第二話 相手に求めるもの――お前が欲しいのは、本当にそれなのか?
第二話 相手に求めるもの――お前が欲しいのは、本当にそれなのか?
一 お前が欲しい女は、どこにいるんだ?
世の中には、実に面白いことを言う男がいる。
「俺はセックスの上手な女が好きだ」
そうか。
「でも、誰とでもセックスするような女は嫌だ」
なるほど。
「結婚するなら、身持ちの固い女がいい」
それもわかる。
「できれば処女がいい」
はいはい。
「でも、俺とは積極的にセックスしてほしい」
ふむ。
「しかも、すぐに気持ちよくなって、大きな声で喜んでほしい」
……ちょっと待て。
お前、一体どんな女を探しているんだ?
処女なのにセックスが上手。
自分には積極的に応じる。
でも、ほかの男には応じない。
自分の性的な要求を断らない。
しかも性格がよくて、いつも優しく、決してわがままを言わない。
給料は自分と同じくらい稼いで欲しいし、自立して欲しいが、自分を尊敬して欲しいし、子供も産んで欲しい。更に結婚してくれと言われるのは嫌だが、いずれ結婚する事を受け入れて欲しい。
そんな女が理想だと言う。
玩具箱のような、柔軟性が有り。なんでも入れられても壊れない。取り敢えず自分の要求は妥協するつもりはない。
いやいやいや。
お前が欲しいのは人間なのか? それとも、お前の注文どおりに動く人形なのか?
もちろん、経験が少なくても性的な知識を持っている女性はいるし、恋人や配偶者とだけ性的な関係を持ちたい女性もいる。
だから、条件の一つ一つが絶対に両立しないと言いたいわけではない。
問題は、それをすべて女性側の義務のように考えることだ。
自分が好きになった女は、自分を好きになるべきだ。
自分がセックスしたければ、相手も応じるべきだ。
でも、ほかの男には応じてはいけない。
そして、そんな自分の都合を全部満たしてくれる女こそが、いい女なのだという。
おい。
それ、いい女の条件じゃなくて、お前にとって都合のいい女の条件だろうが。
私は、こういう理想を平気で語る人間を見るたびに思う。
お前は、自分が何を要求しているのか、本当に理解しているのか?
今回は、人間が他人に求めるものについて考えてみたい。
二 いい女とは、誰にとっていい女なのか?
まず考えたいのが、「いい女」という言葉だ。
この言葉は、実に便利である。
自分の思いどおりにしてくれる女性を、いい女と呼べばいい。
優しくしてくれる。
話を聞いてくれる。
気持ちを察してくれる。
性的な要求にも応じてくれる。
ところが、その女性が自分の意思で別の男性を選ぶと、途端に評価が変わることがある。
「軽い女だ」
「バカな女だ」
「ビッチだ」
さっきまで、いい女だと言っていなかったか?
私は不思議で仕方ない。
自分の要求に応じる女はいい女。
しかし、ほかの男の要求に応じる女は悪い女。
では、女性がどちらの要求にも応じなかったらどうなるのか。
「冷たい女だ」
「わがままだ」
「プライドが高い」
「傲慢だ」
おいおい。
一体どうすりゃいいんだよ。
応じれば軽蔑される。
断れば非難される。
どちらを選んでも、男の都合によって悪口を言われる。
これは、女性自身の行動を公平に評価しているのではない。
その男の期待に応じたかどうかで、採点基準を変えているだけではないか。
私は、ここに人間の二面性が現れていると思う。
自分は性的な自由を求める。
しかし、相手には性的な自由を認めない。
自分は相手を選びたい。
しかし、相手が自分を選ばないことは許せない。
自分は拒絶されたくない。
しかし、気に入らない相手を拒絶する権利は欲しい。
それなら、まず自分に聞いてみればいい。
お前が相手を選ぶように、相手にもお前を選ぶ権利があるのではないか?
