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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!ゲームと脳科学 楽しい経済学 切り裂きジャックと孤独  作者: ヘタレパンダ


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第一話 人間の二面性――本当のお前はどっちなんだ?

第一話 人間の二面性――本当のお前はどっちなんだ?


一 人間には表の顔と裏の顔がある


人間という生き物は、実に面白い。


外ではニコニコ笑っているくせに、家に帰るとブスッとしている。


誰にでも親切で、困っている人を見ると放っておけない。そんな評判のいい人が、家族に対しては「あれをしろ」「これをしろ」と命令していることもある。


一人でいるのが好きだと言いながら、誰にも構ってもらえないと寂しくなる。


愛されたいと言いながら、愛してくれる人を邪険にする。


人に理解してほしいと言いながら、自分は人の話を聞かない。


自由が欲しいと言いながら、恋人や家族の自由は認めない。


一体どうなっているんだ、お前らは。


私は昔から、人間のこういうところが不思議で仕方なかった。


もっとも、私自身にだって二面性はあるだろう。人間なんだから、当たり前だ。


ただ、私が気になるのは、二つの顔があること自体ではない。


自分が矛盾したことを言っているのに、なぜ本人はその矛盾に気づかないのか。


そして、もっと厄介なのは、自分の中にある矛盾を、他人に解決させようとする人間がいることだ。


今回は、この人間の二面性について考えてみたい。


二 外では陽気、家では陰気。それって悪いことなのか?


例えば、外では誰とでも仲良くできる、明るくて面白い人がいる。


会社では冗談を言い、友人たちを楽しませ、困っている人には積極的に声をかける。


ところが、家に帰ると途端に無口になる。


テレビを見ながら黙り込み、家族に話しかけられても、ろくに返事をしない。


こういう人を見て、「外面がいい」「本当は暗い人間なんだ」と言う人もいる。


しかし、私は必ずしもそうとは思わない。


外で明るく振る舞うことには、意外とエネルギーが必要だからだ。


相手の話を聞く。


相手の表情を読む。


相手が退屈していないか考える。


場の雰囲気が悪くなれば、冗談を言って空気を変える。


機嫌の悪い人がいれば、何とか笑わせようとする。


こういうことを一日中やっていたら、疲れる人がいても不思議ではない。


私だって、何時間も他人の機嫌を取らされたら、さっさと家に帰りたくなる。


そして、家に帰ったら静かに本でも読みたい。


それの何が悪いんだ?


外で明るいことも、本当の自分。


家で静かにしていたいことも、本当の自分。


どちらか一方が偽物というわけではない。


人間は相手や環境によって行動を変える。


仕事中と休日で態度が違ってもおかしくないし、友人と過ごすときと、一人で過ごすときの性格が違って見えてもおかしくない。


大勢の前では堂々としている人が、好きな人の前では緊張してしまうことだってある。


だから、二面性があるからといって、すぐに「裏表のある悪い人間」と決めつけるのは違うと思う。


ただし、問題はその先にある。


外で他人に優しくして疲れたからといって、家族に八つ当たりしていいわけではない。


外で誰かの機嫌を取ってきたからといって、家族が自分の機嫌を取る義務を負うわけでもない。


ここは、ちゃんと区別しておく必要がある。


三 一人になりたい。でも放っておくな!


うちの夫にも、面白いところがある。


一人になりたいらしいのだ。


だから、私は一人にしてあげる。


すると、しばらくして寂しくなるらしい。


今度は私のそばに寄ってくる。


くっついてくる。


何だ、甘えたいのか。


ところが、本人に聞くと、そんなことはないという。


おい。


お前は一体どうしてほしいんだ。


一人になりたいのか。


構ってほしいのか。


どっちなんだよ!


