第3話 いじめ、不登校、そしてSNS監視社会
第3話 いじめ、不登校、そしてSNS監視社会
――いい子を強制する社会で、子どもは幸せになれるのか?
私は昔から、学校の道徳教育というものが嫌いだった。
「いい子になりなさい」
「みんなと仲良くしましょう」
「相手の気持ちを考えましょう」
「譲り合いましょう」
「怒ってはいけません」
もう、うるせえよ。
私は子どもの頃から、そう思っていた。
もちろん、人を傷つけていいと言っているわけではない。
他人を思いやることも、譲り合うことも、大切なことである。
ただし、私は疑問だった。
なぜ、そんなことを大人から一方的に命令されなければならないのか。
しかも、その命令に従ったところで、必ずしも子どもが幸せになれるわけではない。
むしろ、先生の言うことを聞いて「いい子」にしていると、同級生から嫌われることさえある。
そして、子どもたちが苦しんでいても、大人は言う。
「みんな仲良くしなさい」
「我慢しなさい」
「学校に行きなさい」
おい、ちょっと待て。
何か根本的に間違っていないか?
私は、いじめや不登校について考えるとき、まず学校という環境そのものを調べる必要があると思っている。
なぜなら、子どもが問題を起こしたとき、その子だけに原因があるとは限らないからだ。
問題のある環境の中で、問題が起きている可能性だってある。
だったら、環境を改善することを考えなければならない。
私は、そこが日本の教育で十分に考えられてこなかった部分ではないかと思っている。
1 先生の「いい子」と、同級生の「いい子」は違う
私が子どもの頃、学校では真面目にしなさいと言われていた。
先生の話を聞きなさい。
授業中は静かにしなさい。
廊下を走ってはいけません。
友達と仲良くしなさい。
先生の言うことを聞く子が、いい子なのである。
ところが、教室の中ではどうだったか。
先生の言うことを真面目に聞いていると、同級生から「いい子ぶっている」と言われることがあった。
「調子に乗っている」と言われることもある。
逆に、先生に反抗したり、少し悪ぶったりする子が、かっこいいとされることもあった。
おい。
どうなってんだ、この社会は。
先生の言うことを聞けば、同級生から嫌われる。
同級生に合わせれば、先生に叱られる。
子どもは、いったい誰の機嫌を取ればいいんだよ。
私は、これが学校教育の大きな矛盾だと思っている。
子どもたちは、先生だけを見て生活しているわけではない。
一日の大半を、同級生と一緒に過ごしている。
だから、同級生からどう評価されるかも重要になる。
仲間外れにされたくない。
嫌われたくない。
変な子だと思われたくない。
そういう気持ちを持つことは、不思議ではない。
しかし、学校では先生の求める行動を取るように教えられる。
そして、同級生の中では、それとは別のルールが存在する場合がある。
大人は、この矛盾をどう考えているんだろう。
私は、単に「いい子になりなさい」と教えるだけでは不十分だと思う。
むしろ、次のようなことを教える必要があるのではないか。
正しいことをしても、周囲から嫌われる場合がある。
友達に合わせていると、自分が嫌なことをしなければならなくなる場合がある。
みんなが笑っているからといって、その行為が正しいとは限らない。
そして、周囲と意見が違っていても、自分の考えを持っていていい。
こういうことを教えた方が、よほど子どもの役に立つと思う。
2 「空気を読め」という、もう一つの命令
日本では「空気を読む」という言葉がよく使われる。
私は、この言葉にも疑問を持っている。
空気を読むということは、周囲の人間の気持ちや、その場の状況を考えることなのだろう。
それ自体は悪いことではない。
しかし、問題は、その言葉が人を黙らせるために使われる場合があることだ。
周囲と違う意見を言う。
すると、「空気が読めない」と言われる。
みんなが笑っているのに、自分だけ笑わない。
すると、「ノリが悪い」と言われる。
先生が間違っていると思って指摘する。
すると、「生意気だ」と言われる。
何なんだ、それは。
自分の頭で考えてはいけないのか。
私は、以前から、人間というのはもっと自由に意見を言っていいと思っている。
もちろん、言い方には配慮が必要だ。
人を侮辱したり、傷つけたりする必要はない。
しかし、意見が違うこと自体は悪いことではないだろう。
ところが、周囲と同じことを言わないと嫌われる。
そういう環境になってしまったら、人間はどうなるか。
本当のことを言わなくなる。
自分が思っていることを隠すようになる。
そして、周囲が何を望んでいるのかを考えて、それに合わせた言葉を選ぶようになる。
私は、それが教育として正しいとは思わない。
そんなことばかり教えていたら、自分で考えて問題を解決する人間が育ちにくくなるのではないか。
だって、誰もが周囲の顔色を見ているのだから。
新しい意見が出てきても、「それは今までと違うから」と否定される。
問題があると気づいても、誰も言い出さない。
そんな社会で、どうやって新しいものを作るんだよ。
3 いじめた子を叱れば、いじめはなくなるのか?
