第2話 バフェットと私が違う答えを出した理由
第2話 バフェットと私が違う答えを出した理由
――才能があるからといって、子孫まで幸福になれるわけじゃない
前回、ウォーレン・バフェットと私の経済理論を比較してみた。
10問中8問は、おおむね似たような答えになった。
ところが、第十問。
莫大な財産を築いたら、その財産をどうするかという問題で、私たちは違う答えを出した。
バフェットは、財産の大部分を慈善活動に使う。
私は、まず自分と家族の取り分を確保する。
では、なぜ違う答えになったのだろう。
最初は、バフェットが私ほど経済的な苦労をしてこなかったからかもしれない、と思った。
ただ、調べてみると、彼にも家庭内で精神的に苦しんだ経験があったという。
伝記には、母親との関係に悩んだ少年時代のことも書かれている。
どうやら、バフェットだって何も苦労せずに育ったわけではないらしい。
だとすれば、単純に苦労の有無だけでは説明できない。
そこで私は、もう一度、自分の家族について考えてみることにした。
優秀な人間が、金持ちになるとは限らない
私の父方の祖父は、非常に優秀な人だったという。
父から聞いた話では、農家を離れて働きながら勉強し、日本大学の経済学部に首席で入学したそうだ。
ところが、大学3年生の頃、共産主義の思想に感銘を受けて大学を中退した。
そして、乾物屋を始めた。
本人がその人生を選んだのなら、それはそれでいい。
しかし、問題はそこで終わらない。
祖父の選択は、次の世代にも影響する。
父は父で、祖父に憧れて同じ日本大学の経済学部へ進んだ。
父にも知的な能力はあったと私は思っている。
しかし、その能力が必ずしも最も適切な場所で活用されたわけではなかった。
もし、父が研究職に就いていたらどうなっていただろう。
仮に母親が同じ人間だったとしても、家庭の環境は変わっていたかもしれない。
大学や研究機関で仕事をしていれば、周囲には研究者や大学教員がいたかもしれない。
私が科学に興味を持ったとき、相談できる人もいたかもしれない。
教育や進学について、今とは違う選択肢を知ることができたかもしれない。
父は、私がお笑い芸人になることを望んでいた。
しかし、私が科学者になりたいと言えば、それはそれで喜んで支援してくれたんじゃないかと思う。
もちろん、これは仮定の話だ。
研究者になれば必ず高収入になるわけではない。
家庭内の問題が解決したとも限らない。
それでも、職業や人間関係が違えば、子供の育つ環境も変わる可能性がある。
つまり、親が自分の能力をどう使うかという問題は、その人一人の人生だけで終わらないのである。
研究バカの子供は大変だ
ここで、私の家系の特徴について説明しておこう。
私から見ると、うちの家系には知的能力の高い人間がいる。
ところが、問題がある。
自分の好きなことや研究には夢中になるくせに、金儲けや財産管理には、あまり関心がない人間がいるのだ。
しかも疑う事が苦手で、直ぐ人に騙される。
困ったものである。
例えば、研究者として優れた能力を持っていたとしよう。
一日中研究室にこもって、ものすごい発見をしたとする。
それは素晴らしい。
しかし、研究に夢中になりすぎて、生活費や契約のことをまともに考えない。
自分の研究成果をどうやって収入に結びつけるかも考えない。
もし日本に住んでいなければ、それでも期待できるくらいの高い能力を持ったとして?研究者に対する清貧思考を強要する、能力の高い研究者には最低な国日本で暮らして居たらどうなるか。
自分の子孫がスーパーの半額の唐揚げに喜んで群がっている映像がクッキリと浮かぶのである。嘆かわしい話しだ
その結果、本人が貧しい暮らしをする。
そこまでは、本人の選択だと言えるかもしれない。
では、その人に子供がいたらどうなるのか。
子供は、親が研究に人生を捧げることを選んだわけではない。
貧乏人の多い地区に能力の極めて高い人間がいたら、どれくらいの苦労をするかわかっているのだが。お偉い立派な日本人様はそのする必要のない苦労すら体験してみろと自分だけ護られた暮らしを与えられながら偉そうな顔で言いやがるのである。
それに、親にお金がないために、進学を諦めたり、好きなことができなかったりするかもしれない。おまけに知能の低い貧乏人に僻まれる。
さらに、その子供が大人になって家庭を持ったらどうなるのか。
次の世代まで同じような苦労をする可能性がある。
私は、そこを問題にしている。
本人が好きな研究をして、勝手に苦労するのは構わない。