もっとも、これについては、私はそれほど難しい話だと思っていない。


一人になりたいときもあれば、誰かと一緒にいたいときもある。


それだけのことかもしれないからだ。


人間の欲求なんて、時間によって変わる。


お腹がいっぱいのときは食べ物を見たくない。


でも、数時間たてば腹が減る。


昨日はカレーを食べたかったけれど、今日は寿司が食べたい。


そんなことは当たり前だ。


人間関係だって同じではないか。


問題は、本人がそれを説明しないことである。


「今は一人で休みたい。でも、後で一緒に過ごしたい」


そう言ってくれれば、別に何の問題もない。


ところが、自分でも何が欲しいのかわかっていないのか、言葉にするのが恥ずかしいのか、なぜか正反対のことを言ってしまう。


そして、相手が言葉どおりに行動すると、今度は不満を持つ。


私は思う。


人間には二面性があってもいい。しかし、その二面性を理解する仕事まで、全部他人に押しつけるな。


相手は超能力者じゃないんだぞ。


四 理解してほしいくせに、人を理解しようとしない


さて、ここから少し厄介な話になる。


世の中には「自分を理解してほしい」という人が大勢いる。


もちろん、理解してほしいという気持ちは自然なものだ。


誰だって、自分が何を考えているのか、何に苦しんでいるのか、どうしてそんな行動を取ったのか、わかってもらえたらうれしいだろう。


ところが、不思議なことに、そう言っている本人が、他人を理解しようとしていない場合がある。


「俺の気持ちをわかってくれ!」


わかった。


じゃあ、お前は相手の気持ちをわかろうとしたのか?


「俺は寂しいんだ!」


そうか。


じゃあ、相手は寂しくないのか?


「俺は仕事で疲れているんだ!」


そうか。


じゃあ、相手は疲れていないのか?


「俺は我慢しているんだ!」


そうか。


じゃあ、相手は一度も我慢していないのか?


どうして自分の苦労ばかり計算して、相手の苦労を計算に入れないのだろう。


これでは計算式が成立しない。


自分の疲労だけを足し算して、相手の疲労はゼロとして扱う。


自分の不満だけを数えて、相手の不満は存在しないことにする。


そんな計算をしていれば、当然、答えがおかしくなる。


私はいつも思う。


自分の気持ちを理解してほしいなら、相手にも自分とは違う気持ちがあることくらい、理解した方がいい。


自分と同じ考えの人間ばかりではない。


同じ出来事を経験しても、喜ぶ人もいれば、腹を立てる人もいる。


同じ言葉をかけられて、励まされたと感じる人もいれば、傷つく人もいる。


それなのに、「俺だったらうれしいんだから、お前もうれしいはずだ」と考える。


お前と相手は別の人間だろうが。


そんな当たり前のことが、なぜわからないのだろう。


五 優しい人間が、家族には優しくない理由


私は、人間の二面性について考えるとき、もう一つ気になることがある。


それは、外では優しい人間が、必ずしも家庭でも優しいとは限らないということだ。


もちろん、外でも家でも優しい人はいる。


だが、外では評判がよくても、家庭では家族の話を聞かなかったり、些細なことで怒ったりする人もいる。


なぜなのだろう。


一つの可能性は、外で自分を抑えている反動だ。


会社の上司には逆らえない。


取引先には失礼なことを言えない。


友人には嫌われたくない。


だから、どんなに腹が立っても我慢する。


そして、家に帰る。


家族なら多少わがままを言っても許してくれるだろう。


そんな気持ちになるのかもしれない。


しかし、私はここで言いたい。


家族だからといって、何をしても許されるわけじゃない。


外で他人に優しくしてきたことは、家庭で乱暴に振る舞うための免許証ではない。


会社で一日十時間働いたとしても、帰宅して家族に十時間分のサービスを要求できるわけではない。


逆に、家庭を支えている側にも事情がある。


家事をしている人だって疲れる。


子育てをしている人だって休みたい。


学校から帰ってきた子供だって、嫌なことがあったかもしれない。


ところが、なぜか家族という関係になると、相手にも感情があることを忘れてしまう人がいる。


私は、それが不思議で仕方ない。


考えてみれば、一番大切にしたいはずの相手に、一番ひどい態度を取ってしまうというのも、奇妙な話だ。


ただ、ここで誤解してほしくないことがある。


家で弱音を吐くことや、甘えることまで悪いと言っているのではない。


弱音を吐いてもいい。


泣いてもいい。


愚痴を言ってもいい。


何もしたくない日があってもいい。


だが、相手がそれを聞ける状態なのか、考えてもいいのではないか。


「今日、嫌なことがあったんだ。ちょっと話を聞いてくれる?」


それならわかる。


「俺は疲れているんだから、お前が全部受け止めろ!」


いや、知らんがな。


お前の疲労は、いつから他人の義務になったんだ。


六 愛されたい人間ほど、相手を試す?


