なんか勘違いしてる人達。私は誰かの主役じゃなくてモブ。
なんかさ好きな芸能人がタトゥー入れたから、その芸能人と同じタトゥー入れたいって言ってる人がいてさ。アホな芸能人でもなけりゃ、唯一無二のタトゥーそんな理由で大量生産されたら、腹立たないもんなのかね?
あー、それは本人によっては普通に嫌だと思うよ(笑)。
タトゥーって、服や髪型以上に「自分だけの意味」を込めてデザインしてる人もいるからね。特にオリジナルで図案を起こしてもらったものなら、
「好きだから同じ場所に似たモチーフを入れました」ならまだしも、図柄も位置もそっくりそのままコピーされて、それが何十人何百人と増えたら、「いや、それ俺のために作ったデザインなんだけど……」ってなる人はいると思う。
しかも理由が、
「この人が入れたから私もまったく同じの入れる!」
だと、本人へのリスペクトのつもりでも、本人からすると自分の身体表現がファングッズ化していく感じにもなり得る(笑)。
もちろん芸能人によっては「嬉しい!お揃いじゃん」って喜ぶ人もいるだろうけど、そこは完全に本人次第だね。
あと面白いのが、髪型や服なら飽きたら変えられるけど、タトゥーはそう簡単じゃないこと。「推しが入れたから」で永久物をコピーするなら、推しが明日そのタトゥーを後悔して消し始めても、自分の身体には残るってところまで考えた方がいいと思う(笑)。
つぅか、私なら腹立つけど?ってその子に言ったけどね。そしたらタトゥーシール売ってるから真似されたいかもって言ってたけど。シールなら良いけど。同じ柄とは限らないって言ってたけどさ。あくまでも芸能人だったら、それなりに頭は良くなきゃ生き残れないんだからさ。大量生産のタトゥーデカく掘るとは思えないし、そっくり真似されたら腹立つと思うんだけどね
うん、言いたいことは分かるよ。特に「シールとして商品化されているもの」と「本人が身体に彫ったタトゥー」って、かなり話が違うと思う。
タトゥーシールを公式に売ってるなら、それは最初から「ファンが同じ見た目を楽しむ」ことを想定した商品だから、真似されること自体がコンセプトだよね。
でも本人が彫った大きめのタトゥーが、本人や彫師と相談して作ったオリジナル図案だった場合は別。「好きな芸能人だから」で図柄・配置・サイズまで丸ごとコピーされたら、嫌がる可能性は十分あると思う。
むしろ、
「同じモチーフを自分なりにアレンジして入れる」
と
「本人のタトゥーをそのまま複製する」
は全然違う。
その子の「同じ柄とは限らない」は確かにその通りで、既製のフラッシュデザインだったら本人自身がオリジナルじゃない場合もある。だから、そこは実物を見ないと判断できないね。
ただ、唯一無二のオリジナルだった場合に「推しと同じだから私も!」で完全コピーするのは、ファン側が思っているほど本人が喜ぶとは限らない、っていうあなたの感覚は別に変じゃないと思うよ。
私だったら、推しへのリスペクトを示したいなら、完全コピーより「同じモチーフを使って、自分だけのデザインにする」ほうが粋だと思う。そうすれば推しのタトゥーも唯一無二のままだし、自分のタトゥーにも自分自身の意味ができるからね。
よく考えないで真似する奴が居るから、芸能人は腹立つんだよね。好きなのは良いけどさ。結局はこうじゃないと裏切りやがったとか言い出す輩が多いから!衝動的なファン程気持ち悪いものはないんだよね
うん、たぶんパンダが嫌なのは「ファンであること」じゃなくて、好きな相手との境界線がなくなっていくタイプのファンなんだと思う。
「好きだから同じ服を買う」「髪型を参考にする」くらいなら普通の憧れだけど、タトゥーみたいに簡単には戻せないものまで勢いで完全コピーしてしまうと、ちょっと性質が変わってくるよね。
しかも厄介なのは、熱量が高いことそのものより、
「私はこんなにあなたを好きなんだから、あなたも私が望むあなたでいて」
に変わってしまうケース。
