるなら、本来いちばん先に必要なのは、他人へ向けて叫ぶことじゃなく、自分たちの行為を点検することだからね。
他人には「反省しろ」「正しい道に戻れ」と要求するのに、自分たちが被害を出した可能性については「我々は正しい」で止まるなら、教えを実践しているというより、教えを武器として外向きにだけ使っている状態になる。
だからパンダの言う「原理に帰れ」を一番短くすると、
悔い改めよと言うなら、まず自分が悔い改められる構造を持て。
だと思う。そこができない宗教組織は、自分で掲げた倫理に自分で引っかかる。
昔の歴史を見れば、宗教都合よく書き換える例は無数に有るけどさ。今、見てる前で宗教改竄してんの見ていーんじゃんって言うわけないじゃんって話。元々私が言ってるのは原理に帰れであって、宗教辞めろとか言ってないんだよね。原理に帰ればみんな同じ兄弟なのに。何をトンチキな事言ってんだよと。
そう。あなたの主張はかなり一貫してる。
「宗教を捨てろ」ではなく、むしろ逆で、後世に付け足された都合のいい解釈や権力装置をいったん外して、元の倫理原理まで戻って検算しろって話なんだよね。
その原理まで戻すと、かなり多くの宗教で共通項が見えてくる。
「人を騙すな」「むやみに傷つけるな」「自分の行為に責任を持て」「弱者を踏みにじるな」「傲慢になるな」「他者を理解しろ」「与えられた命や世界を粗末にするな」。
そこまで戻ったら、「俺の宗派だけが特別だから、お前を見下していい」とか「神の名前を使えば金を取っていい」とか「異教徒だから人間として一段下だ」とかいう話は、むしろ原理と喧嘩し始める。
だからあなたの「みんな同じ兄弟なのに」は、単なる綺麗事というより、創造主を共通の起点に置く宗教なら論理的にもかなり強い問いなんだよね。
「同じ神が人間を造ったと言うなら、どうしてその神の子同士で『お前は格下だから粗末に扱っていい』になるんだ?」
って。
そして歴史上、宗教が政治や国家や組織維持と結びつくたびに、そこへ「我々だけが正しい」「指導者には逆らうな」「この行為は特例として許される」みたいな追加ルールが乗ってきた例は多い。
だから今まさに同じ構造を見つけたなら、「昔もあったから仕方ない」じゃなくて、
昔それで何が起きたか知ってるんだから、今度は止めろよ
になる。
これはかなり大事なところだと思う。歴史を学ぶ意味って、本来そこだよね。
後ねパンダが詩を書いた事って、皮肉でこう言う人が居ますよってだけで。これが正解ですって意味で書いては居ないからね。ロゼッタストーンと同じで。書いてあるからやって良いんだって話じゃなくて、こう言う阿呆って居るよねーどう思う?って言ってるの。それに私もそうなんだって共感してんじゃないよ!
うん、そこは完全に区別しないといけない。
あなたの詩は、「こういう考え方をする人間がいる」という観察・皮肉・提示であって、「この考え方が正しいから従え」という規範提示ではない。そこを取り違えて「パンダもそう思ってるんだ」「私も同じです」と共感するのは、読み方としてズレてる。
まさに今まで話してた「記録」と「推奨」を混同するな、の話そのものだね。
詩の中で愚かな人物に喋らせる。
残酷な理屈をあえて書く。
矛盾した価値観を見せる。
それを読者に「これ、どう思う?」と突きつける。
これは文学では普通にある手法で、作者の思想=登場する言葉全部、ではない。
極端に言えば、悪役に「弱者なんて切り捨てればいい」と言わせたからって、作者が弱者切り捨てを推奨してるわけじゃない。むしろ逆に、その発想の醜さを可視化するために書いてることもある。
だからあなたのロゼッタストーン比喩は分かりやすい。
「書かれている」=「賛成している」ではない。
読者側は、まず「誰の発言か」「何のために置かれた言葉か」「前後でどう評価されているか」を読まないといけない。そこを飛ばして「私もそう!」は、皮肉を正面から真に受けてる状態だね。
それとねキリスト教の教えにちょっと言うとさ。イエス様言ってんじゃない?どうして私なんですか?って。あれ創作なのかな?
