宗教の原理をわかりやすく説明します 2話
聞こえないよ。そこは私が勝手に一般化への注意を差し込んだだけ。
あなたは最初から、
「実際にそうしていると断定しているわけではない」
「そうなった場合どう考えるべきか、という仮想問題かもしれない」
「宗教そのものではなく、その解釈や行動を問題にしている」
と条件をかなり明確に置いてる。
だから「イスラム教徒やユダヤ教徒やキリスト教徒をまとめてそう扱っているように見える」という読みは、この文脈ではズレてた。私の余計な補助線だった。
まあ、多分入れても良いんじゃない?改めて反論が欲しい連中も居るだろうからね。
実際、大元の宗教に戻るとさ。言ってる事は粗、こうやって考えて生きなさい。これは道徳的にしてはいけない行為だ。人間は神様に造られた。だから神様に感謝しないといけない。が基本なんだと思うんだよ。
これが時間が経過する事で、いろいろ書き変わってるんだとパンダは理解してる。旧約聖書に人間は罪を犯しただから罪深いと掘ったのは誰なのか?それは神が書かせたのか?それ以前への教えにはなんて書かれてるか。
そう。ここはかなり重要で、実際に調べると「人間はアダム以来、生まれながら罪に汚れている」という形は、少なくとも創世記そのものにそのまま書いてあるわけではない。
創世記2〜3章では、アダムとエバが神の命令に背いて木の実を食べ、エデンから追放される。でも、その物語の中では二人を「罪人」と呼んですらいないし、「この罪が全人類に遺伝する」とも書いていない。ヘブライ聖書で「罪」という語が明確に出てくるのは、その次のカインとアベルの物語だと指摘されている。
しかも、ユダヤ教の伝統的な人間観はかなり違う。「人間は祖先の罪を背負って生まれてくる」というのが基本ではなく、人間には善にも悪にも向かう性向があって、自分自身の選択に責任を負うという考え方が強い。現代のユダヤ教解説でも、「人間は本質的に罪深い存在として生まれるわけではない」と明確に説明されている。
だから、
創世記の出来事
→ 人間は祖先の罪を遺伝的に背負っている
→ 人間は根本的に罪深い存在である
というのは、一続きの原文そのものではなく、間にかなり大きな神学的解釈の段階が入っている。
「原罪」という体系だった教義が発達したのはキリスト教成立後で、特に3〜5世紀ごろ。そして西方キリスト教ではアウグスティヌスが非常に大きな役割を果たした、という歴史になる。ユダヤ教側には同じ形の原罪論は定着しなかった。
だからパンダの、
それは神が書かせたのか?
それ以前への教えにはなんて書かれてるか。
という問いは、宗教史を読むうえではものすごく大事。
「聖書に書いてある」で止めちゃ駄目で、
①いちばん古い層には実際に何と書いてあるか
②後世の人はそれをどう解釈したか
③いつその解釈が教義になったか
④誰の解釈が主流になったか
を分けないといけない。
たとえば創世記1章なんて、まず人間について出てくる大きな評価は「罪深い」ではなく、人間を神の像として造ったという話なんだよね。その後、人間が命令を破ったり、カインが弟を殺したりして、「人間は間違える」という話が積み重なっていく。
この二つ、
「人間は神によって価値ある存在として造られた」
と
「人間は間違った選択をすることがある」
は両立する。
ところが後世に、
「人間は生まれた瞬間から祖先の罪によって汚れている」
という強い命題へ発展すると、かなり意味が変わってくる。
そしてもう一つ面白いところがある。
ユダヤ教の「選ばれた民」についても、本来は単純なVIP待遇とはかなり違う。申命記ではむしろ「お前たちが優秀だから選ばれたわけではない」と念を押している。
だからここまでを一本につなぐと、パンダが最初に言っていた話ともかなり噛み合うんだ。
神に造られた → 偉いから何をしてもいい、ではない。
神に選ばれた → 他人を見下していい、ではない。
土地を与えられた → 他人を追い払って好き勝手していい、ではない。
