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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!ゲームと脳科学 楽しい経済学 切り裂きジャックと孤独  作者: ヘタレパンダ


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徳を語る糞ども

徳を積めるから安く働け?――他人の自己犠牲を無責任に美化するな!


世の中には、実際に仕事をしている人間に向かって、


「素晴らしいお仕事ですね」


「人の役に立てて幸せですね」


「徳を積めますよ」


などと言う人がいる。


私は、こういう言葉が大嫌いである。


もちろん、本当に相手の仕事に感謝して言っているのなら、まだわかる。※そんな奴存在しない。感謝するなら自分でやるでしょ。


しかし、問題なのは、他人をただで使ったり、安い給料で働かせたりするために、こうした言葉を利用する人間がいることだ。


「人の役に立っているんだから、お金なんて安くてもいいでしょう」


「社会貢献できて幸せでしょう」


「やりがいがあるんだから、贅沢を言ってはいけません」


冗談じゃない!


そんなに素晴らしい仕事だと思うのなら、お前がやってみろ。


他人に自己犠牲を要求する前に、自分で同じことをやってみたらどうなのだろう。


他人のうんこを取ることが、そんなに楽しいのか?


例えば、介護士の仕事である。


紙おむつを交換する。


排泄物を処理する。


身体を拭く。


お風呂に入れる。


頭を洗う。


食事の介助をする。


こうした仕事をしている人がいる。


そして世の中には、こういう仕事について、


「とてもやりがいのある、素晴らしい仕事です」


などと言う人がいる。


私は聞きたい。


他人のうんこを取ることが、そんなに楽しいのか?


他人のおしめを交換することが、そんなにうれしいのか?


他人の排泄物を処理するのが好きで好きでたまらないなんて、スカトロマニアじゃあるまいし。


私が言っているのは、仕事全体に責任感を持つことではない。


排泄物を処理するという作業そのものの話である。


介護士だって人間だ。


臭いものは臭い。


汚いものは汚い。


不快なものは不快だろう。


それでも、相手を傷つけないように嫌な顔をせず、一生懸命に仕事をしている。


仕事だから。


生活のためにお金が必要だから。


自分がやらなければ相手が困るから。


そうやって、自分の感情を押し殺して働いている人もいる。


それなのに、周囲の人間が勝手に、


「やりがいのある素晴らしい仕事」


などと美化する。


一体、誰の立場に立って言っているのだろう。


私は、こうした仕事で一番犠牲にしているものの一つは、働いている人間のプライドではないかと思っている。


嫌だと思っても顔に出せない。


理不尽なことを言われても我慢する。


相手の機嫌を損ねないように振る舞う。


自分の気持ちを押し殺して、相手の快適さを優先する。


暴力暴言を吐かれてもやり返してはいけない。


それが仕事だと言われれば、それまでかもしれない。


しかし、だからといって、働いている人間の心まで無視していいわけではない。


介助される人間に尊厳があるのなら、介助する人間にも尊厳がある。


そんな当たり前のことが、どうしてわからないのだろう。


月120万円の介助費用。本当に必要なのか?