さて、ここからが本題である。
いじめの問題だ。
私は、いじめをした子どもが悪くないと言いたいわけではない。
人を傷つけたり、嫌がらせをしたりすることは、やめさせなければならない。
いじめられた子どもを守ることは当然である。
しかし、私は昔から疑問だった。
いじめた子を叱るだけで、本当にいじめはなくなるのか?
例えば、ある子どもが別の子をいじめたとする。
先生が見つけて叱る。
「いじめはいけません!」
「相手の気持ちを考えなさい!」
「謝りなさい!」
子どもは謝る。
これで解決したことになる。
本当か?
私は、そんなに簡単な話ではないと思う。
なぜ、その子はいじめをしたのか。
どうして、その相手を選んだのか。
周囲にいた子どもたちは何をしていたのか。
その教室では、どんな人間関係ができていたのか。
そこを調べる必要があるだろう。
例えば、ほかの子どもたちが笑うから、誰かをからかっていたのかもしれない。
仲間から外されたくなくて、いじめに加担したのかもしれない。
誰かを下に置くことで、自分の立場を守ろうとしていたのかもしれない。
家庭や学校でのストレスが関係している場合もあるだろう。
もちろん、原因は一つとは限らない。
いじめの理由を説明できたからといって、行為が許されるわけでもない。
しかし、原因を調べることと、責任を免除することは違う。
原因を調べなければ、同じ問題が繰り返される可能性がある。
私は、そこを問題にしているのだ。
4 我慢ばかりさせて、ストレスをためさせていないか?
私は、子どもたちが日常生活でどれだけ我慢させられているのかも考える必要があると思っている。
家庭では、親の言うことを聞きなさい。
学校では、先生の言うことを聞きなさい。
授業中は静かにしなさい。
廊下を走ってはいけません。
怒ってはいけません。
友達には優しくしなさい。
勉強も頑張りなさい。
宿題もしなさい。
忘れ物をしてはいけません。
テストではいい点数を取りなさい。
もう、どんだけ要求するんだよ。
もちろん、学習も生活習慣も必要である。
しかし、要求ばかり増やして、子ども自身が何をしたいのかを考えなかったら、どうなるだろう。
疲れる子もいるだろう。
ストレスをためる子もいるだろう。
自分の気持ちを表現することが苦手になる子もいるかもしれない。
私は、以前テレビで見た、登園時に親子で鬼ごっこをするという取り組みが印象に残っている。
第1話でも紹介した話だ。
子どもが保育園に来たら、まず親と一緒に走り回って遊ぶ。
その後、落ち着いて過ごせるようになるという内容だった。
私は、これを見て思った。
子どもを静かにさせたいなら、まず楽しませればいいじゃないか。
もちろん、運動させれば必ずいじめが減るという話ではない。
そんな単純な問題ではない。
しかし、子どもが楽しく遊べる時間を確保することには意味があると思う。
大声で笑う。
走り回る。
友達と遊ぶ。
親とふざける。
そういう時間まで削って、静かにすることばかり要求してはいないだろうか。
人間には、気分転換が必要である。
大人だってそうだ。
カラオケに行って大声で歌う。
スポーツをする。
旅行に行く。
友達と話す。
そんなことで気持ちが楽になる場合がある。
子どもも同じだろう。
私は、教育というのは、子どもを従わせることだけではなく、子どもが心身ともに元気に暮らせる環境を作ることだと思っている。