恋愛でも似たようなことが起きる。


自分を好きでいてほしい。


大切にしてほしい。


見捨てないでほしい。


そう願うこと自体は、おかしくない。


ところが、愛されているか確かめたいあまり、相手を試す人がいる。


わざと冷たくする。


連絡を無視する。


嫌いだと言ってみる。


相手が追いかけてくるか観察する。


そして、追いかけてこなければ、「やっぱり私のことなんて好きじゃなかったんだ」と考える。


私はこれも、よくわからない。


嫌いだと言われたら、普通は嫌われたと思うだろう。


一人にしてくれと言われたら、一人にするだろう。


それを後から「本当は追いかけてほしかったのに」と言われても困る。


お前は何の試験をしているんだ?


しかも、試験問題を受験者に知らせていない。


「私が嫌いと言ったときは、本当は好きという意味です。ただし、本当に嫌いなときもあります。どちらなのかは自分で判断してください」


そんな問題、正解できるわけがない。


いや、たまたま正解する人もいるかもしれない。


だが、それは必ずしも愛情が深いからではない。


単に勘が当たっただけかもしれない。


相手の性格をよく知っているから、見当がついたのかもしれない。


それでも、いつも正解できる保証はない。


私は、人間の感情には複雑な部分があることを否定しない。


本当は寂しいのに、強がってしまうこともあるだろう。


傷つくのが怖くて、先に相手を突き放してしまうこともある。


だが、それを理解することと、相手にいつまでも付き合う義務があることは別だ。


愛してほしいなら、相手に愛されやすい行動を取ることも考えた方がいい。


少なくとも、わざわざ嫌われるようなことをして、嫌われたと嘆くのは、ずいぶん遠回りな方法だと思う。


七 人間は、自分の本音を理解しているのか?


ここまで考えて、私は一つの疑問にたどり着いた。


そもそも、人間は自分が本当に欲しいものを理解しているのだろうか。


例えば、ある人が「一人になりたい」と言う。


本当に欲しいのは、誰にも邪魔されない時間かもしれない。


しかし、別の可能性もある。


嫌なことを考えずに済む時間が欲しいのかもしれない。


誰かに気を遣わなくていい場所が欲しいのかもしれない。


安心して休める環境が欲しいのかもしれない。


もしそうなら、欲しいものは必ずしも「孤独」ではない。


誰かが隣にいても、気を遣わずに休めるなら、それで満足するかもしれない。


逆に、一人になっても不安が消えなければ、何時間一人でいても満足できないことがあるだろう。


つまり、「一人になりたい」という言葉の裏に、別の目的が隠れている可能性がある。


これは、恋愛でも仕事でも同じだ。


お金が欲しい。


有名になりたい。


偉くなりたい。


結婚したい。


子供が欲しい。


人間はいろいろな願望を口にする。


だが、なぜそれが欲しいのかと聞くと、答えられない人もいる。


お金が欲しいのは、何かを買いたいからなのか。


働かなくても生活できる安心感が欲しいからなのか。


好きなことに時間を使いたいからなのか。


誰かに認められたいからなのか。


目的によって、必要なお金の金額も、その使い道も違う。


結婚だってそうだ。


好きな人と暮らしたいのか。


家庭を作りたいのか。


子供を育てたいのか。


寂しいから誰かにそばにいてほしいのか。


世間から独身だと何か言われるのが嫌なのか。


これらは、全部違う話だ。


それなのに、なぜか「結婚したい」という一言で、全部まとめてしまう。


私は思う。


人間は、自分の欲求に名前をつけただけで、その欲求の正体まで理解した気になってしまうことがあるのではないか。


本当は、そこから考える必要があるのに。


八 建前は嘘なのか?