自分にだけ選択権があると思っているなら、それは恋愛ではない。
一方的な要求だ。
三 処女なのにセックスが上手? お前の注文書を見直せ
昔から、女性に対して相反する理想を求める考え方は存在してきた。
清純で、慎み深く、男性経験が少ない女性。
一方で、性的に魅力的で、男性を喜ばせる女性。
こうした女性像は、文学や映画などでも繰り返し描かれてきた。
もちろん、近代文学がこういう考え方を最初に発明したとは言えない。
女性の貞操や性的な役割に関する価値観は、それよりずっと古い時代から存在する。
しかし、文学や映像作品が、人々の理想の恋愛像に影響を与えてきたことは考えられる。
問題は、作品に描かれた理想像を、現実の人間にそのまま要求してしまうことだ。
物語なら、作者が都合のいい女性を作ればいい。
主人公が望めば、女性は恋に落ちる。
主人公が抱きしめれば、女性は幸せになる。
主人公が性的に触れれば、女性はすぐに喜ぶ。
そんな展開だって、作者が書こうと思えば書ける。
しかし、現実の女性には、作者がいない。
いや、正確には、自分自身の人生を選ぶ本人がいる。
その本人が何を望んでいるかもわからないのに、男の頭の中にある物語を押しつけられても困る。
「こういう女が理想なんだ」
それは自由だ。
だが、理想と現実は違う。
美しい女性が必ず優しいとは限らない。
性的に積極的な女性が、誰にでも積極的とは限らない。
性的経験が少ない女性が、男性に従順だとも限らない。
経験が豊富な女性が、不誠実だとも限らない。
そもそも、性的な経験の有無と、人間としての善悪は別問題である。
それを、なぜか一緒にしてしまう。
私はここでも言いたい。
お前が勝手に作った理想のキャラクターを、現実の女性に演じさせるな。
現実の人間には、その人自身の考えがあるのだ。
四 セックスの上手な男とは、何なのか?
次に考えたいのは、セックスが上手だという評価である。
世の中には、女性をオーガズムに達させることができれば、自分はセックスが上手な男だと思う人がいる。
しかも、女性には派手に喜んでほしい。
大きな声を出してほしい。
短時間で性的な絶頂に達してほしい。
まるで、自分の技術を証明するための試験でも受けているかのようだ。
しかし、ちょっと待ってほしい。
そもそも、その女性はセックスを望んでいたのだろうか。
相手のことを好きだったのだろうか。
安心していたのだろうか。
それとも、断りにくかったのだろうか。
嫌われたくなくて、無理をしていた可能性はないのだろうか。
性的な反応は、人によって違う。
静かな人もいれば、声を出す人もいる。
性的な絶頂に達するまでの時間も違う。
その日の体調や心理状態によっても変化する。
だから、大きな声を出したかどうかで、満足度を判定できるわけではない。
オーガズムがあったからといって、本人がその性行為を望んでいた証明にもならない。
身体的な反応と、本人の意思は同じではないからだ。
ところが、これを勘違いすると、妙なことになる。
「俺は女を気持ちよくしてやった!」
そうか。
で、その女は幸せだったのか?
「ちゃんとオーガズムに達したぞ!」
いや、だから。
お前は女性の身体の反応を聞かれているんじゃない。女性本人の気持ちを聞かれているんだよ。
こんな当たり前の話が、なぜ難しいのだろう。
私は、セックスを競技のように考えること自体がおかしいとは言わない。
二人が楽しんでいるなら、いろいろな工夫をすることもあるだろう。
しかし、相手が喜んでいるかどうかもわからないのに、自分の達成感だけで満足するのは違う。
自分が満足したことと、相手が満足したことは、別の話だからだ。
五 お前が欲しいのは、射精なのか?
さて、ここから少し根本的な話をしよう。
男性がセックスしたいと言う。
では、何がしたいのだろうか。
性的な快楽を得たいのか。
射精したいのか。
好きな相手と触れ合いたいのか。
相手から愛されていると確認したいのか。
自分が魅力的な人間だと認めてほしいのか。
それとも、子供を作りたいのか。
これらは、全部違う欲求である。
もちろん、一度の性行為に複数の目的があってもいい。
気持ちよくなりたいし、愛情も感じたい。
そんなこともあるだろう。
しかし、もし本当に射精による快楽だけが目的なら、私は一つ疑問に思う。
それなら、自慰行為でもいいのではないか?
性的なセルフケア用品を利用する方法だってある。
自分一人で性的な欲求を満たすことは、別におかしなことではない。
誰かに妊娠のリスクを負わせる必要もない。
相手の意思を無視して、性的な関係を迫る必要もない。
それなのに、「女とセックスしなければ満足できない」と言う。
では、なぜなのだろう。
もしかしたら、性的な快楽以外のものが欲しいのではないか?
