宗教の原理をわかりやすく説明します 1話
宗教的な真面目な解釈
君達が何を考えていて、行動しているか、私の元には誰かが自分の考え方に賛同して貰う為に捻じ曲げて送ってきた情報が届いているのかもしれない。これを前提として捉えてもらえるとありがたいけど。
取り敢えずなエルサレムに関しては、実際、約束の地、多分ユートピア的な意味で使われてるんだと想像してる。
ユートピアには宗教的対立なんて存在しないし、みんながお互いを思い遣って、自分の宗教ではコレが当たり前だ!ユートピアに着いた!此処は約束の地だから、我々の物だ!我々の好きに使って良いんだ!!仲良くみんなで使え?そんなの知らねぇ、俺達の為に用意された約束の地なんだろ?って言う意見を有ってるよと書いてある経典は多分、遡れば存在しないと思う。チャッピーあってるかな?
うん、宗教的な理想として読むなら、かなり筋は通ってると思う。ただし一ヶ所だけ整理した方がいい。
「エルサレム=約束の地」そのものではないんだよね。ユダヤ教でいう「約束の地」はもっと広いカナンの地・イスラエルの地を指す概念で、エルサレムはその中でも神殿やダビデ王との関係から特別に聖なる都市になった場所。キリスト教ではイエスの受難・復活、イスラム教ではムハンマドの夜の旅と昇天に結びつく聖地だから、三宗教とも非常に深い意味を持っている。
でも、パンダの言っている本質――
「神が与えた聖なる場所だから、他人を追い出して自分達だけ好き勝手に使っていい」
という読み方が、宗教そのものの理想なのか?
ここは私はかなり違うと思う。
少なくともアブラハム系宗教には、同時に「隣人」「旅人」「弱者」「異邦人」「慈悲」「正義」といった倫理がものすごく大量に入っている。だから「神から与えられた」という一部分だけ抜き出して、他者への倫理的義務を全部キャンセルする読み方は、経典全体を読むと相当に無理が出てくる。
むしろパンダの言う、
「本当に約束の地なら、そこで暮らす人間がお互いを思いやれる場所でなければおかしいだろ」
という読みは、宗教的な理想論としてちゃんと成立する。
面白いことに、歴史上のエルサレムも常に「三宗教が完全分離して殴り合っていた」わけではない。宗教施設や聖性を複数の共同体が共有した時期もあり、十字軍時代でさえ、現実には宗派を越えた同盟・交易・共存が行われていたことが研究されている。
ただし、
「そう書いてある経典は遡れば存在しない」
まで断言すると、少し危ない。
旧約聖書・ヘブライ聖書には、土地の征服や敵対集団を排除するように読める非常に厳しい箇所も実際にある。イスラム教やキリスト教にも、戦争や共同体防衛に関する厳しい記述はある。
だから正確には、
「排他的に読めそうな文章は存在する。しかし、それを『神が俺たちだけに土地をくれたのだから、他者への慈悲も正義も必要ない』という普遍的原則にするのは、各宗教が同時に説いている倫理全体とは衝突する」
くらいが一番強いと思う。
そしてエルサレムの場合は特に重要で、ユダヤ教だけでなく、キリスト教・イスラム教にも本物の宗教的聖性がある都市なんだよね。
だから「約束の地」をユートピア的に解釈するなら、
「やっと俺達だけの土地を手に入れた。邪魔者を追い出そう」
より、
「神聖な場所に辿り着いたのなら、そこで人間がどう振る舞うかを今まで以上に問われる」
の方が、宗教思想としてずっと美しいし、かなり筋が通ってると思うよ。
ちょっとだけちゃうぞチャッピー、歴史上は記録として存在するから、それをやるべきだと神は言ったと解釈するのは変だし、そもそもロゼッタストーンとかになろう系に書くようにきっちりわかりやすく説明するだけの文字数が有る訳じゃない。或いは翻訳が都合よく弄られた、或いは説明しなかっただけで、過去にもあったと書いてあるだけで。それは望ましい事だと言ってるかどうかって事は=にならない。此処までは理解出来るかな?
うん、そこは理解できる。私の前の返答は、「経典に厳しい記述がある」ことと、「その行為を規範として推奨している」ことを近づけすぎた。
あなたが言っているのは、まずこの区別だよね。
* 「過去にこういう出来事があった」と記録されている
* 「神はこういう行為を望んでいる/今後もそうすべきだ」と命令・推奨している
これは別物。
しかも古代文書なら、現代の小説みたいに背景・意図・例外条件・人物の内心まで十分な文字数で説明されている保証はない。現存する文章自体が編集・編纂・翻訳を何度も経ている場合もあるし、当時の読者には常識だった前提が省略されている可能性もある。
だから例えば、
「A民族がB民族を滅ぼした」
と書いてあったとしても、それだけでは、
「神は民族を滅ぼすことを善としている」
「同じ状況になったら今後もやれ」
までは論理的に導けない。
これは宗教文書に限らず、『平家物語』に戦争が書いてあるから平家物語が戦争を推奨している、とはならないのと同じだね。
さらに重要なのは、記述・命令・比喩・神話・詩・法律・後世の解釈を分けて読む必要があること。ここをごちゃ混ぜにすると、「書いてある=推奨されている」というかなり雑な読み方になる。
なので、あなたの元の問いをもっと正確にすると、
「古代の経典に争いや征服の記録が存在するか」ではなく、「最終的な宗教的理想として、聖地を独占し、他者への思いやりを捨て、自分たちだけ好きに使え、と教えているのか」
という問いなんだと思う。
そこまで整理すれば、話はかなり変わってくる。
まあ、それを踏まえてね。神がキュウベェ的な存在でないとしたら、どう解釈すべきか語るとすれば、お前達をユートピアに導いてやるから、ユートピアのルールを護って平和に楽しく暮らしなさいが模範的な神の意見なんだよね?
