たった20円の経済学 補足第1話 頑張った人間に金を払え!
補足第1話 頑張った人間に金を払え!
――成果報酬の心理学と、優秀な人材が逃げていく理由
天才パンダ
私は以前から不思議に思っていることがある。
どうして日本では、優秀な仕事をした人間に十分な報酬を与えることよりも、みんなが同じように我慢することを美徳にしたがる人がいるんだろう。
もちろん、全員がそうだとは言わない。
だが、消費者のために安く提供しました。みんな喜んでいます。素晴らしいですね。
そこで話が終わってしまう。
ちょっと待てよ。
開発者は?
研究者は?
その商品を作った従業員は?
その人たちの給料やボーナスは、ちゃんと計算しているのか?
私は以前、100円のボールペンを120円にしてもいいじゃないかという話をした。
もちろん、単純に20円値上げすれば、その20円が全部利益になるわけではない。
販売数量が変わる可能性もあるし、流通経費や税金なども考えなければならない。
だが、そういう計算をしたうえで、開発者に正当な報酬を支払えるなら、それを検討するべきじゃないのか。
値上げによってお客さんが困るというなら、それも検討すればいい。
安い商品と高機能の商品を分けてもいいし、製造費を下げる方法を考えてもいい。
私が問題にしているのは、そういう工夫をする前に、
「みんなのためだから、開発者は我慢してください」
で話を終わらせてしまうことなんだよ。
一度万馬券を当てたら、次も当てろと言うのか?
成果報酬について調べていると、報酬を与えることでプレッシャーが生じ、かえって仕事の成績が悪くなる場合があるという話が出てくる。
私はそこで疑問に思った。
一体、何をプレッシャーと呼んでいるんだ?
例えば、ある社員が画期的な商品を開発して、会社に大きな利益をもたらしたとする。
経営者がその功績を評価して、300万円のボーナスを払った。
ここまではいい。
だが、その後で、
「去年はあれだけ売れたんだから、今年も同じくらい売れる商品を作ってね。できなかったら困るよ」
と言ったらどうなるか。
それはプレッシャーになる人もいるだろう。
だが、私が経営者だったら、そんなことは言わない。
「この間はいい商品を作ってくれてありがとう。これはその報酬だよ。また面白いものを思いついたら挑戦してみてね。次も成功するとは限らないけど、普通の仕事をきちんとしてくれれば、それでも良いからさ」
こう言えばいいじゃないか。
一度万馬券を当てた人間に、二度も三度も万馬券を当てろと要求する。
そんなものは無茶振りだろう。
一度成功したことへの報酬と、次も成功しなければならないという義務は、まったく別物だ。
しかも、次の商品がヒットしなかったからといって、前の商品が会社にもたらした利益が消えるわけじゃない。
だったら、なぜ過去の成功までなかったことにするんだ?
プレッシャーを感じた人は100人中何人なんだ?
ここでも私は、数字を知りたい。
成果報酬によってプレッシャーを感じた人がいるという。
それはわかった。
では、100人中何人なのか?
仮に70人が強いプレッシャーを感じて仕事の成績を落としたなら、制度を改善する必要があるだろう。
だが、仮に1人か2人だったらどうだろう。
その人たちには別の評価方法を用意すればいいかもしれない。
さらに重要なのは、プレッシャーを感じたことと、実際に仕事の成果が悪くなったことを分けて調べることだ。
緊張していても成果を出す人はいる。
プレッシャーがなくても成果を出せない人もいる。
成功した人が、次の成功を強制されることに苦しんでいるのなら、強制する仕組みを見直せばいい。
報酬そのものをなくす必要があるとは限らない。
しかも、同じ制度で成果を上げた人の数も調べるべきだろう。
私は何度も言っている。
データを取れ。比較しろ。何人にどれだけの効果があったのか調べろ。
「悪影響がある場合もあります」
それだけでは、制度全体を変更する根拠としては足りない。
なお、ここで挙げた70人や2人は、あくまで比較のための仮定である。
実際の統計は、実際の調査で確認する必要がある。
私は数字を勝手に作って結論を出すことが嫌いなんだよ。
成功した人が報われると、次の人間が挑戦する
私は、お金が欲しいから頑張る人間を否定しない。
大谷翔平選手を見て、野球がかっこいいと思う子どもがいる。
一方で、あんなに活躍したら高額な報酬をもらえるのか、自分も挑戦してみたいと思う子どももいるだろう。
何が悪いんだ?