5 「怒っちゃいけません」は、おかしい
私は「怒ってはいけません」という教育が嫌いである。
人間なんだから、怒ることくらいあるだろう。
嫌なことをされたら腹が立つ。
理不尽な扱いを受けたら怒る。
自分の大切なものを壊されたら、悲しくなったり、怒ったりする。
それは自然な感情である。
なのに、子どもには「怒っちゃいけません」と言う。
どうしてなんだ。
怒りという感情があることと、人を殴ったり傷つけたりすることは別問題だろう。
だったら、教えるべきことは怒りをなくす方法ではなく、怒りをどう扱うかということではないか。
「嫌だ」と言っていい。
「やめて」と言っていい。
困ったら先生や親に助けを求めていい。
納得できないなら、理由を聞いていい。
私は、そういうことをもっと教えた方がいいと思う。
子どもが嫌なことをされても、怒ることを禁止される。
そして、我慢する。
相手は、その子が何も言わないから、さらに嫌なことをする。
そんなことが起きたら、どうするんだ。
もちろん、怒りを表現したからといって、相手が必ずやめてくれるわけではない。
だから、大人が介入して守る仕組みも必要だ。
しかし、自分の気持ちを言葉にしていいと教えることは重要だろう。
私は、子どもに「いい子でいなさい」と言うより、「困ったら助けを求めなさい」と教えた方が、ずっと役に立つ場合があると思う。
6 いじめられている子に、さらに我慢させるな
私は、いじめの問題で特に気になることがある。
それは、いじめられている子どもにまで、我慢や努力を要求してしまうことである。
「気にしないようにしなさい」
「相手にもいいところがあるでしょう」
「仲直りしなさい」
「学校に行きなさい」
おい。
ちょっと待て。
いじめられている子どもが、もう十分苦しんでいる場合もあるだろう。
それなのに、さらに頑張れと言うのか。
私は、まず安全を確保するべきだと思う。
いじめられている子どもと、いじめをしている子どもを必要に応じて離す。
被害を受けた子どもが安心して相談できる場所を作る。
先生に相談しても改善しないなら、ほかの大人や学校外の相談先に頼れるようにする。
そして、必要なら学校を休んでもいい。
大切なのは、その子が安全に暮らせることである。
私は、いじめられている子どもが必ず強くなければならないとは思わない。
怖かったら逃げていい。
嫌だったら嫌だと言っていい。
助けてもらっていい。
それは弱いことではない。
危険な場所から離れることは、合理的な判断である。
一方、いじめをした子どもには、自分の行為が相手に与えた影響を理解させる必要がある。
そして、再び同じことをしないよう、必要な指導や支援を行う。
ただし、謝罪したからといって、すぐ仲直りを強制してはいけない。
相手が謝ったから、許してあげなさい。
そんなことを言われても、傷ついた気持ちは簡単には消えないだろう。
許すかどうかは、被害を受けた本人の気持ちも尊重されなければならない。
私は、そこまで考えて初めて、いじめへの対応と言えると思う。
7 不登校の子どもだけを問題にするな
いじめや学校生活の問題を考えていると、当然、不登校の問題にも行き着く。
子どもが学校へ行けなくなった。
すると、大人たちは考える。
どうすれば学校へ戻せるのか。
どうすれば登校できるようになるのか。
しかし、私はその前に聞きたい。
どうして、その子は学校へ行きたくなくなったんだ?