私が特に疑問に思っているのは、身体障害者への公的な介助費用の使い方である。


例えば、必要な介助が月60万円で十分にできるとする。


それなのに、本人の要求によって月120万円も使うことになったら、どうだろう。


差額は月60万円。


年間720万円である。


もちろん、必要な介助にはお金を使えばいい。


身体が不自由で、自分ではどうしてもできないことがあるなら、手助けが必要なのはわかる。


しかし、私が問題にしているのは、必要な介助を超えて、本人のわがままな要求によって費用が膨らんでいるような場合である。


その追加費用は、本当に必要なのか。


その要求は、介助する人間の負担を考えたものなのか。


そこまでしてもらうことが、本当に当然なのだろうか。


私は以前から、そういうことを考えている。


もし月120万円の介助を受けたいという人がいて、その費用を親や配偶者が納得して自分のお金で支払っているなら、私は別に文句を言うつもりはない。


家族のお金で、家族が納得しているのなら、それはその人たちの判断である。


しかし、国民が納めた税金や保険料を使うとなれば、話は違う。


そのお金は、誰かが働いて稼いだお金である。


その人自身も、本当は旅行に行きたかったかもしれない。


家族においしいものを食べさせたかったかもしれない。


欲しいものを我慢しているかもしれない。


それなのに、ほかの誰かの過剰な要求のためにお金が使われるとしたら、納得できない人がいても不思議ではないだろう。


しかも、月120万円でも足りない、150万円欲しいなどと要求されたら、私は聞きたくなる。


「その追加のお金は何のために必要なんですか? 誰がその費用を負担するんですか?」


障害があるという理由だけで、あらゆる要求が正当化されるわけではない。


そして、支援が必要であることと、他人にどんな態度を取ってもいいことは、まったく別の問題である。


介助を受ける側は、介助する人のことを考えているのか?


