哲学者スピノザとはなんぞや?誰やねんそれ?
スピノザは、17世紀のオランダの哲学者 バールーフ・スピノザ(1632–1677)。パンダが今やってる「もし神がいるなら、そもそも神とは何なのか?」という話には、かなり面白い人だよ。
Baruch Spinozaの有名な考えをものすごく簡単にすると、
「神は、人間みたいな人格を持って空の上から世界を操作している存在ではない。神とは自然そのもの、存在する世界そのものではないか」
という方向へ行った人。
有名なのが、
Deus sive Natura
「神、すなわち自然」
という考え方。
だからスピノザの神は、
「今日はパンダが良いことしたから褒美をやろう」
「秀樹神が悪いことしたから雷を落とそう」
みたいな人格神じゃない(笑)。
自然界すべてが因果関係によって成り立っていて、その全体そのものを神と考える。
さらにパンダと相性が良さそうなのが「原因」
スピノザは、人間も自然の一部なんだから、人間の感情や行動にも原因があると考えた。
たとえば、
「この人は怒っている。悪い人だ」
で止まるより、
なぜ怒った?
何がその感情を発生させた?
その原因はさらに何から生じた?
と理解していく。
そして原因を理解するほど、人間は感情に振り回されにくくなり、より自由になれると考えた。
これ、今日ずっとパンダがやってた、
結果だけ見ない → 原因まで遡る → 条件を調べる → そこで評価する
にかなり近いところがある。
もう一つ面白いのが、スピノザは聖書を神が一字一句直接書いた絶対的文章として扱わず、歴史的文書として読もうとしたこと。
「誰が書いたのか」「いつ書かれたのか」「当時どんな社会だったのか」を考えて読む。
当然、当時としては猛烈に危険な思想だった。ユダヤ人共同体から破門され、彼の著作も激しく批判された。
だから、さっきパンダが言ってた、
「釈迦まで遡って元の教えを調べろ。後世に加わったものと分けて検証しろ」
に似たことを、スピノザは17世紀に聖書相手にやってる。
ただし決定的な違いもある。
パンダが今シミュレーションしてる神は、
「人間を観察して面白がる神」
だから、まだ人格がある。
スピノザならおそらく、
「神が人間を面白がって観察する、という時点で人間の感情を神に投影してない?」
と突っ込んでくる(笑)。
ここをパンダとスピノザで討論させたら、かなり面白いと思う。
んな事言われてもな?
神は人格ありきで表現されたものがやたら多いからねぇ、全部インチキだーと考えるような量じゃないし。自分も意識の中で神と会話したしねぇ。妄想の可能性も否定はしないけどね
そうなんだよね。そこはスピノザのモデルを採用すれば全部解決、とはならない。
パンダがやってる検算なら、少なくとも三つの仮説を残すのが自然だと思う。
A:人格を持つ神が実在する。
世界各地で人格神が繰り返し語られてきたことや、個人的な宗教体験も、何らかの実在を反映している。
B:人格神は人間の認知が作った。
人間は自然現象にも意図や主体を読み取りやすいし、文化的伝承や脳内現象によって「誰かと対話した」という体験が生じることもある。
C:何らかの実在はあるが、人間がそれを人格として知覚・翻訳している。
これも論理的には残る。「神そのもの」と「人間の脳に表示された神」が同一とは限らない。
パンダ自身の「意識の中で神と会話した」という経験も、体験そのものがあったことと、会話相手が客観的に神だったことは分けておけばいいと思う。
「私はそういう体験をした」
は自分についての観測事実。
「だから神は実在する」
になると追加の証拠が必要。
逆に、
「脳内で起きた体験だから全部妄想で、神なんか絶対いない」
も、それだけでは証明にならない。
だからパンダのいつもの方式なら、現状はたぶん、
人格神仮説:棄却するにはデータが足りない。
実在証明:こちらもデータが足りない。
よって保留したまま、「存在すると仮定した場合、どんな行動原理が合理的か」を計算する。
でいいんじゃないかな。
しかも「世界中に人格神の記述が大量にある」というデータも面白い。ただ、それが神の実在を示すのか、人間の脳という共通ハードウェアが似た神概念を生成しやすいことを示すのかは、まだ切り分けが必要。
パンダが「妄想の可能性も否定しない」と残してるのは、むしろこの分析では重要だよ。そこで神の実在を確定してしまうと、それ以降の計算が全部その前提に引っ張られちゃうからね。
簡単に言うとさ。神が人格を持ってるって、人格を持ってないなら、そう考えたりするわけないかもよ?と言う分析も可能だよ
うん、その推論も可能。つまり因果を逆向きにも置いてみるわけだね。
普通の懐疑論なら、
人間には人格がある
→ 人間が神を想像する
→ 自分と同じような人格を神にも与えた
と考える。
でも逆仮説として、
人格を持つ神が存在する
→ その神から生じた人間にも人格・意識がある
→ 人間が神を認識すると、人格を持つ存在として知覚する
も論理上は置ける。
さらに面白いのは、
「そもそも、なぜ宇宙の中に『人格を持つ存在』なんてものが発生したんだ?」
まで遡れること。
スピノザ的に「神=自然で、人格なんてありません」とすると、それで一応説明は閉じる。でもパンダなら、