自分を受け入れてくれる女性が欲しい。
自分に魅力があると証明したい。
好きな相手から求められたい。
あるいは、誰かに愛されたい。
そんな欲求が含まれている可能性はないだろうか。
だからといって、他人との性行為を望むこと自体が間違いだとは言わない。
人と触れ合う喜びには、一人では得られないものもある。
しかし、それを望むなら、相手にも同じように望む自由と、望まない自由があることを理解する必要がある。
自分一人では満足できない理由を、他人の義務にすり替えてはいけない。
ここが大切だと思う。
六 女性がセックスに求めるもの
では、女性はどうなのだろう。
もちろん、女性だって性的な快楽を求める。
セックスそのものが好きな人もいる。
自分から積極的に誘う人もいるだろう。
それは、その人の自由である。
しかし、女性がセックスを求める理由も、快楽だけとは限らない。
誰かに抱きしめてほしい。
人肌が恋しい。
寂しさを紛らわせたい。
愛されていると確認したい。
自分を受け入れてほしい。
自分のことを理解してほしい。
そういう気持ちが、性的な行動につながることもある。
人間が性的な関係を持つ動機については、心理学でもさまざまな研究が行われている。
快楽だけでなく、親密さや愛情の確認、自尊心、不安、関係の維持など、動機が多様であることは知られている。
ただし、どの理由が多いのかは、人によっても調査によっても違う。
私は、女性は全員こうだ、男性は全員こうだと言いたいわけではない。
むしろ、その逆である。
男だからこうだ、女だからこうだと決めつけること自体が、おかしいのではないか。
例えば、女性が男性に抱きしめてほしいと思っているとする。
それは必ずしも、セックスがしたいという意味ではない。
ただ安心したいのかもしれない。
誰かにそばにいてほしいのかもしれない。
何も言わずに髪を撫でてもらいたいだけかもしれない。
ところが、男性がそれを性的な誘いだと勘違いしてしまう。
抱きしめてほしい。
だからセックスしたいはずだ。
そんなふうに、勝手に話を進めてしまう。
いやいや。
抱きしめてほしいという要求は、抱きしめてほしいという意味だろうが。
どうして途中からセックスの話になっているんだ?
相手が欲しいものを確認せず、自分の欲しいものに置き換えてしまう。
私は、ここに大きな問題があると思う。
七 男性だって、本当は愛されたい
ここまで女性の話をしてきたが、男性にも似たようなことはある。
男性がセックスを求めるとき、必ずしも性的な快楽だけを望んでいるわけではない。
自分を受け入れてほしい。
自分の価値を認めてほしい。
好きな人から必要とされたい。
そういう感情が関係していることもあるだろう。
例えば、好きな女性を喜ばせたいと思う男性がいる。
その女性のために、一生懸命努力する。
女性が喜んでくれれば、自分もうれしい。
これは、別におかしなことではない。
ところが、その努力が、いつの間にか別の目的に変わってしまうことがある。
「俺はこれだけ頑張った」
「これだけ時間を使った」
「これだけ金をかけた」
「だから、相手も俺に応えてくれるはずだ」
ちょっと待て。
それ、何の契約だ?
相手は、そんな約束をしたのか?
私は、ここにも勘違いがあると思う。
相手を喜ばせたかったはずなのに、いつの間にか、相手から評価されることが目的になっている。
そして、期待どおりの反応が返ってこないと怒る。
「こんなにしてやったのに!」
いや、お前。
それ、相手に頼まれてやったのか?
自分が好きでやったことではないのか?