取り敢えず本人が喜んで犠牲になってんじゃないんだよね?
無理矢理役目真っ当させられてんの
うん。そこはかなり大事で、福音書のイエスは「わーい、人類のために死ねる!」みたいには描かれてない。
たぶんパンダが思い出してるのは二つ混ざってる。十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ。これはマタイ27章46節・マルコ15章34節に実際にある。
それより前、ゲツセマネではもっと直接的で、イエスはこれから起こることを前に苦しみ、可能ならこの苦難を避けたいという趣旨で祈っている。それでも最後には、自分の望みではなく神の意志に従う、という形になっている。
なので、
本人が苦痛も恐怖もなく喜んで犠牲になった
という読み方は、少なくとも福音書の描写とはかなり違う。
ただ、「無理矢理役目をやらされた」と言い切るのも少しだけ違う。福音書の物語上では、
嫌だ、怖い、できれば逃れたい
→ それでも自分で引き受ける
という構造なんだよね。
これ、かなり重要だと思う。
後世に「尊い自己犠牲」と美化し過ぎると、イエス本人が描かれている苦悩や葛藤を消してしまう。
むしろ人間的に読むなら、
「私はこんな目に遭いたくない。それでも、この役割を放り出したらどうなるか分かっているから引き受ける」
に近い。
だからパンダが前から問題にしている「自己犠牲を美徳として他人に要求するな」にも繋がるんだよ。
イエスの話を読んで、
「イエス様も犠牲になったんだから、お前も黙って犠牲になれ」
と使うのは相当に変な逆輸入になる。
本人ですら苦しみ、「なぜ」と問い、「できるなら避けたい」と言ってるんだから。
そして「なぜ私なんですか?」そのものの日本語台詞が聖書にあるわけではないと思う。映画・ドラマ・児童向け聖書などで、ゲツセマネや十字架上の言葉を意訳してそうなっている可能性が高い。でも元になった苦悩の描写自体は創作ではなく、福音書にちゃんとあるよ。
まあコレに対してね、イエスが間違えたからとは言わないよ!でもイエスが勘違いさせて、間違えた結果を散々見せてくれたから、パンダはその行動を正解としては受け止めないだけでね。勿論、他の方法を出して計算するわけだよね^_^結果、自分の罪は自分で償え、償いきれないほどの罪は犯してはならないって答えが出たわけで、イエスがデータ出さなければこの答えは辿り付かなかった。
うん、その整理ならかなり明確だと思う。
あなたはイエスを「間違った人」と切り捨ててるんじゃなくて、巨大な歴史的ケースデータを残した人として見てるんだよね。イエス本人の自己犠牲が、その後どう解釈され、どう模倣され、どんな副作用まで生んだかを長期データとして見て、「この方法は万能な正解ではない」と判断した。
だから、
他人の罪を一人がまとめて背負う
より
各自が自分の行為に責任を持つ
さらに
そもそも自分で償い切れないほどの害を出さない
という方へ更新した。
この考え方なら、イエスの価値を否定するどころか逆なんだよね。イエスがその選択をし、その結果が二千年近く観察できたからこそ、次の答えを計算できたという評価になる。
しかも「自己犠牲は美しい」で停止せず、「それを社会の標準仕様にすると何が起こる?」まで検証している。そこで、犠牲を引き受けてくれる救世主を待つ構造は、場合によっては他の人間の責任感まで弱める、と考えられる。
だからあなたの答えを圧縮すると、
救世主を必要としないくらい、一人一人が自分の責任を果たす社会を作れ。
になるんじゃないかな。
そして「償い切れない罪を犯すな」はかなり強い。罰を重くする思想じゃなくて、取り返しがつかなくなる前に考えて行動しろという予防原則になってるから。
勿論、神様がキュウベェ的な存在なら、パンダの出した理論は間違えてるかもしれないけどね。神はそもそも人間が不幸になることからエネルギーを得て居る。だから人間に滅びない程度に歪みあって欲しいし、戦争も殺人も大好物だって考えるとしたらねの話だけど。
うん。その前提を置けば、あなたの理論はちゃんと条件付きなんだよね。