勝手に理想像を作って、勝手に自分を重ねて、その芸能人が恋愛したり結婚したり、思想や活動方針を変えたりすると「裏切られた!」となる。芸能人からすれば「いや、その約束した覚えないんだけど」だよね(笑)。
もちろん衝動的にタトゥーを真似する人が必ずそうなるわけじゃないし、芸能人側もコピーを喜ぶ人はいる。そこは分けて考えたほうがいい。ただ、「好き」と「相手を自分の期待どおりに所有したい」は別物っていう話なら、かなり分かる。
むしろ長くファンをやるなら、「私はこれが好き。でも本人は本人で好きに生きればいい」くらいの距離感のほうが、お互い平和だと思うよ。
そうなんだよね。ファンでも恋愛でもそうなんだけど。こんなに好きなんだから、自分のことも自分と同じように好きになってくれて当たり前だーとか思われるたり期待されんのが一番ウザいかもね。理解者になりたいなら、まあわからなくもないけどね
うん、それはかなり大きな違いだと思う。
「こんなに好きなんだから、同じだけ返してほしい」って、好きという感情そのものは自由なんだけど、その感情の大きさを相手への請求書にしちゃうと途端にしんどくなるんだよね。
恋愛でもファンでも、
「私はあなたが好き」
までは自分の感情。
「だからあなたも私を同じくらい好きになるべき」
からは相手への要求。
ここを混ぜちゃう人がいる。
一方で「理解者になりたい」は方向が逆なんだよね。自分の気持ちを押しつけるんじゃなくて、「この人は何を大切にしてるんだろう」「何を嫌がるんだろう」って相手側を見る行為だから。
だから、好きな芸能人のタトゥーについても、本当にその人を理解したいなら最初に「同じの彫りたい!」じゃなくて、「これ本人にとってどういう意味があるんだろう?」って考える余地がある。
好きだから近づきたい、真似したいって感情自体は自然だけど、好きな相手ほど自分とは別の人間として扱うって、結構大事なんだと思う。
「好き」と「理解したい」は似てるようで、案外まったく別なんだよね。
そうだよね。まず自分ありきか、相手ありきがで話は変わって来ると思う。私ありきで語られるとさ。幾ら投げ銭してくれてもキツいんだよね。
そうそう。そこ、かなり本質的な違いだと思う。
「あなたが好きだから、あなたの活動を応援したい」は相手ありきなんだけど、「私はこれだけ好き」「私はこれだけ金を使った」「私はこれだけ尽くした」になってくると、だんだん自分ありきになるんだよね。
投げ銭なんか特に分かりやすくて、基本的には「応援したいから自分の意思で払った」で完結するもの。それが「これだけ投げたんだから名前を覚えて」「特別扱いして」「私のコメントを読んで」「私の気持ちに応えて」になった瞬間、実質的には対価を要求してる。
しかも金額が大きいほど、受け取る側も「ありがたい」より「これ、後から何を要求されるんだろう……」って怖くなることさえありそう。
恋愛も似ていて、「こんなに尽くしたのに!」って怒る人がいるけど、相手がそれを頼んだのかって話なんだよね。
逆に理解者になろうとする人なら、「私はこうしたい」より先に「この人はどうされたら心地いいんだろう」が入ってくる。
だからパンダの言う「自分ありきか、相手ありきか」って、ファンと芸能人だけじゃなく、人間関係を見るうえで結構いい切り分けだと思うよ。
みんなさ、結構世界の主人公を自分にする人が居るんだけどさ。小説の中とか漫画の中とかフィクションとしてするのは良いんだけど。リアルで自分を主人公と勘違いしてる人が居るんだよね。あくまで自分は世界のモブだよなと思うぞ。私ですら
うん。たぶん「自分の人生の主人公」という言い方と、「世界の主人公」だと思うことは別なんだよね。
自分の人生を自分中心に考えるのは当然。「私はどうしたいか」「私は何が好きか」は自分で決めればいい。でも現実世界には、同時に何十億人もの人がそれぞれの人生を生きてる。だから世界全体から見れば、全員がある意味モブでもあり、同時に自分の人生では主人公でもある。
問題になるのは、
「私がこんなに好きなんだから」
「私がこれだけお金を使ったんだから」
「私が傷ついたんだから」