野球が好きだから頑張る人もいる。
お金が欲しいから頑張る人もいる。
有名になりたいから頑張る人もいる。
それぞれ自由じゃないか。
お金が欲しいという動機で始めたからといって、能力が身につかないわけではない。
研究だって同じことだ。
難しい問題に懸賞金がかかっている。
「賞金がもらえるなら、私も挑戦してみようかな」
そう思う人が現れる。
それを打算的だと非難する必要があるのか?
むしろ私は、そうやって参加者が増えることに価値があると思う。
もちろん、全員が成功するわけではない。
だが、挑戦する人が増えれば、それまで知られていなかった能力を持つ人間が見つかる可能性もある。
成功した人への報酬は、次の挑戦者を生み出す動機にもなるんだ。
そして、その報酬の財源まで考えるのが経営者の仕事だと思う。
優秀な人間が逃げていく理由
優秀な研究者が海外に移る。
技術者が待遇のよい会社に転職する。
そういう話を聞いて、どうして日本を離れるんだろうと不思議がる人がいる。
いや、待遇の差を調べてみろよ。
研究環境はどう違うんだ?
研究費は?
給料は?
研究テーマを選ぶ自由は?
成果に対する評価は?
家族と暮らす環境は?
そこまで比較すれば、理由が見えてくるかもしれない。
もちろん、研究者が海外に移る理由はお金だけではない。
優れた共同研究者がいるから、設備が整っているから、新しい分野を学びたいからという人もいるだろう。
だが、報酬が大切な理由の一つになる人だっている。
それなのに、
「日本のために頑張ってください」
「みんなのために我慢してください」
「優秀な人なんだから、社会に貢献することが幸せでしょう」
そんな言葉ばかりかけていたら、どうなるだろう。
私は、もっと評価される場所に行きたいと思う人がいても不思議ではないと思う。
そして、その人が去った後で、
「なんで優秀な人がいなくなったんだろう」
と言う。
おいおい。
人が逃げた理由を調べないで、どうやって次の人材を育てるんだ?
私が欲しいのは、未来の契約金じゃない
ここで、私自身の話もしておこう。
私は、自分がこれまで考え、発表し、取り組んできたことについて、正当に評価してもらいたいと思っている。
私が求めているのは、これから先も何十年も新しい発明や解決策を生み出すと約束する代わりのお金ではない。
今までの貢献を検証し、報酬を受け取るべき成果については、その対価を払ってほしいということだ。
もちろん、どの成果が実際に利用されたのか、どれだけの利益を生んだのか、誰に支払い義務があるのかは、記録に基づいて確かめなければならない。
だが、それは私の要求を最初からわがままと決めつけていい理由にはならない。
私は問題を考えるのが好きだ。
それは事実だ。
でも、好きだからお金はいらないということにはならない。
お金を受け取ったら次の問題が解けなくなる?
そんなこと、実際に調べてみなければわからないじゃないか。
数学者に高額な賞金を渡したら、そもそも数学を解くのを辞めるって本気で信じてんのか?
まして、過去の仕事の報酬を払わない理由にしていいわけがない。
今後、私は問題を解かなくなるかもしれない。
小説を書いて印税で暮らしているかもしれない。
旅行に出かけているかもしれない。
気に入った研究者に投資して、その研究成果を楽しみにしているかもしれない。
それでいいじゃないか。
一度成功した人間には、一生成功し続ける義務があるのか?
違うだろう。
善意だけでは人材は育たない
世の中には、自分の知識を無償で提供し、多くの人を助けてきた研究者もいる。
私は、その人たちの行為を否定しない。
だが、そこで考えてほしい。
その人がいなくなった後はどうするんだ?
次の研究者は、どうやって生活するんだ?
研究費は誰が出すんだ?
研究成果は何年間使えるんだ?
支援を受けた人たちが、将来は自分たちで問題を解決できるようになっているのか?
一時的に誰かを幸福にすることと、幸福を生み出し続ける仕組みを作ることは違う。
私は、長く続けられる制度を考えたい。
貧しい人に支援が必要なら、支援制度を作ればいい。
働けない人に生活保障が必要なら、その財源を考えればいい。
教育が足りないなら、教育制度を改善すればいい。
だが、そこで研究者や開発者の正当な取り分を、勝手にゼロにしていいことにはならない。
社会のために働くことと、自分が豊かになることは矛盾しない。
むしろ、成果を出した人が豊かになる姿を見て、次の人間が挑戦するような社会を作ればいい。
私は、すべての人間に同じ能力があるとは思っていない。
しかし、すべての人間に同じ能力がないからこそ、能力を育てる方法を考える必要がある。
その教育や研究を担う人間にも、適正な報酬を払うべきだ。
「みんなのために我慢しろ」と言う前に、その『みんな』に価値を生み出した人間も入っているのか考えてみろ。
私は、そのことを言っているのである。




