一人暮らしは自立なのか?
一人暮らしは自立なのか?
――モラトリアムという決めつけの現実
私は昔、海外のマスコミから取材を申し込まれたことがある。
確か25年くらい前だったと思う。
ドイツだったか、別の国だったか、そこはもうよく覚えていない。
「日本では親と同居している、モラトリアムな人たちがいるそうですね。そのことについて意見を聞かせてください」
確か、そんな内容だった。
私はその質問を聞いて、呆れてしまった。
ちょっと待て。
親と一緒に暮らしていると、モラトリアムなのか?
じゃあ、一人暮らしをしていればモラトリアムではないのか?
一体誰がそんなことを決めたんだ?
私はその取材者を叱りつけた。
そもそも、取材する前から答えを決めつけているではないか。
親と暮らしている人が、どんな生活をしているのか。
家にいくらお金を入れているのか。
家事をしているのか。
親の面倒を見ているのか。
そういうことを調べもしないで、親と同居しているから自立していないと決めつける。
それは取材ではなく、先入観の確認作業ではないのか?
一人暮らしをしていれば偉いのか?
例えば、親と一緒に暮らしながら働いている人がいる。
自分で給料を稼ぎ、税金を払い、家計にもお金を入れている。
一方で、一人暮らしをしているけれど、生活費の大部分を親から仕送りしてもらっている人もいる。
さて、どちらが自立しているのだろう?
一人暮らしをしている方か?
それとも、自分で働いて生活費を負担している方か?
そもそも、自立という言葉にはいくつもの意味がある。
経済的自立。
生活能力としての自立。
精神的自立。
自分の人生を自分で決めるという意味での自立。
それなのに、住んでいる家が親と同じかどうかだけで判断する。
ずいぶん乱暴な話ではないか。
親と一緒に暮らしているからといって、親に依存しているとは限らない。
むしろ、親子で協力し合って生活している場合もある。
親が高齢になれば、子供が介護することもある。
親が料理を作り、子供が働いて生活費を出すこともある。
それのどこがいけないのだろう?
一人暮らしの費用を計算してみろ
私は、こういう議論を聞くたびに思う。
お前たち、ちゃんと計算しているのか?
例えば、4人家族が一つの家に暮らしている場合と、4人が別々に一人暮らしをする場合。
どちらがお金がかかるだろう?
家賃を考えてみよう。
仮に4人で暮らす家の家賃が月12万円だったとする。
一人当たり3万円だ。
ところが、一人暮らしの家賃が月6万円なら、4人で24万円になる。
毎月12万円の差。
年間144万円だ。
もちろん、地域や住宅の広さによって金額は変わる。
しかし、住宅を共同利用することで費用を分担できるのは事実だ。
次に光熱費。
4人が一つの部屋で過ごしていれば、エアコン1台で冷暖房できる。
ところが4人が別々の家に住めば、それぞれの家にエアコンが必要になる。
設置費用もかかる。
電気代もかかる。
冷蔵庫も洗濯機も、それぞれ必要になる。
電気やガスの基本料金だって別々に発生する。
もちろん単純にすべて4倍になるわけではない。
でも、共同生活なら共有できた費用が、一人暮らしでは個別に必要になるのだ。
それから食費。
4人分の料理を一度に作るのと、一人分の料理を4か所で別々に作るのでは、どうだろう?
まとめ買いができる。
食材を使い切りやすい。
調理にかかる時間やエネルギーも節約できる。
こういうことを全部計算したら、一人暮らしを4世帯維持することには、それなりの追加費用がかかると分かるはずだ。
それなのに、
「親と暮らしているなんてダサい」
「一人暮らしをしてこそ自立だ」
などと言う。
だったら、その自立とやらにいくらお金がかかるのか、まず計算してみろよ。
ただいま、と言ったら
そして、共同生活にはお金だけでは測れない価値もある。
例えば、仕事で疲れて家に帰ってきたとする。
一人暮らしなら、真っ暗な部屋に帰って、自分で電気をつける。
「ただいま」
そう言っても、誰も返事をしない。
疲れたなと思っても、晩ご飯は自分で用意しなければならない。
買い物に行く。
料理を作る。
食べ終わったら片づける。
疲れているから面倒くさい。
だったらカップ麺でいいか。
そんな生活になることもあるだろう。
もちろん、カップ麺そのものが悪いわけではない。
しかし、そればかり食べていて栄養が偏らないのか?
健康に問題はないのか?
そういうことまで考えた方がいい。
一方、家族と暮らしていたらどうだろう?
「ただいま」
「おかえり」
返事がある。
「疲れた」
「ご飯できてるよ」
そんな日もある。
ちなみに、うちの夫の秀樹が結婚して一番良かったと思うことは、家に帰ると料理が勝手に出てくることらしい。
勝手に出てくるわけねえだろ!