そこを考えないで、登校させることだけを目的にしていいのか。
いじめられているのかもしれない。
先生が怖いのかもしれない。
授業が難しすぎるのかもしれない。
逆に、簡単すぎてつまらないのかもしれない。
周囲の子どもたちに合わせ続けることに疲れているのかもしれない。
学校の音や人混みが苦手なのかもしれない。
あるいは、心身の不調、家庭の事情、生活リズムなど、別の問題が関係している場合もあるだろう。
理由は一人ひとり違う。
それなのに、全員に「学校へ行きなさい」と言う。
私は、それでは問題を解決できないと思う。
例えば、教室でいじめを受けている子どもがいるとする。
その子を何とか説得して、学校へ戻した。
ところが、いじめは何も改善されていなかった。
それでは、問題のある場所に子どもを戻しただけではないか。
学校へ行けるようになったから成功。
本当にそうだろうか。
私は、違うと思う。
学校へ行くことは目的ではなく、教育を受けるための手段の一つである。
学ぶことが目的なら、学べる環境を用意するべきだ。
人間関係を育てることが目的なら、安心して人と関われる場所を作ればいい。
子どもの能力を伸ばすことが目的なら、その子に合った教育方法を考えればいい。
学校という建物に毎日入ることだけが、教育の成功ではないだろう。
8 学校に子どもを合わせるのか、子どもが学校に合わせるのか
私は、教育制度について以前から考えてきた。
特に疑問だったのは、同じ年齢の子どもを集めて、全員に同じ内容を、同じ速さで教えることである。
もちろん、集団で学ぶことには利点がある。
友達ができる。
協力することを覚える。
違う考え方に触れることもできる。
しかし、子どもの能力や興味は一人ひとり違う。
文章を読むのが得意な子もいる。
算数が得意な子もいる。
絵を描くのが好きな子もいる。
運動が好きな子もいる。
だから、全員に同じ方法が合うとは限らない。
私は、自分の子どもたちの教育でも、何度もそういうことを感じた。
第2話で書いたエビサラダの問題もそうである。
子どもは自分なりに考えて答えた。
しかし、模範解答と違うからバツになった。
書き順の問題もそうだ。
正しい漢字を書けても、書き順が違うと評価されないことがあった。
私は、そんな細かいことより、子どもが何を理解しているのかを見た方がいいと思っていた。
学校の進度が合わない子どもには、別の教材を使ってもいいだろう。
理解が早いなら先へ進めばいい。
時間がかかるなら、ゆっくり学べばいい。
教室が苦手なら、別の場所で学ぶ方法も考えられる。
今はインターネットもある。
オンライン授業も、学習用アプリもある。
昔に比べれば、学ぶための道具はずっと増えた。
だったら、それを利用すればいいじゃないか。
もちろん、すべての子どもを家庭学習だけで支えられるわけではない。
保護者に負担が集中することも避けなければならない。
だから、学校、教育支援センター、オンライン学習、地域の支援施設など、複数の選択肢を用意すればいい。
私は、子どもが学校に合わせるだけでなく、学校や教育制度の方も子どもに合わせるという発想が必要だと思う。
9 SNS監視社会という新しい問題
さて、ここからは、学校の外の話である。
私は最近、インターネットを見ていて、気になることがある。
SNSで、他人の行動をやたらと批判する人がいることだ。
電車の中で子どもが騒いだ。
親が注意しなかった。
誰かの言葉遣いが気に食わなかった。
ちょっとマナーが悪かった。
すると、ネットで騒ぐ。
「非常識!」
「親のしつけが悪い!」
「こんなことをする人間は最低!」
私は思う。
お前ら、何やってんだよ。
本当に困っていることがあるなら、問題を解決する方法を考えればいい。
しかし、単に気に食わないというだけで、人を叩いている場合もあるんじゃないか。
しかも、そういう人たちは、自分の価値観を社会全体のルールであるかのように言うことがある。
「普通はこうするでしょう」
「これが常識でしょう」
「こんなこともわからないの?」
私は、ここで聞きたい。
その常識、誰が決めたんだ?
法律なのか?
公共施設の正式な決まりなのか?
それとも、単にあなたがそうしてほしいだけなのか?