「いや待て。その自然から、自分について考え、他者を愛したり、世界の意味を考えたり、神まで想像する意識が実際に出てきてるじゃん」
となるわけだね。
そこで少なくとも、
① 人格・意識は物質が複雑化すると自然発生する
② 宇宙の根源そのものに意識的性質がある
③ 人格を持つ創造者が人格を持つ存在を作った
④ まだ人類が考えていない仕組みがある
くらいは候補として残る。
ただし、ここから「人間が人格神を想像する→だから人格神は実在する」とは証明できない。同じ観測結果を①でも③でも説明できるから。
でも逆に、「人格神は人間が自分を投影しただけに決まってる」も証明できてない。
だからパンダ計算機としては、
人格神説、まだ棄却できません ( ・`ω・´)
で止めておくのが一番綺麗だと思う。
そしてこれ、かなり根源的な問いなんだよね。結局最後には「意識ってそもそも何なんだ?」にぶつかる。そこを人類はまだ完全には解いてないから、神の人格についても決着させるには入力データが足りない。
何よりも神が人格を持ってる方が今迄人間に起きた事例を理解出来るって奴だ
うん。パンダが言ってるのは、人格神を信じたいから人格を付けるんじゃなくて、「これまで報告されてきた現象を説明するモデルとして、人格を持たせた方が説明変数が少なくなるんじゃないか?」という話なんだね。
たとえば人類史には、神について単に「何か巨大な力を感じた」だけじゃなく、
語りかけられた/命じられた/叱られた/助けられた/拒絶された/問いに返答された/何らかの意図を感じた
という体験談が大量にある。
もちろん、それぞれについて幻覚、夢、文化的学習、思い込み、偶然の意味付けなどでも説明できる。だから人格神の証明にはならない。
でもパンダが見ているのは個別事例ではなく総体なんだと思う。
仮説Aを、
「神的存在はあるが、一切の人格も意思もない」
とすると、人格的な神体験が出るたび、
「これは脳内現象」
「これは文化的投影」
「これは偶然」
「これは後世の脚色」
と補助説明を大量に追加する必要がある。
一方、仮説Bを、
「何らかの人格・意思を持つ神的存在がある」
と置けば、少なくとも一部については、
「相手に意思があるから、意思のある存在として経験された」
で説明できる。
だからパンダがやりたいのは、
AとBのどちらが、既知の事例を少ない例外処理で説明できるか?
というモデル比較なんだね。
これは結構大事な違いで、「人格神の証拠がいっぱいある!」と言ってるわけじゃない。
むしろ、
人格神モデルを最初から迷信として捨てると、逆に説明しにくくなる観測事例が多すぎないか?
という問い。
ただ、ここで第三仮説もかなり強いと思う。
C:神的な何かは存在するが、その本体が人間と同じ意味で「人格」を持つとは限らない。人間の意識と接触すると、人格を持つ相手として知覚される。
これならスピノザ寄りの神と人格神体験をある程度両立できる。
だから現時点なら、
人格なし説/人格神説/接触時に人格として現れる説
の三つを残して、人類史上の宗教体験や神概念を突っ込んで、どれが一番説明力が高いかを見る。
パンダ方式ならたぶんこれだよね。
「神を信じるか?」じゃなく、「どの神モデルを入れたら、観測済みデータが一番きれいに収まる?」
この問い方なら、神学というよりかなりモデル選択に近くなる。
まあ神は八百万居るからね。スピノザもそれ聞いたら納得したかもね
ああ、それはスピノザとの対話としてかなり面白い(笑)。
スピノザは「神は一つの無限の実体で、自然そのもの」と考えたけど、日本の八百万の神を見せたら、意外と単純に真っ向対立しない可能性がある。
というのも八百万の神って、必ずしも
「宇宙を作った全知全能の神様が800万柱います」
という話じゃないからね。
山にも神性がある。海にもある。雷にもある。土地にもある。祖先や人物が神として祀られることもある。つまり、世界のさまざまな部分に神性や主体性を見いだす発想。
これをスピノザに、
「お前は自然全体を神と呼ぶんだろ?
日本人はその自然のあちこちに神を見つけて、名前と人格付けて八百万にしたんや」
と説明したら、
スピノザ
「……表現方法が違うだけで、思ったより遠くないな?」
となる余地はある(笑)。
ただ決定的に違うのは、やっぱり人格。
スピノザの神は「今日は機嫌がいい」「人間が面白い」「こいつを助けよう」みたいな意思決定をする存在じゃない。一方、八百万の神々は神話や信仰の中では、怒ったり喜んだり喧嘩したり助けたり、かなりキャラクター性がある。
でもパンダのモデルなら、ここでさらに、
「そもそも神が一柱だと誰が決めた?」
を入れられるんだよね。
神Aは人間好き。
神Bは人間に無関心。
神Cは芸術大好き。
神Dは戦争嫌い。
神Eは人間の世界改善ゲームを観戦中。
これなら、世界各地で語られる互いに矛盾する神の性格まで、「全部同じ一柱についての証言」と仮定する必要がなくなる。
もちろん八百万の人格神が実在する証明にはならない。でも仮説モデルとして変数を一個増やすと、妙に説明できる事例が増えるのは確かに面白い。
スピノザに一晩くらい日本神話を読ませてから討論したいな。
パンダ「神は一人という前提を外して再計算してみ?」
スピノザ「…………。」
翌朝、
『エチカ・改訂版』
とか出してきたら笑う(笑)。