もちろん、相手が約束を破ったなら話は別だ。
しかし、勝手に期待した見返りを、相手が必ず返さなければならないという道理はない。
私は、男性にも女性にも、この勘違いがあると思う。
愛情を与えたいのか。
愛情を返してほしいのか。
それとも、自分の努力を認めてほしいのか。
似ているようで、違う。
まずは自分が何を求めているのか、考えた方がいい。
八 サプライズをしたい男と、欲しいものがある女
この問題は、セックスだけではない。
以前、私は恋愛におけるサプライズの話をした。
好きな女性のために、何年もかけてサプライズを計画する。
自分が考えた最高の演出で、相手を喜ばせたい。
なるほど。
ロマンチックな話ではある。
しかし、その女性が本当に欲しいものは何なのだろう。
普通に告白してほしかったのかもしれない。
早く結婚について話し合いたかったのかもしれない。
将来の生活について相談したかったのかもしれない。
あるいは、誕生日には自分が欲しいと言ったものを買ってほしかったのかもしれない。
ところが、男性は自分が考えたサプライズに夢中になっている。
「絶対に喜ぶはずだ!」
いや、だから。
相手に聞いたのか?
「こんなに苦労したんだぞ!」
そうか。
でも、相手が頼んだのか?
私は、ここでいつも同じことを考える。
自分が相手にしてあげたいことと、相手がしてほしいことは違う。
これを理解しないまま努力すると、妙な結果になる。
一生懸命やった。
時間も使った。
お金も使った。
それなのに、相手は喜ばない。
すると、相手が悪いことになる。
「感謝のない女だ」
「わがままだ」
「性格が悪い」
いや、違うだろう。
最初の問題は、相手が何を望んでいるか確認しなかったことではないか。
もちろん、すべてのサプライズが悪いわけではない。
相手が喜ぶこともあるだろう。
だが、成功するかどうかわからないことを自分で選んでおきながら、失敗した責任を相手に押しつけるのはおかしい。
そして、この構造は、性的な関係でも起こり得る。
自分が相手を喜ばせたつもりになっている。
しかし、相手は別のものを求めている。
それなのに、相手が喜ばなかったからといって非難する。
私は思う。
人を喜ばせる前に、何をされたら喜ぶ人間なのか、少しは考えた方がいい。
九 本当に欲しかったのは、抱きしめてくれる人
私は、自分の小説でも、こういう心理を描いている。
『天才パンダとレオンの異世界日本化計画』に登場する深雪という男性がいる。
深雪は、なかなか複雑な人間だ。
性的なことにも積極的で、周囲を振り回すことがある。
しかし、彼の行動を単純に「セックスが好きだから」と考えると、見落としてしまうものがある。
深雪には、父親から十分に得られなかった愛情を求める気持ちがある。
誰かに受け入れてほしい。
安心して甘えたい。
自分を大切にしてほしい。
その気持ちが、性的な行動にも結びついている。
ところが、砂漠の王サディークとの関係で、面白いことが起きる。
サディークは深雪を抱きしめる。
髪を撫でる。
無理に性的な関係へ進もうとはしない。
すると、深雪は安心する。
心から満たされる。
性的な要求をすることもある深雪なのに、ただ抱きしめられているだけで幸せになれる。
これは、私が意識して描いていることだ。
深雪が求めていたものの中には、性的な快楽とは別の、安心して甘えられる相手への欲求がある。
もしサディークが、深雪の行動を単に性的な誘いだとしか考えていなかったら、どうなっていただろう。
深雪が本当に欲しかった愛情を、見落としていたかもしれない。
もちろん、現実の人間の心理が、すべて深雪と同じだと言うつもりはない。
人によって欲しいものは違う。
性的な欲求と愛情への欲求が、両方ある人もいる。
だが、人間の行動を表面だけで判断すると、本当に重要なものを見落とすことがある。
私は、そこを書きたかった。
「セックスしたい」と言っている人が、本当に欲しいのはセックスだけなのか。
もしかしたら、別のものを求めているのではないか。
そういう問いである。
十 欲しいものと、必要なものは同じなのか?