この三つは、まったく違う話である。
もちろん、公共の場所にはルールが必要だ。
しかし、自分の好みを他人に押し付けることまで、ルールと呼ぶべきではないと思う。
私は、こうした現象を**「SNS監視社会」**と呼びたい。
誰かに撮影されるかもしれない。
ネットで悪口を書かれるかもしれない。
非常識だと叩かれるかもしれない。
そういうことを恐れて、人間が自分の行動を必要以上に制限する社会である。
私は、こんな社会が本当に幸せなのか疑問である。
10 電車で泣いた子どもと、笑っていた乗客
私は以前、自分の子どもを連れて電車に乗ったことがある。
そのとき、子どもが大好きだったおばちゃんが、電車に乗らずに残った。
すると、子どもが叫んだ。
「おばちゃん! おばちゃん! 帰ってきて!」
子どもにとっては、大好きな人と離れるのが嫌だったのだろう。
大きな声で呼んでいた。
では、周囲の乗客はどうしたか。
怒ったのか。
「静かにさせろ!」と文句を言ったのか。
そうではなかった。
私が見た限り、周囲の人たちはニコニコ笑っていたのである。
私は、この経験が印象に残っている。
子どもが大好きなおばちゃんを呼ぶ。泣き叫ぶ。
周囲の人が微笑む。
それだけの、何でもない出来事である。
しかし、今のSNSでは、似たような場面が批判の対象になることもある。
「公共交通機関では静かにさせるべきだ」
「親がちゃんとしつけるべきだ」
「ほかの乗客に迷惑だ」
もちろん、実際に困っている乗客がいる場合もあるだろう。
だから、状況に応じた配慮は必要だ。
しかし、子どもが少し泣いたり、大きな声を出したりするだけで、責める必要があるのだろうか。
子どもは機械じゃないんだよ。
ボタン一つで静かになるわけではない。
大人だって感情を抑えられないときはあるだろう。
だったら、子どもにも完璧な行動を要求するのはおかしい。
私は、子どもが多少騒いでも、周囲の人が笑って見守れるような社会の方が好きだ。
もちろん、限度はある。
しかし、何でもかんでもマナー違反だと騒ぐ社会より、ずっと暮らしやすいと思う。
11 声の大きい人が、社会の常識を決めていないか?
SNSには、もう一つ問題がある。
声の大きい人が目立つことである。
誰かの行動が気に食わない。
すると、強い言葉で批判する。
「絶対に許せない!」
「こんな人間は非常識だ!」
「みんなもそう思うでしょう!」
そして、同じような意見を持つ人が集まってくる。
すると、まるで社会全体がその意見に賛成しているように見える。
しかし、本当にそうなのだろうか。
その投稿を見ても、何も言わない人だっている。
気にしていない人もいる。
違う意見を持っていても、面倒だから黙っている人もいる。
つまり、SNSで目立つ意見が、必ずしも多数派とは限らないのである。
それなのに、声の大きい人たちが「これが常識だ」と言う。
ほかの人たちは、批判されるのを恐れて、その意見に合わせる。
そして、いつの間にか、正式に決められたわけでもないルールが広まってしまう。
私は、これが気になっている。
たとえば、子どもを連れた親が電車に乗る。
子どもが少し騒ぐ。
親は「ネットで叩かれたらどうしよう」と心配する。
周囲の乗客が何も言っていなくても、親は不安になる。
子どもを静かにさせようと必死になる。
そして、子どもが泣くと、さらに焦る。
これでは親も子どもも疲れてしまう。
私は、実際に困っている人への配慮と、まだ誰も言っていない批判を恐れることは違うと思っている。
他人を思いやることは必要だ。
しかし、誰かに嫌われる可能性まで全部なくそうとしたら、人間は何もできなくなってしまう。
12 嫁姑漫画と、悪者探しの娯楽
私は、ネットで流行した嫁姑問題の漫画にも疑問を持っていた。
姑が何かを言う。
嫁が傷つく。
姑が悪者になる。
嫁がかわいそうな被害者として描かれる。
もちろん、実際にひどい扱いを受けている人もいる。
だから、そういう問題を描くこと自体は悪くない。
しかし、ちょっとした言葉の行き違いまで、全部「デリカシーがない」「姑が悪い」という結論にしていたら、どうなるだろう。
姑は敵。
嫁は被害者。
そんな単純な図式で、人間関係を理解したつもりになってしまわないか。
私は、そこが嫌だった。
以前、ネットで「いい姑は嫁に毎月5万円を渡し、欲しいものを何でも買い、口も手も出さない」というような理想像が語られていたことがある。
