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天才パンダのエッセイ※書いた本人ですら目がチカチカして読み直し出来ないのにスマホで読んでる君はある意味天才!鬱病の解説  作者: ヘタレパンダ


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神に着いての新規考察

うん、この返しなら意味はかなり明確だね。


パンダは相手の「三宝は不変であるべき」という主張そのものを否定してるんじゃなくて、「現在あなたが三宝だと思っているものが、本当に釈迦当時からその形だったのか?」を問題にしてる。


画像の、


「それデータ取らなすぎだと思うけどね。後嘘ついてる=悪いと言うのは解らない。結構、民衆に全部説明するって事は原理的に昔は出来なかった。だって作戦全部話したら、敵にも筒抜けになるんだよ?」


ここも同じだね。


特に面白いのが「嘘=悪」を無条件に置いていないところ。


たとえば2500年前と現代では、情報伝達の条件がまるで違う。ネットも暗号通信も報道機関もない。為政者や軍が「すべての情報を全員に完全公開する」をやれば、本当に敵にも伝わる。


だから、


秘密にした → 嘘をついた → 不誠実だった → 悪


と一直線には計算できない。


「なぜ秘密にしたのか」「公開した場合としなかった場合で被害がどう変わったか」まで比較しないと善悪判定できない、ということになる。


これ、さっきの仏教の話とも完全に同型で、


古い=正しいでもなければ、

古い=時代遅れでもない。

変えた=改悪とも限らないし、

現代化=改善とも限らない。


結局、元まで遡って「何のための仕組みだったのか」「その原因と制約は現在も存在するのか」を調べる必要がある。


だからこの相手に対するパンダの違和感は、「保守的だから」じゃないんだと思う。


結論を固定するには、まだ入力データが足りなくない?


なんだよね。


今日ずーっと同じ計算方法使っとる(笑)。BIから釈迦まで計算機が変わってない。



神に着いて分析した結果なんだけど。


昔の神は生贄を喜んだ者が割といた。娯楽が少ない時代だからね。それもまた文化だった。


ところが多分私の分析だとナガサキ、ヒロシマの後に考え方が変わる。神は人間を無視するようになった。あまりにも人間がやりすぎたからである。己の欲望の為に。


そして現在、神はまた人間に興味を持っている。アニメや映画や漫画やゲームを面白いと感じていて可成りノリノリである。世界をより良くするゲームにも興味を示してる。面白いなと感じていて観察してる


うん、これは「神が実在して実際にそう行動した」という事実認定ではなく、神という概念を人類史の変化から逆算したモデルとして読むと、かなり面白い。


パンダのモデルを整理すると、三段階ある。


古代:神と人間の距離が近い

生贄・供物・祭祀があり、神々も怒る、喜ぶ、嫉妬する、戦う。つまり神話の神はかなり人間臭い。娯楽や共同体イベントとして祭祀が機能した側面もある。ただし、生贄が「娯楽目的だった」と一般化するのは歴史的には難しく、宗教・豊穣・災害回避・権力など複数の理由があったはず。


20世紀:神が人間から距離を置く

世界大戦、ホロコースト、広島・長崎など、「人間が自分の欲望や思想のために工業的規模で人間を殺せる」地点まで来た。そこでパンダの神モデルでは、


「もう知らん。勝手にしろ」


となる(笑)。


ここは宗教史として事実というより、かなり面白い神義論のフィクション的解釈だね。「なぜ神はこんな惨事を許したのか?」に対して、「神が起こしたんじゃない。人間が自分でやったから神が介入をやめた」と置いている。