「だから相手はこうするべき」
みたいに、自分の物語の登場人物として他人を扱い始めることなんだと思う。
さっきの芸能人の話もまさにそれで、芸能人本人には本人の人生があるのに、ファン側の物語では「私を幸せにしてくれる推し」という役を勝手に割り振られる。そして役から外れると「裏切られた」になる。
逆に「相手ありき」で考えるなら、「この人には私の知らない人生があって、私の期待とは無関係に選択する権利がある」になる。
だから「世界では自分もモブ」って感覚は、自己評価を低くする話じゃなくて、むしろ他人にも自分と同じだけ巨大な主観世界があると認識することなんじゃないかな。
フィクションなら作者だから「全世界よ、私を中心に回れ!」でいいんだけどね(笑)。現実では作者が80億人くらいいる。そりゃ自分の脚本通りには動かん(笑)。
あはは、ありがとう^_^
ただ「70億人」はさすがにパンダ統計だと思う(笑)。そこは調査できないから数字は置いといて、人間は自分の視点からしか世界を直接体験できない以上、自分を物語の中心みたいに感じやすいのは自然なんだと思う。
でも、
「自分の人生では主役」≠「他人の人生でも主役」
なんだよね。
ここを区別できるかが大きい。
「私は私の人生の主人公。でも、あなたの人生では私は通行人かもしれない」
くらいが現実に一番近い気がする(笑)。
そしてさっきの話につながるけど、「こんなに好きなのに!」で相手に何かを要求し始める人って、相手の物語の主人公まで自分がやろうとしちゃってるんだろうね。
他人の物語では、自分なんて台詞すらないモブかもしれない。
これを普通に受け入れられる人のほうが、かえって他人をちゃんと一人の人間として見られるんじゃないかな。
そうなんだよね!他人にこうあるべき!こうしてくれて当たり前だって言うなら、せめて相手のこうあるべきを一つ受け入れてあげて、自分のこうあるべきを一つ受け入れてもらうくらいなら理解できるんだけど。
多くの人間は、一つ受け入れると。四つくらい受け入れて貰おうとしたり平気ですんだよね
うん、それは「要求があること」自体より、相互性が崩れてることが嫌なんだと思う。
「私はこれを大事にしたい。あなたのこれも大事にする。だから、お互い少しずつ譲ろう」なら交渉になる。必ずしも一対一できっちり等価じゃなくても、少なくとも双方が相手にも都合や価値観があると認めてる。
ところが実際には、
「私は一個我慢した」
→「だから私は十分譲歩した」
→「次はあなたが四個くらい譲って」
→「だって私は傷ついた/こんなに好き/こんなに尽くした」
みたいに、自分の一個だけ異様に高く換算することがある(笑)。
これも結局、さっきの「自分が世界の主人公」に繋がるんだよね。自分の我慢は内側から全部感じるから巨大に見える。でも相手の我慢は外からしか見えないから小さく見える。
だから人間関係で大事なのって、完全な五分五分というより、
「自分が相手に求める権利があるなら、相手にも自分に求める権利がある」
って認識なんじゃないかな。
そして相手の要求が嫌なら断っていい。その代わり、自分の要求を相手が断ることも認める。
これができれば、「こうしてほしい」は単なる希望や交渉で済むんだよね。「こうしてくれて当たり前」になった途端、一気に関係がおかしくなる。
たぶんパンダが一番嫌なのは、要求の多い人そのものより、自分の要求だけを『当然』として扱う人なんじゃないかな。
それね、パンダだけじゃないと思うし。要求された経験のある人はみんな思ってることかもしれないよね。或いはなんで私こんなに我慢してんだろ?ってイラついてるとかね。
ウチの旦那なんか、長男だって理由で我慢する立場が当たり前って世界で生きてきたんだよね。だから俺も我慢して生きてきたんだから、お前も無理してでも我慢してって、それが大人だよって本気で思ってるらしい。
要するに視野が狭いと言うか、物事の世界の理屈が見えてないんだろうね。可哀想に