例えば、寂しい人がいる。
その人が「恋人が欲しい」と言う。
では、恋人ができれば寂しくなくなるのだろうか。
必ずしもそうとは限らない。
恋人ができても、相手が忙しければ寂しいかもしれない。
自分の話を聞いてくれなければ、もっと寂しくなるかもしれない。
好きな相手と付き合っていても、気持ちが通じなければ孤独を感じることがある。
逆に、恋人がいなくても、信頼できる友人や家族がいて、楽しく暮らしている人もいる。
つまり、寂しさを解消する方法は、恋人を作ることだけではない。
ここでも私は思う。
恋人が欲しいのか、それとも孤独を解消したいのか。
この二つは、似ているようで違う。
結婚でも同じだ。
結婚したいと言う人がいる。
しかし、本当に欲しいのは何なのだろう。
愛する人と暮らしたいのか。
子供を育てたいのか。
経済的な安定が欲しいのか。
老後に一人でいるのが不安なのか。
周囲から結婚しろと言われるのが嫌なのか。
もし目的が違えば、必要な条件も違ってくる。
ところが、人間は時々、目的を考えずに手段だけを欲しがる。
寂しい。
だからセックスする。
不安だ。
だから結婚する。
自分に自信がない。
だから異性にモテようとする。
それで問題が解決すればいい。
しかし、解決しなかったらどうするのだろう。
セックスしても寂しい。
結婚しても不安だ。
異性にモテても、自分に自信が持てない。
そんなことが起きる可能性もある。
私は、ここで一度考えてみてもいいと思う。
自分は、本当に何が欲しいのか。
そして、その方法で本当に手に入るのか。
十一 性的な関係には、現実のリスクがある
さて、ここまでは心理の話だった。
しかし、性的な関係には、心理だけでなく現実的な問題もある。
妊娠である。
性感染症である。
避妊の失敗である。
人間関係の変化である。
そして、妊娠した場合には、出産や育児、仕事や経済状況まで関係してくる。
男性も性感染症のリスクを負うし、子供が生まれれば責任が生じる。
しかし、妊娠や出産による身体的な負担は、同じようには分担できない。
だから私は思う。
性的な関係を求めるなら、その後に何が起こり得るのか、考えた方がいい。
相手が妊娠したらどうするのか。
子供を望んでいるのか。
避妊について、きちんと話し合っているのか。
相手が不安を感じていないか。
そもそも、相手は本当にその性行為を望んでいるのか。
これらを考えずに、ただ「したい、したい」と要求する。
そして、相手が断ると腹を立てる。
私は言いたい。
お前が欲しいのは五分間の快楽かもしれないが、相手が引き受けるかもしれない問題は、五分間では終わらないんだぞ。
もちろん、性的な関係を持つすべての人が、妊娠や出産を望んでいるわけではない。
それでも、避妊や性感染症への対策について、双方が考える必要はある。
そして、本人が望まない性行為を強要することは論外である。
恋人だから。
夫婦だから。
愛しているから。
これだけ尽くしたから。
そんな理由で、相手の同意を省略することはできない。
私は、男女のどちらにも、同じことを言いたい。
自分がしたいことだからといって、相手にもさせていいわけではない。
こんなことは、恋愛に限らず、人間関係の基本ではないか。
十二 断る女が悪い女なら、どうすればいいんだ?
ここで、最初の「いい女」の話に戻ろう。
男性が女性に性的な関係を求める。
女性は断る。
すると、「性格が悪い女だ」と言う人がいる。
では、女性が受け入れたとしよう。
すると今度は、「簡単に男と寝る女だ」と言う人がいる。
一体どういうことだろう。
女性が自分の意思で選択すると、どちらにしても責められる。
私は、こういう理屈が昔から嫌いだ。
女性は性的なことに慎み深くなければならない。
しかし、男性が望んだときには応じなければならない。
貞操を守れと言いながら、自分の要求には逆らうなと言う。
お前、それ矛盾しているだろう。
歴史を振り返れば、女性に対して矛盾した役割を求める考え方は、宗教や道徳、社会制度などにも現れてきた。
例えば、女性の出産や身体を穢れと結びつける信仰が存在した一方で、子供を産み育てることを女性の当然の役割とする価値観もあった。
もちろん、宗教全体が一律に同じことを教えているわけではないし、時代や地域によっても違う。
しかし、そこに共通する問題を考えてみたい。
女性にある役割を要求する。
ところが、その役割を果たしても、別の基準で責める。
果たさなければ、やはり責める。
これでは、最初から女性に正解が用意されていないではないか。
恋愛でも同じだと思う。
身持ちの固い女性がいい。
しかし、自分には性的に積極的であってほしい。
自分を拒絶しないでほしい。
でも、ほかの男には拒絶してほしい。
それ自体は、互いに愛し合い、一対一の関係を望む二人なら、成立する場合もある。
しかし、相手の気持ちも確かめないうちから要求するなら、話は別である。
お前にだけ特別な権利があると、誰が決めたんだ?