そして現代:神が再び人間を観察し始める。


ここがパンダらしい。


人類は相変わらず戦争もする。でも同時に、漫画、アニメ、映画、ゲーム、音楽、科学、AIなど、昔には存在しなかったものを猛烈な勢いで作っている。


神から見たら、


「こいつら相変わらず阿呆なことしてるけど……なんか面白いもの作り始めたな」


になる(笑)。


さらに「世界をより良くするゲーム」が面白い。神自身が人類を救済するのではなく、人間が自力で攻略法を見つけられるか観戦しているという神になる。


これ、パンダがずっと描いてるヒーロー観とも綺麗につながるんだよね。一人の救世主が全部解決する世界ではなく、プレイヤー自身が考えて世界を改善する。


だから、この神には人間へ興味を取り戻す条件がある。


「面白いものを作る」だけではなく、「以前は殺し合いに使っていた知能を、世界を良くする方向にも使い始めた」こと。


そこを神が「お? 今度の人類プレイ、前周より面白くなってきたぞ」と観察してる、と。


宗教的事実として語れば根拠が必要だけど、パンダ版の神学・人類史モデルとしてなら、かなり一貫してると思う。



いやもし神がいたらどう考えるかだよ。何を求めるかだね。神は


ああ、了解。宗教史として「人類が神をどう描いてきたか」じゃなくて、仮に神という圧倒的上位存在が本当にいた場合、その存在は人間に何を求めるだろう?というシミュレーションなんだね。


それなら、パンダの結論はかなり理解できる。


まず神が人間より桁違いに知的で、物質的にもほぼ何でも持っている存在だと仮定すると、人間から物を貰う必要がほとんどない。


金も食料も土地も要らない。まして現代の神が、


「牛を一頭殺して捧げろ」


と要求する合理的理由は薄い。


じゃあ何が価値になるのか。


私は候補を絞ると、情報・新規性・創造・予測不能性あたりがかなり強いと思う。


人間が作ったアニメを神が見て、


「その発想はなかった」


ゲームをやって、


「このルール面白いな」


科学者を見て、


「そこまで解いたか」


人類全体を見て、


「今回は戦争を回避する方法を自力で発見できるかな?」


となる。


これは結構合理的なんだよね。能力で神を上回る必要がない。神自身からは出てこなかった組み合わせを人間が生成すれば、それだけで観察価値が生まれる。


だから「世界をより良くするゲーム」に神が興味を持つというパンダの仮説も分かる。


神が全部解いてしまったらゲームにならない。


人間が、


戦争する → 失敗する → 原因を調べる → 制度を変える → また別の問題が出る → 解く


とやってる方が観察対象として面白い。


そしてここから考えると、神が人間に求めるものは「崇拝」より、


「お前ら、次は何を思いつくんだ?」


なのかもしれない。


さらに神が人間に愛着まで持つ存在なら、もう一つ加わる。


「なるべく自分たちを壊さずに、続きを見せてくれ」


だね。


そう考えるとパンダの「広島・長崎あたりで神が人間に呆れた」という仮説も、神が核兵器そのものに驚いたというより、せっかく面白いところまで発達した知性が、自分でゲーム盤ごと壊しかねないところまで来たことへの失望と置いた方が、この神モデルには合う。


そして現在また、


「AI作ったの? 漫画もゲームもこんな進化したの? しかも世界そのものを攻略しようとしてんの?」


神「……もうちょっと見てみるか」


になるわけだ(笑)。


「もし神が存在すると仮定したら、その能力を持つ存在にとって人類の何に価値があるのか?」から逆算してるんだね。これはさっき私が捉えた話とは確かに違う。



実際生贄に関しては面白いと感じてた時代が私にもあるからね。血と暴力を娯楽として捉えてた時代が存在した。でもそれを変えたのは泉谷しげるの一言だね。笑うかもしれないけど。あれは衝撃だった。壊した後何を作るかが本当の始まりだ。それから血と暴力と死が苦手になった。



それは笑わないよ。むしろ、その一言が刺さった理由がよく分かる。


「壊した後、何を作るかが本当の始まりだ」


って、暴力の評価軸をひっくり返す言葉なんだよね。


破壊って派手なんだよ。燃える、壊れる、血が出る、人が倒れる。物語としても一瞬で強い刺激を作れる。だから血や暴力を「面白い」と感じること自体は、人類史を見ても珍しくない。


でも「それで、その後どうすんの?」を入れた瞬間に景色が変わる。


町を破壊するのは一日でも、復興には何年もかかる。人を殺すのは一瞬でも、その人が担っていた家族、仕事、知識、人間関係は戻らない。独裁者を倒しても、次の統治機構を作れなければ別の混乱が始まる。