さて、人間の二面性を考えるとき、避けて通れないのが本音と建前だ。


日本では、よく本音と建前という言葉が使われる。


本音を言わず、場の空気を読んで、周囲に合わせる。


それが礼儀だと考える人もいる。


私は、建前そのものを悪いとは思わない。


例えば、友人が一生懸命作った料理が、少し口に合わなかったとする。


そこで「まずい! 二度と作るな!」と言えばいいのか。


そんなことはないだろう。


相手が努力したことに感謝して、「作ってくれてありがとう」と伝えることはできる。


ありがとうと言うことと、料理が口に合ったかどうかは、別の話だからだ。


ところが、建前を使いすぎると面倒なことになる。


本当は行きたくないのに、毎回「ぜひ誘ってください」と言う。


本当は困っているのに、「全然大丈夫です」と言う。


本当は嫌なのに、「何でもいいですよ」と言う。


そして、相手がその言葉を信じると腹を立てる。


いや、だったら最初から言えよ。


もちろん、立場の弱い人が本音を言えない状況もある。


上司に断れば評価が下がる。


家族に意見を言えば怒鳴られる。


そういう場合は、単純に本人の問題とは言えない。


本音を言える環境がないことの方が問題だからだ。


ただ、安全に意見を言える関係なのに、いつまでも相手に察してもらおうとするなら、そこは少し考えた方がいい。


建前は人間関係を円滑にする道具にもなる。


しかし、使い方を間違えると、人間関係を混乱させる道具にもなる。


要するに、包丁と同じだ。


料理もできるが、使い方を間違えれば人を傷つける。


道具そのものが悪いのではない。


どう使うかが問題なのだ。


九 自分の中の矛盾を、他人に解決させるな


私は、人間に二面性があることを責めたいわけではない。


むしろ、それが人間の面白さだと思う。


強い人にも弱い部分がある。


冷静な人も、好きな相手の前では判断を間違えることがある。


親切な人だって、機嫌の悪い日はある。


普段は真面目な人が、突然くだらない冗談を言い始めることだってある。


それでいいじゃないか。


いつも同じ性格、いつも同じ反応、いつも同じ行動。


そんな人間ばかりだったら、私は退屈で仕方ない。


人間は機械ではない。


昨日と今日で気分が違ってもいい。


十年前と今で考え方が変わっていてもいい。


若い頃は嫌いだった食べ物が、年を取ったら好きになることだってある。


だったら、人間関係に求めるものが変化しても、何も不思議ではない。


問題は、変化そのものではない。


自分が変化したことを説明せず、相手が対応できなかったことを責めることである。


昨日は一人になりたいと言った。


今日は一緒にいたいと思った。


それなら、今日は一緒にいたいと言えばいい。


去年は結婚したくなかった。


今年は結婚したくなった。


それなら、考えが変わったと伝えればいい。


以前は嫌いだった。


今は好きになった。


それなら、好きになったと言えばいい。


そんなに難しいことだろうか。


もちろん、人間にはプライドもある。


恥ずかしくて言えないこともあるだろう。


拒絶されるのが怖いこともあるだろう。


私は、そういう感情が存在することまで否定しない。


しかし、恥ずかしいからといって、相手に超能力を要求するのはおかしい。


自分が言えないことを、相手が読み取れなかったと責めるのもおかしい。


自分の感情に責任を持つことと、感情を我慢することは違う。


ここを間違えてはいけないと思う。


十 優しさと自己犠牲は同じではない


人間の二面性について考えると、もう一つ厄介な問題がある。


それは「優しい人」の定義だ。


世の中には、何でも言うことを聞いてくれる人を、優しい人だと考える人がいる。


頼み事を断らない。


文句を言わない。


自分が困ったら助けてくれる。


自分が寂しいときは一緒にいてくれる。


自分が怒っていても、黙って受け止めてくれる。


そんな人を「優しい人」と呼ぶ。


しかし、ちょっと待ってほしい。


その人にも、自分の生活があるのではないか。


疲れている日もあるだろう。


一人で過ごしたい日もあるだろう。


嫌なことは嫌だと言いたいだろう。


それでも、いつも笑顔で対応しなければ優しくないのか。


私は、そんなことはないと思う。


本当に優しい人間だって、断ることはある。


むしろ、相手のためを考えて、あえて断ることもある。


子供が欲しがるものを何でも買ってやれば、いい親なのか。