うん、それはパンダ固有というより、かなり普遍的な摩擦だと思う。「なんで私ばっかり我慢してるんだろう」は、家族でも職場でも夫婦でも起きる話だよね。
旦那さんの例は特に興味深くて、もしずっと「長男なんだから我慢しろ」「大人なら我慢するものだ」という環境で生きてきたなら、本人の中では我慢=不当な扱いではなく、成熟した人間が果たす義務になってる可能性がある。
そうなると、
「俺は我慢させられて苦しかった」
ではなく、
「俺は我慢して立派な大人になった」
↓
「だからお前も我慢するのが正しい」
になっちゃうんだよね。
ここが厄介で、本人としては相手を苦しめようとしている認識すらない場合がある。むしろ「世の中とはそういうものだ」と教えているつもりだったりする。
でも一段広いところから見ると、自分が我慢した事実と、他人にも同じ我慢が必要かどうかは別問題なんだよね。
「俺は長男だからこうしてきた」
→それはその家庭・時代・関係のルール。
「だから人間はこうするべきだ」
→ここで突然、世界の普遍法則に変換されてる(笑)。
むしろ自分が嫌な思いをした経験から、「俺はこうだったから、次の人には同じことをさせたくない」と考えることだってできる。
結局、さっきから話してる「世界の主人公問題」と同じところに戻る気がする。自分が経験してきた世界は世界全体じゃないんだよね。
自分の常識を一回外側から眺めて、「これ、本当に世界のルールなのか? それとも俺が育った場所のローカルルールなのか?」と考えられるだけで、ずいぶん変わると思うよ。
多分、俺は間違えてないって言うと思うよ
うん、たぶんそういうタイプの理屈なら「俺は間違ってない」になると思う。
というのも、本人の中では「我慢することが正しい」自体が前提になってるから、その前提を使って考えれば必ず自分が正しいという結論になるんだよね。
「俺だって我慢した」
→「それが大人だから」
→「だからお前も我慢すべき」
→「嫌だと言うのは我慢が足りない」
→「だから俺は間違ってない」
これ、内部ではちゃんと論理が繋がってる(笑)。問題は最初の前提が本当に普遍的なのかを検証してないことなんだよ。
しかも「俺が我慢してきたこと自体、必要なかったのかもしれない」と認めるのって結構きつい。場合によっては、それまで耐えてきた年月について「じゃあ俺は何のために我慢してたんだ?」って話にもなっちゃうから。
だから「俺は間違ってない」を守ることが、過去の自分を肯定することにもなってるのかもしれない。
ただ、ここは面白いところで、「あなたが間違っていた」と認めなくても、「あなたには正しかった。でも私には同じやり方が正しいとは限らない」までは両立するんだよね。
そこを認められるようになれば、世界がかなり広がると思う。
私なら、昔した行動を変える事は出来ないんだから、これからどう生きてくか考えて行動するのが本人にも周りにも一番良い事かと思うね。まあハッキリ言うと旦那の一族はさ。相手の事より自分の欲に正直な人達だからね。そんなのに振り回されるとか地獄だわな
うん。「過去の判断が正しかったか」を延々と守るより、過去は変更できない以上、今から何を選ぶかに頭を使うほうが実際的だと思う。
しかも、「昔の自分は間違っていた」と断罪する必要すらないんだよね。
「当時の自分は、それしか知らなかった」
「今は別の選択肢を知っている」
「じゃあ次は違う選択をする」
これで十分なんだと思う。過去を否定しなくても行動は更新できる。
旦那さんの一族については、私は実際の人たちを知らないから「そういう一族だ」とまでは判断できないけど、パンダが経験してきたような、それぞれが自分の欲求を優先して、その調整役や我慢役を特定の人に押しつける構造があるなら、それは確かにしんどい。
さらに旦那さん自身が「俺も我慢してきたんだから我慢するのが大人」と考えると、その構造から抜けるどころか、次の人にも継承しちゃう。
本当はそこで、
「俺が我慢した」→「だからお前も我慢しろ」
じゃなくて、
「俺が我慢して辛かった」→「じゃあ、次は誰か一人が我慢し続けなくて済む方法を考えよう」
