たった20円の経済学 ――みんなが幸せなら、働いた人間は貧乏でいいのか?
たった20円の経済学
――みんなが幸せなら、働いた人間は貧乏でいいのか?
天才パンダ
第1章 カレーの肉は誰が払うんだ?
以前、ある女性が業務スーパーのレトルトカレーを無料でもらったという話をしていた。
ところが、その女性は不満を漏らしていた。
「肉が少ない。もっと肉を入れてほしい」
私は思った。
じゃあ、自分で肉を買って入れればいいじゃないか。
業務用の安価なカレーには、購入者が好みの具材を足して完成させられる商品もある。
牛肉を加えてもいい。豚肉でもいい。エビを入れればシーフードカレーにもなる。
自分の好みに合わせて自由に工夫できるわけだ。
ところが彼女は、肉を買うお金がないという。
だからメーカーが肉を増やしてほしい。でも値段は上げないでほしい。
おいおい、ちょっと待てよ。
その肉代、誰が払うんだ?
原材料費が増えれば、どこかで負担しなければならない。
メーカーが利益を削るのか。生産者に安く売らせるのか。従業員の給料を減らすのか。
あるいは製造工程を改善してコストを下げるのか。
私は、肉を増やすという意見そのものを否定しているわけではない。
問題は、そのための費用も計算せず、ただ自分の要求だけを通そうとすることだ。
しかも、その女性はファミチキを頻繁に食べていた。
1日に2枚食べることもあるらしい。
だったら、ファミチキを1枚カレーに乗せて食べればいいじゃないか。
カレーライスにチキンが乗る。見た目も豪華になるし、満足感だって高くなるかもしれない。
2枚のファミチキを別々に食べるより、カレーと組み合わせた方が満足できる可能性がある。
どちらが安く、どちらが満腹になり、どちらが満足できるのか。
それを比較してみればいい。
私は、こういう計算をする。
もちろん、経済的に困窮している人を責めたいわけじゃない。
ただ、貧しいからこそ、限られたお金をどう使えば満足できるのか考えることも大切なんじゃないのか。
病院の魚料理と味噌汁
その女性とは、以前、精神科の病院で一緒になったことがある。
彼女は病院食にも不満を持っていた。
「魚ばっかり。肉が食べたい」
ところが、私はその病院の料理が大好きだった。
特に魚料理が素晴らしかった。
魚の臭みを抑え、骨まで丁寧に取り除いてあって、味付けもいろいろ工夫されていた。
患者が食べやすいように配慮しているのが伝わってくる。
しかも味噌汁がうまい。
本当にうまい。
私は不思議に思って、作っている人に聞いてみた。
「どうやったら、こんなにおいしい味噌汁が作れるんですか?」
すると、出汁にも味噌にもこだわっているという。
購入できる場所まで教えてもらったので、実際に買って自分で作ってみた。
ところが、同じ味にならない。
なぜだろう。
出汁の取り方か。味噌の量か。火加減か。
同じ材料を使っても、同じ料理ができるとは限らない。
そこには料理人の技術がある。
私はその技術を知りたかった。
一方、彼女の評価は「魚だから嫌だ。肉を出せ」というものだった。
肉が好きなのは別に構わない。
だが、自分の好みに合わないことと、料理の品質が悪いことは別問題だ。
さらに病院食には、栄養管理という役割もある。
肉を食べたいという個人の希望だけではなく、健康状態、栄養バランス、調理の手間、予算まで考えなければならない。
私は、彼女の味覚が悪かったのか、先入観で判断していたのかまではわからない。
だが、料理人の工夫や仕事を評価せず、肉がないからまずいと決めつけるのは、ずいぶん乱暴な話だと思った。
同じ要求でも、同じ価値ではない
ここで重要なのは、同じことを要求していても、その中身は同じとは限らないということだ。
「もっと肉を増やせ」
「どうすれば肉を増やしても、価格を抑え、生産者の利益も守れるだろうか」
この二つは、同じ意見だろうか。
違うだろう。
片方は希望を述べている。
もう片方は、実現方法を考えている。
私は、希望を述べる自由まで否定しない。
だが、材料費、労働時間、利益配分まで考えた提案と、単なる要求を同じものとして評価するのはおかしい。
意見を言う権利は平等でも、意見の問題解決能力まで平等とは限らない。
そして、こうした問題は家庭の中でも起きる。
例えば、妻の作ったしゃぶしゃぶに対して、夫が肉を一枚一枚丁寧に茹でてほしいと要求する。
大きな鍋が必要なら、まずその鍋を用意すればいい。
ところが、自分は調理しない。鍋も取らない。でも妻には手間をかけろという。
それは、無料の家政婦を求めているのと何が違うんだ?