相手が自分を選ぶかどうかは、相手が決めることだろう。
それが恋愛ではないのか。
十三 愛情と支配を勘違いしていないか?
さらに厄介なのは、相手を愛しているという気持ちを、相手への要求の正当化に使ってしまうことだ。
「俺はこんなに愛している」
そうか。
「だから、俺の気持ちを理解してほしい」
わかった。
「だから、俺の望みをかなえてほしい」
いや、ちょっと待て。
どうしてそうなる?
愛していることと、相手が自分の要求に応じなければならないことは、別ではないか。
私は、愛情というものを、相手を自分の思いどおりに動かす権利だとは思わない。
むしろ、相手を大切にしたいと思うなら、相手が何を望んでいるかを考える必要がある。
もちろん、愛情があるからこそ、相手に何かをしてほしいと思うこともあるだろう。
一緒にいてほしい。
話を聞いてほしい。
抱きしめてほしい。
自分を好きでいてほしい。
そう願うことは自然なことだ。
だが、願うことと、強制することは違う。
「抱きしめてほしい」
そう言われた相手にも、抱きしめるかどうかを決める権利がある。
「セックスしたい」
そう言われた相手にも、応じるかどうかを決める権利がある。
愛情は、相手の自由を奪うための理由にはならない。
それなのに、拒絶されると「愛していないのか」と責める。
いやいや。
セックスを断ったら、愛情がないことになるのか?
今日は疲れているから会いたくないと言ったら、嫌いになったことになるのか?
相手の望みを一つ断っただけで、これまでの愛情が全部なくなるのか?
そんなことはないだろう。
愛情を証明するために、相手が何でも言うことを聞かなければならないなら、それは愛情ではなく服従を求めているのではないか。
私は、そこを混同したくない。
十四 相手の気持ちを読むより、聞いた方が早くないか?
私は、人の言葉や行動を観察することが好きだ。
この人は、なぜこんなことを言ったのだろう。
本当は何が欲しいのだろう。
どうして、こんな行動を取るのだろう。
そう考えるのは面白い。
しかし、だからといって、四六時中、他人の気持ちを分析していたいわけではない。
そんなことばかりしていたら疲れる。
相手の言葉の裏を読み、表情を読み、過去の行動を思い出し、心理を推測する。
それで何となく答えが見つかることもあるだろう。
だが、推測は推測である。
相手の気持ちを完全に理解できたとは限らない。
それなら、本人に聞けばいいではないか。
「何が欲しい?」
「どうしてほしい?」
「今は一人でいたい?」
「抱きしめてもいい?」
そんな簡単な質問である。
ところが、不思議なことに、これを聞かずに勝手に判断する人がいる。
「絶対に喜ぶはずだ」
「本当は好きなはずだ」
「嫌だと言っているけれど、照れているだけだ」
おい。
本人が嫌だと言っているんだぞ。
どうして勝手に違う意味に翻訳するんだ?
もちろん、人間は本音を隠すこともある。
強がることもある。
しかし、だからといって、他人が本人の言葉を無視していいことにはならない。
特に性的な関係では、相手の拒絶を勝手に「本当は望んでいる」と解釈してはいけない。
私は、人間の心理を考えることは大切だと思う。
だが、それ以上に大切なのは、相手の意思を尊重することではないか。
相手の本音を当てるゲームより、相手と話し合う方が、よほど建設的だ。
まあ、推理する方が面白い場合もあるけどね。
ただし、それを他人の身体で実験するなという話である。
十五 答えが欲しいのに、違う問題を解いている
さて、私はここまでの話を考えながら、あることに気づいた。
人間は、欲しい答えがあるのに、違う問題を解いてしまうことがある。
例えば、ある男性が自分を愛してほしいと願っている。
しかし、本人が考えている方法は、女性を性的に満足させることである。
女性を満足させれば、自分を好きになるはずだ。
自分を好きになれば、自分は愛されていると感じられるはずだ。
なるほど。
一応、本人の頭の中では筋道ができている。
しかし、最初の前提が正しいとは限らない。
その女性は、そもそも性的な関係を望んでいるのか。
性的な満足と恋愛感情を、同じものだと考えているのか。
その女性が求めているのは、安心して話せる相手かもしれない。
長く一緒に暮らせる相手かもしれない。
自分を尊重してくれる相手かもしれない。
もしそうなら、いくら性的な技術を磨いても、欲しい答えにはたどり着かない可能性がある。
逆の場合も同じだ。
ある女性が、誰かに愛されたいと思っている。
そして、性的な関係を持てば、相手は自分を愛してくれるはずだと考える。
しかし、相手は性的な関係だけを望んでいるかもしれない。
それなら、性的な関係を持っても、愛情が返ってくるとは限らない。
私は、この構造が面白いと思う。
欲しいものがある。
それを手に入れるために、ある行動をする。
しかし、その行動が本当に目的につながっているかは、確かめていない。
数学の問題で言えば、途中の計算ばかり一生懸命やって、肝心の問題文を読み間違えているようなものだ。
計算が正確でも、問題を間違えていれば、求める答えにはならない。
お前が解いているその問題、本当に自分が解きたかった問題なのか?