おい。
それ、姑じゃなくて金づるだろ。
他人にそこまで要求して、自分は相手に何をするつもりなんだ。
人間関係というのは、相手から何をもらえるかだけで決まるものではない。
互いに相手の希望を聞く。
必要なら助け合う。
嫌なことがあれば話し合う。
それが大切だろう。
しかし、ネットでは悪者を見つけて叩く方が、話として盛り上がりやすいことがある。
私は、この現象がいじめの問題ともつながっていると思う。
誰かを悪者にする。
周囲の人間がそれに同調する。
その人の言動を何でも悪く解釈する。
そして、集団で批判する。
大人がSNSでそんなことをしているのに、子どもには「いじめはいけません」と教える。
おい。
説得力あるのか、それ。
もちろん、批判といじめは同じではない。
悪い行為を批判することは必要だ。
しかし、行為を批判することと、相手の人格を攻撃することは別である。
私は、その区別をもっと大人が学んだ方がいいと思う。
13 子どもにSNSを使わせる年齢も考え直した方がいい
私は、こういうSNSの問題を見ていると、子どもに何歳からSNSを使わせるべきなのかも考えた方がいいと思う。
例えば、15歳未満の利用を制限するという案にも、検討する価値はあるだろう。
ただし、私は単純に禁止すればいいとは思わない。
SNSには良い面もある。
同じ趣味の友達ができる。
学校で孤立している子どもが、自分の居場所を見つけることもある。
勉強の情報を得ることもできる。
だから、全部禁止すれば問題が解決するというものではない。
しかし、子どもがまだ周囲の評価を気にしやすい時期に、知らない人たちから大量の批判を浴びたり、他人の悪口ばかり見たりすることには、注意が必要だと思う。
「この人は非常識」
「あの子は嫌われている」
「こんなことをしたら叩かれる」
そんな情報に毎日触れていたら、周囲の評価を必要以上に恐れるようになる子もいるかもしれない。
しかも、大人たち自身がSNSで他人を批判している。
子どもは、それを見て学ぶ可能性がある。
だったら、子どものSNS利用だけを問題にするのではなく、大人の使い方も見直すべきだろう。
例えば、知らない人からの攻撃的なコメントを制限する。
嫌がらせの投稿を簡単に通報できるようにする。
子どもが安心して相談できる仕組みを作る。
そういう対策が必要だと思う。
何より、SNSで人気があることと、人間として価値があることは違うと教える必要がある。
いいねが少なくてもいい。
フォロワーが少なくてもいい。
周囲と意見が違っていてもいい。
自分の人生を楽しめれば、それでいいじゃないか。
14 いじめや不登校を減らすには、何をすればいいのか
さて、ここまでいろいろ文句を書いてきた。
しかし、私は文句を言うだけでは終わらせたくない。
問題があるなら、解決方法を考えるべきだ。
では、いじめや不登校を減らすために、何ができるだろうか。
私は、少なくとも五つの方向から考える必要があると思う。
第一に、子どもが安心して過ごせる環境を作ること。
教室での人間関係を観察し、特定の子どもが孤立していないか、嫌なことをされていないかを確認する。
ただし、先生がすべてを見張る監視社会にしてはいけない。
子どもが安心して相談できることが重要なのだ。
第二に、子どもが気持ちを表現できるようにすること。
嫌なことは嫌だと言っていい。
怒ってもいい。
悲しかったら泣いてもいい。
ただし、人を傷つける行動は別である。
自分の感情を理解し、適切な方法で伝えることを教える。
第三に、いじめの原因を調べること。
いじめた子を叱って終わりにするのではなく、なぜその行為が起きたのか、教室の中にどんな問題があったのかを調べる。
いじめられた子を守ることを最優先にしながら、再発を防ぐために必要な対策を考える。
第四に、学校以外にも学べる場所を用意すること。
学校が合わない子どもを、無理やり同じ同じ教室に戻す必要はない。
親が送迎さえできるのなら、転校する、校風で選ぶ事が出来るシステム。希望する学校を学区外でも選べるシステム。
勿論、別の教室でもいい。
オンラインでもいい。
教育支援センターなどを利用してもいい。
その子に合った方法で、学ぶ機会を確保すればいい。
まあ、はっきり言わせてもらうと規則で雁字搦めにしない教育なら不登校も減るとは思う。