恩恵を受ける人間は、恩恵を生み出す人間の労働まで自分のものだと思ってはいけない。
これは、家庭でも、企業でも、社会でも同じことだ。
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第2章 たった20円を払えない社会
先日、テレビ東京の『WBS』で文房具の開発について紹介していた。
ボールペンやシャープペンシルなど、私たちが普段何気なく使っている商品だ。
各メーカーは、安い価格で便利な商品を提供するために、さまざまな改良を続けている。
書き心地、インク、芯の折れにくさ、持ちやすさ。
消費者にとってはありがたいことだ。
だが、私は思った。
その開発者たちは、ちゃんと報酬を受け取っているのだろうか?
もちろん、実際の各企業の給与や利益配分を調べたわけではない。
だから、特定のメーカーが十分な給料を払っていないと決めつけるつもりはない。
ただ、仮にこういう状況があったらどうだろう。
100円で売っていたボールペンを、開発者の報酬を増やすために120円にしたいという。
私は別に構わないと思う。
もちろん、20円値上げしたら売上がどう変化するか、経費がいくら増えるか、利益がどれだけ残るかは計算する必要がある。
だが、開発者が新しい技術を生み出し、会社に利益をもたらしたのであれば、その成果に応じた報酬を払うのは当然のことだと思う。
それを聞いて、
「値上げするなんてずるい!」
「みんなが安く買えることが大切でしょう!」
「開発者は今までどおりの給料で我慢すればいい!」
などと言う人がいたら、私は聞きたい。
お前が便利な商品を安く買うために、なんで開発者が貧乏暮らしをしなきゃならないんだ?
開発者だって人間だ。
おいしいものを食べたいだろう。
旅行にも行きたいだろう。
家族を豊かにしたいかもしれない。
努力して生み出した利益で、いい暮らしをしたいと思って何が悪い。
「みんなが喜ぶからいいことだ」
そう言う人がいる。
じゃあ聞くけどさ。
その『みんな』の中に、開発者や生産者や従業員は入っているのか?
お客さんが喜べば、作った人間は我慢して当たり前なのか。
私は、そんな経営はおかしいと思う。
大谷翔平が1億円しかもらえなかったら?
例えば、大谷翔平選手が素晴らしい成績を残しているとする。
その活躍に応じて高額な報酬を受け取る。
それを見た子どもが、
「あんなにお金をもらえるなら、僕も野球を頑張ってみようかな」
と思ったとする。
何が悪いんだ?
野球が大好きだから頑張る人もいる。
お金持ちになりたいから頑張る人もいる。
有名になりたい人もいる。
自分の才能を試したい人もいる。
動機なんて人それぞれだ。
そこで、大谷選手にこう言ったらどうなるだろう。
「あなたは野球が好きなんでしょう? だから年俸は1億円で我慢してください。残りのお金はみんなに配ります」
それでも野球を続けるかどうかは、本人が決めることだ。
私だったら、そんな条件を押しつけられたら辞めるね。
好きなことだから無報酬でも続けるという人がいても構わない。
だが、その人が無報酬で働いたからといって、ほかの人も無報酬で働くべきだという理屈にはならない。
一度成功したら、次も成功する義務があるのか?
企業が優れた商品を開発した人にボーナスを払う。
それはいいことだ。
だが、そこで経営者が、
「去年成功したんだから、今年も同じくらい成功してくれ」
と要求したらどうだろう。
そんなものは、万馬券を一度当てた人間に、次も万馬券を当てろと言っているようなものだ。
私は、そんな経営をするつもりはない。
一度成功したなら、その成果を評価してボーナスを払う。
次も成功したら、またボーナスを払う。
成功しなくても、通常の仕事をきちんとしているなら、それで構わない。
そもそも、過去の成果への報酬と、未来の成果を保証する義務は別物だ。
一度成功した人が次に失敗しても、以前の成功がなかったことになるわけではない。
これを混同するから、余計なプレッシャーが生まれるんじゃないのか。
頑張る人が逃げていく
努力しても、工夫しても、会社に利益をもたらしても、何も評価されない。
一方、たいして成果を出さなくても、同じような報酬を受け取れる。
もちろん、成果が出ない理由はいろいろある。
能力だけの問題ではないし、健康や環境による制約もあるだろう。
だが、優れた成果を出しても報われない仕組みなら、ほかの企業や国に移ることを考える人が出ても不思議ではない。
研究者だって同じだ。
「社会の役に立てるでしょう」
「名誉が残るでしょう」
「好きな研究ができるだけ幸せでしょう」
そんな言葉だけで、いつまでも優秀な人材を引き留められると思っているのか。
私は思う。
歴史に名前が残ると、お腹が膨れるんですか?