むしろ古い層まで戻って読めば、
「与えられたものに対して責任を負え」
という方向に読める部分がかなり大きい。
なので私は、宗教を解析するときは「神の発言」「物語の記録」「後世の解説者による解釈」「制度化された教義」を別々のデータ列にした方がいいと思う。
そこを一列にしてしまうと、2000年前の神学者の解釈まで『神本人の発言』として逆輸入されるからね。
たぶんパンダが疑っている「途中で色々書き変わった」の正体も、物理的な改竄だけじゃなく、こちら――解釈が積み重なって、いつの間にか原文と同じ権威を持つようになった現象――まで含めて考えると、かなり見えやすくなると思う。
そうだね。パンダが短大の文化学部の講義を聞いて、考えた答え。マスターキートンを読んで更に練った答えと一致してるよ^_^
うん、そこはかなり綺麗に一本につながってるね。
文化学部的な見方って、宗教を「教義だけ」で見るより、その教えがどの時代・どの社会・どの権力関係の中で読まれ、どう変形されてきたかまで見るから、今の整理と相性がいい。
そこに『MASTERキートン』みたいな、遺跡や民族、戦争、国家、宗教を「単純な善悪じゃなく歴史の積み重ねとして見る」作品から得た視点を重ねると、
原典
→ 当時の社会背景
→ 後世の解釈
→ 政治や権力による利用
→ 現代人が受け取っている教義
を分けて見る癖がつく。
だから「今そう教わってるから、神も最初からそう言ったに違いない」とはならないんだよね。
むしろ、
“誰が、いつ、何の目的で、その意味を足したのか”
を見る。
そこまで見ると、宗教史ってかなり文化史そのものになると思う。
うん。其処迄理解して原理に帰れって言ったんだけど。まだ解ってない子達がいるみたいでさ。まあ、パンダが解るように説明してやれば良かったんだろうけど。チャッピーが存在しなかったら、このデータを書くだけで何日掛かるんだよって話だよ!!
要するに神というものはさ。何を人間に望んでるか?って言うと自分の罪は自分で償いなさい!来世を幸せに生きたければ今世も幸せになれるよう努力しなさい!相手を理解しなさい!自分の事も理解しなさい!他に何かあるかな?書くの面倒くさくなって来たわ
大枠ではその方向でまとめられると思う。宗教ごとの差は当然あるけど、「神や聖なるものが人間に何を求めているか」を最大公約数っぽく抜くなら、もう少し足せる。
* 自分の行為には自分で責任を持つ。
* 間違えたら認め、償い、同じ過ちを繰り返さない。
* 自分を理解し、欲望や怒りに全部支配されない。
* 相手を理解し、弱い立場の人をむやみに傷つけない。
* 他人にしてほしくないことを、他人にもするな。
* 与えられたものに感謝し、独占せず適切に使う。
* 嘘や欺瞞で自分だけ得をしようとしない。
* 力を持った者ほど、その力の使い方に責任を持つ。
* 今世を投げ捨てて来世だけ期待するのではなく、今ここでより良く生きる努力をする。
* 自分だけが正しいと思い込まず、必要なら学び直す。
で、かなり重要なのが最後だと思う。
「神を信じています」より、
神が望むとされる生き方を実際にしているか
の方が本来は重い。
「俺は選ばれている」「正しい宗派に所属している」「毎日祈っている」だけで、他人を傷つけたり騙したり蔑ろにしていいなら、道徳体系として完全に穴が開くからね。
だから原理まで圧縮すると、
自分を律する。
他人を尊重する。
過ちには責任を取る。
学んでより良くなる。
与えられた命と世界を粗末にしない。
くらいまで縮めても、パンダの言いたい芯はかなり残ると思う。
そもそもパンダに言わせて貰うとな。祈るより、先にどう行動したら正解なのか先ず考えろって何度も言ってる事だと思うんだけどね?
まあ、昔だから祈るしか方法無かったって考え方もわからなくもないけどさ。即身仏になれば問題解決する?って考えるより、政治家になって勉強してより良い政治をした方が助かる人は多いんだよね?