第五に、対策の効果を調べること。
私は、ここが特に重要だと思っている。
例えば、ある学校で新しい取り組みを始めたとする。
子どもが自由に遊べる時間を増やした。
相談できる先生を増やした。
いじめへの対応方法を変えた。
だったら、その前後で何が変わったのか調べればいい。
子どもたちは安心しているか。
学校生活を楽しいと思っているか。
いじめを受けたとき、相談できるか。
不登校の子どもは必要な支援を受けられているか。
そういうことを確認する。
単に、いじめの報告件数が減ったから成功、ではいけない。
相談しにくくなった結果、報告が減っている可能性もあるからだ。
数字は必要だが、数字の意味まで考える必要がある。
そして、うまくいった方法はほかの学校でも試してみる。
うまくいかなかった方法は改善する。
私は、それでいいと思う。
最初から完璧な制度なんて作れない。
だから、試して、調べて、直していけばいいのだ。
15 子どもに必要なのは、我慢する能力だけじゃない
私は、日本の教育では我慢することが重視されすぎてきたのではないかと思っている。
頑張りなさい。
我慢しなさい。
みんなに合わせなさい。
先生の言うことを聞きなさい。
もちろん、努力や忍耐が必要な場面はある。
何かを学ぶためには、練習を続けることも必要だ。
しかし、我慢する能力だけでは、人間は幸せになれない。
嫌なことをされたとき、嫌だと言う能力も必要だ。
困ったとき、人に助けを求める能力も必要だ。
自分に合わない環境から離れる判断力も必要だ。
そして、何より、自分が何をしたいのかを考える能力が必要だ。
私は、子どもたちにもっと人生を楽しんでほしい。
自分の好きなことを見つけてほしい。
本を読むのが好きなら、読めばいい。
絵を描くのが好きなら、描けばいい。
ゲームが好きなら、ゲームから何かを学ぶことだってできる。
運動が好きなら、思い切り身体を動かせばいい。
もちろん、他人の権利を侵害してはいけない。
しかし、自分の楽しみを持つことは悪いことではないだろう。
私は、人間というのは幸せになるために生きているのだと思っている。
それなのに、他人から褒められることばかり考えて、自分の幸福を忘れてしまったら本末転倒ではないか。
16 大人の方が、もっと勉強した方がいい
私は、子どもの問題を考えるとき、いつも思うことがある。
大人の方が勉強不足なんじゃないのか。
子どもに「いい子になりなさい」と教える。
しかし、大人はSNSで他人の悪口を言っている。
子どもに「いじめはいけません」と教える。
しかし、大人は気に食わない相手を集団で批判している。
子どもに「相手の気持ちを考えなさい」と教える。
しかし、大人は子どもがなぜ怒っているのか、なぜ学校に行きたくないのかを考えない。
おい。
まず、お前らがやれよ。
私はそう思う。
大人が子どもに教えるべきことは、道徳の標語を丸暗記させることではない。
実際の生活で問題が起きたとき、どうすればいいのかを考える方法である。
例えば、友達と意見が違った。
だったら、どうするか。
相手の話を聞いて、自分の考えを説明する。
両方の希望を満たす方法がないか考える。
どうしても合わないなら、無理に一緒にいる必要はないかもしれない。
そういう選択肢を教えればいい。
私は、以前から一つの問題に対して複数の解決方法を用意するべきだと考えている。
全員に同じ答えが合うとは限らないからだ。
学校が楽しい子どももいる。
学校が苦しい子どももいる。
友達と遊ぶのが好きな子もいる。
一人で本を読んでいる方が好きな子もいる。
だったら、それぞれに合った選択肢を用意すればいい。
どうして、全員を同じ型にはめようとするんだ。
人間は工業製品じゃないんだぞ。
17 ルールは人間のためにある
私は、この三部作で、子育て、学校教育、そしてSNS監視社会について書いてきた。
一見すると、別々の問題に見えるかもしれない。
しかし、私には共通していることがあるように思える。
それは、人間を幸せにするために作ったはずのルールが、いつの間にか人間を従わせるためのものになっているということである。
子育てでは、親なんだから我慢しなさいと言う。
学校では、いい子になりなさいと言う。
国語では、模範解答どおりに書きなさいと言う。
教室では、みんなと同じようにしなさいと言う。