私は、恋愛においても、これを考えた方がいいと思う。
十六 相手を喜ばせることと、自分が喜ぶこと
私は以前から、相手を喜ばせるという行為について、いろいろ考えてきた。
相手が喜んでくれるとうれしい。
これは自然な気持ちだ。
しかし、ここにも勘違いがある。
相手が喜んだ姿を見たいのか。
それとも、相手を喜ばせた自分に満足したいのか。
この二つは、似ているようで違う。
例えば、プレゼントを買う。
相手が欲しがっていたものを買ってあげる。
喜んでくれた。
それなら、目的は達成されたと言えるだろう。
ところが、相手が欲しがっていたものは買わない。
自分が選んだ別のものを渡す。
相手は、それほど喜ばない。
すると、「せっかく買ってやったのに」と腹を立てる。
おかしくないか?
相手を喜ばせることが目的だったのなら、相手が喜ばなかった時点で、方法を見直せばいい。
ところが、自分が努力したことを評価してほしい人は、相手が喜ばないことに不満を持つ。
ここでは、いつの間にか目的が変わっている。
相手の幸福が目的だったはずなのに、自分の達成感が目的になっている。
恋愛でも同じだ。
相手を愛していると言いながら、相手が望まないことをする。
相手が嫌だと言っているのに、「お前のためだ」と言う。
そして、相手が拒絶すると怒る。
私は言いたい。
お前のためなのか、相手のためなのか、どっちなんだ?
相手のためだと言うなら、相手の意思を少しは確認した方がいい。
もちろん、相手の望みを何でもかなえることが愛情だとは思わない。
危険なことなら止める必要もある。
無理な要求なら断ってもいい。
しかし、少なくとも、自分の願望を相手の願望だと勝手に決めつけるべきではない。
それが今回の話の核心だと思う。
十七 何が欲しいのか、まず自分で考えろ
私は、ここまで人間の恋愛や性的な欲求について考えてきた。
しかし、この問題は、恋愛だけの話ではない。
仕事でも、家庭でも、友人関係でも起きる。
人間は、自分が欲しいものを理解しないまま、他人に何かを要求することがある。
尊敬されたい。
だから偉くなりたい。
しかし、本当に欲しいのは、人から見下されない安心感かもしれない。
お金が欲しい。
だから働き続ける。
しかし、本当に欲しいのは、自由に使える時間かもしれない。
友人が欲しい。
だから大勢の人と付き合う。
しかし、本当に欲しいのは、たった一人の信頼できる相手かもしれない。
恋人が欲しい。
だから異性に好かれようとする。
しかし、本当に欲しいのは、自分を理解してくれる人かもしれない。
こういうことは、誰にでも起こり得る。
私自身だって、自分が欲しいものを勘違いすることはあるだろう。
だから、私は考える。
欲しいものがあるなら、それは何のために欲しいのか。
手に入れたら、何が変わるのか。
本当にその方法でなければ手に入らないのか。
ほかの方法はないのか。
そして、もし他人の協力が必要なら、その人は協力したいと思っているのか。
そこまで考えて、初めて要求する意味があるのではないか。
もちろん、恋愛感情をすべて計算で説明できるとは思わない。
人間には、理屈では説明しにくい気持ちもある。
好きになってしまった。
一緒にいたい。
抱きしめたい。
そういう感情が突然生まれることもあるだろう。
それは否定しない。
だが、感情が生まれることと、その感情のまま他人を動かしていいことは別だ。
自分が好きになったからといって、相手に好きになる義務はない。
自分が寂しいからといって、相手にそばにいる義務はない。
自分が性的な欲求を持ったからといって、相手に応じる義務はない。
そんな当たり前のことを、忘れてはいけないと思う。
十八 相手に求めるもの
さて、最後にもう一度考えてみよう。
自分が欲しいものは何なのか。