私が作ってるんだよ!
まあ、本人はそれがとてもありがたいらしい。
だったら、結婚して料理を作ってもらっている秀樹は、自立していないのだろうか?
夫婦で助け合うのは自立。
親子で助け合うのはモラトリアム。
そんな理屈があるのか?
家に電気がついているという幸福
私が共同生活で特に大切だと思うのは、家に帰ったときに電気がついていることだ。
これは単に照明の話ではない。
家に誰かがいる。
人が暮らしている気配がする。
台所から料理の匂いがする。
テレビの音が聞こえる。
誰かが歩いている。
自分が帰ってくる前から、そこには生活がある。
そして、何より大切なのは、そこにいるのが信頼できる人たちだということだ。
信じていい仲間の気配がする。
これがどれほど安心できることか。
もちろん、一人暮らしが好きな人もいるだろう。
自分だけの時間が欲しい人もいる。
家庭環境が悪く、家族と離れて暮らした方が幸せな人もいる。
それはそれでいい。
でも、だからといって、誰かと暮らすことを未熟だとか、恥ずかしいことだとか決めつける必要があるのだろうか?
介護制度でも同じ問題がある
そして、この一人暮らしと自立の問題は、現在の介護制度にもつながっている。
私は最近、Xで介護士の人の訴えを見た。
介護現場では、人手も予算も限られている。
一方で、重い障害や介護の必要がある人が、一人暮らしを続けるために24時間の支援を求める場合もある。
もちろん、本人が望む生活を尊重することは大切だ。
しかし、その生活を実現するために、一体いくらかかるのか?
例えば、一人の利用者に24時間、常に介護士が付き添うとする。
一人の介護士が24時間365日働けるわけではない。
交代要員が必要だ。
休日も必要だ。
夜勤もある。
移動時間もある。
人件費はいくらになるのだろう?
一方、複数の利用者がグループホームなどで共同生活していれば、職員や設備を共有できる場合がある。
5人、10人を一人で常時介護できるという意味ではない。
必要な介護の程度によっては、個別の職員が必要になることもある。
しかし、設備や見守り体制を共同利用できるなら、費用を減らせる可能性がある。
だったら、まず比較してみればいい。
一人暮らしを維持する場合。
共同生活をする場合。
施設に入所する場合。
それぞれ必要な人員、費用、安全性、生活の質を調べる。
なぜ、そこをきちんと比較しないのだろう?
介護ロボットは明日完成するのか?
将来、優秀な介護ロボットができれば、話は変わるかもしれない。
服薬管理。
食事の介助。
移動の補助。
転倒したときの対応。
夜間の見守り。
そうした仕事をロボットが安全にできるようになれば、人間の介護士の負担を大幅に減らせる可能性がある。
でも、そのロボットは明日完成するのか?
来年なのか?
10年後なのか?
それとも何十年も先なのか?
今の技術で何ができるのか、きちんと調べる必要がある。
それに、本来なら開発費も計算に入れなければならない。
研究者や技術者が無給で働いてくれるわけではないのだから。
将来できるかもしれないという理想を、今すぐ使える解決策と同じように扱ってはいけない。
3万円を惜しんで20万円を失うな
私は何も、介護にお金を使うなと言っているわけではない。
むしろ必要なところには使うべきだと思っている。
例えば、3万円の設備を導入することで、確実に20万円の損失を防げるとする。
だったら3万円を払った方がいい。
17万円の節約になる。
もちろん、実際にはその設備で損失を防げる確率や、維持費まで計算しなければならない。
でも、考え方は単純だ。
お金をかけないということは、ゼロ円で済ませることではない。
必要な費用をかけて、最終的な支出を減らすことだ。
服薬管理だって、全員に毎日職員が付き添う必要があるとは限らない。
自分で薬を飲める人なら、服薬記録のボタンや見守りシステムを利用する方法もある。
記録がなければ確認する。
必要な人には直接介助する。
そうすれば、人間が対応しなければならない場面に、職員の時間を集中できる。
ただし、本人の状態によっては直接確認が不可欠な場合もある。
だからこそ、一律ではなく、必要な支援を見極めるのだ。
権利を主張するなら、費用も考えてほしい
「私は一人暮らしをする権利がある」
そう言う人がいる。
もちろん、障害のある人にも自分の生活を選ぶ権利がある。
そして、公的支援を受けながら自分で生活を決めることも、自立の一つの形ではある。
でも、そこで話を終わらせてはいけないと思う。
その権利を実現するために、誰が働くのか。
誰が費用を負担するのか。
その支援を10年、20年と続けられるのか。
それも考えなければならない。
支援を受ける人の希望だけでなく、支援する介護士の労働環境も考える必要がある。
そして、その費用を負担する国民の生活も考えなければならない。
私は、税金を使って障害者を支援すること自体を否定しているわけではない。
ただ、税金だって無限ではない。
「かわいそうだから助けてください」
それは分かった。
では、どうやって助けるのか?