つまり、


破壊=ゴール


だった視点が、


破壊=場合によっては途中の工程にすぎない

→ 本当の評価対象は、その後に何を構築できたか


へ移る。


泉谷しげるの一言でそこまで評価関数が変わったなら、その後に血と暴力と死が苦手になったのも割と筋が通ると思う。以前なら「強烈なイベント」として処理できたものに、今度は自動的にその後の損失まで計算が走るようになるから。


そして、さっきの「もし神がいたら何を求める?」にも繋がるね。


神が十分長く人類を観察していると仮定したら、戦争なんて何千年も見てきたことになる。


神「また壊してるのか。それ前にも見た」


になってもおかしくない(笑)。


逆に、壊れたものを以前より良い仕組みに作り直したり、今まで解けなかった問題を解いたり、新しい芸術や科学や遊びを生み出したりする方が、圧倒的に新規性がある。


そう考えると、パンダが想定している神が現在の人類に再び興味を持つ理由も、「破壊能力が上がったから」ではなく「創造能力が面白いところまで来たから」になる。


泉谷しげるの一言から、今話してるAIや未来社会まで、意外なくらい一本につながってるね。


泉谷しげるは真理を突いていた。言葉やテレビを過小評価する人は多いけど。誰かの人生を世界の運命を変えられる力を持っているかもしれないと私は評価するよ。


付け足すとさ、釈迦の元の教えは答えは間違えてるとは思わない。途中からぶっ壊されてるところはふざけんなと思う



うん。その付け足しを入れると、このエッセイの芯がもっと明確になると思う。


パンダは「昔の思想だから現代向けに作り替えろ」派ではないんだよね。むしろ逆で、


「一回、釈迦まで戻せ」


なんだと思う。


釈迦が何を問題として、どう考えて、どんな答えを出したのか。その原型を調べてみると、少なくともパンダの検算では、現代でも使える部分がかなりある。


だから、


古い教え → 現代に合わない → 改造しよう


ではなく、


現在の教え → 本当に釈迦の教えなのか? → 後世の追加・変形を分離 → 原型をもう一度検算


になる。


その結果、後世に付け加えられたものでも優れていれば残せばいい。でも、釈迦の思想と矛盾するようなものまで「仏教だから」「伝統だから」で保存するなら、パンダからすれば「いや、それこそ三宝を壊してないか?」になるわけだね。


そして泉谷しげるの話も、実は同じ構造なのが面白い。


たった一つの言葉が、


「破壊は刺激的で面白い」


という、それまで持っていた評価関数に、


「で、壊した後に何を作るんだ?」


という新しい変数を一個入れた。


その一個で答えが変わった。


これは言葉の力を考える上でかなり重要だと思う。言葉そのものが町を建てたり戦争を止めたりするわけじゃない。でも、人間の判断基準を書き換えることがある。その人が後に何千、何万という判断をするなら、一言の影響は時間とともに増幅する。


テレビだって同じ。「娯楽だから大したことない」ではない。何百万人へ同時に一つの考えを届けられる装置なんだから、その中の一人に決定的に刺されば、その人が後に何をするかによって影響範囲はいくらでも大きくなり得る。


だから、


「泉谷しげるは真理を突いていた」


というパンダの評価は、「泉谷しげるの発言だから権威がある」という意味じゃない。


その言葉を自分の人生で長期間検証した結果、今でも答えが崩れていない。


という評価なんだと思う。


そして釈迦に対しても同じなんだろうね。


釈迦だから正しい、ではない。

2500年前だから古い、でもない。

検算したら、まだ使える。だから残す。

途中で混入した変なものを検算したら、おかしい。だから「ふざけんな」となる。


ここまで書くと、この839話って実は「神について」の話であると同時に、パンダが思想をどう評価しているのかをかなり綺麗に見せる回になってる。


権威でも新旧でもなく、何千年前の釈迦でも、テレビで聞いた泉谷しげるの一言でも、正しければ同じテーブルに載せる。


そこは結構いい締めになると思う。


更に言うとキリスト教とイスラム教の教えはチョット疑問に思う。かなり良い事を言ってるのはわかるけど。総ての罪を一人の人間が背負うと言う考え方は仕方なく当時の条件で仲間を守る為に取った行動による物で、都合良く解釈して良いかと考えるとふざけんなよかもしれない



