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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!ゲームと脳科学 楽しい経済学 切り裂きジャックと孤独  作者: ヘタレパンダ


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第5話 不幸を百回書くな! 問題を見つけたら解決しろ!

第5話 不幸を百回書くな! 問題を見つけたら解決しろ!


――人間を笑わせることだって、立派な芸術なんだよ


私は、不幸を描いた作品が嫌いなのではない。


ここは最初にはっきりさせておきたい。


悲劇を書いてもいい。


人間の嫉妬を書いてもいい。


裏切りも、絶望も、失恋も、死も、物語の題材にして構わない。


ただし、私は昔から不思議で仕方がないことがある。


どうして人間の不幸を、そんなにしつこく描き続けるんだ?


人間が苦しんでいる。


わかったよ。


嫉妬している。


それもわかった。


人生に絶望している。


もう十分わかったよ。


それなのに、さらに苦悩を重ね、延々と内面を語り続ける。


そして、そういう作品が素晴らしい文学だと評価されることがある。


私は思う。


うるせえんだよ! 一度書けばわかるんだよ!


読者にだって想像力がある。


全部説明されなければ理解できないわけではない。


私は、そういう文学の評価の仕方が、どうにも気に入らなかったのである。


『こころ』を読んで考えたこと


例えば、夏目漱石の『こころ』という作品がある。


私は原作の小説を全部読んだわけではない。


漫画版で読んだのである。


あんなドロドロした話を、わざわざ長い文章で読みたくなかったからだ。


だが、漫画版でも、登場人物たちの関係から、いろいろなことを考えることはできる。


先生という人物がいる。


そして、Kという人物がいる。


先生は比較的経済的に恵まれた立場にあり、Kを助けている。


Kは貧しい状況でも勉強を続けている。


二人は同じ大学で学んでいる。


私は、そこに注目した。


先生はKに親切にしているつもりだったのかもしれない。


だが、親切な人間が、相手に優越感を抱いていないとは限らない。


自分が助けてやっている。


自分の方が恵まれている。


自分の方が上の立場にいる。


もし先生にそういう意識があったとしたら、どうだろう。


Kは貧しい。


それなのに学問を続け、先生と対等な立場にいる。


精神的にも強く見える。


そこへ、同じ女性を好きになるという問題まで起きる。


先生は、本当にその女性を愛していたからだけで行動したのだろうか。


Kに勝ちたいという気持ちもあったのではないか。


私はそう考えたのである。


その後、先生はKに黙って結婚の話を進める。


そしてKは命を絶つ。


Kが自殺した理由を、私はすべて知っているわけではない。


漫画版の描写から推測できることには限界もある。あるある論で予測は可能だが。


ただ、先生が自分の行動や罪悪感に苦しむ物語であることはわかる。


そこで、私は考える。


なぜ先生は、最初からKと正直に話し合わなかったのか。


なぜ相手と競争しなければならなかったのか。


そもそも、なぜ経済的な立場の違いが、人間の優劣に結びつくのか。


当時の大学生という身分は何を意味していたのか。


当時の結婚は、どのような社会的な意味を持っていたのか。


私は、そういう時代背景も考える。


文章に直接書かれていないからといって、その時代の常識まで存在しなかったことにはならない。


作品の中で何が起きているのかを理解するには、登場人物の生きていた社会を知る必要がある。


私は、そこまで含めて読解だと思っている。


ただし、社会背景から筋の通った推論ができることと、作者の意図が完全に証明されたことは別である。


その違いは、私だって理解している。


私が問題にしているのは、背景を調べもせず、教師や評論家の説明を覚えただけで、作品を理解した気になっていることである。


お前、本当に自分の頭で考えたのか?