しかし、何の責任もない子供や孫まで、その苦労につき合わせるのはどうなんだ。
私は、自分の家族の歴史を見てきたからこそ、そう考える。
子孫の能力を信じていないわけじゃない
バフェットには、子供に何でもできるだけの財産は与えても、何もしなくて済むほどの財産は与えない、という考え方がある。
私は、この言葉が間違っているとは思わない。
ただし、私の家族にそのまま当てはめようとは思わない。
なぜなら、うちの子孫が、みんな金儲けに興味を持つとは限らないからだ。
そもそも、私自身がそうである。
私は問題を解くことが好きだ。
経済の問題も、教育の問題も、医療の問題も、考えること自体は面白い。
しかし、自分のアイデアを売り込むために契約交渉をして、書類を作って、営業をして、お金を回収する。
そういう仕事は、あまり得意ではない。
その一方で、研究成果を読んで驚くことは大好きだ。
優秀な研究者が素晴らしい発見をしたら、私はその成果を楽しみたい。
できることなら、印税で豊かな生活を送りながら、気に入った研究者に投資して、その研究が成功するのを眺めていたい。
なぜ自分が全部やらなければならないのだろう。
研究が得意な人には研究をやらせればいい。
経営が得意な人には経営を任せればいい。
財産管理が得意な人には財産を管理してもらえばいい。
それぞれが得意なことをすればいいのである。
ところが世の中には、研究者にも経営者のような能力を求める人がいる。
頭がいいなら、お金の管理くらいできるだろう。
大学を出ているなら、契約くらい理解できるだろう。
そんなふうに考える。
馬鹿を言うんじゃない。
頭がいいことと、お金を稼ぐのがうまいことは別の能力だ。
私が子孫のために財産を残したいのは、その子たちの能力が低いと思っているからではない。
得意なことと苦手なことが違うと考えているからだ。
そして、苦手なことがあるために、その人の子供まで不幸になるのを防ぎたいのである。
清貧は美徳? ふざけるな
私は、日本で暮らしてきた。
日本人ではないけれど、日本という社会の中で長く生活してきた。
そこで、何度も耳にしてきた価値観がある。
「清貧は美徳」
というやつだ。
質素に暮らすことを本人が望んでいるのなら、別にいい。
金持ちになりたくない人だっているだろう。
立派な研究をしながら、最低限の生活ができれば十分だと考える人もいるだろう。
それは、その人の自由だ。
しかし、生活に困っている人にまで、清貧を美徳として押しつけるのはおかしい。
私自身、十分な報酬を得られないことに苦しんできた。
月に数万円という収入の中で働き、生活し、子供を育てることの大変さを知っている。
そのうえ、自分の考えや仕事を正当に評価してもらえないと感じてきた。
夫からは、
「君の考えなんか理解したいとは思わない」
と言われたこともある。
理解できないのと、理解しようとしないのとでは、話が違う。
理解しようとしない人間に、いくら説明しても始まらない。
そんな環境で生活してきた私に向かって、
「お金なんかなくても幸せでしょう」
と言われても、納得できるわけがない。
お金があれば、子供にもっと教育を受けさせることができたかもしれない。
住む場所を変えることもできたかもしれない。
家庭教師や専門家の力を借りることもできたかもしれない。
自分だって、もっと本を読んで、旅行をして、好きな仕事をする時間を確保できたかもしれない。
私は、お金があればすべての問題が解決すると言っているわけではない。
しかし、お金がないために解決できない問題が存在することも事実だ。
それを無視して、貧しく暮らすことを美徳にされても困る。
だったら、まずお前が自分の財産を全部差し出して、清貧を実践してみたらどうだ。
他人にだけ要求するな。
財産を残すことは、甘やかすことなのか
私は、子供や孫に無制限にお金を使わせたいわけではない。
財産を残すなら、管理する仕組みも必要だと思っている。
本人が財産管理に向いていないなら、専門家に任せればいい。お偉い日本人様は高額な稼ぎが有っても財産の管理を一人の会計士に任せきりにし何億もの金を横領される為、財産の管理は自分ですべきだと言う。
だったら財産の管理スタッフを3人にして、トリプルチェックのシステムにすればいいのに。3人分の会計士を雇うのは勿体無いから全部自分で管理したいらしい。
素晴らしい倹約とコストパフォーマンス意識だな。
生活費、教育費、医療費など、必要な資金を確保する。