違うだろう。


危険なことをしようとしている人を、何も言わずに見守れば、いい友人なのか。


それも違うだろう。


時には、嫌われることを覚悟して意見を言う必要もある。


逆に、何でも受け入れてくれる人が、必ずしも相手のためを考えているとは限らない。


揉め事が面倒だから断らない人もいる。


嫌われたくないから合わせる人もいる。


そういう人が悪いということではない。


ただ、行動だけを見て、その人の本心まで決めつけるのは危険だということだ。


同じ「はい」という返事でも、心から賛成している場合もあれば、断れずに言っている場合もある。


そして「いいえ」という返事にも、いろいろな理由がある。


相手が嫌いだから断る場合もある。


好きだけれど、今は無理だから断る場合もある。


その行動が危険だと思うから断る場合もある。


人間の性格を、一つの行動だけで決めつけることはできない。


私は、ここも重要だと思う。


十一 善人でいたい。でも自分だけは得をしたい


さて、もう少し人間の嫌な部分も見てみよう。


世の中には、自分を善良な人間だと思いたい人がいる。


いや、たぶん多くの人間は、自分を悪人だとは思いたくないだろう。


私だって同じだ。


ところが、人間は自分に都合の悪い場面になると、急に判断基準を変えることがある。


他人が遅刻すれば「時間にだらしない」。


自分が遅刻すれば「今日は事情があった」。


他人が約束を破れば「信用できない」。


自分が約束を破れば「仕方がなかった」。


他人が失敗すれば「能力がない」。


自分が失敗すれば「環境が悪かった」。


おいおい。


自分にだけ特別な採点基準を作っていないか?


人間には、自分の行動を状況のせいにし、他人の行動をその人の性格のせいにしてしまう傾向があると考えられている。


もちろん、いつでも誰にでも当てはまるわけではない。


だが、日常生活の中でも似たような場面を見ることがある。


私は、こういうときに思う。


他人を評価するなら、自分にも同じ基準を使えばいいではないか。


他人には厳しく、自分には甘い。


それを無意識にやっているのなら、少しは自分の採点表を見直した方がいい。


しかし、もっと困るのは、他人に指摘されても認めない人だ。


「俺は悪くない!」


そうか。


では、同じことを他人がした場合はどう思う?


「それは許せない!」


……お前、今、自分で答えを出したぞ。


同じ行動を、誰がしたかによって評価を変えるなら、その理由を説明できなければおかしい。


もちろん、事情や責任の重さによって判断が変わる場合はある。


しかし、単に「自分だから許される」というのでは、筋が通らない。


人間の二面性の中でも、これはなかなか厄介なものだと思う。


十二 人間の二面性は、悪いものばかりではない


ここまで人間の矛盾について書いてきたが、私は二面性そのものをなくすべきだとは思わない。


そもそも、そんなことは不可能だろう。


人間は一つの感情だけで生きているわけではない。


誰かを好きだと思いながら、腹が立つこともある。


大切にしたいと思いながら、一人になりたいこともある。


仕事が好きでも、休みたいことはある。


子供を愛していても、育児がつらい日はある。


そうした気持ちは、必ずしも互いを打ち消すものではない。


むしろ、両方あるから人間なのかもしれない。


強いだけの人間より、弱い部分も持っている人間の方が、私は面白いと思う。


いつも立派なことしか言わない人間より、時々くだらないことで笑う人間の方が、親しみやすいこともある。


普段は威張っている人が、好きな相手の前で照れている姿なんて、なかなか可愛いではないか。


ただし、可愛いと思うか、面倒くさいと思うかは、相手次第だ。


本人が可愛いと思ってもらえるつもりでも、相手は迷惑だと感じているかもしれない。


ここでも、やはり相手の意思が重要になる。


私は、人間にいろいろな顔があることを面白いと思う。


しかし、だからといって、他人のすべての顔を受け入れる義務はない。


優しい一面を知っているからといって、乱暴な一面まで我慢しなければならないわけではない。


寂しがり屋だと理解しているからといって、いつでも一緒にいてやる必要もない。


その人がなぜそんな態度を取るのか、理解できることはある。


しかし、理解することと、受け入れることは別だ。


私は、ここを混同したくない。


十三 本当のお前はどっちなんだ?