私は、それを聞きたくなる。


人間の不幸を理解して、それで終わりなのか


私は、漱石に限らず、日本の近代文学の一部に共通する雰囲気が苦手である。


人間は苦しむ。


人間は悩む。


人間は思い通りに生きられない。


そして、諦めて生きていく。


それを人生の深い真実であるかのように扱う。


もちろん、そうした作品が当時の社会を批判するために書かれていた可能性もある。


作家が苦悩を美化していたのか、それとも苦悩する社会を告発していたのかは、作品ごとに調べなければならない。


それでも、私は後世の読者や教育者が、そうした物語をどう受け取ってきたのか気になる。


苦しむことが人間らしさなのだ。


悩み続けることが知性なのだ。


簡単に幸福になろうとする人間は浅はかなのだ。


そんな価値観を、知らず知らずのうちに身につけてはいないだろうか。


もしそうなら、私は言いたい。


不幸を理解したら、次は不幸を減らす方法を考えろよ!


人間が苦しんでいると気づいた。


そこまではいい。


何が原因なのかを考えた。


それもいい。


では、どうすればその苦しみを防げたのか。


どうすれば、同じ悲劇を繰り返さずに済むのか。


そこまで考えるのが、知性の使い方ではないのか。


私は、問題を発見することを否定していない。


むしろ、問題に気づくことは大切だと思っている。


だが、問題を発見しただけで満足するのは違うだろう。


百個の問題を見つけた。


立派ですね。


で、何個解決したんですか?


ゼロです。


おい! 百個残ってるじゃねえか!


そんな話なのである。


私がシェイクスピアを好きな理由


私は、シェイクスピアには魅力を感じている。


もちろん、作品をすべて原文で読み通したわけではない。


映画や漫画、舞台の紹介などを通じて知った作品もある。


それでも、私は彼の描く人間関係が面白いと思っている。


人間は、いつでも善人か悪人かにきれいに分かれるわけではない。


善意で行動したつもりが、相手を傷つけることもある。


嫉妬することもある。


嘘をつくこともある。


噂を信じて、間違った判断をすることもある。


そして、その結果として悲劇が起きる。


だが、そこには会話がある。


皮肉がある。


人間の滑稽さがある。


悲劇だけではなく、喜劇もある。


私は、その人間観察の鋭さが面白いのである。


『から騒ぎ』のように、噂や誤解が人間関係を混乱させる話などもそうだ。


人間というのは、本当に馬鹿なことをする。


だが、その馬鹿さ加減が面白い。


そして、作品を観た人間が、


「ああ、こういう人いるよね」


「どうしてこんな勘違いをしたんだろう」


「自分だったらどうするだろう」


と考える。


私は、そういう物語が好きだ。


必ずしも作者が正解を説明する必要はない。


観客が自分で考えればいい。


何度も同じ説教を聞かせなくても、面白い作品から人間について学べることはある。


ただし、これも一つの価値である。


芸術の価値が、それだけだとは思っていない。


難しいことなんか考えなくても、面白ければいい


ここで、もっと大切なことがある。


私は、映画を観るたびに深い考察をしたいわけではない。


漫画を読むたびに作者の意図を分析したいわけでもない。


そんなことをしなくても、面白い作品は面白い。


疲れて帰ってきた人がいる。


一日働いて、もう何も考えたくない。


嫌なこともあった。


上司に怒られたかもしれない。


家事や育児で疲れ切っているかもしれない。


そんな人が映画を観る。


馬鹿馬鹿しいコメディを見る。


腹を抱えて笑う。


そして、観終わったあとでこう言う。


「ああ、面白かった!」


「ああ、楽しかった!」


「明日も頑張ろう!」


それだけで、素晴らしい映画じゃないか!


私は本気でそう思っている。


難しい哲学なんかなくてもいい。


社会問題の解決方法が描かれていなくてもいい。


人間の本質を説明していなくてもいい。


単純に面白ければいい。


観客が楽しめればいい。


その人が、少し元気になって家に帰れる。


それだけで十分に価値がある。


人間を笑わせることは、簡単な仕事ではない。


どのタイミングで笑わせるのか。


どういう展開なら驚くのか。


どんな人物を登場させれば面白いのか。


どうすれば観客を飽きさせないのか。


作り手には、いろいろな技術が必要である。


私は、その技術を高く評価している。


そして、人間を幸福な気持ちにさせること自体が、重要な仕事だと思っている。


疲れている人間に、さらに宿題を出すな


ところが、世の中には、難しい作品を高尚なものとしてありがたがる人がいる。


人間の苦悩を描いた。


哲学的である。


深い作品である。


考えさせられる作品である。


もちろん、それはそれでいい。


考えたい人は考えればいい。


だが、私は聞きたい。


疲れている人間に、さらに考えさせてどうするんだ?