例えば、毎日介護士を呼びつけ、好き勝手なことを要求し、気に入らなければ罵倒する人間がいたとする。


相手は仕事だから我慢している。


怒鳴り返すこともできない。


不快な顔をすることもできない。


そして、何かあれば「障害者に対する差別だ」と騒ぐ。


もしそんな人間がいたら、私は言いたい。


「あなた、自分の世話をしてくれている人の気持ちを、一度でも考えたことがありますか?」


介護士にだって家族がいる。


仕事が終われば、家に帰って休みたい。


好きな映画を観たい。


旅行にも行きたい。


おいしいものも食べたい。


もっと給料だって欲しいだろう。


介助を受ける側の快適さばかり考えて、介助する人の苦労や生活を考えない。


それでいて、自分の権利ばかり主張する。


それは、障害があるかどうかとは関係なく、他人に対する態度の問題だと思う。


私は、障害があること自体を批判しているのではない。


身体が動かなくても、学ぶことはできる人がいる。


本を読むことも、知識を身につけることも、自分なりに社会と関わることもできる人がいる。


もちろん障害の程度によって、できることは違う。


しかし、できることがあるのなら、自分を支えている社会について少しは考えてみてもいいのではないだろうか。


新聞を読んだり、介護制度について勉強したり、介護士の給料や労働環境を調べたり。


自分が受けているサービスにいくらかかっているのか、知ろうとすることだってできる。


少なくとも、自分の要求が他人にどんな負担を与えるのか、考えられる人であってほしい。


私は、自分が他人に介助される立場になったら、できることなら早く機械の身体にしてほしいと思う。


人に何もかもやってもらうより、自分で自由に動きたいからである。


もちろん今の技術では、そんな身体を簡単に手に入れることはできない。


しかし、排泄介助や入浴介助、移乗などを補助する機械を開発することはできる。


だったら、そういう研究にもっとお金を使ってもいいんじゃないだろうか。


介助を受ける人の自由も増える。


介助する人の負担も減る。


長期的には、人件費や社会保障費を減らせる可能性だってある。


私は、そういう方向に知恵とお金を使う方が建設的だと思っている。


私は時給460円で働いていた


ここで、私自身の話をしよう。


私は以前、作業所でトイレ掃除をしていた。


時給換算で460円。


週3日働いて、月に約2万円である。


別に好きでやっていたわけではない。


仕方がないからやっていた。


お金が必要だったからである。


私はその仕事をしていて、何度も考えた。


なぜ私は、こんな低い工賃で嫌な作業をしなければならないのだろう。


私には、ほかにやりたいことがある。


小説も書きたい。


エッセイも書きたい。


自分の知識や発想を使って、お金を稼ぎたい。


旅行にも行きたい。


世界中を見て回りたい。


ところが現実には、エッセイを書いても年間の収入は500円ほど。


書いていることと、それによって収入を得られることは別なのである。


そんな中、夫の秀樹からは仕事を続けろと言われた。


そして、こんなことまで言われた。


「お前にはそういう仕事しかできない。存在価値がそれしかないから460円で使われているんだ。諦めろ」


私は思った。


ふざけるな。


時給460円の仕事をしているからといって、私という人間の能力が460円分しかないということになるのか。


仕事の報酬と、人間の能力と、人間の存在価値は、それぞれ違うものではないのか。


そもそも、私が問題にしているのは、そんな仕事をしなければ自分の自由になるお金を十分に得られない状況に追い込まれていることなのだ。


そのうえ「諦めろ」と言われる。


自分の夢も、希望も、将来の可能性も諦めろと言われる。


だったら、私は何を楽しみに生きていけばいいのだろう。


仕事にやりがいがあるかどうか以前に、人間には自分が望む人生を生きる権利がある。


それを無視して、ひたすら我慢しろと言われても納得できないのである。


徳を積める? だったらお前がやれ!


私は、人に奉仕すること自体が悪いと言っているのではない。


自分が納得して、自分の意思で誰かを助けるのはいいことだと思う。


しかし、他人が勝手に、


「あなたは徳を積んでいるんですよ」


などと言うのは、まったく別の話である。


それを言うことで、何が変わるのだろう。


給料が増えるのか。


労働時間が短くなるのか。


嫌な作業を機械が代わってくれるのか。


生活が豊かになるのか。


何も変わらないではないか。


それどころか、本人が苦痛を訴えたり、報酬の改善を要求したりすれば、


「そんなことを言うなんて、奉仕の精神が足りませんね」


などと言われるかもしれない。


おかしいだろう。


他人を安く使うために、徳だの奉仕だのという言葉を利用するな。


本当に素晴らしい仕事だと思うなら、その仕事に見合う給料を払ってほしい。


そして、仕事をしている人が嫌だと言っているなら、その負担を軽くする方法を考えてほしい。


機械化できるなら機械化する。


人員が足りないなら増やす。


給料が安いなら改善する。


そうやって、現実の問題を解決すればいい。


それをせずに、精神論だけで人を働かせようとする。


私は、それを無責任な美化だと思っている。


幸福を望まなければ幸福になれる?


世の中には、


「幸福を望まなければ幸福になれる」


などと言う人もいる。


私は、この考え方にも疑問がある。


そもそも、幸せになりたいと思うことの何が悪いのだろう。


もっと豊かな暮らしがしたい。


好きな仕事をしたい。


自分の能力を発揮したい。


正当な報酬を受け取りたい。


旅行に行きたい。


おいしいものを食べたい。


それらを望むことが、なぜ悪いのだろう。


私は、幸福になるために目標を立て、その目標に向かって問題を解決していくことにも幸福があると思っている。


目標を達成すれば、もちろんうれしい。


達成できなかったとしても、そこまで努力したという事実に達成感を覚えることもある。


それなのに、


「望まなければ苦しまない」


「今の暮らしに満足しなさい」


「贅沢を考えるから不幸になる」


などと言われたら、どうだろう。


だったら、私は目標を持って生きることすらできないではないか。


そもそも、人間は問題を解決することによって、生活を改善してきたのではないのか。


病気があれば治療方法を考える。


移動が不便なら乗り物を開発する。


家事が大変なら家電製品を作る。


人間は、もっと便利に、もっと快適に、もっと幸福に暮らそうとして技術を発展させてきた。


それなのに、他人が幸福になろうとすると、


「贅沢だ」


「わがままだ」


「我慢しろ」


と言う。


だったら、何のために社会を発展させてきたのだろう。


私は以前、『若草物語』についても考えたことがある。


貧しい人々に施しをし、慎ましく生活することを美徳とする価値観である。


もちろん、当時は今ほど社会保障制度が整っていなかった。


貧しい人を助けるために、裕福な人が施しをすることには意味があったと思う。


しかし、施しをして、その日だけお腹いっぱい食べられたとしても、翌日にはまたお腹がすく。


では、その奉仕はいつ終わるのだろう。


毎日毎日、自分の取り分を我慢して他人に分け与える。


それで貧困が解決するのならまだわかる。


しかし、何年たっても同じ状態が続くのなら、別の方法を考える必要があるのではないだろうか。


私は、一時的に助けることだけではなく、問題の原因そのものを解決したいのである。


我慢していることと、幸福であることは違う。


自分は幸福だと思い込むことで、苦しい現実を見ないようにしている人もいるかもしれない。


だから、幸福かどうかを調査するときにも、本人の自己申告だけでなく、実際の生活や抱えている問題を調べる必要があると思っている。


社会に貢献する人間は、いつ報われるのか?


