寄付と援助のそろばん――善意だけで世界は救えない
寄付と援助のそろばん――善意だけで世界は救えない
天才パンダのエッセイ
世界には、貧困で苦しんでいる人がいる。
食べ物がない。学校に行けない。医療を受けられない。
それを見て、可哀想だから助けようという人がいる。
それは結構なことだと思う。
だけど、私は昔から一つ疑問に思っている。
「で、その人たち、いつになったら自立するの?」
ビル・ゲイツという世界的な大富豪がいる。
彼は財団を通じて、世界中の貧困や感染症の問題に巨額の資金を投じてきた。
2000年に始まった国際的なワクチン支援組織Gaviにも、当初7億5,000万ドルの資金提供を約束している。
大変立派なことだ。
多くの子供たちがワクチンを接種できるようになり、病気による死亡を防ぐことにつながった。
しかし、ここで一つ質問したい。
「そのお金、誰が払ったんですか?」
ビル・ゲイツが個人で出した資金なら、彼のお金だ。
でも、国際援助には各国政府のお金も使われている。
つまり、国民が働いて納めた税金だ。
そのお金があれば、国内の教育や医療、社会保障に使えたかもしれない。
税金を減らせたかもしれない。
あるいは研究開発に投資して、新しい産業を育てられたかもしれない。
では、海外に援助するのが間違いなのか。
私はそうは思わない。
目の前で餓死しそうな人間がいたら、まず食べ物を与えればいい。
病気で死にそうな子供がいたら、治療してやればいい。
だけど、それで終わりなのか?
翌日も食べ物がない。
翌年も食べ物がない。
10年たっても食べ物がない。
25年たっても、まだ誰かが食べ物や医療費を援助している。
戦争や民族紛争まで、オマケとしてやり始める。
「おい、25年間、何やってたんだよ!」
私が問題にしているのは、そこなのである。
もちろん、援助している団体の中には、受け取る国が自分で費用を負担できるようにする制度を導入しているところもある。
実際、Gaviにも共同負担制度があり、一部の国は援助から卒業している。
それは評価すべき成果だ。
しかし、それならなおさら、どの国が自立できたのか、どの国ができなかったのか、その理由は何なのかを検証する必要がある。
私は2002年頃から、インターネット上で同じようなことを繰り返し主張してきた。
「まず教育を受けさせろ。勉強させろ。働いて稼げるようにしろ。そして自分たちで費用を払えるように育てろ」
別に、助けた人間から金を返してもらいたいわけではない。貰わないとは言ってないけど。
私が言っているのは、次の世代まで同じように援助してもらわなければ生きていけない社会にするな、ということだ。
学校で勉強できる。
技術を身につけられる。
働く場所がある。
働けば収入が得られる。
その収入から税金が納められる。
税収が増えれば、国が自分で学校や病院を運営し、ワクチンを購入できるようになる。
もちろん、教育だけで貧困がすべて解決するわけではない。政治制度や治安、産業、雇用の問題もある。
だからこそ、それらを調べて解決するのである。
私は何も、全員が優秀な経営者になれと言っているわけではない。
人間には能力の差がある。
環境の差もある。
働くことが難しい人もいる。
それは知っている。
だからこそ、できる人には教育や事業の機会を与えて能力を伸ばし、利益を生み出せるようにする。
そして、継続的な援助が必要な人には、そのための財源を確保する。
お金を使える人間を育て、お金を稼げる仕組みを作る。
これが重要なのである。
もう一つ、私は寄付という方法そのものにも疑問がある。
寄付される側の気持ちを考えたことがあるだろうか。
「あなたは可哀想な人だから、お金をあげましょう」
そう言われて喜ぶ人も稀にいるだろう。
だが、自分の力で生活したい人間はどうだろう。
「あなたには才能がある。その才能に100万円を投資したい」
そう言われた方が、誇りを持てる人もいるのではないか。
寄付と投資では意味が違う。
寄付は原則として、お金を渡して終わりだ。
投資は、その資金を使って何かを生み出すことを期待する。
利益が出れば、再び投資できる。
もちろん、投資には損失もあるし、すべての人が投資対象になる必要もない。
それでも、資金を循環させる方法を考えることには意味がある。
私は、金持ちになったら自分も豊かな暮らしをしたい。
旅行にも行きたいし、贅沢もしたい。
気に入った研究者がいたら、その研究に投資して、成果を見たい。
できれば利益も出してもらって、さらに資金を増やしたい。
それの何が悪いのだろう。
自分の金を全部寄付するのが立派な人間で、利益を増やそうとする人間が悪い人間なのか?
そんなことはないだろう。
儲けたお金で次の研究を支援できれば、もっと多くの発見が生まれるかもしれない。
もちろん、収益の出ない基礎研究や、採算の合わない救済にも価値はある。
だからといって、収益性も費用対効果も検討しなくていい理由にはならない。
一度きりの救済と、長期的な自立支援をどう組み合わせるか。
どの方法に何円使い、どんな成果が出たか。
同じ予算で、もっと良い結果を出せる方法はなかったか。
そこまで計算するのが、資金を預かった人間の仕事ではないだろうか。
私は渋沢栄一の『論語と算盤』という考え方に共感を覚える。
倫理を語るだけでは駄目だ。
金儲けだけでも駄目だ。
社会全体を考えて、きちんとそろばんを弾かなければならない。
どれだけの人を助けたか。
そのためにいくら使ったか。
誰が負担したか。
助けられた人は、その後どうなったか。
そして、もっと効率の良い方法はなかったのか。
「善意がありました」「感謝されました」「たくさんの命を救いました」
それだけで話を終わらせないでほしい。
もちろん成果があったことは認める。
でも、別の方法なら、もっと多くの人を助けられた可能性だってある。
それを比較するのが計算というものだろう。
私は社長になりたいわけでも、政治家になりたいわけでもない。
自分の金を増やして、好きな研究に投資して、末代まで悠々自適に暮らせればそれでいい。
でも、政治家や経営者、巨額の寄付金を預かる人間なら、そうはいかない。
「あなたが使ったそのお金で、何ができたのか?」
そして、
「ほかの使い方をしていたら、何ができたのか?」
その二つを考えずに、何千億円も使ってほしくないのである。
なぜなら、その金は、誰かが苦労して稼いだ金なのだから。
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次回は、日本の「ふるさと創生1億円事業」について考えたい。
全国の自治体に1億円という資金が渡された。
ある自治体は公共施設に使い、ある自治体はモニュメントを建てた。
同じ金額を渡したのに、何が違ったのか。
そもそも、1億円あったら何をすればよかったのか。
私なら、まずそこから頭のそろばんを弾くのである。