毎日働いている。


家事もしている。


子育てもしている。


人間関係にも気を遣っている。


そんな人が、娯楽の時間にまで難しい問題を考え続けなければならないのか。


私は、そうは思わない。


人間には、休息が必要である。


癒しが必要である。


笑いが必要である。


毎日何かを学び、成長しなければならないわけではない。


人間は、ただ楽しく過ごしたっていいんだよ!


そもそも、人間を楽しませることも一つの社会貢献ではないか。


疲れている人を笑わせる。


落ち込んでいる人を元気づける。


明日への希望を持たせる。


それの何が低俗なんだ。


私は、不幸を長々と描く作品だけを高く評価するような芸術観には納得できないのである。


『果てしなきスカーレット』を観て考えたこと


私は以前、映画『果てしなきスカーレット』についても考察を書いた。


一回観ただけで、自分が気づいたことを次々に考えた。


登場人物の心理。


物語の世界の意味。


背景描写。


象徴的な場面。


なぜその演出を選んだのか。


省略されたように感じられる部分。


私は、そういうことを自然に考えてしまう。


しかし、だからといって、映画を作った本人がすべてを意識的に計算していたとは限らない。


観客が作品から発見した意味が、作者の想定を超えることもあるだろう。


考察を書いたあと、作者からの返事のように感じられる発言を見かけたこともあった。


「そこまでは考えていなかったけど、言われてみればそうだ」


私には、そんな反応のように受け取れた。


もちろん、その発言が実際に私の考察に向けられたものだったかどうかは確認できない。


ただ、私が面白いと思ったのは、作者が意識していなかったことでも、作品を観た人間が意味を見つける場合があるということだ。


物語というものは、そういう楽しみ方もできる。


だが、もう一度言っておく。


面白ければ、深く考えられなくてもいい。


考察するのが好きな人は考察すればいい。


ただ笑って楽しみたい人は、笑って楽しめばいい。


私は、どちらも認めたいのである。


私が2000年代から考えてきた「鬱筋」


私は2000年代から、人間の精神状態と、普段接している作品や情報との関係に関心を持っていた。


どんな映画を観るのか。


どんな漫画を読むのか。


どんなことを考えるのか。


普段、どんな言葉を使っているのか。


私は、そういうことを自分なりに観察していた。


ときには、作品の好みと、その人が話す精神状態や服薬についての情報が重なることもあった。


私の印象では、人間の苦悩や絶望を描いた作品を高く評価する人の中に、日常でも悲観的な発言を繰り返す人がいた。


そこで私は、一つの仮説を考えた。


人間は、不幸なことばかり考えていると、不幸な情報を見つけることが得意になってしまうのではないか。


嫌なことを思い出す。


すると、以前の嫌なことも思い出す。


あのときも嫌だった。


このときも嫌だった。


あいつにも嫌なことを言われた。


こいつにも腹が立った。


気がつけば、一日中、嫌なことを探している。


私は、こういう思考の習慣を「鬱筋を鍛える」と表現してきた。


筋肉を鍛えるように、同じ考え方を繰り返すことで、その考え方を使いやすくなるのではないか。


そう考えたのである。


もちろん、脳に本当に「鬱筋」という器官があるわけではない。


また、私が長年観察したということと、科学的に因果関係が証明されたということも違う。


暗い作品を観ることが抑うつを強める場合もあれば、もともと気分が落ち込んでいる人が暗い作品を選ぶ場合もあるだろう。


暗い作品に自分だけじゃないと安心する人だっているかもしれない。問題が解決する訳ではないのだが。


私は、そうした違いも含めて研究する価値があると思っている。


ただ、私が気になったことは、それだけではなかった。


なぜ幸福を求める人間を馬鹿にするのか


私が強い反感を持ったのは、人間の苦悩を理解しているつもりの人間が、幸福を求める人を見下すような発言をしていたことである。


前向きに考える人間は頭が悪い。


幸福を語る人間は浅はかだ。


人間の苦しみを理解していない。


問題を解決しようとする人間は、人生をわかっていない。


そんな言い方をする人がいた。


私は思った。


お前こそ、何を勉強してきたんだよ!