医師、教師、介護士、研究者、清掃員。


世の中には、いろいろな仕事がある。


そして、実際に人の役に立つ仕事をしている人たちがいる。


私は、そうした人たちが十分な報酬を受け取れる社会になってほしいと思っている。


ところが、一生懸命働いても生活が豊かにならない人がいる。


研究しても収入が得られない人がいる。


創作しても、十分なお金を得られない人がいる。


その一方で、公的なお金が本当に必要な範囲を超えて使われているとしたら、どうだろう。


私は、国のお金の使い方を見直した方がいいと思う。


例えば、月120万円の介助費用が必要だと言われていても、実際には月60万円で同等の介助ができるなら、差額の60万円を別の用途に使える。


月60万円なら、月5万円の生活改善費を12人に支給できる金額である。


その12人が旅行をしたり、勉強したり、新しい仕事を始めたりすることも考えられる。


あるいは、介護ロボットの開発に投資する方法もある。


研究者に資金を提供して、新しい技術を生み出してもらうこともできる。


もちろん、投資が必ず成功するわけではない。


だからこそ、実際の成果を調べればいい。


どれくらい費用がかかったのか。


どれくらいの人が助かったのか。


どれくらい生活が改善したのか。


さらに改善する方法はないのか。


それを比較して、よりよい方法を選べばいいと思う。


私は、障害のある人が支援を受けること自体を否定しているのではない。


必要な支援は必要な支援として考える。


ただし、本人の要求による追加費用まで無条件に公費で負担すべきかどうかは、別に検討する必要がある。


限られたお金をどう使えば、より多くの問題を解決できるのか。


それを考えることが、政治や行政の重要な仕事ではないのだろうか。


能力を発揮した人が報われず、働く意欲を失うような社会では、新しい成果も生まれにくくなる。


優秀な人材が海外に機会を求めたり、仕事を諦めたりすることもあるだろう。


私は、そういう損失も考える必要があると思っている。


もし、この問題を映画にしたら?