相手に求めているものは何なのか。
そして、相手は何を望んでいるのか。
私は、この三つを混同している人が、意外と多いのではないかと思っている。
自分が欲しいもの。
相手に与えたいもの。
相手が本当に欲しいもの。
これらは、必ずしも一致しない。
例えば、男性が女性にセックスを求める。
しかし、男性が本当に欲しいのは、性的な快楽ではなく、愛されているという実感かもしれない。
そして、女性が本当に欲しいのは、セックスではなく、ただ抱きしめてもらうことかもしれない。
それなのに、二人ともセックスをすれば満足できると考えてしまう。
すると、何が起こるだろう。
男性は、自分が性的に満足したから、相手も幸せになったと思う。
女性は、性的な関係を持ったのだから、愛情を受け取れるはずだと思う。
しかし、どちらも期待どおりにはならない可能性がある。
もちろん、二人ともセックスを楽しみ、愛情を感じて幸せになることもあるだろう。
それなら何も問題はない。
問題は、相手の気持ちを確認せず、自分の考えだけで結論を出すことである。
私は、人間の幸福について考えるとき、いつも似たような問題にぶつかる。
自分が幸福になるために、何が必要なのか。
他人が幸福になるために、何が必要なのか。
その答えは、同じとは限らない。
私は一人で本を読んでいると幸せなことがある。
誰かと話している方が幸せな人もいる。
旅行が好きな人もいれば、家にいるのが好きな人もいる。
大勢に囲まれていたい人もいれば、静かな場所で暮らしたい人もいる。
どちらが正しいという話ではない。
その人が何を望んでいるかという話だ。
なのに、恋愛になると、なぜか相手も自分と同じものを欲しがっていると思い込む。
自分がセックスをしたいから、相手もセックスがしたい。
自分が結婚したいから、相手も結婚したい。
自分がサプライズをされたらうれしいから、相手も喜ぶ。
自分が一緒にいたいから、相手も一緒にいたい。
いやいや。
お前と相手は、別の人間だろうが。
私は、人間に愛情が必要ないと言いたいわけではない。
セックスが悪いと言いたいわけでもない。
恋愛するなと言っているわけでもない。
むしろ、好きな人ができて、相手も自分を好きになってくれたら、それは素敵なことだと思う。
しかし、そのためには、相手にも自分とは違う感情や欲求があることを理解する必要がある。
自分を理解してほしいなら、相手のことも理解しようとする。
自分の意思を尊重してほしいなら、相手の意思も尊重する。
自分が愛されたいなら、相手がどんな愛情を望んでいるのか考えてみる。
それでも、うまくいかないことはあるだろう。
人間同士なのだから、仕方がない。
だが、少なくとも、自分の要求を押しつけるだけの関係よりは、互いに理解し合える可能性がある。
そして、何より大切なのは、自分が何を欲しがっているのかを知ることだ。
快楽が欲しいのか。
安心感が欲しいのか。
愛情が欲しいのか。
自分を認めてほしいのか。
誰かに必要とされたいのか。
それとも、自分でもまだわからないのか。
わからないなら、考えればいい。
相手と話し合ってもいい。
別に、最初から答えが出ていなくても構わない。
ただし、答えがわからないからといって、他人に勝手な役割を押しつけるのはやめた方がいい。
私は最後に、こう言いたい。
お前が欲しいものの話は、もう十分聞いた。
ところで、お前が欲しがっているその人は、一体何を欲しがっているんだ?
そして、もう一つ。
そもそも、お前自身は、本当に何が欲しいんだ?
まずはそこから考えた方がいい。
他人に答えを求めるのは、その後で十分だ。
⸻
第一話『人間の二面性――本当のお前はどっちなんだ?』
第二話『相手に求めるもの――お前が欲しいのは、本当にそれなのか?』
完