研究をしたければ、その研究を評価できる人間に相談すればいい。
事業を始めたければ、計画の実現可能性を調べればいい。
ただし、本人が研究に熱中してお金を稼げなかったからといって、その子供まで生活に困るような制度にはしたくない。
親が失敗しても、子供には別の道がある。
親が貧しくても、子供は教育を受けられる。
親が財産管理を苦手としていても、子供の生活基盤まで失われることはない。
私は、そういう仕組みを作りたいのである。
仮に2兆円の財産を築いたなら、5,000億円を家族のために確保するという構想も、そこから来ている。
もちろん、5,000億円というのは途方もない金額だ。
普通の家庭なら、何世代にもわたって使い切れないだろう。
だからこそ、ただ預金口座に入れておくだけではなく、専門家を交えた管理制度が必要になる。
残りの1兆5,000億円は、社会に役立つ人材の支援に使いたい。
優秀な研究者が研究を続けられるようにする。
芸術家が創作を続けられるようにする。
能力があるのに経済的な事情で活動を諦めなくて済むようにする。
しかも、可能なら100年、200年と続く制度にしたい。
もっとも、永続的に運営するためには、資産運用や支出の管理を厳密に考えなければならない。
設立しただけで永遠に続くわけではないからだ。
ここでも、得意な専門家の力を借りればいい。
バフェットと私の違い
では、バフェットと私では、何が違うのだろう。
バフェットは、財産を子供に与えすぎることの問題を考えている。
私は、財産を十分に確保しなかったために、子供や孫が苦労する問題を考えている。
もちろん、バフェットも家族の生活を無視しているわけではない。
実際、子供たちは彼の慈善事業で重要な役割を担っている。
彼は彼なりに、子供たちの能力や人生を考えてきたのだろう。
一方、私は自分の家族の歴史を見てきた。
祖父の人生が父に影響し、父の人生が私に影響した。
そして、私の人生も子供たちに影響している。
それを考えると、子孫が自力で財産を築ける人間に育つことだけを期待するわけにはいかない。
研究が好きな子が生まれるかもしれない。
芸術に夢中になる子が生まれるかもしれない。
お金の管理にはまったく興味のない子が生まれるかもしれない。
だからといって、その子たちの人生が不幸である必要はない。
まして、その子供や孫まで貧しい暮らしをする必要はない。
私は、そこで負の連鎖を断ち切りたい。
結局、バフェットと私の考え方に違いが出たのは、二人が違う環境で生きてきたからなのかもしれない。
投資の問題では、似たような結論にたどり着く。
しかし、財産を使って何を守りたいのかという問題では、それまでの人生経験が答えに現れる。
そう考えると、10問中8問が似ていたことよりも、最後の1問が違ったことのほうが、ずっと興味深い。
ウォーレン君、君とは一度話してみたい
さて。
今回の比較で、ウォーレン・バフェットと私は違う人間だということがわかった。
当たり前である。
年齢も違えば、国も違う。
資産も違えば、仕事も違う。
生きてきた環境だって違う。
ただ、それでも私は不思議に思う。
あれだけ違う人生を歩んできた二人が、なぜ経済について似たような答えを出したのだろう。
同じ問題を、似た方法で考えているからだろうか。
それとも、経済の仕組みを突き詰めていくと、自然に似た結論になるのだろうか。
その理由を考えるのも面白そうである。
ウォーレン君。
私は、君の本を読んでいない。
それなのに、君と似たような答えを出していたらしい。
もしかすると、私たちは同じような頭の使い方をする人間なのかもしれないね。
まあ、君は億万長者で、私はそうじゃない。
そこが最大の違いなんだけど。
だからさ。
ウォーレン君。
同じようなことを考えているんだから、私にももうちょっとお金が入ってきてもいいと思わないかい。
私もそろそろ、好きな本を読んで、旅行をして、研究者の発見に驚くだけの生活をしてみたいんだよ。
そして、私の子供や孫には、そんな暮らしを選べる自由を残してやりたい。
それが、私の考える財産の使い道なのである。
才能を持った人間が貧しく暮らすことを、勝手に美徳にするな。
その才能のために、子供や孫まで苦労させるな。
私は、まずそこから変えたいと思っている。
勿論、自分の子孫が一生に10億以上の金を使わないように遺書に残すし、何か特別な事情が有るのなら50億まで使えるようにするけど。その40億はきちんと返納する事を決まりにするかもね。