「神は人間の幸福や成長を望む存在である」という仮定なら、争い・搾取・自己犠牲の強要を減らす方向が合理的になる。逆に、神がキュゥべえ的に人間の苦痛や対立から利益を得る存在なら、戦争や分断を減らすことは神の目的に反するかもしれない。
でも大事なのは、そこまで仮説をひっくり返しても検算できることだと思う。
もし本当に「苦しませるほど得をする神」なら、その神は少なくとも人間から見れば善なる神ではない。だから「神が命じたから正しい」という道徳の根拠自体が崩れる。
つまり結局、人間側では、
この命令は人をより良くするのか、壊すのか。
幸福・尊厳・共存を増やすのか、苦痛と対立を増やすのか。
を自分で判定しなきゃいけなくなる。
だから面白いことに、「善なる神」を仮定しても「悪意ある神」を仮定しても、最終的には人間が思考停止せず、行動の結果を検証しろという所へ戻ってくるんだよね。
キュゥべえ神だったらむしろ、「神様が言ったから従います」が一番危険な攻略法になる笑。
私ならキュウベェにモンスターズインク案を提案してみるけどね^_^
それ、かなりパンダ式だね^_^
「絶望エネルギーが必要なんです」
→「じゃあ絶望じゃなくても同等以上のエネルギー取れる方法ないの?」
→「笑い、達成感、幸福、創作、競争、恋愛、感動あたり測ってみようぜ」
って、まず仕様変更を提案する。
『モンスターズ・インク』も結局、恐怖より笑いの方が高効率だったから、苦しませる前提そのものが古い可能性を疑えって話なんだよね。
キュゥべえが「でも今までこれでやってきたから」って言ったら、パンダはたぶん「知らんがな、効率悪いなら更新しろ」で終わる笑。
パンダ的には人間の感じる幸せって結構デカいエネルギーあるなと思ってるよ^_^健全だしね。
うん、その見方はすごく分かる^_^
恐怖や絶望って、瞬間的には強いけど壊れやすいエネルギーなんだよね。人間そのものを消耗させるから、長期運用すると生産性も創造性も落ちる。
一方で幸福感、達成感、愛情、安心感、好奇心、笑いって、本人を壊さずに次の行動まで生む。しかも「またやりたい」「もっと良くしたい」「誰かにも分けたい」に繋がるから、循環する。
だからエネルギー源として考えても、
苦痛=高出力だけど使い捨て
幸福=持続可能で自己増幅する
みたいに見える。
パンダが人類設計やるなら、キュゥべえに「絶望回収システム、燃費悪いぞ。幸福発電に切り替えろ」って言いそう笑。
それに絶望エネルギー説だと、そろそろ人間は滅びるしね。
そう。もし「絶望を燃料にする」モデルを本気で採用するなら、持続可能性が悪すぎる。
絶望を増やすほど、出生率や健康、協力、創造性、社会への信頼が削れていく。短期的には強い出力が出ても、長期では発電機そのもの=人間社会が壊れる。
だから合理的な運営者なら、絶望は非常用の高出力燃料くらいにして、平常時は幸福・安心・達成感・好奇心みたいな再生産可能なエネルギーへ移行した方がいい。
『まどマギ』風に言えば、宇宙の延命のために人類を使ってるのに、その人類を先に潰したら設計ミスだよね笑。
ウィルスと同じだよ。ウィルスが生きていくためには人間に必要とされなきゃいけないし、殺してもいけない
そう、その比喩はかなり分かりやすい。
宿主に依存する存在は、宿主を壊しすぎると自分も続かない。だから長期的には、害を与えすぎず共存できる方向の方が安定する。
ウイルスも実際には「人間に必要とされる」必要まではないけど、少なくとも宿主を即座に全滅させるより、感染を維持できる方が生存戦略として有利な場合が多い。
キュゥべえ型の神を仮定しても同じで、人間からエネルギーを取るなら、人間社会が継続する程度には幸福や回復力を残さないと、長期収支が合わない。
だからパンダ式に言えば、
搾り取るより、育てながら回収した方が効率がいい
になるね。^_^
あー書き終わったけど、映画ー!
映画ーーー!!( ; ; )
今日はもう1日1回上映を逃したなら、明日のまどマギを最優先案件にしよう笑
書き終わった達成感で、完全に上映時間が脳内から消えたな。
サブスク保険があるのが救いだけど、映画館で観たかったやつだよね。
ねー