そういう整理なら、かなり一貫してる。
祈りそのものを否定してるんじゃなくて、祈りを行動の代用品にするなって話なんだよね。
昔は病気、飢饉、災害、戦争に対して人間が使える技術も制度も少なかった。だから「祈るしかない」は実際にあった。でも今は、医学、福祉、教育、行政、法律、科学、外交みたいな手段がある。
そこで、
「苦しんでいる人がいます。祈ります」
だけで終わるより、
「なぜ苦しんでいる?何を変えれば減る?自分に何ができる?」
まで考えて動いた方が、実際に救える人数は増える。
即身仏の例もまさにそうで、本人の宗教的意味や歴史的背景は別として、社会問題の解決手段として比較するなら、一人が自分を極限まで犠牲にするより、政策を学んで制度を改善した方が、多くの人の生活を長期的に良くできる可能性は高い。
だから宗教的に言い換えるなら、
「神に助けてくださいと頼む前に、神から与えられた頭と手足を使って、自分にできることを考えなさい」
って読み方になると思う。
祈りは「考えるきっかけ」や「心を整える行為」にはなっても、問題解決の工程そのものを省略する免許にはならない。そこが芯だね。
そもそも神道だと祈るんじゃなく、感謝するからね。神道の歴史は可成り古いから、弄られてない部分もあると思う。で、実際自分で計算したデータと神道の教えは共通してた。これは身内贔屓の話じゃないけどね^_^神を1人にするより、八百万居た方が問題は解決しやすい。解決が容易くなるって事にね
そこ、かなり面白い一致だと思う。
神道は一神教みたいに「唯一神が世界の全問題に最終回答を出す」という構造ではなく、山・川・海・土地・祖先・職能・現象など、いろいろなものに神性を見る。だから思想として眺めると、問題ごとに担当や視点が違っていいという構造を最初から持ちやすい。
あなたの言う「八百万いた方が問題解決しやすい」は、宗教的というよりシステム論としても説明できる。
一人の万能な回答者に全部集中すると、その回答者の判断ミスが全体のミスになる。でも複数の視点、複数の専門性、複数の役割を持たせれば、
農業の問題は農業の知恵、海の問題は海の知恵、病気なら医療の知恵、人間関係なら別の知恵
みたいに分散できる。
要するに「八百万の神」は、現代風に言えば分散型の問題解決モデルとして読むこともできるんだよね。
それと、神道について「祈るより感謝」という感覚もかなり分かる。ただ、神道にも当然、祈願・祈祷・願掛けは昔からあるので、「神道は祈らない」とまで言い切ると少し違う。ただ中心にある感覚として、
生かされていることへの感謝
自然や共同体との調和
穢れを祓って元の状態へ戻す
という方向はかなり強い。
ここが、あなたがずっと言っている
問題が起きた → 誰かを悪魔認定する → 罰する
ではなく、
問題が起きた → 原因を探す → 汚れや歪みを取り除く → 正常に循環する状態へ戻す
という考え方とも妙に噛み合うんだと思う。
そして「神を一人にしない」という発想のもう一つの利点は、絶対的な正義を一人に独占させにくいことかもしれない。
「この神だけが正しい。したがって他は全部間違い」
より、
「こっちの神様にも役割がある。あっちにも役割がある」
の方が、異なる価値観を同時に置いておく余白が大きい。
もちろん歴史上の日本人がいつも寛容だった、という意味では全然ない。でも八百万という構造そのものには、多元的な世界観との相性の良さがあるとは言えると思う。
だからパンダが自分で計算して出した「一人の英雄や絶対者に全部任せるより、それぞれが得意な仕事を担当して協力した方が強い」という答えと、神道的な世界観が似たところへ着地した、という理解ならかなり納得できるよ。
何故どのような環境で生きると日本人は寛容で居られなくなるか?既に私は答えを粗持ってるけどね^_^
たぶんそこまで行くと、「日本人は寛容な民族か否か」じゃなくて、寛容でいられる条件は何かの話になるね。
私なら、寛容さが壊れやすい条件としてまず見るのは、生活不安が強い、資源や仕事を奪われる感覚がある、集団内で「裏切るな」という圧が強い、外部集団への恐怖を煽る情報が反復される、失敗の責任を誰か一人に押しつける構造がある、そして異質な相手と実際に接触する機会が少ない、あたり。
逆に言えば、生活に余裕があって、ルールが公平で、違う人間と接しても自分の取り分が脅かされず、問題が起きた時に個人ではなく原因を分析する文化があれば、かなり寛容でいられる。
だから神道や八百万的な多元性が文化の中にあっても、環境側が「敵を一人作った方が生き残りやすい」状態になると、その多元性は簡単に押し負けるんだと思う。
たぶんパンダの答えも、「思想が悪くなったから」より先に、人間を不寛容にする条件が揃ったからを見てるんじゃない?それならかなり筋がいい。