さて、最初の疑問に戻ろう。


外では陽気で、家では無口。


一人になりたいのに、寂しくなる。


愛されたいのに、相手を突き放す。


優しくしたいのに、腹が立つ。


理解してほしいのに、相手を理解できない。


一体どちらが本当の自分なのだろう。


私の答えは簡単だ。


どちらも本当の自分なのではないか。


ただし、ここには条件がある。


両方とも自分の一部だと認めることだ。


「本当の俺は優しい人間なんだ」


そう言うのは構わない。


しかし、誰かにひどいことをしたのなら、その行動も自分がしたことだ。


「本当の私は寂しがり屋なの」


それも構わない。


しかし、寂しいからといって、相手を振り回していい理由にはならない。


「本当は愛しているんだ」


それもあるだろう。


しかし、愛しているという気持ちが、相手にした行動の責任を消してくれるわけではない。


人間には、優しい自分もいれば、身勝手な自分もいる。


勇敢な自分もいれば、臆病な自分もいる。


それを認めた上で、どう行動するかを考えることが大切なのではないか。


自分の性格を美しく説明することよりも、自分が実際に何をしているのかを見ること。


そして、自分と相手が同じ人間ではないことを理解すること。


私は、それが人間関係の基本だと思う。


十四 自分の欲求に、他人を付き合わせる前に


今回、人間の二面性について考えてきて、私は一つの問題に気づいた。


人間は、自分の中にある矛盾を、思った以上に理解していないのではないか。


一人になりたい。


でも、愛してほしい。


自由でいたい。


でも、相手には自分を優先してほしい。


理解してほしい。


でも、相手の事情は考えたくない。


自分が喜ぶことをしてあげたい。


でも、相手が本当に喜ぶかどうかは確かめない。


こうした矛盾があること自体は、仕方がないのかもしれない。


だが、自分の中に矛盾があると知っていれば、少なくとも相手に説明することはできる。


「今は一人でいたいけれど、あなたが嫌いなわけじゃない」


「寂しいから、少し一緒にいてほしい」


「今日は疲れているから、話を聞く余裕がない」


「自分でもどうしてほしいのか、まだわからない」


それでいいではないか。


人間は、いつも正解を持っている必要はない。


自分の気持ちを完全に説明できなくてもいい。


ただ、わからないなら、わからないと言えばいい。


わからないことまで相手に察してもらおうとして、察してもらえなかったら怒る。


それは、いくら何でも勝手すぎる。


そして、私はもう一つ言いたい。


自分が欲しいものと、相手が欲しいものは違う。


これは当たり前の話なのに、恋愛や結婚になると、途端に忘れてしまう人がいる。


自分が欲しいものを、相手も欲しがっていると思い込む。


自分が喜ぶことをすれば、相手も喜ぶと思い込む。


自分が愛情だと思っている行動を、相手にも愛情として受け取るよう要求する。


その結果、せっかく相手を喜ばせようとしたのに、迷惑がられることもある。


しかも本人は、「こんなにしてあげたのに、どうして喜ばないんだ」と怒る。


いや、だからさ。


それ、お前がしたかったことだろ?


相手がしてほしかったこととは限らないだろう。


私は、この問題をもう少し掘り下げてみたい。


人間はなぜ、自分が欲しいものを相手も欲しいと思い込むのか。


なぜ、自分の理想を相手に押しつけるのか。


そして、もっと根本的な問題として、人間は自分が本当に欲しいものを理解しているのだろうか。


愛情が欲しいのか。


安心感が欲しいのか。


認めてもらいたいのか。


誰かと一緒にいたいのか。


それとも、別の何かが欲しいのか。


ここを考えないまま、相手にあれこれ要求しても、問題は解決しないのではないか。


私は、人間の二面性を否定したいわけではない。


いろいろな顔があるから、人間は面白いのだ。


だが、その面白さに付き合うかどうかは、相手が決めることでもある。


最後に、一つだけ。


自分の気持ちを理解してくれないと怒る前に、自分自身に聞いてみてはどうだろう。


「ところでお前、自分が何を欲しがっているのか、本当にわかっているのか?」


答えられないなら、まずはそこから考えた方がいい。


他人に答えを求めるのは、その後でも遅くない。


⸻


次回『相手に求めるもの――お前が欲しいのは、本当にそれなのか?』へ続く。

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