そしてSNSでは、常識を守りなさいと言う。
おい。
いったいいつになったら、自分の人生を楽しんでいいんだよ。
私は聞きたい。
そんなにルールを守ることが大切なのか。
もちろん、法律や社会的なルールには必要なものがある。
しかし、ルールというのは本来、人間が安全に、安心して、気持ちよく暮らすために作るものだろう。
だったら、そのルールによって多くの人が苦しんでいるなら、見直すことを考えればいい。
子どもが学校へ行けないなら、子どもだけを変えようとするのではなく、学校の環境も見直せばいい。
親が疲れているなら、もっと休める制度を作ればいい。
子どもが騒ぐなら、静かに過ごせる工夫をすればいい。
いじめが起きるなら、原因を調べて再発を防ぐ方法を考えればいい。
SNSで人が傷ついているなら、利用の仕方やサービスの仕組みを見直せばいい。
それが問題解決というものではないか。
私は、根性論や精神論で問題を解決したつもりになることが嫌いだ。
我慢しろ。
頑張れ。
耐えろ。
そればっかり。
何なんだよ。
解決してねえじゃん。
私は、人間にはもっと知恵があると思っている。
道具もある。
技術もある。
研究する人間もいる。
だったら、そういうものを使えばいいじゃないか。
18 いい子を作るより、幸せな子どもを育てろ
最後に、私は教育者や親たちに言いたい。
子どもに、いい子になりなさいと言う前に、その子が幸せなのか考えてみてほしい。
静かにしているからといって、安心しているとは限らない。
笑っているからといって、悩みがないとは限らない。
学校に行っているからといって、学校生活が楽しいとは限らない。
先生の言うことを聞いているからといって、先生の考えに納得しているとは限らない。
そして、先生に反抗する子どもが、必ずしも何も理解していないわけではない。
私は、自分自身の経験から、そういうことを考えてきた。
子どもの頃、私は先生が求める答えを理解していた。
しかし、納得できないことには納得できなかった。
それで反抗することもあった。
大人から見れば、扱いにくい子どもだったのかもしれない。
しかし、私は自分で考えることをやめなかった。
そして、大人になった今も、いろいろな問題について考えている。
どうすれば人間が幸せになれるのか。
どうすれば無駄な苦労を減らせるのか。
どうすれば、いじめや争いを減らせるのか。
私は、そういうことを考えるのが好きなのである。
だから、子どもにも自分で考える自由を与えてほしい。
先生と意見が違っていてもいい。
親と違う考えを持っていてもいい。
周囲と同じことをしなくてもいい。
もちろん、他人を傷つける自由まで認めろと言っているわけではない。
しかし、自分の人生をどう生きたいかを考える自由は必要だろう。
子どもには、未来がある。
これから何十年も生きていく。
その人生を、周囲の機嫌を取るためだけに使わせるのか。
私は、そんなのは嫌だ。
いい子になることが目的じゃない。
学校へ行くことが目的じゃない。
テストで満点を取ることが目的じゃない。
誰かに褒められることだけが目的でもない。
幸せに生きることが目的なんだ。
私はそう思う。
子育てを荒行にするな。
国語の授業を、出題者の機嫌取りにするな。
いじめの問題を、悪者探しだけで終わらせるな。
不登校の子どもを、学校に戻すことだけ考えるな。
そして、SNSで他人の人生まで監視するな。
自分の人生を楽しめよ。
子どもが笑っていたら、一緒に笑えばいい。
楽しそうに遊んでいたら、見守ってやればいい。
困っている人がいたら、何か助けられることがないか考えればいい。
私は、そんな社会の方がずっと暮らしやすいと思う。
人間は、他人の欠点を探して叩くために生まれてきたわけではない。
お互いに助け合い、楽しく暮らすために社会を作っているのではないか。
だったら、そろそろ教育も社会のルールも、考え直した方がいい。
「いい子になりなさい」じゃない。
「どうすれば、みんながもっと幸せになれるのか考えなさい」だろう。
私は、そういう教育をしてほしい。
いつまで我慢大会をやらせてんだよ。
もう十分だろう。
いい加減、人間を幸せにする教育を始めようぜ。
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三部作・完