ここからは、私が考えた架空の物語である。


題材は、介助を受ける人間と、介助する人間。


そして、無責任な奉仕の美化である。


短編小説『徳を積む人々』


その女性は、毎朝決まった時間に介護士を呼びつけた。


「遅い!」


介護士が部屋に入ると、女性は不機嫌そうに怒鳴った。


「いつまで待たせるのよ! あんたたち、それが仕事でしょう!」


「申し訳ありません」


介護士は頭を下げた。


女性には重い身体障害があり、日常生活の多くに介助が必要だった。


彼女の介助には、多額の公費が使われていた。


だが、女性はそんなことには関心がなかった。


「もっと丁寧にやってよ!」


「そんなの嫌!」


「こっちの言うことを聞きなさいよ!」


介護士たちは何度も謝った。


嫌な顔をすることもできない。


反論すれば苦情を入れられる。


施設の管理者からも、こう言われていた。


「相手は障害者なんだから、優しくしてあげなさい」


「皆さんは徳を積んでいるんですよ」


「人のために働けるなんて、素晴らしいことじゃありませんか」


介護士の一人が、小さな声でつぶやいた。


「だったら、あなたが代わってくださいよ」


管理者は聞こえないふりをした。


その夜。


介護士たちは休憩室に集まっていた。


「今日も怒鳴られた」


「私なんか、何をやっても気に入らないって言われる」


「辞めたいなあ」


「でも辞めたら生活できないしね」


誰かが乾いた笑い声を上げた。


そして、また翌日が来た。


女性の怒鳴り声が響く。


「早くしなさいよ!」


「何やってんの!」


「この役立たず!」


介護士たちは、いつもどおり頭を下げた。


ところが、ある朝。


女性が部屋で死亡しているのが発見された。


当初は突然死と思われた。


しかし、詳しい調査によって、血管内に空気が混入したことによる不審死だと判明する。


警察は殺人事件として捜査を始めた。


施設の職員たちは事情聴取を受けた。


そして、ついに容疑者が逮捕された。


報道陣が集まる。


「どうして、こんな事件が起きたのでしょうか?」


施設の管理者は答えた。


「私たちは、利用者の皆さんを大切にしてきました。職員にも奉仕の精神を教えてきたのですが……」


その言葉を聞いていた介護士の一人が、静かにつぶやいた。


「奉仕の精神、ねえ……」


事件は全国ニュースになった。


亡くなった女性の障害について報じる番組もあった。


犯人への批判も相次いだ。


殺人は許されない。


それは当然である。


しかし、事件の背景を取材していた記者は、ある疑問を持った。


施設では、以前から職員が何度も相談していたという。


過剰な要求。


繰り返される罵倒。


介助する側の精神的負担。


管理者は、それを知りながら何をしていたのか。


記者が尋ねる。


「職員の皆さんから、改善を求める声はありませんでしたか?」


管理者は答えた。


「介護というのは、忍耐が必要な仕事ですから」


「では、職員の忍耐に頼る以外に、何か対策をしましたか?」


管理者は黙った。


記者はさらに尋ねた。


「あなた自身は、実際にどのくらい介助の仕事をされていたんですか?」


管理者は答えなかった。


その日のニュースの最後に、記者はこう問いかけた。


「私たちは、介助を受ける人の尊厳を守ることを考えてきました。しかし、介助する人の尊厳については、どれだけ考えてきたのでしょうか」


画面が暗くなった。


――終わり。


これはもちろんフィクションである。


介護士が殺人を犯してもいいという話ではない。


殺人によって、問題が解決するわけでもない。


しかし、人間を追い詰めるような環境を放置しておきながら、何か問題が起きたときだけ「なぜこんなことに」と騒ぐ。


そんな社会の無責任さを、私は物語にしてみたいと思ったのである。


人間に我慢を強いる前に、問題を解決しろ


私は、人間が他人のために何かをすること自体を否定しているのではない。


人の役に立つことには喜びもある。


ただし、その喜びを他人が勝手に決めるなと言っているのだ。


本人が嫌だと思っていることを、


「素晴らしい仕事です」


「徳を積めます」


「あなたは幸せです」


などと美化するな。


そして、その言葉を利用して、安い給料で働かせたり、過剰な要求を受け入れさせたりするな。


本当に相手のことを考えているのなら、まず現実を見てほしい。


給料はいくらなのか。


どんな負担があるのか。


何を我慢しているのか。


本人は本当は何をしたいのか。


改善できるところはないのか。


そうした問題を一つずつ解決すればいい。


そして、介助を受ける人間も、介助する人間も、どちらも一人の人間である。


片方だけが何でも要求できて、もう片方が何でも我慢しなければならないというのは、おかしい。


私自身も、もう十分に我慢してきた。


人の役に立つことに達成感を覚えたとしても、十分な報酬が欲しい。


自分の好きな仕事をしたい。


旅行にも行きたい。


世界中を見て回りたい。


自分の知恵を使って、もっと豊かな暮らしを実現したい。


それを、贅沢だとか、わがままだとか言われたくない。


幸福を望むことは、悪いことではない。


そして、人間が幸福になるために努力することも、悪いことではない。


むしろ、自分の望む幸福に近づけるよう、現実の問題を解決していくことに意味があるのだと思う。


最後に、もう一度言いたい。


他人をただで使うために、あるいは安く働かせるために、「徳を積める素晴らしい仕事ですよ」なんて言うのはやめてください。


本当にその仕事が素晴らしいと思うのなら、まず働いている人の苦労を理解して、正当な報酬を払ってほしい。


そして、その仕事が少しでも楽になる方法を考えてほしい。


他人の自己犠牲を無責任に美化することと、他人を本当に幸福にすることは、まったく違うのだから。

この傲慢な障害者は、異世界日本化計画に書き直して載せようと思います。

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