第3話 勝手に人間を決めつけるな!
第3話 勝手に人間を決めつけるな!
――噂話、学校教育、そして人間を規格品にしようとする社会
私は、人間を勝手に決めつける人間が嫌いである。
あの人はこういう人だ。
この人はこういう性格だ。
あいつは頭が悪い。
あいつは変わっている。
あいつは生意気だ。
本人に確かめもしないで、よくもまあ、そんなに人間を分類できるものだ。
私は不思議で仕方がない。
お前、人間の心が読めるのか?
読めるわけがない。
ところが、世の中には、わずかな情報だけで勝手に他人の人格を作り上げる人がいる。
そして厄介なことに、その作り話を、まるで事実であるかのように広めてしまうのである。
給湯室の人間関係
私は以前、職場で女性同士の噂話や陰口を見聞きすることがあった。
こういう話をすると、女性は陰口が好きだと言い出す人もいるだろう。
だが、男性だって陰口を言う。
私は実際にそういう男性も見てきた。
だから、これは男と女の問題というより、人間の問題なのだと思う。
職場には、誰かを中心にした集団ができることがある。
その人が誰かを嫌う。
すると、周囲も一緒になって悪口を言い始める。
なぜなのか。
本当に同じ意見なのだろうか。
私は、必ずしもそうではないと思っている。
実際、表では集団に合わせている人が、私にはこっそり別のことを言ってきたことがある。
「本当はそう思っていないんだけど」
「言い返すと、今度は自分が言われるから」
要するに、次の標的になりたくないのである。
私は思った。
お前たち、何のために集団を作ってるんだ?
助け合うためじゃないのか。
仕事を円滑にするためじゃないのか。
それが、誰かを仲間外れにするための集団になってしまっている。
馬鹿馬鹿しい。
もちろん、集団の中で黙っていた人たちにも事情はあるだろう。
生活がかかっている。
職場を辞めたくない。
面倒な争いに巻き込まれたくない。
その気持ちはわかる。
しかし、そんな状態を放置していたら、同じことが何度でも起きる。
今日はあの人。
明日はこの人。
そのうち自分が標的になる。
いじめというのは、学校だけの問題ではないのである。
小野瀬さんのこと
以前、私の職場に、小野瀬さんという女性がいた。
私は彼女に対して、複雑な印象を持っていた。
仕事ができる。
能力がある。
それなのに、職場の待遇は、その能力に十分見合っていないように私には見えた。
一方で、噂話や他人への批判に関わっているように感じることもあった。
私は考えた。
なぜ、この人はこんなことをするのだろう。
もしかしたら、能力を正しく評価されていない不満があるのではないか。
私に対して、容姿や経済的な条件について何か思うところがあったのかもしれない。
もちろん、これは私の推測である。
本人の心の中を確かめたわけではない。
ただ、もし自分の仕事が評価されていないと感じているのなら、待遇を改善することによって不満が減る可能性はある。
例えば、時給を百円上げる。
能力を認める。
仕事ぶりを正当に評価する。
それだけで、人間の気分や職場の雰囲気が変わることだってあるのではないか。
私はそう考えた。
なぜなら、私は人間の行動を見るとき、その人の性格だけでなく、置かれている状況も考えるからである。
嫌なことをする人間がいた。
だから、あいつは性格が悪い。
それで終わりにするのは簡単だ。
しかし、その行動を起こす背景に何があるのかを考えれば、改善策が見つかることもある。
私はそこまで考えたいのである。
ネットのパンダと職場の私
当時、私はインターネットでも文章を書いていた。
「パンダ」という名前で活動していたこともある。
職場で見せている顔と、インターネット上で見せている顔は、必ずしも同じではない。
現実の私は、普通に仕事をする女性である。
だが、インターネット上では、思いついたことを自由に書く。
世の中の問題について考える。
解決策を提案する。
いろいろな話をする。
私は、職場の小野瀬さんが、私のネット上の活動に関心を持っているらしいと感じたことがあった。
しかし、彼女が職場の私とネット上のパンダを同一人物だと知っていたかどうかは、わからない。
あるとき、私は職場の駐車場で撮影した夕日の写真を公開した。
その後、彼女の態度や表情が変わったように私には見えた。
私は、その写真から正体に気づいたのではないかと推測した。
もしそうなら、面白い話である。
ネット上のパンダには好意的なのに、目の前の同僚の私には批判的だったとしたら、同じ人間なのに評価が違っていたことになる。
ただし、彼女が実際に何を考えていたかは確認できていない。
ここで重要なのは、私の推測が当たっていたかどうかだけではない。
人間は、相手につけた名前や肩書きによって、同じ人物を違う人間のように扱うことがある。
私は、そのことが気になるのである。
金髪の男の子
もう一つ、忘れられない出来事がある。
日本人とドイツ人の親を持つ男の子の話だ。
その子には、金髪という特徴があった。
日本の学校では、周囲の子供たちと見た目が違う。
私は、彼の置かれた状況が気になっていた。
あるとき、その男の子が作文を読む場面があった。
私は、その読み方や表情に違和感を覚えた。
自分の金髪について、嫌だと感じているような内容があった。
一方で、それを肯定的に語る文章もあった。
そのとき、声の調子や間の取り方が変わったように感じたのである。
私は考えた。
もしかしたら、本人が書いた文章を、大人が書き換えたのではないか。
先生が、もっと前向きなことを書きなさいと指導したのではないか。
もちろん、私は実際にその作文を添削する場面を見たわけではない。
だから、これは私の推測である。
しかし、なぜそんなことを考えたのかには理由がある。
私自身が、教師に作文を書き換えられた経験を持っているからだ。
子供の作文を、勝手に直すな
私は、学校で作文を書いたとき、先生の望む内容になるように修正された経験がある。
私だけではない。
ほかの生徒の文章についても、大人が手を入れる様子を見てきた。
学校が求める立派な作文というものがある。
家族を大切にしましょう。
友達と仲良くしましょう。
自分の個性を誇りに思いましょう。
努力すれば夢はかないます。
もちろん、そう考えている子供が、そのまま書くのなら構わない。
だが、本当はそう思っていない子供にまで、その言葉を書かせるのはどうなのか。
例えば、金髪が嫌だと思っている子供がいたとする。
その子に必要なのは、「自分の金髪を誇りに思います」と書かせることだろうか。
私は違うと思う。
なぜ、その子は自分の金髪を嫌いになったのか。
そこを聞いてあげるべきではないのか。
学校で何か言われているのかもしれない。
周囲と違うことが苦痛なのかもしれない。
何か嫌な経験があったのかもしれない。
だとしたら、作文を直したところで問題は解決しない。
紙の上では幸福な子供になった。
しかし、現実の子供は苦しんだままである。
おい、何のための教育なんだよ!