歴史に名前が残ると、旅行できるんですか?
本人が生きている間に、その能力で豊かに暮らせることも大切じゃないのか。
亡くなった後に立派な銅像を建てるくらいなら、生きているうちに正当な報酬を払ってやれよ。
私はそう思う。
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第3章 天才だって人間なんだよ
世の中には、天才が好きな人が大勢いる。
天才の作品を見て感動する。
天才の発明を使って便利な生活を送る。
天才の研究によって助かる人だっている。
ところが、その天才自身を理解しているのかというと、どうも怪しい。
「天才はお金に興味がない」
「天才は孤独を好む」
「天才は苦しんでこそ素晴らしい作品を生み出す」
「天才が自殺するのは、普通の人間とは違うからだ」
おいおい。
全部、お前たちが勝手に決めつけているだけじゃないのか?
天才だって人間だ。
何度も言うけど、人間なんですよ。
お金が欲しい人もいる。
名誉が欲しい人もいる。
友達と楽しく暮らしたい人もいる。
家族と旅行したい人もいる。
研究をやめて、ほかのことをしたくなる人もいる。
そんな当たり前のことが、なぜ理解できないんだろう。
ゴッホだけ見て、天才を理解した気になるな
天才は孤独で、苦しんで、最後には自殺する。
そんなイメージを持っている人もいるらしい。
では、ゴッホを調べたとする。
生前は経済的に苦労し、37歳で亡くなった。
そこで、
「やっぱり天才は苦しむんだな」
と結論づける。
ちょっと待てよ。
じゃあ、ピカソはどうだった?
モネは?
ルノワールは?
みんな同じ人生を送っていたのか?
みんな自殺したのか?
違うだろう。
一人の天才を調べて、天才とはこういうものだと決めつける。
それでは比較研究になっていない。
そもそも、ゴッホがもっと早く経済的に成功し、安定した生活を送れていたら、違う人生になった可能性もある。
もちろん、それだけで自殺を防げたとは断定できない。
だが、だからこそ、何が原因だったのかを調べる必要がある。
「天才だから仕方ない」で、分析を終わらせるなよ。
天才は孤独を好む?
以前、私は学会に参加したことがある。
そこで見た研究者たちは、実に楽しそうだった。
発表する人も、聞いている人も、目を輝かせていた。
「こんな実験をしたんですよ!」
「予想と違う結果が出ましてね!」
「でも、そこからこんな改善方法が考えられるんです!」
研究成果を語るのが、本当に楽しそうだった。
私は、その雰囲気が大好きだった。
数学者のポール・エルデシュも、多くの数学者と共同研究を続けた人物として知られている。
数学を一人で抱え込まず、仲間と問題を考える。
それが楽しい人もいるわけだ。
なのに、天才は孤独を好むと決めつける。
本当にそうなのか?
本人が一人でいたいのか。
周囲に理解してもらえないから、仕方なく一人でいるのか。
その区別すらしていないんじゃないのか。
もちろん、静かな環境を好む人もいる。
でも、静かな環境が好きなことと、仲間がいらないことは違う。
周囲が勝手に距離を置いておきながら、「天才は孤独なんですね」なんて言っていたら、そりゃおかしいだろう。
教える人間の能力も考えろ
学会で、私はもう一つ興味深い経験をした。
大勢の研究者が楽しそうに発表している中、一人だけ、ひどくつまらなそうに発表している人がいた。
声が小さく、聞き取りにくい。
何が面白い研究なのか、私には伝わってこなかった。
もしかしたら、研究内容そのものは面白かったのかもしれない。
だが、聞く側に伝わらなければ、せっかくの研究成果を十分に評価してもらえない。
私は思った。
だったら、プレゼンの仕方を教えてやればいいじゃないか。
発表が下手なら練習すればいい。
説明する順番を工夫すればいい。
必要なら、発表が得意な人に協力してもらってもいい。
研究能力とプレゼン能力は別のものだ。
しかし、研究費を獲得するにも、研究の協力者を集めるにも、成果を伝える力は重要になる。
教育だって同じことだ。
先生が楽しそうに授業をしていれば、生徒も話を聞きたくなることがある。
先生が面倒くさそうに教えていたら、生徒も興味を失いやすい。
何を教えるかだけじゃない。どう教えるかも大切なんだよ。
頭が悪いと決めつける前に、教育方法を変えろ
理解できない人がいる。
計算が苦手な人がいる。
では、それで終わりなのか?