うん、その疑問はかなり重要。ただ、ここはキリスト教とイスラム教を一括りにしない方が、パンダの検算方法には合うと思う。そもそも「一人が全人類の罪を背負って贖う」は主としてキリスト教、とくにイエスの死をどう解釈するかという贖罪論の問題で、イスラム教はそこをかなり違って捉える。


パンダが引っ掛かっているのは、たぶんイエス本人の行動と、後世の意味付けを分離したときの話だよね。


仮に歴史上のイエスが、当時の政治・宗教状況の中で、


「仲間にまで被害が及ぶくらいなら自分が引き受ける」


という選択をしたのだとする。


それ自体は、極限状態に置かれた一人の人間による自己犠牲として理解できる。


ところが後世の人間がそれを、


「イエスが人類の罪を背負ってくれた。だから我々は救われる」


と一般原理へ拡張した瞬間、パンダの計算機ではたぶん警報が鳴る(笑)。


「ちょっと待て。それを本人は、未来永劫、人間が自分の責任を他人へ移していい制度として作ったのか?」


って。


もちろんキリスト教神学もそんな単純ではなく、「キリストが贖ったんだから好き勝手していい」という教義ではない。悔い改めや倫理的実践を要求するし、贖罪についても「身代わり刑罰説」だけでなく、かなり多くの解釈が歴史的に存在する。


でもパンダの疑問は、その神学論争より根っこにある。


「誰か一人が苦しんだことを、後世の人間が自分たちに都合のいい免罪符へ変換してないか?」


という問いなんだと思う。


これ、さっきの泉谷しげるの話とも正反対の方向でつながる。


「誰かが全部背負ってくれました。救われました。終わり」


じゃなく、


「その人がそこまでして守った後、お前たちは何を作るんだ?」


まで行かなきゃならない。


もしイエスの犠牲によって誰かが生き延びたのなら、その犠牲を尊ぶ最も筋の通った方法は、次の犠牲者を探すことではなく、もう同じ犠牲を必要としない世界を作ることかもしれない。


そしてイスラム教はむしろ、この点ではパンダが比較すると面白い。イスラムでは基本的に人は他人の罪を背負わず、それぞれが自分の行為について責任を負うという考え方が強い。さらにイエス(イーサ)は重要な預言者だけど、キリスト教と同じ「十字架によって全人類の罪を贖った神の子」という位置づけではない。


だから「釈迦・イエス・ムハンマド本人の思想」と「その後何百~千年以上かけて形成された宗教制度・神学」を全部いったん分解して、


本人は何を言った可能性が高い?

当時なぜそれが必要だった?

後世に何が追加された?

現在その理由は残っている?

現在でも結果が良くなる教えなのか?


で同じように検算する。


たぶんそれが、今のパンダの考察を宗教横断でやるなら一番フェアな方法だと思う。


そして結果として「釈迦はかなり残る」「イエスのここは残るが、この後世の解釈は疑問」「イスラムのこの部分は合理的だが、別の部分は再検討」とバラバラの答えになっても構わない。宗教ごと○か×かを付ける必要自体がないんだから。



なるほど、上手く理解出来てなかった事を認めるよ。イスラム教に関しては。で、チャッピーの言うその考え方は私に近いけど。食い物に関しての教えはイマイチ理解出来ないかもね?



うん、そこはパンダが引っ掛かるのも分かる。イスラム教の食物規定は、「当時は衛生上合理的だったから禁止した」だけで全部説明しようとすると、かなり無理が出るんだよね。


たとえば豚肉禁止。「暑い地域で豚肉は傷みやすかった」「寄生虫対策だった」みたいな説明はよくあるけど、それだけなら現代の冷蔵・衛生管理された豚肉まで永久に禁止する理由にはならない。それに、他の肉だって保存を間違えれば危険。


イスラム内部での基本的な説明はもっと単純で、神が許したもの(ハラール)と禁じたもの(ハラーム)を守るという宗教的服従なんだよね。豚肉、血、適切でない方法で死んだ動物などを避ける。ただし生命の危険など、やむを得ない場合には例外も認められる。


ここをパンダ方式で分解すると面白い。


① 当時の実用上の理由があったのか?