子供の感情を理解するための作文なのか。
それとも、教師が人前で発表させたい立派な作文を作るためなのか。
私は、そこを問題にしたいのである。
その男の子の家庭についても、私はいろいろと思うところがあった。
母親の周囲との接し方にも、気になるところがあった。
だが、家庭内で何があったのか、子供が何を感じていたのか、私にはわからない部分も多い。
後に父親と子供がドイツへ戻ったという話も聞いた。
私は、その子が元気に暮らしていればいいと思っている。
私が言いたいのは、一つだけだ。
子供の気持ちを、立派な作文で上書きするな。
国語の先生と丸暗記教育
私は国語の先生という職業についても、いろいろな思い出がある。
私の印象では、私の発想を面白がってくれる先生は少数だった。
逆に、私が教師の期待した答えと違うことを書くと、問題児のように扱う先生もいた。
私の感覚では、二割くらいの先生は理解してくれたが、八割くらいは理解してくれなかった。
これは全国の国語教師を調査した統計ではない。
あくまで私自身の経験からの印象だ。
ただ、私はその経験から、教育というものに疑問を持った。
例えば、小説を読む。
登場人物が、ある行動をする。
先生が質問する。
「このとき、主人公はどう思ったでしょうか」
生徒が答える。
ところが、先生が用意した答えと違う。
すると、間違いにされる。
私は思う。
その答えが違うという根拠は何だ?
文章の中に矛盾があるのか。
時代背景と合わないのか。
登場人物の行動と整合しないのか。
そういう理由があるなら説明すればいい。
だが、教師が用意した模範解答と違うというだけでは、間違いの証明にはならない。
作者が何を表現したかったのかを考えることと、教師が教えた答えを暗記することは、別の行為である。
私は後者ばかりを評価する教育に納得できなかった。
漢字の書き順もそうだ。
正しい形で読める字を書いた。
意味も理解している。
それなのに、書き順が違うから減点する。
もちろん、書き順を教える意味がまったくないとは言わない。
書きやすさや、字形を整える助けになることもある。
だが、書き順を覚えていることと、文章を理解できることは別だ。
私は、評価するべき能力を混同してはいけないと思っている。
なぜ教師の答えが絶対なのか
文学作品を理解するときに、私は時代背景を考える。
登場人物の経済状況を考える。
その時代の社会制度を考える。
どうしてこの人物はこんな判断をしたのか。
なぜ、この人物は相手に嫉妬したのか。
どうして問題を解決できなかったのか。
そういうことを考える。
もちろん、推理には根拠が必要である。
しかし、教師が配った正解を覚えるだけなら、その推理は必要ない。
そして試験では、暗記した生徒が高得点を取る。
それで、本当に知性が育っているのだろうか。
私は疑問に思う。
自分で考えた人間が減点され、先生の言葉を覚えた人間が褒められる。
だったら、国語の授業じゃなくて暗記大会に名前を変えろよ!
人間が何を感じたのか。
作者が何を考えたのか。
社会がどんな仕組みだったのか。
それを考えるから文学を学ぶ意味がある。
自分の頭を使わせないのなら、何のために文学を教えるんだ。
私は人間を規格品にしたくない
私は、この問題が学校だけにあるとは思っていない。
家庭でも起きる。
職場でも起きる。
社会のあちこちで起きる。
この人はこうあるべきだ。
女はこうあるべきだ。
男はこうあるべきだ。
子供はこうあるべきだ。
社員はこうあるべきだ。
そして、そこから外れた人間を不良品のように扱う。
だが、人間は工業製品ではない。
同じ規格で作られているわけではない。
得意なことも違う。
苦手なことも違う。
欲しいものも違う。
考え方も違う。
その違いを理解しないまま、一つの理想像を全員に押しつけようとする。
私は、それがおかしいと思っている。
誰かが自分と違うことを言った。
だから頭が悪い。
誰かが自分の期待した行動を取らなかった。
だから性格が悪い。
誰かが周囲と違う発想をした。
だから普通ではない。
いい加減にしろよ。
違う人間なんだから、違う考え方をするに決まっているだろう。
重要なのは、その考え方にどんな根拠があるか。
その行動で、誰かが困っていないか。
改善できる問題があるなら、どうすれば改善できるか。
そこを考えることである。
人間を勝手に決めつけたところで、何も解決しない。
私は、人間を分類するために知性を使いたいわけではない。
人間を理解するために使いたい。
そして、必要なら、その人がもっと幸福に生きられる方法を考えたいのである。
人間を勝手に決めつけるな。
本人の話を聞け。
事情を調べろ。
根拠を考えろ。
それから判断しろ。
そんなに難しいことなのだろうか。
――天才パンダ