いくら必要なのか?
そのお金はどこから出すのか?
もっと少ない費用で、同じように安全で満足できる生活を提供する方法はないのか?
そこまで考えてほしいのだ。
モラトリアムなのは誰なのか?
25年ほど前、私は親と同居する成人をモラトリアムだと決めつける取材者に反論した。
そして今も、同じような疑問を感じている。
一人暮らしをしていれば自立している。
親と暮らしていれば自立していない。
そんな単純な話ではないだろう。
働いて税金を納めながら、親と同居して生活費を節約する人がいる。
一方、公的支援を受けながら、一人暮らしを続ける人もいる。
どちらにも、それぞれの事情がある。
そして、どちらの生活にも価値がある。
しかし、一人暮らしという形式だけを理由に、一方を立派だと評価し、もう一方を未熟だと見下す。
そんな考え方はおかしい。
本当に自立を考えるなら、住居の形態だけでなく、生活能力、経済的負担、本人の意思、他人との協力関係まで考える必要がある。
それに、人間はそもそも一人で生きているわけではない。
誰かが作った家に住み、誰かが育てた食べ物を食べ、誰かが整備した道路を歩く。
社会そのものが、他人との協力によって成り立っている。
だったら、親子で助け合って暮らすことの何が恥ずかしいのだろう?
私は、一人暮らしを否定したいわけではない。
一人暮らしが好きなら、そうすればいい。
でも、家族や仲間と暮らしたい人まで、無理に一人暮らしさせる必要はない。
一人暮らしにかかる費用を計算することも大切だ。
共同生活によって節約できる費用を計算することも大切だ。
そして、数字だけでは測れない幸福についても考えてほしい。
疲れて帰ってきたとき。
家に電気がついている。
誰かがいる。
「ただいま」
「おかえり」
その声が返ってくる。
信じていい仲間が、そこにいる。
私は、そんな生活をモラトリアムだとは思わない。
むしろ、人間が協力して生きることの、ごく自然な姿ではないだろうか。
一人で暮らすことだけが自立だというのなら、私は聞いてみたい。
お前たち、自立という言葉の意味を、本当に考えたことがあるのか?
24時間介護の費用を計算してみた
ちなみに、24時間介護を必要とする人が、一人暮らしを続ける場合の費用について調べてみた。
厚生労働省が2026年9月に公表した資料によると、2025年度の重度訪問介護の費用総額は、なんと約1,820億円。
利用者は月平均14,416人。
1人当たりの平均費用は、月額約107万円だった。
年間にすると約1,285万円である。
ただし、これは24時間介護の人だけではなく、短時間の利用者も含めた平均だ。
では、24時間、365日、常に介護職員を1人配置する場合はどうだろう?
24時間×365日=8,760時間。
仮に、介護サービスを提供するための費用を1時間2,500円と置いた場合、
8,760時間×2,500円=年間2,190万円。
1時間3,000円なら、年間2,628万円になる。
これは実際の介護報酬をそのまま計算した数字ではなく、時間単価を仮定した試算である。
しかし、24時間の人員配置には、それだけ大量の労働時間が必要になるということだ。
もちろん介護士が一人で8,760時間働くわけではない。交代制で何人もの職員が必要になる。
それに夜勤も休日もある。
そして、介護費用とは別に住居費、食費、光熱費も必要になる。
私はここで、一人暮らしをやめろと言っているのではない。
その生活を維持するために、いくらかかるのかを計算しろと言っているのだ。
一人暮らしの場合。
家族と同居する場合。
複数人で共同生活する場合。
施設で暮らす場合。
それぞれの年間費用を計算し、必要な介護を確保できるか、安全性や本人の満足度まで比較してみればいい。
共同生活なら必ず安くなるとは限らない。介護の内容によっては、個別に職員を配置する必要があるからだ。
それでも、住宅や設備、職員の移動時間など、共同利用できるものはあるはずだ。
大切なのは、実際に比較して、どの方法にどんなメリットとデメリットがあるかを調べることだろう。
税金も、介護士の労働時間も、無限ではない。
一人暮らしという形式を尊重することと、費用を考えずに制度を運営することは、別の話である。
そして、親子や仲間が協力して生活費を抑えていることを、モラトリアムなどと馬鹿にする。
私は、そちらの方がよほどおかしいと思う。
人間の生活を語るなら、理想論だけでなく、まず数字を見てみろ。
参考資料:厚生労働省「第63回障害福祉サービス等報酬改定検討チーム資料」(2026年9月24日、重度訪問介護の現状)