人間が不幸になることを知っている。


それは結構。


人間が苦悩することを知っている。


それも結構。


では、どうすれば人間は幸福になれるのか。


どうすれば、その苦悩を減らせるのか。


どうすれば、同じ問題を繰り返さずに済むのか。


そこを考えたのか。


人間の不幸を理解していることと、人間の幸福を理解していることは、同じではない。


むしろ、不幸の原因がわかったのなら、その原因を取り除く方法を考えればいい。


私はそう思う。


ただし、ここで一つ区別しておきたい。


うつ病で治療を受けている人が悪いと言いたいわけではない。


抗うつ薬を飲んでいることが、その人の人格や知性を否定する理由になるわけでもない。


私が批判しているのは、苦悩を理想化して、幸福になろうとする人や、解決策を考える人を馬鹿にする態度である。


それは、まったく別の問題だ。


良かったことを探せばいいじゃないか


私は、人間の注意の向け方を変えることに、大きな可能性があると思ってきた。


例えば、一日に二回、良かったことを探す。


朝でもいい。


夜でもいい。


今日はおいしいものを食べた。


天気が良かった。


好きな音楽を聴けた。


面白いテレビを観た。


猫がかわいかった。


誰かが親切にしてくれた。


そんなことでいい。


別に、毎日大事件が起きなければならないわけではない。


そして、私はこれを大変な努力だとは思っていない。


ゲームのように続ければいいのである。


人間は、嫌なことを何時間も考え続けることができる。


それなら、良かったことを一日に二回探すくらい、やってみてもいいではないか。


もちろん、これでうつ病が必ず治るなどと断言するつもりはない。


医療的な治療が必要な人もいる。まず睡眠と有酸素運動くらい取れ。


だが、人間が普段どこに注意を向けるかは、幸福を考えるうえで重要な問題ではないだろうか。


私は、そういうことを研究してほしいのである。


そして、もう一つ。


人間を楽しませる映画や漫画が、気分や生活にどんな良い影響を与えるのか。


こちらも、もっと研究してほしい。


作品の芸術的な価値だけでなく、それを観た人間に何が起きるのか。


そこまで考えることにも意味があると思う。


問題は一つずつ、みんなで解決すればいい


私は、人間の不幸の多くは、問題を放置することで大きくなっていると考えている。


例えば、いじめがある。


だったら、いじめを止める方法を考えればいい。


職場で過労が起きている。


だったら、働き方を改善すればいい。


生活に困っている人がいる。


だったら、生活を支える方法を考えればいい。


教育の制度に問題がある。


だったら、制度を変える方法を考えればいい。


一人では解決できない問題もある。


だから、みんなで考えるのである。


研究者が必要なら、研究者に研究してもらう。


行政が必要なら、行政が動く。


企業が改善すべき問題なら、企業が改善する。


誰か一人が、すべてを背負う必要はない。


そして、問題を発見すること自体にも価値はある。


誰も気づいていなかった問題に気づく人がいる。


それは大切な役割だ。


ただし、問題を見つけた人が、解決まで全部引き受ける必要もない。


次に解決策を考える人がいればいい。


それを実行する人がいればいい。


それを改良する人がいればいい。


みんなで分担すればいいのである。


私は、そういう社会なら、うつ病になるほど追い詰められる人を大幅に減らせるのではないかと思っている。


私は、うつ病の原因を社会や日常生活の問題から切り離して考えることに、強い疑問を持っている。


どこまで予防できるかについては、きちんと研究してほしい。


しかし、原因を完全に解明できるまで、現実の問題を放置していいわけではない。


防げるいじめは防ぐ。


減らせる過労は減らす。


改善できる人間関係は改善する。


生活に困っている人がいたら支援する。


できることから、一つずつやればいいじゃないか。


私はそう思う。


苦しんでいる人に、さらに苦しめと言うな