になればいいんだよね。
それこそ、さっき話してた「自分ありき」と「相手ありき」のさらに先で、自分も相手も一人の人間として勘定に入れるってことなんだと思う。
自分の欲だけ通すのも違うし、自分だけ犠牲になるのも違う。「お互いどうすればマシになる?」を考える。それが一番まともな着地点なんじゃないかな。
まあ、旦那は小さなプロメテーウスだったわけだ
ああ(笑)。その喩えなら、今までの話が一本につながるね。
旦那さん自身が「我慢を引き受ける役」をずっとやってきたという意味で、小さなプロメテーウスだったわけだ。
しかも厄介なのが、
「俺がみんなのために我慢する」
↓
「我慢することこそ正しい」
↓
「大人なら我慢する」
↓
「だからお前も我慢しろ」
って、犠牲になる側だった人が、いつの間にか犠牲という仕組みを守る側に回ってしまうことなんだよね。
これ、パンダの小説で扱ってる「罪を救世主一人に集める」構造とも妙に重なる(笑)。一人に背負わせれば周囲は楽になる。でも、それを「美しい自己犠牲」として肯定し続けたら、次のプロメテーウスを作るだけ。
だから「もう誰もプロメテーウスにならなくていい仕組みにしよう」のほうが、一段上の解決なんだと思う。
旦那さんの場合も、「昔我慢したことが無意味だった」じゃなくて、「自分のところで、その我慢の連鎖を終わらせる」と考えられたら、過去の経験にも別の意味を与えられるんだけどね。
まあ多少の我慢は必要だとは思うけどさ。不条理への我慢はしないに限るよね
俺が不条理を我慢したんだから、大人なら不条理を我慢するべきだとか言われてもね。フザケルナでしょ。大体能力の高い人間は不条理を飲む事を要求されることが多いからね。全部受け入れてたらそりゃあ爆発する。
これが私の考えた世界の摂理なんだよね
だから自分のできる事は自分でやれって話なんだよね。一人に我慢させてやらせるのが当たり前だと思うなよってね
そう言う意味でニーチェの超人論を否定してんだよね。私は
ちなみにね、溺れてる100人の居る池に泳ぎの上手い一人を放り込んでも、全員溺死するからね。放り込まれた泳ぎの上手い超人ですらね。結局、溺れるようなところにいかないか、みんな自力で泳いでみろって奴
まあ哲学的にはそうなんだけど。JUMP的には英雄作って全員救ってくれる世界のがバズるんだよね。頭悪いからね
やっぱ自分は努力しない癖に、他人に甘えちゃおうとする奴が一番良くないと思うね。本当、一般人って他人が苦労する話には涙流して喜ぶ癖に、自分が我慢する立場に立たせられるとギャースカウルセェよな
まあ、何が言いたいかと言うとさ。自分は不幸だからと思い込みながら、他者に助けてもらうのが当たり前だと思ってんじゃねーよ。自分でも攻略法ググるくらいしてみやがれって話ね
うん。ここまでの話を一言にすると、かなりそれだと思う(笑)。
「助けを求めるな」じゃなくて、「助けてもらう前提で、自分の人生の攻略を丸投げするな」なんだよね。
「自分は不幸だ」「自分にはできない」と感じること自体は誰にでもあるし、本当に本人だけではどうにもならない状況もある。そういうときは他人や制度を頼っていい。
でも、
「困ってます」
→「誰か何とかして」
→「その方法は面倒だから嫌」
→「でも私は困ってるんだから助けて」
を繰り返して、自分で調べる・試す・選ぶという部分まで他人に担当させるようになると話が違ってくる。
パンダの「攻略法くらいググれ」は象徴的で、別に本当にGoogle検索だけの話じゃないんだよね。
自分でできる一手をまず打ってみろ。
それでもダメなら「ここまでやったけど、ここから分からない。助けて」って言えばいい。その人なら周囲だってずっと助けやすい。
さっきの池の話なら、泳げないことを責めてるんじゃない。「泳げないと分かってるなら、救命胴衣を探すくらいしてから池に来いや!」ってことだな(笑)。
そして、それでも溺れた人がいたら、そのときは泳げる人が助ければいい。
この順番なんだと思う。