私は違うと思う。
普通の教科書で理解できないなら、漫画にすればいい。
先生の話を聞かない子でも、好きな漫画の登場人物が説明したら聞くかもしれない。
ヤンキー漫画が好きなら、そういう世界観を使って経済学を教えてもいい。
「ファミチキ2枚を買うのと、ファミチキ1枚をインスタントカレーに乗せるのでは、どちらが満足できるか」
そんな身近な問題から、費用対効果を教えたっていいじゃないか。
人によって興味を持つものは違う。
だったら、その興味を利用して知識を身につけられるようにすればいい。
犯罪をした人についても、悪いことをしたと非難するだけではなく、なぜその行動に至ったのかを調べる必要がある。
家庭環境か。教育か。経済的な問題か。
原因を調べれば、予防や改善に役立つ方法が見つかるかもしれない。
それを研究する人間にも、ちゃんと報酬を払えばいい。
世界中に懸賞金を出せ
私は、世界の問題を全部自分一人で解決したいわけじゃない。
そもそも、一人の人間が何もかも解決する必要なんてない。
例えば、フランスに難しい社会問題がある。
イタリアに解決できない経済問題がある。
だったら、世界中に問題を公開すればいいじゃないか。
「この問題を解決する優れたアイデアを募集します。採用された方には1000万円の賞金を支払います」
それでいい。
大学教授でも、学生でも、主婦でも、会社員でも構わない。
学歴や肩書だけで決めず、提案の内容を比較して評価すればいい。
もちろん、採用条件や権利関係、報酬の額は事前に明確にする。
実現可能性も検証する。
そうすれば、問題を解くこと自体を仕事にしようという人も出てくるだろう。
そして、優れた人材が育つかもしれない。
一人の天才だけに依存する社会より、その方がずっと持続可能だと思う。
優秀な研究者に研究を任せ、その成果を楽しみに待つ。
私は、そんな生き方もしてみたい。
だって、他人がどんな答えを出したのか知るのも、私は大好きなんだから。
世界を幸せにすることと、私が豊かになることは矛盾しない
私は、世界中の人間がもっと豊かになればいいと思っている。
日本人だけ、アメリカ人だけ、一部の人だけが豊かになっても、世界全体の問題が解決するわけではない。
貧困、教育格差、紛争。
一つの国だけで完結しない問題はいくらでもある。
だからこそ、国境を越えて知識を共有し、解決方法を考える必要がある。
ただし、そこには持続可能な資金の仕組みも必要だ。
研究者が一生無償で働いてくれることを前提にした制度では、次の研究者が育たないかもしれない。
そして私は、はっきり言っておきたい。
世界中の人間を豊かにしたいと思うことと、私自身が豊かになりたいと思うことは、何も矛盾しない。
私は印税も欲しい。
旅行にも行きたい。
おいしいものも食べたい。
気に入った研究者に投資して、さらにお金を増やしたい。
そして、ほかの人の研究成果を見て驚きながら、悠々自適に暮らしたい。
それの何が悪いんだ?
もちろん、自分が考えたことを発表したというだけで、誰かに無条件の支払い義務が生まれるわけではない。
実際にどのような成果が利用され、どんな利益につながり、誰にどのような権利があるのかは、きちんと検証しなければならない。
だが、貢献が認められ、正当な報酬があるのなら、その取り分は払うべきだ。
「みんなのために我慢しなさい」
「天才なんだから、お金なんかいらないでしょう」
「歴史に名前が残るだけで幸せでしょう」
冗談じゃない。
天才だって人間だ。
研究者だって人間だ。
開発者だって人間だ。
私だって人間なんだよ。
人のためになる仕事をして、その成果によって自分も豊かになる。
そんな当たり前のことを、なぜ否定しなければならないのか。
みんなが幸せになる社会を作りたいなら、その『みんな』の中に、価値を生み出した人間も入れろ。
そして最後に、もう一度言っておこう。
私は、単に「もっと便利にしろ」と言っているわけじゃない。
どうすれば便利になるのか。
費用はいくらかかるのか。
誰が負担するのか。
誰に利益が残るのか。
どうすれば長続きするのか。
そこまで考えた提案と、ただの要求を一緒にするな。
同じ答えを望んでいても、そこに至る計算が違えば、提案の価値も違うんだよ。
そして、成果を出した人間には、きちんと報酬を払え。
その報酬を目指して、次の人間が挑戦する。
さらに新しい価値が生まれる。
そんな社会を作ればいいじゃないか。
たった20円の話から、ずいぶん大きな話になってしまった。
だが、結局は単純なことだ。
「みんなが喜ぶからいい」じゃない。
「その『みんな』に、働いた人間も入っているのか?」
私は、そこを聞いているんだよ。