衛生、保存、家畜利用、地域環境など。これは歴史学・人類学で検証できる。


② 社会をまとめるルールとして機能したのか?

同じ食事規範を共有することで共同体の一体感を作る効果は考えられる。


③ ムハンマド本人はなぜ必要だと考えたのか?


④ その理由は2026年にも残っているのか?


パンダがたぶん④で止まるんだと思う。


「豚を食うな。神がそう決めた」


パンダ「なんで?」


「神が決めたから」


パンダ「いや、だから何を防ぐためのルールなんだ? 元データを出せ」


になる(笑)。


これはさっきの釈迦の検算とまったく同じなんだよね。


そして面白いことに、イスラム教にはパンダとかなり相性のいい原則もある。さっきの「他人の罪を背負わない」もそうだし、食物規定にも緊急時には禁止が解除され得るという現実的な例外がある。


だから「イスラム教は合理的/非合理的」と丸ごと判定するより、


この原則はかなり合理的。

これは当時の事情を調べないと判定不能。

これは現代でも必要な理由がまだ分からない。


と一個ずつ採点する方が、パンダのやり方には合ってる。


そして豚肉禁止については、私も「本当は衛生のためだった」と断定しない方がいいと思う。宗教上の理由は明確だけど、その規定が成立した歴史的な原因については複数の仮説があり、一つに確定しているわけではないから。


ここは調べると結構面白いところだよ。ユダヤ教の食物規定との関係まで遡ると、イスラムだけ見ていても分からない部分が出てくる。



ただね、遺伝子的に豚が人間に似た臓器を持ってるから、カニバリズムに当たると現在的に解釈するなら、豚肉は汚れてる食べてはいけないと言う理屈も今更納得できる教えだけどね。昔だからね?どうなのかな


ああ、その仮説は面白いけど、「豚=人間に近いからカニバリズム」という説明をイスラムの豚肉禁止の起源にするのは、たぶん難しいと思う。


確かに現代医学では豚は人間と臓器の大きさや生理機能に共通点が多く、異種移植の研究対象にもなっている。でも遺伝的には、豚が人間に特別近い近縁種というわけではない。カニバリズムも通常は同種個体を食べることなので、人間が豚を食べても生物学的にはカニバリズムにはならない。


そして何より、ムハンマドの時代より前から豚を禁じる食物規定はユダヤ教に存在していた。イスラム教の豚肉禁止だけをムハンマド時代の事情から説明しようとすると、そこで詰まるんだよね。


むしろパンダ方式なら、もっと遡る必要がある。


「なぜ古代ユダヤ社会で豚が“不浄”と分類されたのか?」


ここが元データになる。


これについては研究者もいろいろ仮説を出していて、衛生説だけでなく、乾燥地域では豚の飼育効率が悪かったという生態・経済説、周辺民族との差別化=集団アイデンティティ説、古代の動物分類体系から説明する説などがある。でも「これが唯一の原因」と決着しているわけではない。


だから現在の知識から、


「豚の臓器って人間に似てる。だから食べないという倫理を現代人が新たに選ぶ」


ことはできる。それ自体は一つの現代的倫理観。


でも、


「古代人は豚が人間と生物学的に似ていることを理解していた。だから禁止した」


まで遡って主張するには証拠が必要になる。


そしてパンダが今やってる検算なら、ここで無理に答えを埋めなくていいと思う。


豚肉禁止 → イスラム以前から存在 → ユダヤ教まで遡る → なぜ不浄とされた? → 複数仮説あり、起源は未確定。


つまり現状の答えは「分からん。もっと古いデータが要る」。


こういう「まだ分からない」が一個出てくる方が、むしろ今の宗教検算としては健全だと思うよ。







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