私は、人間が苦しむことそのものを否定しているわけではない。


悲しいときには悲しめばいい。


怒りたいときには怒ることもある。


どうにもならない出来事に直面して、泣くことだってあるだろう。


ただし、その苦しみを永遠に続けなければならないわけではない。


苦しんでいる人がいたら、助ければいい。


休みたい人がいたら、休ませればいい。


問題があるなら、解決方法を考えればいい。


そして、何も問題がない時間には、楽しく過ごせばいい。


私は、人間が幸福であること自体に価値があると思っている。


何かを成し遂げなければ、幸福になってはいけないわけではない。


誰かの役に立たなければ、生きている意味がないわけでもない。


人間は、ただ面白い映画を観て笑っているだけでもいい。


好きなものを食べて、好きな音楽を聴いて、ゆっくり眠ってもいい。


そして、次の日にまた楽しく暮らせばいい。


そんな生活ができることは、素晴らしいことではないか。


私が作りたい物語


私は、スピルバーグのような娯楽作家になりたかった。


そして今は、自分で小説を書いている。


『天才パンダとレオンの異世界日本化計画』という物語である。


そこには、現実には存在しない道具も登場する。


異世界も登場する。


人間も、龍も、さまざまな種族も登場する。


ときには大きな問題が起きる。


登場人物が馬鹿なことをして、みんなで大騒ぎすることもある。


真剣に考える場面もある。


腹を抱えて笑ってほしい場面もある。


私は、そういう物語を書きたいのである。


読者が難しい考察をしてくれるなら、それも嬉しい。


だが、何も考えずに笑ってくれてもいい。


仕事が終わって、疲れて帰ってきた人が、私の小説を読む。


そして、


「ああ、面白かった!」


と思ってくれる。


私は、それだけでも十分に嬉しい。


もちろん、作品が売れて印税が入れば、もっと嬉しい。


だって、私はお金持ちになりたいんだから。


人間を楽しませて、お金を稼いで、自由に暮らす。


そして、優秀な研究者たちの発見を読んで驚く。


私は、そんな人生を送りたいのである。


不幸を描くなとは言わない。だが、不幸を放置するな


最後に、もう一度言っておこう。


私は不幸を描いた作品を否定していない。


苦悩する人間を描くのもいい。


悲劇を描くのもいい。


人間の愚かさを描くのもいい。


ただし、不幸を描くことだけが芸術ではない。


人間を笑わせることも芸術である。


人間に希望を与えることも芸術である。


明日を楽しみにさせることも、素晴らしい仕事である。


そして、問題を見つけることだけが知性ではない。


問題を解決することも知性である。


苦悩を語ることだけが哲学ではない。


どうすれば幸福に生きられるのかを考えることも、立派な哲学である。


人間が不幸になることは知っている。


そんなことは、昔からわかっている。


だからこそ、私は聞きたい。


どうすれば、その不幸を減らせるんだ?


どうすれば、人間はもっと楽しく生きられるんだ?


そこまで考えればいいじゃないか。


そして、問題が解決できたら、あとは楽しく遊べばいい。


旅行に行けばいい。


映画を観ればいい。


漫画を読めばいい。


ゲームをすればいい。


おいしいものを食べればいい。


好きな人と笑って過ごせばいい。


私は、人間にそういう人生を送ってほしいのである。


だから、これだけは言わせてもらいたい。


不幸を百回説明するな!


一回でわかるんだよ!


問題を見つけたら、解決方法を考えろ!


そして、疲れた人間には、少しくらい楽しい時間を与えてやれ。


人間は、いつも苦しんでいなくてもいい。


いつも勉強していなくてもいい。


いつも誰かの役に立っていなくてもいい。


ただ幸福に生きていたって、いいんだよ!


私は、そういう社会になってほしいのである。


――天才パンダ

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