第2章 親子だから相性がいいとは限らない――自分に合う人と暮らすという選択
第2章 親子だから相性がいいとは限らない――自分に合う人と暮らすという選択
さて、ここまで身近な人たちの金銭感覚について書いたが、私は別に、その人たちを責めたいわけではない。
むしろ、本当は賢くなってほしいと思っている。
ただ、私はもう、そういう人たちを一人ずつ教育したいとは思わない。
頭が痛くなるからだ。
それぞれの考え方を理解できる専門家がいるなら、その人たちに任せたい。
そして、そんなことを考えているうちに、もう一つの疑問が浮かんだ。
そもそも、人間は自分と考え方の合う人と暮らした方が幸せなのではないか?
同じ言葉を使っていても、話が通じない
私には、話していて非常に楽な相手がいる。
全部説明しなくても、何を言いたいのかわかってくれる。
「ああ、そういうことね」
それだけで話が進む。
一方、何度説明しても話が通じない相手もいる。
こちらが何かを説明すると、相手はそれを自分の都合のいい理屈に置き換えてしまう。
私は、これを天動説と地動説の違いのように感じることがある。
自分を中心に世界が回っていると考える人。
世界には自分以外にも大勢の人がいて、それぞれの事情や利益があると考える人。
見ている世界の構造が違うのだから、話がかみ合わない。
もちろん、これは知能だけで決まる問題ではないだろう。
価値観や経験、育った環境によっても違う。
私は星座や属性という言葉で人の違いを面白がることもあるが、実際に重要なのは、その人が何を考え、どう行動するかである。
私が私の母親だったら
私は時々、考える。
もし、私が私自身の母親だったら、どうだっただろう。
きっと、かなり楽な子供時代だったと思う。
好きなものを買ってもらい、自分の考えを理解してもらい、興味のあることを自由に勉強できただろう。
私自身がどういう子供だったのか、私ならよくわかるからだ。
そして、夫のように比較的話が通じやすい人が父親だったら、もっと暮らしやすかったかもしれない。
しかし、だからといって、私がすべての子供にとって理想の母親だとは限らない。
私とは違う価値観を持つ子供にとっては、私と暮らすことが苦痛になる可能性だってある。
だったら、どうする?
私は、無理に一緒に暮らす必要はないと思う。
自分に都合のいい母親なんて存在しない
私は娘にも、自分で幸せな生き方を選んでほしいと思っている。
仮に、私よりも考え方の合う親族がいて、娘自身がその人と暮らしたいと言うなら、それもいい。
十分な資産があれば、生活を支えてくれる人にきちんと報酬を払う方法だって考えられる。
もちろん、相手が引き受けることも、娘本人が望むことも条件だ。
私は、娘に一つだけ理解してほしい。
自分の希望を何でもかなえてくれる、都合のいい母親なんて、この世には存在しない。
私には私の希望がある。
娘には娘の希望がある。
一緒に暮らす相手にも、その人の希望がある。
相手を替えたところで、その事実は変わらない。
それでも、ほかの人と暮らす方が幸せなら、私はそれを否定しない。
私が母親から価値観を押しつけられて苦しかったのに、今度は私が娘に同じことをする必要はないからだ。
そして、娘の人生を尊重するなら、私自身の人生も尊重されるべきだと思っている。
苦労は買ってでもしろ?
私は、自分の子供たちには、できるだけ無駄な苦労をさせたくなかった。
勉強の好きな子供が、勉強の好きな友達に囲まれる。
難しいことを考える子供が、同じように考える友達と議論できる。
そんな環境で育てたかった。
学力の高い学校なら必ず幸せになれるとは限らない。
でも、能力や興味の合う仲間がいることは、子供にとって大きな助けになると思う。
ところが、世の中には「苦労は買ってでもしろ」と言う人がいる。
私は、これにも疑問がある。
他人が経験した苦労なら、本を読めばいい。
映画を見てもいい。
本人から話を聞いてもいい。
エベレスト登山の過酷さを知るために、全員がエベレストに登る必要があるのか?
そんなわけないだろ。
私は世界旅行をしたい。
それは、自分自身の目で世界を見て、自分なりの発見をしたいからだ。
現地の空気も吸いたいし、その土地でしか得られない楽しみもある。
でも、それは自分で選んだ体験だ。
他人の苦しみを理解するために、同じ苦しみを経験する必要があるという話とは違う。
人間は、他人の経験から学ぶことができる。だからこそ、知識を蓄積して文明を発展させてきたのではないか。
親子の関係も同じだと思う。
親が苦労したから、子供にも同じ苦労をさせる必要はない。
親と子供の考え方が違うなら、無理に同じ考え方を押しつける必要もない。
それぞれが、自分に合った環境で幸せに暮らせればいい。
家族だから必ず一緒に暮らさなければならない、という時代でもないのだから。
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