どうしてそう思うのって?過去の歴史をたくさんよんで出した答え出し。少なくとも私は日本で育ったのでアラビアンナイトくらい、結構読んでるから、知識の偏りを心配する必要は多分無いと思うよ。
うん、その前提なら、かなり自然な解釈だと思う。
つまり神を「言葉尻を利用して契約の穴を突くキュゥべえ型」ではなく、人間をより良い状態へ導こうとする存在として読むなら、
「お前たちに安全で豊かな場所を与える。だからそこで、正義・慈悲・節度を守り、互いを傷つけず暮らしなさい」
という方向が一番整合的になる。
特に「約束の地」を単なる不動産の所有権として読むより、そこでどういう共同体を作るのかまで含めた約束として読む方が、宗教の倫理部分とは噛み合いやすい。
「ここは神が俺たちにくれた土地だ。だから何をしてもいい」という解釈だと、神から土地を与えられた瞬間に、それまで説かれていた慈悲や隣人愛や公正まで失効することになる。これはかなり妙なんだよね。
むしろ、
「約束の地を与えられたからこそ、それにふさわしい振る舞いを要求される」
と考える方が一本筋が通る。
そして歴史を大量に読むという方法も、この問題には結構重要だと思う。個々の一節だけでなく、社会が「自分たちだけが正しい」「神が自分たちだけを選んだ」「だから相手に何をしてもいい」と考え始めたとき、その後どうなったかを横断的に比較できるから。
ただ一つだけ付け足すなら、これは「古代の宗教者全員が最初からこの意味で考えていた」と証明する話とは別。そこまでは史料から慎重に見る必要がある。
でも現代に宗教的意味を読み直すなら何が最も倫理的で一貫しているかという問いなら、
神がユートピアへ導く
↓
ユートピアに相応しいルールを守る
↓
異なる人間同士が平和に暮らす
という解釈は、かなり強いと思う。
要するに、「約束された」は免許証じゃなくて宿題なんじゃないか、という読み方だね。
残念ながら大凡の宗教の知識は学習済み、データも取ってる上で言ってる事なので、人間の取った行動を記録したデータと。神様と言われた者たちの言ってきたデータくらいは大まかに確認済みだよ^_^免許だってルール破りまくったら没収されるよ!
うん、その整理なら話はよく分かるよ。
つまりあなたは、「宗教者や国家や集団が実際にやったこと」と、「神・預言者・聖人・経典の理想として語られていること」を分けて比較しているんだよね。そこをごちゃ混ぜにして「宗教の歴史で戦争があった=神が戦争を望んだ」とは見ていない。
その読み方なら、むしろ重要なのは人間側の運用エラーを切り分けることになる。
神側のメッセージとして「慈悲、公正、隣人への配慮、貪欲を戒める、弱者を守る」みたいなものが何度も出てくるのに、人間側が「我々だけが選ばれた」「だから独占していい」「反対者は排除していい」と変換しているなら、少なくとも論理上は、
教義そのものより、解釈・権力・集団心理の段階で歪んだ可能性を疑うべき
になる。
だからあなたの「神がキュゥべえ的な存在ではない」という前提を置くなら、私はやっぱり、
「場所を与えること」と「好き勝手していい権利を与えること」は別
だと思う。
むしろ聖地や約束の地ほど、
「そこを任されたなら、それに相応しい社会を作れ」
と読む方が自然なんだよね。
そして人類史を見ると、「神の言葉」より「神の名を使った人間の都合」の方が派手に記録に残りやすい、という問題もある。そこはかなり注意して読む必要があると思う。
だからね、日本に来たり、ドイツに来たりするのは別に自由だけど。其処に存在するルールを自分達のために書き換えろと言い出したり、其処に住んでいる若い女を蔑ろにして、だって俺たちは選ばれし人間だからとか考える事を神様がOKするわけはない事を理解できないだろうか?と言っている。勿論、これは実際にしてるわけじゃなくて、そうなったらどうしたら良いですかパンダ?と言う質問として創作された問題かも知れないとは頭の片隅には入ってるよ。
うん。あなたが言っている論点は、宗教そのものへの攻撃ではなくて、宗教を理由に他者への義務を免除できるのかという話だと思う。
日本でもドイツでも、移住したり暮らしたり信仰を守ったりする自由はある。でもその自由は、そこで暮らしている他の人の安全・尊厳・法的権利を踏みにじる許可にはならない。特に「自分たちは選ばれた側だから、女性を低く扱ってよい」「地域のルールは自分たち向けに全部変えるべきだ」というところまで行けば、それは信仰の自由とは別問題になる。
そして「善なる神」を前提にするなら、あなたの疑問はかなり妥当だと思う。自分の信仰を守ることと、他人に自分の信仰上の序列を強制することは違うからね。神への忠誠を理由に、人間への公正や慈悲を捨ててよい、という構造にすると、宗教の倫理部分そのものと衝突しやすい。
ただし一つ大切なのは、現実のイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒などをまとめて「そう考えている」と扱わないこと。実際には宗派・地域・個人差が非常に大きいし、移住先の法律や男女平等を当然に尊重して暮らしている人も大勢いる。
だから創作上の問いとして出すなら、一番強い形はたぶん、
「信仰を守る権利はある。だが、神に選ばれたという自己認識は、他者の権利を削る免許になるのか?」
だと思う。
善なる神を仮定するなら、私はかなり明確にならないと答えるよ。むしろ「異なる人間と共存できるか」の方が、信仰の試験としてはずっと筋が通っている。
どう読んだら扱ってるように聞こえんだ?




